第226話「本物のレイシア」
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
答えようとして、唇を閉じた。
白い光の向こうへ消えかけていたレイシアの背中が、ひどく遠く見える。
胸はまだ痛い。
「愛していない」という一言は、剣で斬られた傷よりも深く残っていた。
でも、痛いから本物なのだろうか。
僕が望むことだけを言うレイシアが偽物なら、僕が最も恐れていることを言うレイシアも、それだけで本物になるわけじゃない。
「待って、レイシア」
玄関を越えようとしていた足が止まった。
彼女は扉へ手をかけたまま、ゆっくり振り返る。
「君はどうしたいの?」
水色の瞳が揺れた。
「僕がどうしてほしいかじゃない。君が、どうしたいのかを聞かせて」
レイシアは僕を見つめた。
少し困ったように眉を下げる。その顔まで、僕の記憶にある彼女によく似ている。
「アルトが残ってほしいなら、残るよ」
「僕の望みじゃなくて」
「それなら……アルトが私を自由にしたいなら、出ていく」
返ってきた言葉に、胸の痛みとは別の冷たさが混じった。
僕が残れと言えば残る。
僕が自由でいてほしいと言えば出ていく。
どちらを選んでも、その真ん中にいるのは僕だった。
「君は、外へ出たいの?」
「アルトが、それを望むなら」
「僕が何も望まなかったら?」
彼女の唇がわずかに開く。
けれど、声は出なかった。
扉を押していた指から力が抜ける。白い光の前で、幻は僕の次の言葉を待っていた。
「僕が嫌がる答えを言えば、本物になるわけじゃない」
一歩、彼女へ近づく。
「君も、僕を中心にしか動いていない」
「私は、アルトを愛していない」
「それも、君が決めたことじゃない」
今度は、言葉に胸を抉られなかった。
「僕がずっと怖がっていたことだ。いつかレイシアの心が僕から離れること。僕なんて必要なくなって、別の誰かを選ぶこと。その怖さを、君が口にしただけだ」
幻のレイシアは否定しない。
優しい顔のまま、ただ立っている。
「未来のレイシアの答えじゃない。僕の恐怖から作られた答えなんだ」
そう口にしても、恐怖そのものはなくならなかった。
本物のレイシアがこれから何を選ぶかを、僕は知らない。知らないものを、都合のいい約束で塗り固めることもできない。
ただ、目の前にいる彼女が本物ではないことだけは分かった。
本物のレイシアなら、僕が傷を隠したとき、こんなふうに静かに待ってはいない。
大丈夫だと笑ってごまかせば、治療布を剥がしてでも自分の目で確かめる。痛いと言わない僕より先に目を赤くして、それでも手当ての指だけは震わせない。
勝手に危険を背負ったと知れば、無事だったからいいとは言わない。
『アルトがいなくなったら、私はどうすればいいの』
泣きながら僕を責めて、そのくせ離れていた時間まで取り返すように腕を絡めてくる。
何年も会えなかった寂しさを、団長らしい微笑みの裏へしまい続けられる人でもない。二人きりになれば、返事が届かなかった日々を数えるように、一つずつ言葉を重ねる。
僕が誰かと親しくしていれば、穏やかに笑いながら距離を詰めてくる。その笑顔が普段より綺麗なときほど、あとで何を聞かれるか少し怖い。
公の場では、水蝶騎士団を率いる穏やかな英雄だ。
けれど僕の前では、甘えたがりで、寂しがりで、独占欲が強い。守ると決めたもののためなら僕に反対されても剣を取り、自分で選んだ場所へ自分の足で向かう。
一緒にいたいと言いながら、それでも行く。
僕を愛しているから僕の言葉に従うのではなく、僕を深く愛したまま、違う答えを返してくる。
面倒で、重くて、ときどき僕よりずっと頑固だ。
それが、レイシアだ。
「本物のレイシアは、僕のためだけに作られた人じゃない」
僕は幻の瞳をまっすぐ見た。
「僕と違う答えを持てるから、レイシアなんだ」
廊下の奥で、靴音が一つ響いた。
薄闇の中からアスモリーナが姿を現す。長い髪も、静かな微笑みも、黒い水面で会ったときと変わらない。
「では、本物の彼女があなた以外を選んでも、その自由を喜べるのですか?」
声音は穏やかだった。
逃げ道を与えるような優しさはない。ただ、僕の答えが出るまで待っている。
喉が詰まった。
レイシアの隣に、顔のない誰かが立つ。
その誰かへ向けて、レイシアが僕に見せる笑顔を見せる。
想像しただけで、胃の奥が強く縮んだ。手のひらへ爪が食い込む。
「喜べない」
