第25話 水蝶の騎士
巨大魔物の前脚が、地上で止まっていた。
砦の門さえ踏み潰せる石の塊が、避難路へ届く寸前で震えている。
前脚へ絡みついた十二本の水流が、見えない鎖となって巨体を引き留めていた。
「後ろを見ないで走って! 最後の荷車まで、道は私が守ります!」
私が剣を振り下ろす。
水流が一斉に弾け、巨大魔物の前脚を横へ押し流した。数十倍もの体格差を無視された怪物が、大地を削りながら二歩よろめく。
その隙に、住民を乗せた荷車が避難路を駆けていった。
「第二列、荷車の左右へ! 正面には残らないで!」
騎士たちが素早く配置を変える。
巨大魔物が怒りに任せて吠えた。
石を幾重にも重ねたような外殻が軋む。その全高は砦の見張り台を超え、尾を一度振るうだけで地面へ深い溝が刻まれた。
上空では記録水晶が淡く輝いている。
遠い王都へ、戦況を送るためのものだ。
今も大勢の人が見ているのかもしれない。けれど、私が見るべきものは水晶ではなかった。
「団長、砲撃隊の魔力が尽きます!」
「下がらせてください。これ以上撃っても外殻は抜けません」
すでに巨大魔物の表面には、数百発分の焦げ跡が残っていた。
傷と呼べるものは一つもない。
「王都から定時報告です!」
通信担当が、崩れた防壁の陰から声を張り上げた。
「本日、七彩祭が開幕しました! ただし、交代部隊の到着は早くても三日後です。討伐後も街道確認と避難民の護衛を継続せよとの命令です!」
七彩祭。
その言葉に、胸の奥が小さく痛んだ。
アルトがいる学院は今頃、七色の旗と魔導灯で飾られているはずだ。
けれど、帰れない理由は目の前にある。
「分かりました。残ります」
答えながら、私は地面を蹴った。
薄く研ぎ澄ませた水を剣へ纏わせる。
巨大魔物の前脚を駆け上がり、肩へ斬撃を叩き込んだ。
高圧の水刃が外殻を削る。
硬い表面へ白い線が刻まれたが、それだけだった。
「正面からでは、こうなるわね」
落下しながら剣を返す。
今の一撃は、倒すためのものではない。
外殻の硬さと、その内側にある魔力の動きを測るための一撃だ。
巨大魔物の尾が迫る。
私は空中へ水の足場を作り、二度、三度と蹴った。尾の軌道を越え、地面へ降りる。
剣に纏わせていた水を解放した。
「探して」
水滴が、蝶へ変わる。
十、百、五百。
青く透き通った水蝶が空を埋め、巨大魔物の全身へ群がった。
外殻の継ぎ目。
砲撃で温度が上がった場所。
踏み込む時に魔力が集中する脚部。
一羽一羽が触れた情報が、私の意識へ戻ってくる。
硬い。
けれど、一枚の岩ではない。
巨大な外殻を動かす以上、必ず継ぎ目がある。
「左前脚の内側へ攻撃を集中! 倒す必要はありません。踏み込む位置を半歩ずらして!」
「半歩だけでよろしいのですか?」
「それ以上は、こちらが巻き込まれます」
巨大魔物の口内へ光が集まった。
騎士たちが息を呑む。
「伏せて!」
放たれた魔力の奔流へ、二百羽の水蝶を差し向ける。
蝶がほどけ、巨大な水の幕へ変わった。
光と水が正面から激突する。
轟音。
熱せられた水が白い蒸気となり、戦場を覆い隠した。
それでも奔流は止まらない。
私は剣先で水幕を二つへ分け、魔力の流れを左右へ逸らした。
避難路の両側で爆発が起きる。
中央にいる騎士と住民には、熱風一つ届かなかった。
「これを、逸らした……?」
誰かが呟いた。
「驚くのは後です! 指定した位置へ!」
蒸気を突き破り、巨大な尾が現れた。
