第31話 最下位が勝つ日
炎の多角形が、音を立てて狭まってくる。
背後には場外線。
正面には三つの出口が見える。けれど、二つは光を曲げて作られた偽物だ。
「目を逸らすな、ティアナ。これが、君の選んだ結果だ」
炎の向こうで、ユリウスが長剣を構える。
どの出口を選んでも、彼の剣か炎が待っている。
逃げ道はない。
だから僕は、用意された出口から逃げることをやめた。
炎の線を目で追う。
床を走る火は互いに繋がり、一つの術式として魔力を巡らせている。ただし、流れは完全に均一じゃない。
火柱と火柱の間。
わずかに炎が薄くなる場所がある。
左腕の紋章が熱を持った。
途端に、視界を囲む炎すべてが巨大な食べ物へ変わる。
甘く、濃く、腹の底を焼くほど魅力的な魔力。
全部を喰えばいい。
そうすれば、この包囲は消える。
けれど、それだけの魔力を喰ったあと、僕は本当に口を閉じられるのか。
炎だけで止まれるのか。
ユリウスも、観客も、ティアナもいるこの場所で。
「全部は、喰わない」
自分の肩幅を確かめる。
必要なのは勝つための力じゃない。
僕一人が抜けられる穴だけだ。
一つを、一呼吸だけ喰え。
そして、必ず口を閉じろ。
剣と身体で左腕を隠す。
炎がユリウスの手から完全に離れ、床へ定着していることを確かめた。
僕は一呼吸だけ、黒い紋章を開いた。
炎の壁、その一点だけが震えた。
縦長の範囲が黒い糸へほどけ、制服の袖の下へ吸い込まれていく。
炎に、人一人分の穴が開いた。
残りの包囲は燃え続けている。
『足りぬ』
獣じみた声が、頭蓋の内側を引っ掻いた。
『炎すべてを喰え。光も、男も喰らえ』
胃が裏返りそうになる。
『もっと甘いものが近くにある。口を閉じるな』
左手が、炎の向こうへ伸びようとした。
僕は奥歯を噛み締める。
口を閉じる。
紋章へ意識の蓋を叩きつけた瞬間、左腕から胸まで、熱した針を何本も通されたような痛みが走った。
「なにをした?」
ユリウスの顔から、初めて余裕が消えた。
答えている時間はない。
吸収した魔力は、僕自身の魔力にはなっていなかった。
腹の内側に溜まることもない。
炎として使うこともできない。
暴食の内側で属性の形を失った魔力が、行き先を求めて暴れている。
僕は残り少ない自分の魔力で、第一階位魔法の型を作った。
小さく、単純で、何度も失敗してきた型。
そこへ、喰った魔力を燃料として流し込む。
大半が熱となって消えた。
左腕の痛みがさらに強くなる。
それでも靴底へ、摩擦軽減が届いた。
通常の摩擦がある状態で、床を蹴る。
一歩分だけ短距離加速。
踏み込みを終えた直後、靴底の摩擦を落とした。
身体が炎の穴へ滑り込む。
肩すれすれを火が舐めた。熱が制服を焦がす。
けれど、抜けた。
穴の先では、ユリウスが待っていた。
狙いは僕が摩擦を戻す瞬間。
前と同じなら、片足ずつ止めようとした身体が硬直する。そこへ長剣を置けばいい。
ユリウスの判断は正しい。
だから、僕は止まらなかった。
右足だけ摩擦を戻す。
靴底が床を噛んだ瞬間、残っていた勢いを横へ逃がした。
身体が半回転する。
足首と膝に、捻じ切られそうな痛みが走った。
完全な方向転換には程遠い。それでも、ユリウスが待っていた直線から肩一つ分だけ外れる。
長剣が制服の胸元を掠めた。
「同じ技ではない、か」
ユリウスは驚いても止まらない。
剣を返しながら光を曲げ、三人に増えて僕を囲む。
どれが本物か、目では追えない。
僕は薄い防壁を一枚だけ、斜め前へ作った。
紙より薄い第一階位防壁。
攻撃を防ぐ力なんてない。
左のユリウスが防壁を通過する。
破れない。
虚像だ。
右から来た剣が防壁へ触れ、乾いた音とともに引き裂いた。
そこだ。
剣を寝かせ、長剣を受け流す。
重い。
腕が沈み、傷めた肩まで衝撃が突き抜けた。
「小細工を重ねても!」
炎が横から迫る。
新しい薄膜を作るより早く、僕は床へ転がった。
脇腹を火花が打つ。安全術式が光ったあとも、焼ける痛みは残った。
立ち上がる。
虚像の前へ防壁を一枚。
破れない。
別の位置へ、もう一枚。
炎が破る。
その奥から本物の剣。
受け流す。
間に合わず、肩を打たれる。
次は脇腹。
続いて手首。
本体を見分けても、剣術の差は消えない。
速さも、力も、技術も、ユリウスが上だ。
「工夫では、才能の差は埋まらないと言ったはずだ」
「まだ、終わってない」
僕は正面から剣を振った。
ユリウスの長剣が、最短の軌道で合わせられる。
弾かれた。
もう一度、同じ角度。
また最短で防がれる。
三度目も同じだ。
ユリウスの防御は正確だった。
癖なんかじゃない。
