第225話「愛を疑う幻」
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
パンが焼ける匂いで、僕は目を覚ました。
香ばしくて、少し甘い匂い。
遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえる。
廊下を駆ける足音。誰かが椅子を引きずる音。開いた窓から入り込んだ風が、薄いカーテンをふわりと持ち上げていた。
剣戟もない。
警鐘も、誰かの悲鳴もない。
「……ここは」
身を起こすと、小さな寝台が軋んだ。
梁に走る木目。壁に残った古い傷。窓枠の端に刻まれた、子どもの背丈を測った印。
どれも、忘れるはずのないものだった。
ロウェル孤児院。
僕とレイシアが育った場所。
胸の奥で固く結ばれていた何かが、ゆっくりとほどけていく。
寝台から下り、窓辺へ歩いた。
庭の向こうにあったはずの訓練場は、菜園へ変わっていた。
剣を振るために踏み固められていた土には、青々とした葉が列を作っている。朝露をのせた豆の蔓が支柱へ巻きつき、赤い実をつけた野菜の間を、小さな子どもがじょうろを抱えて歩いていた。
窓ガラスに映る僕は、記憶の中より少しだけ成長している。
肩は広くなり、手には剣だこが残っていた。
けれど、左腕に黒い紋章はない。
傷も、封魔具もない。
「アルト」
名前を呼ばれて振り返った。
戸口に、レイシアが立っていた。
淡い銀青の髪を肩の前へ流し、白いエプロンをつけている。長い耳の先を、朝日が薄く透かしていた。
澄んだ水色の瞳が僕を見つめる。
次の瞬間、レイシアは駆け寄ってきた。
「やっと起きた」
僕の右手を両手で包み、そのまま指を絡める。
触れた手は温かかった。
かすかな石鹸の匂いも、髪が頬をくすぐる感触も、僕が知っているレイシアそのものだった。
「おかえり、アルト。もう、どこにも行かなくていいよ」
その一言を聞いた途端、息が震えた。
僕は帰ってきたのだと思った。
どこから帰ってきたのかは、うまく思い出せない。
長い間、暗い道を走っていた気がする。
誰かの命に間に合わなくなることを恐れ、届かない背中へ手を伸ばし続けていた。
でも、もう走らなくていい。
レイシアがここにいる。
「ただいま、レイシア」
「うん。おかえり」
握られた手を、僕も強く握り返した。
レイシアは満足そうに笑うと、僕の肩へ額を寄せた。
「遅いよ。ずっと待ってたんだから」
「ごめん」
「本当に寂しかったんだよ」
「うん」
「もう勝手にいなくならないでね」
「約束する」
口にした途端、不思議なくらい心が軽くなった。
ここには戦場がない。
魔神も、騎士団も、世界の命運もない。
僕が守らなければならないものは、もう目の前にある。
食堂へ入ると、焼きたての丸パンが籠いっぱいに積まれていた。
温かな湯気を立てる野菜のスープ。焦げ目のついた卵。窓際には切ったばかりの林檎が並び、甘い香りが漂っている。
子どもたちが僕を見つけ、一斉に名前を呼んだ。
「アルト兄ちゃん!」
「やっと起きた!」
「ねえ、昨日の話、聞いて!」
四方から袖を引かれ、椅子へ押し込まれる。
庭で大きな芋虫を見つけたこと。
乳歯が抜けたこと。
怖い夢を見たけれど、隣の子と手を繋いだら眠れたこと。
どれも、命を懸けなくていい問題だった。
僕は一つずつ話を聞き、芋虫は素手で掴まない方がいいと約束させた。
「アルト、パンには何をつける?」
レイシアが二つの瓶を持ち上げる。
「林檎のジャムと蜂蜜」
「じゃあ、林檎のジャムにしようかな。レイシアは?」
「私も林檎」
レイシアがすぐに答えた。
同じものを選んだ。
ただそれだけのことが、妙に嬉しかった。
壁には、僕の片手剣が掛けられている。
特別な由来のない、普通の剣。
鞘には薄く埃が積もり、長い間、誰にも触れられていないことが分かった。