前方にいた一人の騎士が、崩れた石へ足を挟まれている。
私は攻撃へ回していた水蝶を呼び戻した。
騎士を水の球で包み、そのまま後方へ押し出す。
直後、尾が私の防壁へ直撃した。
水球は騎士を守ったまま遠ざかる。
けれど私は衝撃を殺しきれず、左肩から地面へ叩きつけられた。
骨は折れていない。
腕も動く。
それで十分だった。
「団長!」
「指定位置から目を離さないで!」
私は立ち上がった。
巨大魔物を倒すだけなら、難しくはない。
難しいのは、背後の住民も、周囲の騎士も、街道も砦も巻き込まずに倒すことだった。
軍で止められる敵には、軍を送る。
軍でも止められない災厄には、七人のうち誰かが送られる。
七大魔法騎士。
国家の最終兵器。
人を兵器と呼ぶその言葉を、私は好きになれない。
それでも、そう呼ばれる理由まで否定するつもりはなかった。
「最後の荷車、避難区域を抜けました!」
待っていた報告が届く。
私は巨大魔物を見上げた。
「全騎、三百歩後退。防御結界だけ維持してください」
「団長お一人を残すのですか?」
「ここから先は、近くにいる方が危険です」
一瞬の躊躇のあと、騎士たちが下がり始める。
巨大魔物がそれを追おうとした。
「行かせないわ」
剣を地面へ突き立てる。
大気に混じる水分。
砕かれた貯水槽から流れ出した水。
地面へ染み込んだ雨の名残。
戦場にある水が、一斉に私のもとへ集まり始めた。
千を超える水蝶が生まれる。
空を覆う青い羽に、巨大魔物が初めて足を止めた。
水蝶が脚の関節へ絡みつく。
一羽では水滴にすぎない。
それが百、二百と同じ場所へ重なり、高速で巡り始める。
巨大魔物が前脚を振り上げた。
動かない。
後脚で踏ん張ろうとする。
そちらにも水の輪が食い込み、巨体を地面へ縫い止めた。
怪物の咆哮で、砦の残った窓がすべて砕け散る。
私は剣を引き抜き、歩き出す。
水蝶が巨大魔物の周囲を旋回するたび、外殻へ細い切れ目が増えていく。
騎士たちの砲撃が残した焦げ跡。
先ほど私が刻んだ白い線。
そして、左前脚へ集められた攻撃によって生じた、ほんのわずかな姿勢のずれ。
すべてが一つの亀裂へ繋がった。
水蝶がそこへ飛び込む。
外殻の内側で水へ戻り、膨大な圧力へ変わった。
大地を揺らす破砕音が響く。
巨大魔物の胸部外殻が、一枚丸ごと宙へ浮いた。
「これが……七大魔法騎士……」
遠くで騎士の声がした。
巨大魔物が拘束を引き千切ろうと、全身の魔力を膨れ上がらせる。
私が剣を構える。
空を覆っていた水蝶が、一本の流れとなって剣へ集まった。
水を纏った刀身が、巨大魔物の胸まで届くほど長く、薄く伸びていく。
私は一歩だけ踏み込んだ。
横薙ぎに、剣を振るう。
青い線が戦場を走った。
巨大魔物の魔力が、途切れる。
振り上げられていた前脚が落ちた。
続いて巨体が傾き、地響きを立てて崩れ落ちる。
水の刃はその身体だけを断ち、背後の街道にも、砦にも傷一つつけていなかった。
空に残った水が再び蝶となり、雨のように舞い降りる。
記録水晶は、きっとその光景を大きく映している。
けれど、私が最初に見たのは水蝶ではなかった。
「負傷者の報告を」
「重傷二名、軽傷十一名。死者はいません!」
「治療班を回して。避難した住民にも確認を」
「団長も治療を受けてください。左腕が震えています」
指摘されて初めて、自分の肩を押さえた。
痛みはある。
魔力も半分以上を使った。
それでも、誰も死ななかった。
なら、悪くない。
