第34話 舞踏会の夜
「ティアナ、動かないで。編み込みが曲がるから」
「動いてないよ」
「呼吸するたびに肩まで固くなってる」
舞踏会場に隣接した控え室で、メルナがティアナの髪を整えていた。
僕は開け放たれた入口の脇に座り、支度が終わるのを待っている。
ティアナはすでに淡い緑と生成り色の衣装を着ていた。裾と袖には、小さな葉の刺繍が散らされている。
第24話で僕が選んだ衣装だ。
メルナが肩まである髪を少しずつ編み、後ろで柔らかくまとめていく。
最後に葉を模した小さな髪飾りを差した。
「はい、完成」
メルナが指を鳴らす。
光が屈折し、ティアナの前へ三枚の鏡像が浮かんだ。
正面、横、後ろ。
光で作られた像の中で、ティアナが落ち着かなそうに自分の髪へ触れる。
「変じゃないかな」
「武闘大会で会場を花園にした子が、舞踏会で震えてどうするの」
「あれは戦えばよかったから!」
「今日も戦えばいいじゃん。相手はあそこにいる一人だけ」
メルナが僕を指す。
「僕?」
「アルトは黙ってて。ティアナの戦いだから」
よく分からないまま口を閉じる。
ティアナは鏡像越しに僕を見て、すぐ目を逸らした。
「自分で誘うんだよ」
「分かってる」
「私が勝手に二人を踊らせたりしないからね」
「だから、分かってるってば」
武闘大会でも迷宮競技でも見なかったほど、ティアナの顔が赤かった。
それでも控え室を出る時には、背筋を伸ばしていた。
僕も学院指定の濃紺の礼装を整え、大広間へ向かった。
入口では、舞踏会へ持ち込めない剣を係員へ預ける。
鞘に結ばれた緑色の組紐を確認した係員が、丁寧に保管棚へ収めた。
大広間の天井には、七色の魔導灯が浮かんでいた。
光の帯が柱から柱へ流れ、その下では正装した生徒たちが談笑している。
奥では楽団が静かな曲を奏でていた。
華やかな場所だ。
けれど、生徒だけを見ている大人は少ない。
胸元へ家紋を付けた貴族。
騎士団の徽章を着けた勧誘担当者。
彼らの視線は、生徒の衣装よりも、競技結果と隣に立つ家族へ向けられていた。
「アルト・ロウェル君だね」
大広間へ入ってすぐ、騎士団の徽章を付けた男性から声をかけられた。
「はい」
「武闘大会は見事だった。第一階位を複数繋ぎ、クラウゼル家の嫡男へ勝った。三人迷宮競技での解析も興味深い」
「ありがとうございます」
その隣にいた貴族の男性が、僕の礼装を確かめるように見る。
「後援している家は?」
「ありません」
「親族に騎士や魔法士は?」
「僕は戦争孤児です」
男性の目から、僅かに熱が引いた。
一方、騎士団の勧誘担当者は、薄い冊子を僕へ差し出した。
「装備、学院の学費、外部訓練の費用を援助できる。君の魔力量に合った専用装備も用意しよう」
最下位だった頃には、考えられなかった話だ。
「条件はありますか?」
「卒業後、指定する騎士団で六年間勤務してもらう。任地もこちらで決定する」
「所属する騎士団や任務を、僕が選ぶことは?」
「希望は聞く。だが、後援者の意向が優先される」
装備も訓練環境も欲しい。
けれど、その代わりに卒業後の六年を渡すことになる。
「今ここで決めることはできません。持ち帰って確認してもいいですか?」
「もちろんだ。即決しないのは悪いことではない」
勧誘担当者は頷いた。
貴族の男性は、まだ僕を測っている。
「魔力を消した方法も不明だ。扱い方を誤れば、味方の術式まで損なうのではないか?」
「その可能性を含めて、学院で確認している途中です」
嘘をつかず、正体も明かさない。
それ以上、男性は追及しなかった。
少し離れた場所では、ティアナも騎士団関係者に囲まれていた。
「土亀騎士団団長の御息女なら、卒業後の所属も決まったようなものですな」
「土属性部隊の指揮官候補として、今から席を用意してもよいでしょう」
「三人迷宮競技で組んだ二人も、同じ部隊へ連れていくおつもりで?」
競技の話から、いつの間にか卒業後に誰と行動するかという話へ変わっている。
ティアナは笑顔を崩さなかった。
「お声がけいただけるのは光栄です」
そのうえで、はっきり言う。
「ですが、父の娘であることと、私がどの道を選ぶかは別です。所属も、一緒に進む人も、自分で考えて決めたいと思っています」
拒絶ではない。
かといって、家柄へ従うとも約束しない。
相手も不快そうにはせず、「団長に似て意志が強い」と笑った。
別の柱際では、メルナが二人の勧誘担当者と話している。
「祭りの幻像演出は美しかった。式典担当として――」
「私の幻像は、飾るだけじゃありませんよ」
メルナが笑顔で遮った。
「本体の位置、味方の数、投擲輪の軌道を誤認させられます。欲しいのが綺麗な光だけなら、私でなくてもいいと思います」
もう一人の騎士が口を開く。
「索敵役の視界を奪い、別方向へ注意を誘導する。その間に二枚の輪で異なる目標を制圧する。迷宮競技でも同じ使い方をしていたな」
メルナの蜂蜜色の瞳が、少しだけ真剣になる。