正面から来る剣へ、正面から最短で合わせる。それが彼にとって最善だから、迷わず選んでいる。
僕は打ち負けながら、その位置を覚えた。
喰った魔力は、もうほとんど残っていない。
摩擦軽減と、何枚もの薄い防壁。
残りは、剣の重さを二度変える程度。
そして僕自身の魔力も、あと一度で空になる。
直線にしか進めない。
外せば右脚が痺れ、立つことすらできなくなる。
それでも、僕が最後に選べるのはこれだけだ。
剣先の少し前へ、髪の毛ほど薄い防壁を置く。
ユリウスの虚像が左右へ広がった。
「終わりだ、アルト・ロウェル」
「終わらせるよ、ユリウス」
身体強化。
短距離加速。
剣への魔力纏い。
三つの魔法を、一瞬だけ繋ぐ。
「《閃駆》!」
僕の身体が直線へ射出された。
ユリウスは見抜いている。
進路を変えられない僕の正面へ、迷いなく長剣を合わせた。
それでいい。
僕は振り始める瞬間だけ、剣を軽くする。
腕の速度を超えて、剣先が前へ走った。
ユリウスの本物の長剣が、剣先の前に置いた薄い防壁を破る。
乾いた音。
目じゃない。
これが接触直前の合図だ。
軽量化を解除。
さらに、一呼吸より短い一瞬だけ、本来より僅かに重くする。
手首が軋んだ。
肘が悲鳴を上げる。
肩の奥で何かが弾けたような痛みが走った。
けれど、今度は指一本分もずれない。
直線加速。
魔力を纏った刃。
接触直前の重量。
三つが、ただ一度だけ重なった。
剣と剣が激突する。
ユリウスの長剣は折れなかった。
ただ、その完璧な防御線から弾き出された。
「な――」
開いた胸元へ、僕の剣が届く。
刃が触れる寸前、ユリウスの防具と僕の剣に刻まれた安全術式が、目を焼くほど強く輝いた。
本来なら胸を断つはずだった斬撃が、すべて激しい衝撃へ変換される。
轟音。
ユリウスの身体が床を滑った。
長剣が手から離れ、彼は仰向けに倒れる。
僕の右脚からも感覚が消えた。
魔力は空だ。
剣を杖にして踏み止まろうとしたが、片膝が床へ落ちた。
それでも場外線までは、まだ半歩ある。
審判がユリウスへ駆け寄る。
「ユリウス・クラウゼル、戦闘続行不能!」
一瞬、競技場から音が消えた。
審判の腕が、僕へ向けて上がる。
「勝者、アルト・ロウェル!」
次の瞬間、歓声が爆発した。
「元最下位が勝った!」
「上位五名を倒したぞ!」
「アルト・ロウェルだ! 本当に勝ち上がった!」
僕は剣を握ったまま、息を吐いた。
勝った。
暴食だけじゃない。
何度も繰り返した基礎剣術も、失敗し続けた第一階位魔法も、止まれなかった滑走も、指一本ずれた剣も。
その全部がなければ、最後の一撃には届かなかった。
医療係の術式を受け、ユリウスがゆっくり目を開けた。
まだ立てず、上半身を起こすだけで顔を歪める。
それでも彼は言い訳をしなかった。
「僕は君の努力を、結果が出る前に無価値だと決めつけた」
歓声が静まっていく。
ユリウスは冷たい青い目で、まっすぐ僕を見た。
「その無礼を謝罪する、アルト・ロウェル」
次に観客席のティアナへ顔を向ける。
「君の好意を敗者への同情と呼んだ発言も撤回する。君が誰の隣を選ぶかに、今後、僕は口を出さない。ティアナ、君にも謝罪する」
急に好意的な顔になったわけじゃない。
ただ敗者として、決めた約束を守った。
その直後だった。
胃が裏返った。
「う……っ」
口の中へ唾液が溢れ、吐き気と空腹が同時に込み上げる。
左腕の紋章が焼ける。
胸まで続く魔力の経路が、内側から灼かれているように痛い。
競技場を覆う安全結界が、巨大な料理に見えた。
観客席から漂う無数の魔力が、甘い匂いとなって僕を包む。
倒れているユリウスにも、まだ魔力が残っている。
『喰え』
閉じたはずの声が、また笑った。
競技場の入口から、ティアナが駆けてくる。
「アルト!」
明るく、温かく、よく知っている魔力。
それが誰よりも甘い食べ物に見えた。
左手が勝手に持ち上がりかける。
僕は右手で左手首を掴んだ。
痺れた右脚を引きずり、自分から後ろへ下がる。
「ティアナ、そこで止まって」
ティアナの足が止まった。
喜びに輝いていた顔へ、一瞬だけ不安が浮かぶ。
けれど、理由を問わない。
「みんな、少し離れて」
ティアナは医療係へ短く伝え、その場から動かなかった。
僕も左手を離さない。
二度目の口は開かない。
ティアナにも、ユリウスにも、結界にも触れない。
歓声はまだ続いている。
僕の名前が、競技場いっぱいに響いている。
学院中が元最下位の勝利へ沸く中で、僕は勝利より先に、自分の飢えからティアナを守らなければならなかった。
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