声が掠れた。
「僕を選んでほしい。ずっと必要としてほしいし、忘れてほしくない。他の誰かへ渡したくない」
言ってしまうと、胸の奥に隠していたものが形を持った。
守りたいだけではない。
レイシアの帰る場所に、僕がいたい。
僕だけを見てほしいと思っている。
「その相手を嫌いになるかもしれない。何が僕よりよかったのかって、醜いことを考えると思う」
指を開くと、手のひらに半月の爪痕が残っていた。
「笑って見送れるなんて言わない。たぶん泣く。嫌だって言う。行かないでくれって頼む」
息を吸う。
胸の痛みは消えない。それでも、次の言葉を痛みのせいにはしたくなかった。
「一度断られたくらいじゃ、諦められないかもしれない。追いかけるかもしれない」
「それは、彼女の自由を認めることになるのでしょうか?」
「追いかけることと、逃げ道を塞ぐことは違う」
アスモリーナの瞳が、わずかに細くなる。
「僕は気持ちを伝える。僕を選んでほしいって言う。すぐに聞き分けのいいふりはできないと思う。でも、剣を抜いて道を塞いだり、《暴食》や魔神の力で閉じ込めたりはしない」
言葉にするたび、僕が越えてはいけない線が見えてくる。
「助けたことを恩にして、そばにいろとも言わない。僕の立場を使って、断れない答えを選ばせない。僕が傷ついたことも、命を懸けたことも、死ぬかもしれなかったことも、レイシアの罪にはしない」
死んだあとまで覚えていてほしい。
その願いが僕の中にあることは、もう否定できない。
けれど、僕の墓を鎖の端にして、レイシアの残りの人生へ巻きつけることは違う。
「もしレイシアが、嫌だって言ったら?」
「聞くよ」
「あなたが納得できなくても?」
「……うん」
すぐには出なかった返事を、僕はごまかさなかった。
「納得できないことと、答えをなかったことにするのは違うから」
僕はきっと苦しむ。
諦められない自分を、何度も持て余す。
それでも、その苦しさを理由に、レイシアの足を止める権利が生まれるわけではない。
「僕がレイシアを愛していることは、レイシアが僕を選ばなければならない理由にはならない」
声にした瞬間、胸がまた痛んだ。
これは僕が傷つかないための答えではない。
「僕の痛みは僕が引き受ける。その痛みを、レイシアを縛る鎖にはしない」
沈黙が落ちた。
やがて、閉ざされていた窓の隙間から朝日が差し込む。
薄暗い廊下が、柔らかな色へ変わっていった。
焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐる。
食堂から皿の触れ合う音がして、子どもたちの笑い声が弾けた。窓の外には小さな菜園が広がり、朝露を乗せた葉が風に揺れている。
古びた長机には温かなスープが並び、空いている僕の席から細い湯気が昇っていた。
僕が何度も望んだ、平和なロウェル孤児院。
幻のレイシアも、いつの間にか昔の服で食堂の前に立っていた。
彼女は微笑み、僕へ手を差し出す。
「ここにいれば、アルトが望む私でいられるよ」
白い指が、朝日の中で待っている。
「誰も傷つかない。誰も離れていかない」
子どもたちが僕を呼んだ。
席を詰め、早く食べようと手を振っている。
足が動きそうになった。
帰りたい。
戦いのない朝へ。誰の血も流れず、左腕の紋章を恐れる必要もない場所へ。レイシアや、僕が大切に思う人たちと、同じ食卓を囲める日々へ。
そんな未来を望んでいないなんて、言えない。
「帰りたいよ」
レイシアの笑みが深くなる。
けれど、僕は差し出された手を取らなかった。
「でも、ここに残ることは、帰ることじゃない」
彼女の指先が、宙で止まる。
「どうして?」
「ここでは、誰も離れないんじゃない。離れることを選べないんだ」
僕は食堂に背を向け、玄関へ歩き出した。
腰の剣には触れない。
左腕の奥にある飢えも呼ばない。
この場所を斬る必要も、喰らう必要もなかった。
廊下の途中で、窓枠へ手を伸ばす。
柱の内側には、幼い僕たちの身長を刻んだ傷が残っていた。少し曲がった線。横には、レイシアが自分で書いた小さな印。
指の腹でなぞると、あの日の冷たい木の感触まで蘇った。
これは偽物の形を借りていても、元になった記憶は僕のものだ。
捨てなくていい。
ただ、ここへ僕を閉じ込める鍵にさせなければいい。
「帰る場所は、出ていけない場所じゃない」
玄関の取っ手を握る。
「離れても、自分で帰ると決められるから、家なんだ」
扉を開けた。
