第227話「好きでいる自由」
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
光に呑まれた瞬間、足の裏から感触が消えた。
落ちる、と思って息を詰める。
けれど次に足が触れたのは、硬い床でも土でもなかった。
琥珀色の光を含んだ水面が、私の靴底から丸く波打っている。水なのに沈まない。見上げても空はなく、どこまで続くのかも分からない暗がりだけがあった。
「アルト!」
返事はない。
声は遠くへ響くことさえなく、数歩先で吸い込まれた。
「アルト、聞こえる!? セルフィナ! レグルス!」
走り出そうとして、踏み出した足を止める。どちらへ行けばいいのか分からない。アルトの姿も、セルフィナの銀緑の髪も、レグルスの銀槍も見当たらなかった。
胸の前で両手を合わせ、魔力を集める。
蜂蜜色の髪がわずかに浮き、足元へ細い蔦の芽が現れた。けれど、伸びかけた先から琥珀色の粒になってほどけていく。
「もう……こういう場所、嫌い」
答えのない暗がりへ吐き出したとき、斜め前の水面へ白紫の線が走った。
光が縦に開く。
そこから現れたフィアは、着地と同時に細剣の柄へ右手を添えた。私を見つけても構えを解かず、暗がり、水面、背後の順に鋭く視線を動かす。
「フィア!」
「アルトは?」
「いない。セルフィナもレグルスも。呼んでも届かないみたい」
フィアは一度だけ目を閉じ、短く息を吸った。
「魔力も」
「うん。外には出せない」
私たちは背中が触れない程度の距離で立った。
白紫と琥珀。二つの光が足元で重なることはあっても、混ざりはしない。
「ご安心ください。ここからアルト様へ声を届けることはできません」
穏やかな声に振り向く。
波紋の向こうに、アスモリーナが立っていた。
フィアの細剣が鞘から指一本分だけ抜かれる。
「安心できる説明になってないよ。アルトはどうしたの?」
「アルト様ご自身の答えは、すでに確かめました」
「無事なの?」
「少なくとも、私が今からお二人へ行う問いが、彼を傷つけることはありません」
アスモリーナは胸元で静かに手を重ねる。
「共有される力は、アルト様お一人の覚悟だけで成り立つものではありません。力を預ける方にも、願いがあり、恐れがあり、執着がある。今度は、お二人がご自身の感情をどのように扱うのか。それを確かめさせていただきます」
「私たちの、感情……?」
足元から琥珀色が引いていく。
代わりに広がったのは、底の見えない黒い水だった。
その表面に、古びた建物が映る。
白い壁。陽の差す小さな部屋。使い込まれた椅子と、何本もの線が刻まれた窓枠。
線の横には、幼い子どもの手で書いたらしい印が残っていた。背比べをしたのだろう。少し高い線へ追いつこうと、黒髪の男の子が背伸びをしている。
隣で、淡い銀青の髪の女の子が笑った。
アルトと、レイシア。
今よりずっと幼い二人だった。
景色が揺らぐ。
膝を擦りむいたアルトの手を、レイシアが握っている。夜の寝台でうなされるアルトが、彼女の名を呼ぶ。もう少し大きくなった二人が、窓枠についた新しい線を並んで見上げている。
レイシアは私たちを見なかった。
当然だ。この景色の中に、私たちはいない。
「こちらは未来ではありません。現在のレイシア様ご本人でもない。アルト様の記憶と、その心に残るものを映した像です」
アスモリーナの声が、黒い水面を震わせる。
「アルト様にとって、現在最も大切な女性はレイシア様です」
分かっていた。
アルトがどれほど彼女を大切にしているか。名前を聞いたときの顔も、彼女が傷ついたときの取り乱し方も、私は見てきた。
「彼の始まりにも、帰りたい場所にも、彼女がいます」
それでも、喉が詰まった。
指先から熱が抜けていく。窓枠を見るのがつらくて、視線を落としかける。
「少なくとも今、その場所にいるのは、お二人ではありません」
胸の真ん中へ、冷たい杭を打ち込まれたみたいだった。
笑って返したかった。
そんなの知ってるよ、と。だから何、と。
けれど唇が動いただけで、声にならない。
私は、あの窓枠には並べない。
泣いた幼いアルトに呼ばれたのも、最初に手を握ったのも私じゃない。どれだけ急いでも、二人が過ごした時間を追い越すことはできない。