その隣の外套掛けは空だった。
神下ろしの聖剣もない。
水蝶騎士団の青い外套も、団長章もない。
けれど、その空白を見ても不安にはならなかった。
必要がなくなったのだ。
レイシアが剣を持たずにいられる世界へ、ようやく辿り着けた。
「アルト、レイシア! いる?」
明るい声とともに、玄関の扉が開いた。
ティアナが大きな籠を抱えて入ってくる。
蜂蜜色の髪には畑の葉が一枚ついていて、籠の中には形の不揃いな人参や、丸々とした南瓜が詰まっていた。
「今朝採れた分、持ってきたよ。こっちの曲がった人参も甘いから、見た目だけで避けないように言っておいてね」
「ありがとう、ティアナ。それと、葉っぱも持ってきてるよ」
「葉っぱ?」
髪についていた葉を取って見せると、ティアナは目を丸くした。
「これは畑仕事を頑張った証拠。たぶん」
その後ろでは、フィアがいつの間にか床へ座っていた。
子どもから壊れた木の鳥を受け取り、外れた片翼をじっと見ている。
「直せる?」
「軸が曲がってる」
短く答え、細い針金を抜く。
迷いのない手つきで軸を直し、羽根の位置を合わせた。
木の鳥が再び両翼を動かすと、フィアはそれを子どもへ返した。
「直った」
「すごい!」
歓声を上げる子どもの横で、フィアはほんの少しだけ口元を緩めた。
庭へ出ると、セルフィナが風の精霊たちと花壇の手入れをしていた。
小さな精霊が運んできた雫を、セルフィナが乾いた根元へ落としている。
「西側の土は、今朝の時点で水分が不足しています。これは確認できた事実です」
セルフィナは土を指でほぐし、空を見上げた。
「雲の流れから判断すると、明日は雨になる可能性が高いでしょう。ただし予測ですので、夕方にも確認します」
「僕も手伝うよ」
「ありがとうございます。ですが、その前に玄関をご覧になった方がよいと思います」
直後、荷車の車輪が石を踏む音がした。
レグルスが物資を積んだ荷車を引き、門をくぐってくる。
白金の髪に汗を光らせながらも、背筋はいつもどおり真っ直ぐだった。
「ちょうどいいところにいたね、アルト。小麦袋が十二、干し肉が四箱だ。鐘が鳴るまでに、どちらが多く倉庫へ運べるか競わないか?」
「荷下ろしまで競争にするの?」
「平和になったからといって、僕が君に負けていい理由にはならないよ」
穏やかな口調とは裏腹に、紫の瞳には変わらない負けん気がある。
「分かった。重い方を選んで後悔しても知らないよ」
「君こそ、先に言い訳を考えておくといい」
ティアナが呆れたように笑う。
フィアは僕たちを一度だけ見て、
「子ども」
と呟いた。
誰も欠けていない。
誰も傷ついていない。
みんなが自分らしい顔で、朝の光の中に立っている。
その光景を見ているだけで、胸の奥が熱くなった。
これでいい。
僕が欲しかったのは、きっとこれだった。
昼前には荷下ろしも終わり、僕たちは食堂へ戻った。
レイシアが冷たい果実水を注いでくれる。
水差しの表面を滑った雫が、机に小さな輪を作った。
「午後は何をするの?」
「菜園の柵を直そうと思う。昨日、子どもが隙間から外へ出ようとしたみたいだから」
「じゃあ、私も手伝う」
「レイシアはパンの仕込みがあるんじゃなかった?」
「アルトが柵を直すなら、私も一緒に直すよ」
言葉は優しい。
笑顔も穏やかだった。
けれど、胸の内側に小さな違和感が残った。
「……今日は、一緒に孤児院にいてほしい」
僕は確かめるように言った。
「うん。ずっとアルトと一緒にいるよ」
一瞬の迷いもない。
嬉しいはずの返事だった。
昔のレイシアなら、頬を緩ませて僕の腕へ抱きついただろう。
けれど、その後できっと言う。
どうして急にそんなことを言うの。
何か隠しているんじゃないの。
勝手に一人で危ないことをしようとしていないよね、と。