眩しい光ではなく、黒い水面の上を渡る静かな風が頬へ触れた。
僕は自分の足で敷居を越える。
背後で、パンの香りが薄くなった。
子どもたちの笑い声が、小さな光の粒になって舞い上がる。長机も、温かな食事も、窓の外の菜園も、朝露を散らしながら静かにほどけていった。
最後に幻のレイシアが立っていた。
責めることも、泣くこともない。
差し出していた手の輪郭から光へ変わり、銀青の髪、水色の瞳、微笑みの順に、朝の空気へ溶けていく。
僕はそれを見届けた。
ロウェル孤児院で過ごした日々を消したわけではない。
いつか帰りたいという願いを捨てたわけでもない。
思い出を檻に作り替えた、この場所だけを置いていく。
最後の光が消えると、足元には果てのない黒い水面が広がっていた。
僕の前に、アスモリーナが立つ。
「認めましょう」
彼女は胸元で両手を重ねた。
「あなたは、ご自身の欲望を否定せず、それを他者への命令に変えませんでした」
「これで、終わり?」
「アルト様の試練は」
その言い方に、肩の力を抜けなかった。
「ですが、共有される力は、あなたお一人の覚悟だけで決められるものではありません」
黒い水面に、僕以外の影は映っていない。
「力を預ける方々にも、願いがあります。恐れも、嫉妬も、執着もあるでしょう。何を望み、それでも何をあなたへ預けるのか。ご本人に確かめていただく必要があります」
「待って。彼らを巻き込まないで――」
言い切る前に、息を止めた。
守りたいと思った。
僕が受ければいいと、いつものように決めかけた。
でも、それでは同じだ。
危険だからと扉を閉め、本人が何を選ぶか聞きもしない。それもまた、僕を中心に相手の答えを作ることになる。
握っていた手をゆっくり開いた。
「……僕が決めることじゃない」
喉に残っていた言葉を飲み込み、言い直す。
「彼ら自身に選ばせて」
アスモリーナは静かに頷いた。
次の瞬間、黒い水面へ四つの光が落ちた。
赤みを帯びた金色。
鋭い紫電の白。
森の奥を思わせる淡い緑。
そして、風を閉じ込めたような銀色。
四つの波紋が重なり、その中心から人影が浮かび上がる。
「アルト、無事!?」
最初に駆けてきたティアナが、僕の両肩を掴んだ。顔を覗き込み、腕、足、胸元へ忙しく視線を走らせる。
「う、うん。僕は――」
「新しい怪我は? 痛いところ、隠してない?」
「ないよ」
答えると、ティアナは大きく息を吐いた。
けれど、すぐに眉をつり上げる。
「……あとで全部説明してもらうからね」
その横を、フィアが音もなく抜けた。
右手は細剣の柄へ添えられ、視線は僕ではなくアスモリーナへ向いている。
「アルト」
短く名を呼び、僕の半歩前に立つ。
「そこから離れて」
「待って、フィア。まだ敵だと決まったわけじゃない」
フィアは構えを解かなかった。
少し離れた場所では、セルフィナが片手を上げていた。何かを確かめるように指を動かし、耳を澄ませる。
「精霊との接続がありません」
翡翠の瞳が、水面と空のない暗がりを順に追う。
「精神へ直接干渉する領域である可能性が高いです。現時点では推測ですが」
「アルト」
整った声に振り向く。
レグルスは銀槍を手にしたまま、僕の隣ではなく、アスモリーナと向かい合える位置へ立っていた。
「僕たちをここへ招いたのは、君か」
「違う。僕も――」
「ならば、説明できる者がいるようだ」
紫の瞳がアスモリーナを捉える。
「説明してもらおう」
誰一人、僕の言葉だけを待ってはいなかった。
心配し、怒り、警戒し、自分の目で確かめようとしている。
僕が望む形ではなく、それぞれの意思でここに立っている。
アスモリーナは四人を見渡した。
「アルト様の答えは確かめました」
黒い水面へ、彼女の声が静かに広がる。
「次は、力を預ける皆様が、互いへ何を望んでいるのかを確かめましょう」
ティアナの足元から、花弁を含んだ琥珀色が広がった。
フィアの下には白紫の細い光。
セルフィナの周囲には深い翠。
レグルスの足元には銀青の波紋が生まれる。
「待って、ティアナ、フィア、セルフィナ、レグル――」
伸ばした手は届かなかった。
四人の姿が、それぞれ別の光へ呑み込まれる。
消える寸前まで、誰も同じ顔をしていなかった。
アスモリーナの声だけが、色を失った水面に残る。
「では――皆様の試練を始めます」
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