「……痛い」
やっと出たのは、格好のつかない一言だった。
拳を握る。冷えた指が手のひらへ食い込んだ。
「私だって、一番になりたい。アルトに選んでほしい。レイシアには敵わないって、始める前から決めつけたくない」
「それでも、アルト様を想い続けるのですか?」
黒い水面にいる幼い二人を、もう一度見る。
私がアルトを好きになったのは、あの子より長く一緒にいたからじゃない。
周りの人は、私の向こうにお父様を見ていた。
土亀騎士団長の娘。
“土姫”。
何ができるかより、誰の娘なのか。何を望むかより、どの騎士団へ進むのか。決まっていることみたいに言われるのが嫌で、それでも笑っていれば場は丸く収まった。
アルトだけが違った。
私が誰の娘かを知ったあとも、態度を変えなかった。隣に立つと決めた私へ、家名ではなく私の名前を呼んだ。守られる場所を押しつけず、どこに立ちたいのかを聞いてくれた。
アルトが私を一番に選んだから、好きになったんじゃない。
私が、アルトを好きになった。
その気持ちまで、誰かの順位に預けるつもりはない。
「レイシアが一番でも、私がアルトを好きでいることまで決められたくない」
今度は、声が揺れなかった。
「二番でいいって意味じゃないよ。私は一番になりたい。私を選んでほしい。だから、ちゃんと伝える。まだ何も言えてないうちから諦めたりしない」
「では、アルト様が、あなたを選ばないと明確に答えた場合は?」
胸がまた痛んだ。
想像だけで逃げたくなる。でも、そこを曖昧にしたら、私の好きはアルトのためじゃなくなる。
「私が好きでいるのは私の自由。誰を選ぶかはアルトの自由」
一つずつ、言葉を置く。
「断られたら、その答えは受け止める。同じ答えを何度も言わせたり、断ったことをなかったことにはしない。追い続けて困らせるのと、胸に気持ちが残るのは別だから」
息を吸い、冷たい指を開いた。
「それでも、好きな気持ちがすぐに消えないことまで罪にはされたくない」
アスモリーナの視線が、私の隣へ移る。
「フィア様はいかがですか?」
フィアは答えなかった。
細剣はまだ指一本分だけ抜かれたままだった。柄へ置いた親指が鍔に触れ、ゆっくり離れ、また触れる。
視線は黒い水面のレイシアから動かない。
一度、短い呼吸。
それから、もっと深い呼吸。
白紫の光が、フィアの靴の周りで細く揺れた。
沈黙が長くなる。
私も、アスモリーナも急かさなかった。
やがて、鞘の中で小さく金属音がした。フィアが細剣を収めた音だった。
「一番でいい。諦める理由にはならない。好きだから」
「……フィア」
思わず横顔を見た。
フィアが、好き、と言った。
聞き間違えようのない言葉で。
こちらを見返した瞳は逸れない。二番で満足して身を引く声ではなかった。レイシアが今そこにいるという事実を、そのまま受け止めて前へ進む声だった。
「そっか」
胸の痛い場所が、一つ増えた気がした。
でも、裏切られたとは思わない。
フィアがアルトの異変へ誰より早く気づくことも、危険な場所で半歩前へ出ることも、名前を呼んで帰還を確かめることも、私は見てきた。その時間を、私の都合で無かったことにはできない。
「手強い恋敵だったんだね」
「今さら」
少し鋭い返事だった。
私の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その瞬間、黒い水面が四つに割れた。
「これからお見せするものは、確定した未来でも、予言でもありません」
アスモリーナが先に告げる。
「選ばれなかった痛みを、お二人が別の形で扱った場合に起こり得る可能性です」
一つ目の水面では、成長したアルトがレイシアの手を取っていた。
景色が変わり、同じ卓を囲む私たちが映る。レイシアが作戦図の一点を示す。私は笑って頷くのに、彼女の隣の席だけを避けている。フィアは必要な返事だけをして、話が終わるより先に部屋を出た。
残されたレイシアの手が、作戦図の上で止まっていた。
二つ目では、アルトが私を選んでいた。
フィアは一人で剣を振っている。手のひらに血が滲んでも、近づいた誰かへ「平気」とだけ答える。救援を呼ぶための通信具を見て、手を伸ばさず、また剣を握る。