僕の願いを喜びながらも、その理由を聞こうとする。
それが、レイシアだった。
「レイシア」
「何?」
「騎士へ戻りたいとは思わないの?」
窓の外で、風が豆の葉を揺らした。
「アルトが望まないなら、戻らないよ」
「僕のことは関係ない。レイシアが騎士として生きたいなら、戻った方がいい」
わざと、反対のことを言った。
困らせたいわけではない。
ただ、否定してほしかった。
怒ってもいい。
勝手に決めないで、と眉を寄せてくれればよかった。
けれど、レイシアは同じ笑顔のまま頷いた。
「うん。アルトがそう思うなら、戻るよ」
「そうじゃない」
思ったより低い声が出た。
「僕がどうしてほしいかじゃない。レイシアは、どうしたいの?」
水色の瞳が僕を映している。
けれど、その奥には何もなかった。
怒りも、寂しさも、迷いもない。
「私は、アルトが望むことを望むよ」
僕は、握っていたレイシアの手を離した。
温かさが指の間から抜け落ちる。
レイシアは手を離された理由すら尋ねない。
本物のレイシアは、こんなふうに笑わない。
僕が無茶をすれば怒る。
傷を小さく報告すれば、本気で叱る。
離れたくないと泣くこともある。
それでも、自分が行くべきだと決めた場所へは、自分の足で向かう。
僕の言葉がなければ、自分の望みさえ持てない人ではない。
「違う」
僕の声だけが、静かな食堂に落ちた。
「君は、レイシアじゃない」
その瞬間、すべてが止まった。
窓から入っていた風が消える。
持ち上がっていたカーテンが、宙で固まった。
庭の葉も、子どもの髪も動かない。
食堂の奥で笑っていた子どもたちは口を開いたまま静止し、鍋から立ち上る湯気さえ、白い筋になって止まっていた。
音が一つもない。
机の上の水差しへ目を落とす。
曲面に映っていたのは、僕でも、レイシアでもなかった。
見知らぬほど整った微笑みを浮かべ、アスモリーナがこちらを見ている。
窓ガラスにも。
銀の匙にも。
止まった水滴の一つ一つにも、同じ姿が映っていた。
「お気に召しませんでしたか?」
穏やかな声だった。
「あなたを愛し、あなたへ逆らわず、決して離れていかないレイシアです」
「こんなのはレイシアじゃない」
「あなたが守りたかった彼女ですよ。剣を持たず、傷つかず、あなたの帰りだけを待っている」
「僕は、レイシアから全部を奪って守りたいわけじゃない」
「では、愛する相手を自分だけのものにしたいと思ったことは、一度もありませんか?」
「ない」
即答した。
けれど、声がわずかに硬くなった。
「本当に?」
水差しの中で、アスモリーナが首を傾げる。
「神下ろしの聖剣はありません。水蝶騎士団の外套も、公務を告げる書簡も、帰りを待つ団員の姿もない。彼女が積み重ねた責任も、仲間との結びつきも、この家の外へ置いてきたようですね」
壁の剣に積もった埃が、急に濃く見えた。
「戦わなくていい世界なら、剣は必要ないはずだ」
「ええ。剣は必要ないかもしれません」
銀の匙に映ったアスモリーナが、静かに微笑む。
「ですが、彼女自身の選択まで必要なくなるのでしょうか」
隣にいるレイシアは、僕が手を離しても同じ表情を保っていた。
寂しがりもしない。
理由も尋ねない。
僕がもう一度手を差し出せば、きっと握る。
背を向けろと言えば、何も聞かずに背を向ける。
それはレイシアの顔をしているだけの、僕にとって都合のいい誰かだった。
「あなたの理想の未来には、彼女の笑顔がある。けれど、彼女自身の願いはありません」
「違う。これは僕の理想なんかじゃない」
「すべてがそうだとは申しておりません」
アスモリーナの声には、嘲りも責める響きもなかった。
「これは未来ではありません。あなたの記憶、願い、恐れから形を得た一つの可能性にすぎません。ただ――何を残し、何を消せば、あなたが安らげるのかを映しただけです」