巨大魔物が倒れても、任務は終わらなかった。
周辺に別の魔物がいないか調べ、壊れた街道を確認し、避難民を安全な場所まで護衛しなければならない。
王都へ戻れるのは、七彩祭が終わった後になる。
夜。
治療布を肩へ巻いたまま、私は天幕で通信用の魔法鏡を開いた。
公的な優先通信が届いている。
七彩祭の競技参加者名簿。
武闘大会の欄を指で送っていき、一つの名前で止める。
アルト・ロウェル。
「出るのね、アルト」
思わず笑っていた。
アルトが自分で戦う場所を選び、自分の名前を書いた。
それが嬉しい。
だからこそ、見たかった。
勝つ瞬間だけではない。
剣を握る前の顔も、考えている時の癖も、負けた時に悔しさを隠そうとするところも。
全部、近くで見たかった。
個人通信の記録を開く。
『七彩祭、始まったわね』
『武闘大会には出るの?』
『私はしばらく戻れそうにないわ』
送信済みの青い光だけが並んでいる。
アルトが受け取ったことを示す反応は、一つもない。
『武闘大会に出るのね。見に行けなくて、ごめん』
新しい通信を送る。
『勝った話だけじゃなくていい。終わったら、あなたが何を見たのか聞かせて』
青い光が増えた。
返事はない。
届いていないのか。
届いていて、返してくれないのか。
私には分からない。
『私は大丈夫』
そこまで書いて、消した。
肩は痛い。
身体には、まだ戦場の泥と血の匂いが残っている。
明日も夜明け前から捜索へ出る。
大丈夫というのは、水蝶の騎士へ向ける言葉だ。
今、アルトへ送りたい言葉ではなかった。
『少し疲れたわ』
指を止める。
それから、もう一行だけ加えた。
『アルトの声が聞きたい』
送信済みの光が灯る。
鏡の向こうは、何も答えてくれなかった。
◇ ◇ ◇
王都広場を、歓声が揺らしていた。
僕は魔導映像から目を離せなかった。
千を超える水蝶が巨大魔物を拘束し、その外殻を内側から剥がす。
レイシアが剣を一度振るう。
それだけで、砦より大きな怪物の魔力が途切れた。
「軍でも止められない災厄を、一人で仕留めたぞ!」
「国家の最終兵器――七大魔法騎士!」
「やっぱり水蝶の騎士なら大丈夫だ!」
誰もが興奮していた。
映像を見ただけでも分かる。
レイシアと学院の生徒では、強さの尺度そのものが違う。
僕が一度しか使えない力を、彼女は戦場全体へ行き渡らせる。
それでも僕は、勝利の光だけを見てはいなかった。
最後の着地で、レイシアの左肩が僅かに落ちている。
剣を納める指先も震えていた。
巨大魔物が倒れた直後、彼女は記録水晶ではなく、負傷した騎士たちを振り返っている。
化け物じみた強さを持っていても、痛みまでなくなるわけじゃない。
「最後まで見ていく?」
隣でティアナが尋ねた。
「うん」
ティアナはそれ以上何も言わず、僕と一緒に映像が消えるまで待ってくれた。
七色の光へ戻った魔導画面から目を下ろす。
僕は懐から通信鏡を取り出した。
新着はない。
武闘大会の登録証を、空いた手で握る。
今の僕では、あの巨大魔物の足元に立つことさえできない。
けれど、それを理由に戦う場所から下りるつもりもなかった。
通信鏡へ短い言葉を刻む。
「僕も、まず一勝するよ。レイシア」
送信の光が、一度だけ瞬いた。
彼女もまた、届かない鏡の向こうで僕の返事を待っていたことを、その時の僕はまだ知らなかった。
「面白かった!」
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