誰にも助けを求めなかった頃のように。
三つ目では、アルトの隣にフィアがいた。
私は二人へ満面の笑みを向け、誰より大きな声で祝っている。
次の景色で、私は別の任務を選んだ。
その次は食事の誘いを断った。
笑顔は消えないまま、フィアとの間にだけ、一歩ずつ距離が増えていく。
最後の水面には戦場が映った。
私が土壁を立ち上げる。フィアなら迷わずその縁を駆けるはずなのに、一瞬だけこちらを見る。
私も、フィアの合図を待つべきところで手を止める。
ほんの半呼吸。
魔物の爪が土壁の隙間を抜け、間にいた仲間の肩を裂いた。
誰も見捨てようとはしていない。
誰も傷つけようとはしていない。
それでも、小さな沈黙が、戦場では血に変わった。
水面が静止する。
「選ばれなかった痛みの先で、選ばれた者を憎まずにいられますか?」
すぐには答えられなかった。
レイシアの隣を避ける私も、笑いながらフィアから離れていく私も、知らない誰かには見えなかった。
絶対にああならない、と簡単に言うのは嘘になる。
「嫉妬は、すると思う」
認めると、喉の奥が熱くなった。
「泣くかもしれない。悔しくて、選ばれた相手の顔を見たくない日もあるかもしれない。すぐ笑って祝ってなんて、たぶんできないよ」
隣のフィアを見る。
フィアもこちらを見ていた。細剣の柄から手は離れている。
「でも、そう思ったあとに何をするかは、私が選べる」
黒い水面へ向き直る。
「傷ついたって、フィアもレイシアも敵にはしない」
二人に救われた場面は、一つや二つじゃない。
「選ばれなかったからって、今まで助けてもらったことまで嘘にはならない」
もしアルトが誰かを選ぶなら、その誰かが私から奪ったことにはならない。アルトが自分で差し出した答えだ。
「好きな人に選ばれた誰かを、悪者にはしたくない」
顔を見られないなら、少し離れる日があってもいい。
泣くなら、ちゃんと泣けばいい。
でも、戦うときまで沈黙を持ち込まない。必要な声を飲み込まない。それは感情じゃなくて、私が決められる行動だ。
アスモリーナはフィアへ顔を向けた。
フィアは黒い水面の四つの可能性を順に見た。
そして、鞘ごと細剣を握り、私の隣へ半歩近づく。
「誰を好きでも、私の剣は鈍らない」
「私が選ばれても?」
「同じ」
「レイシアが選ばれても?」
「同じ」
短い答えに迷いは見えなかった。
私は目元を手の甲で拭った。泣いてはいないつもりだったのに、少しだけ濡れていた。
「だからって、譲る気はないからね。フィアにも、レイシアにも」
「私も」
「でも、戦うときは今までどおり」
「当たり前」
フィアの肩が、ほんの少しだけ私の肩へ触れた。
恋では、同じ場所を目指して競う。
戦場では、同じ敵へ向かって背中を預ける。
どちらかを消さなくても、立つ場所は選べる。
アスモリーナは、初めて小さく頷いた。
「お二人は、嫉妬も痛みも否定なさいませんでした。それでも、それを仲間へ向ける刃にはしないと選ばれた」
黒い水面に映っていた可能性が、一つずつ消えていく。
「想い続ける自由と、相手の選択を拘束しない責任。その両方を、確かに受け取りました」
足元で、琥珀色と白紫の光がほどけ始めた。
混ざらなかった二色が細い糸となり、左右へ引いていく。
その先に、淡い緑色の水面が現れた。
透明な壁一枚を隔てたような別の領域。
中央に、一人の少女が立っている。
淡い銀緑色の髪は腰へ流れ、毛先だけが薄い水色に透けていた。翡翠色の瞳が周囲を静かに見回している。セルフィナだ。
こちらの声が届く様子はない。
アスモリーナが、透明な境界の向こうにいるセルフィナへ向き直った。
「では、セルフィナ様。あなたのアルト様への想いも、同じように確かめましょう」
セルフィナはアスモリーナを見つめた。
慌てることも、目を逸らすこともない。
ただ、分析の前提に誤りを見つけたときのように、静かに首を横へ振る。
「その問いは、前提が異なります」
わずかな間を置き、セルフィナは丁寧な声で続けた。
「私は、そのような感情ではありません」
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