水差しの雫が横へ流れた。
机の木目が、石畳の継ぎ目へ変わっていく。
床が端から冷たい灰色に塗り替えられ、壁の外套掛けに深い青の布が現れた。
止まっていた湯気は白い朝靄となって広がる。
その向こうで、巨大な門が軋んだ。
菜園の支柱は騎士たちの槍へ。
子どもたちの影は、出立を待つ人々へ変わっていく。
僕は王都の出発門に立っていた。
目の前にいるレイシアは、水蝶騎士団の外套をまとっていた。
腰には、神下ろしの聖剣。
先ほどまでのレイシアより、ずっと本物に見えた。
外套の留め具へ伸ばした指が、ほんの少し震えている。
その震えを隠すように指を握り、呼吸を整えてから、レイシアは僕を見た。
水色の瞳には迷いがあった。
それでも、その迷いを誰かへ預けず、自分で抱えて立っている。
「遠い場所なの?」
「うん。しばらくは戻れない」
レイシアは一度だけ、門の外へ目を向けた。
「危険な任務だよ。でも、私が行けば守れる人たちがいる」
守るべき人がいるのなら、レイシアは行く。
僕が寂しがると分かっていても。
自分が背負うと決めたもののために、剣を取る。
「行かないでほしい」
口から落ちた言葉は、子どもの頃と何も変わらなかった。
レイシアの眉が、かすかに寄る。
すぐには頷かなかった。
唇を開き、閉じる。
僕へ伸びかけた指を途中で止め、胸元で強く握った。
「私だって、アルトと離れたくないよ」
声が少しだけ震えている。
「だったら――」
「でも、行く」
僕の言葉を遮り、レイシアは顔を上げた。
「ごめん。私は騎士だからじゃない。私が行きたいって決めたから、行くよ」
胸の奥へ、細い刃が入ったようだった。
行くべきだと思う。
レイシアが自分で選んだのなら、それを尊重したい。
そう思う僕と、門を閉めてしまいたい僕が、同じ胸の中にいる。
「……分かった」
ようやく、それだけを絞り出した。
レイシアは悲しそうに微笑み、僕の横を通り過ぎた。
外套の裾が、手の甲へ触れる。
反射的に指を曲げた。
けれど、布は掴めずに離れていった。
レイシアの足音へ、騎士たちの足音が重なる。
青い外套が、白い靄の向こうへ遠ざかっていく。
やがて、その外套が再び近づいてきた。
戻ってきたレイシアの立ち方は、以前より強く、静かだった。
外套には旅の汚れが残っている。
聖剣の鞘にも、新しい傷が増えていた。
それでも、レイシア自身は誰にも支えられず、まっすぐ自分の足で立っていた。
「もう、アルトに守ってもらわなくても大丈夫だよ」
穏やかな言葉だった。
喜ぶべきだと思った。
レイシアが傷つかず、自分の足で立てるようになった。
僕がずっと願ってきたことのはずだった。
なのに、胸の中にぽっかりと穴が開く。
守らなくていいという言葉が、僕の居場所までなくなったように聞こえた。
「僕がいなくても?」
「うん」
レイシアは少し迷ってから、頷いた。
その迷いが、かえって苦しかった。
僕を傷つけないための答えではない。
自分で選び、僕の痛みも見たうえで、それでも告げた答えだった。
足元の石畳を、薄い水が流れ始める。
水面に映る僕の姿だけが揺れ、レイシアの姿は揺れなかった。
青い外套の傍らへ、もう一つの影が伸びてくる。
逆光の中に、誰かが立っていた。
顔も、名前も、立場も分からない。
レイシアが、その人の隣へ並ぶ。
相手が誰なのかは、どうでもよかった。
強さの比較でも、共に過ごした時間の比較でもない。
レイシアが僕の方を向く。
その表情に罪悪感も、憎しみもない。
ただ、自分で決めたことを僕へ伝えようとする、静かな覚悟だけがあった。
「私、この人と生きていくって決めたの」
喉が閉じた。
息を吸ったはずなのに、胸まで届かない。
顔もない影ではなく、その隣を選んで立つレイシアだけが目に入った。
「彼女は生きています」
どこにも姿のないアスモリーナの声が、水面から響く。