「そこまで見たうえでの勧誘なら、条件を聞かせてください」
ただの恋愛応援役ではない。
彼女も自分の価値を、自分で選ぼうとしていた。
「クラウゼル家の御曹司の敗北は、特殊な術式による事故だったのでしょう」
近くから聞こえた声に、僕は振り返った。
正装したユリウスが、数人の貴族に囲まれている。
「正面から競えば、結果は異なったはずです」
「違う」
ユリウスが即座に否定した。
「事故ではない。僕はアルト・ロウェルに敗北した」
貴族たちが黙る。
「僕は正面から防御し、彼はその防御を破った。結果を都合よく変えるな」
そう告げると、ユリウスは僕の方へ歩いてきた。
整えられた金髪も、冷たい青い瞳も以前と変わらない。
「君は僕に勝った」
「うん」
「だから今後は、対等な競技者として扱う」
そこで言葉を切り、僅かに顎を上げる。
「ただし、僕が君より下になったわけではない。次は僕が勝つ」
「僕も、次に負けるつもりはないよ」
「当然だ。それでなければ、僕が敗北を認めた意味がない」
親しげに笑うことも、握手を求めることもない。
ただ、以前のように僕を参加する資格すらない人間とは扱わなかった。
ユリウスはティアナへ視線を向けたが、何も言わずその場を離れる。
約束どおり、彼女の選択へ口を出さなかった。
「アルト」
呼ばれて振り向く。
ティアナが立っていた。
控え室でも衣装は見ていた。
それでも七色の光の下で見ると、印象が違う。
淡い緑の布へ葉の刺繍が浮かび、編み込まれた髪の髪飾りが小さく光っている。
格式を前へ出した衣装ではない。
普段のティアナが、そのまま少しだけ大人びて見えた。
「……アルト?」
「あ、ごめん」
ティアナが不安そうに裾を摘む。
「変じゃない?」
「変じゃない」
僕は誤魔化さずに答えた。
「すごく似合ってる」
ティアナの頬が赤くなる。
「本当?」
「うん。緑の衣装を選んでよかったと思う」
「選んでくれたの、アルトだからね」
楽団が一曲を終えた。
広間の中央で踊っていた人々が離れ、次の曲を待つ。
ティアナは一度息を吸った。
それから僕へ手を差し出す。
「アルト。私と踊ってくれる?」
「僕、踊りはほとんど習ってないよ」
「私だって、実戦より得意ってほどじゃないよ」
「靴を踏むかもしれない」
「その時は踏み返す」
「それは怖いな……」
逃げる理由を探しているわけではない。
怖いのは事実だ。
競技場とは違い、どこへ足を置けばいいのかも分からない。
それでも、差し出された手を放ってはおけなかった。
「上手くは踊れないけど、それでもよければ」
「うん」
僕はティアナの手を取った。
広間の中央へ出る。
周囲の人たちは、それぞれの相手を見ている。僕たちだけを笑う者はいない。
「最初は右足を後ろ」
「右足を後ろ」
「次に左」
「左」
「アルト、術式みたいに唱えなくていいから」
「数えないと分からなくなる」
ティアナが笑う。
その瞬間、彼女の足が僅かにずれた。
僕も順番を一つ間違える。
「あっ」
ティアナの靴を踏む寸前で足を止めた。
無理に止まったせいで、今度は二人揃って横へ傾く。
繋いだ手を引き合い、どうにか立て直す。
顔が近づき、互いに固まった。
「……踏まなかったね」
「ぎりぎりだった」
どちらからともなく笑った。
完璧な踊りには程遠い。
それでも曲の半ばを過ぎる頃には、足を数える声が少しずつ小さくなった。
ティアナが進めば、僕が下がる。
僕が向きを変えると、ティアナも遅れてついてくる。
一曲を踊り終え、僕たちは広間の端へ戻った。
そこで、柱の近くに立つフィアとメルナを見つける。
フィアは露出を抑えた紺色の正装姿で、左手を胸元へ触れさせていた。
「どうしたの?」
メルナが尋ねる。
「分からない」
フィアの視線が、一瞬だけ僕とティアナへ向く。
「ティアナが嫌なわけではない。それなのに、二人を見ていると落ち着かない」
自分へ問いかけるように、静かに続ける。
「私は、何を嫌だと思っているの?」
メルナはすぐに答えなかった。
「分からないなら、今は見ていればいいんじゃない?」
「見ていれば分かる?」
「分かるかもしれないし、もっと分からなくなるかも」
「役に立たない答え」
「自分の気持ちを、他人に決めてもらうよりはいいでしょ」
フィアは返事をせず、胸元から左手を下ろした。
そこへ先ほどの騎士団関係者がメルナを呼ぶ。
彼女はフィアへ答えを押しつけず、勧誘の話へ戻っていった。
広間では、次の曲が始まる。
踊りへ差し出される手。
後援契約を示す手。
騎士団への所属を誘う手。
そのどれもが、卒業後に誰の隣へ立つかへ繋がっている。
僕もいつか、自分の所属と任務を選ばなければならない。
選ばれるのを待つだけでは、誰かに未来を決められる。
貴族も騎士団も僕たちの未来を値踏みしていたけれど、その曲が終わるまでティアナの手を取ると決めたのは、僕自身だった。
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