「傷ついてもいません。自分の意思で道を選び、穏やかに笑っている。あなたが望んだとおり、幸せになったのではありませんか?」
違う、と言いかけた。
けれど、何が違うのか言葉にできなかった。
レイシアは生きている。
僕が何度も失うことを恐れた人が、目の前で息をしている。
聖剣を握る指も、微笑む唇も、どこにも傷はない。
それでも、痛かった。
僕が欲しかったのはレイシアの命だった。
彼女の笑顔だった。
そのはずなのに。
その人生の中に、僕がいることまで求めていた。
生きて、僕の名前を呼んでほしかった。
困ったときには僕を頼り、嬉しいときには僕へ一番に知らせてほしかった。
最後に選ぶ場所が、僕の隣であってほしかった。
「僕は……」
声が掠れた。
それを認めれば、これまで口にしてきた「守りたい」という言葉まで汚れてしまう気がした。
でも、違う。
守りたい気持ちは嘘ではなかった。
レイシアが傷つけば、僕も痛かった。
危険が迫れば、見返りなど考えるより先に身体が動いた。
それでも、そこに何一つ別の願いが混じっていなかったとは、もう言い切れない。
「僕が怖かったのは、レイシアの死だけじゃない」
一つずつ、胸の奥から言葉を拾った。
「僕を必要としなくなることも怖かった。僕がいなくても幸せに生きられるようになって……最後には、僕を選ばなくなることが怖かったんだ」
言葉にした途端、水面が黒く染まった。
レイシアの隣にいた影も、王都の門も沈んでいく。
黒い水の向こうから、鋭い光が走った。
次に見えたのは、僕へ向かって手を伸ばすレイシアだった。
その背後で、崩れ落ちる石の影が膨らんでいる。
危ない。
そう思った瞬間には、僕はレイシアを突き飛ばしていた。
胸を貫くような衝撃。
音が遠のき、膝から力が抜ける。
冷たい床へ倒れながら、無事なレイシアの姿が見えた。
よかった。
その安堵に、嘘はなかった。
「アルト!」
僕の名前を呼ぶ声を最後に、視界が暗くなる。
暗闇が晴れたとき、僕は再びロウェル孤児院に立っていた。
けれど、最初にあった朝の温かさはない。
曇った窓から白い光が差し込み、食堂の隅に一脚だけ空の椅子が置かれている。
僕がいつも座っていた椅子だった。
机の上には、使われていない木の皿と、取っ手の欠けたカップ。
誰も座らない席なのに、毎朝、同じ場所へ並べられているらしい。
埃だけは、きれいに拭われていた。
レイシアが皿へパンを一つ置く。
自分の分には手をつけず、空席を見つめている。
場面が夕暮れへにじんだ。
孤児院の裏手にある、小さな墓。
その前で、レイシアが膝をついていた。
墓石には、僕の名前が刻まれている。
根元には季節の違う花が幾重にも重なり、土には何度も膝をついた跡が残っていた。
「アルトが私のために死んだのに、私だけ幸せになんてなれないよ」
レイシアの声は静かだった。
泣き崩れてはいない。
だからこそ、その言葉が一日だけの悲しみではなく、ずっと続いてきたものだと分かった。
「あなたは彼女の命を救いました」
墓石の濡れた表面に、アスモリーナが映っている。
「そして、その後の人生を、あなたの死と後悔へ結びつけた」
「違う」
僕は墓石へ近づいた。
レイシアの肩に触れようとしても、指は幻のように通り抜ける。
「僕は、こんなことを望んでいない。ただ、生きてほしかったんだ」
「ええ。その瞬間、あなたが願ったのは彼女の生でしょう。そこに偽りがあったとは申しません」
「だったら……」
「ですが、純粋な願いの中へ、別の願いが混じることはないのでしょうか?」
空席。
毎朝置かれる食器。
誰よりも深く僕を知るレイシアなら、僕が命を懸けた意味を忘れない。
僕がいなくなっても、レイシアの心には残れる。
僕の死を知れば、僕がどれほど大切にしていたか、疑わずに済む。
そんな考えが、死への恐怖を一瞬でも慰めたことはなかったか。
「僕は、そんな計算で庇ったんじゃない」
「承知しております」
否定されなかったことが、かえって苦しかった。
「彼女を縛る方法を考えて、命を投げ出したわけではない。あなたの身体は、本当に彼女を救うために動いたのでしょう」
墓石の上を、雨粒がゆっくりと滑る。
「ですが、忘れられたくないという恐れも、必要とされ続けたいという願いも、同じあなたの中にある。それらが同居しているからといって、守りたい気持ちまで偽物になるわけではありません」
僕は答えられなかった。
すべてが偽りだと言われたなら、否定できた。
僕は本当にレイシアを助けたい。
そのことだけは揺らがない。
けれど、その本物の思いが、たった一つの感情だけでできているとは言えなかった。
命を懸けた僕を、レイシアだけは忘れない。
死んでも、その心の中にはいられる。
そんな願いが胸の暗い場所に潜んでいなかったと、どうして断言できる。
「では、あなたを忘れ、別の誰かと幸せになる彼女を、心から喜べますか?」
唇を開く。
息だけが漏れ、声にはならなかった。
忘れてほしくない。
そう思ってしまった。
僕のために一生泣いてほしいわけではない。
空の皿を並べ、墓前で時間を止めてほしいはずがない。
それなのに、僕のいない場所で、僕を思い出すこともなく笑うレイシアを想像すると、胸が冷たくなる。
僕は膝をつき、空席へ続く泥の跡を見た。
守ったはずの命を、僕の死で閉じ込めてしまう。
その可能性を、今まで考えたことがなかった。
墓石の文字が雨に溶ける。
花の色が抜け、空の椅子も食器も、孤児院の壁さえ黒い水へ沈んでいく。
最後に残ったのは、薄暗い廊下だった。
幼い頃、何度も走ったロウェル孤児院の廊下。
けれど、朝のパンの匂いはしない。
子どもたちの声も、窓を揺らす風もない。
古い板張りの床は冷え、閉じた玄関扉の隙間から、細い灰色の光が伸びていた。
廊下の中央に、レイシアが立っている。
外套も、聖剣もない。
淡い銀青の髪が、呼吸に合わせてわずかに動く。
水色の瞳が僕を見ていた。
今までのどの幻よりも、本物らしかった。
右手の親指が、左手の指を一度だけ撫でる。
言いにくいことを伝える前、レイシアが無意識にする小さな仕草だった。
僕の顔を見て、瞳がかすかに揺れる。
傷つけたいわけではない。
嫌っているわけでも、嘲っているわけでもない。
それでも、僕に合わせて言葉を変えようとはしなかった。
「アルト」
名前を呼んだあと、レイシアは一度息を吸った。
「私、アルトを愛してない」
胸の内側が、音もなく裂けた。
痛みが遅れて全身へ広がる。
呼吸の仕方が分からなくなり、指先から熱が失われていく。
違う。
これは幻だ。
本物のレイシアではない。
そう言えば、この場面だけなら退けられる。
けれど、言葉は喉で止まった。
最初のレイシアを偽物だと見抜いたのは、僕の望みしか持っていなかったからだ。
なら、今ここにいるレイシアを、僕を愛さないという理由だけで偽物だと決めれば、どうなる。
僕がレイシアだと認められるのは、僕を選び、僕を必要とし、僕のそばへ残る人だけになってしまう。
そんなものを、自由な一人の人間を愛していると言えるのか。
分からない。
それでも愛している。
離れてほしくない。
その気持ちと、彼女の意思を奪いたくないという気持ちの、どちらも消えなかった。
レイシアが背を向ける。
淡い髪が遅れて揺れ、廊下の奥にある玄関へ向かって歩き始めた。
一歩。
古い床板が小さく鳴る。
もう一歩。
足音が遠ざかるたび、胸の裂け目が広がっていく。
僕は手を伸ばした。
指先の向こうに、レイシアの背中がある。
走れば追いつける。
腕を掴み、行かないでくれと言うこともできる。
けれど、足は動かなかった。
伸ばした指も、レイシアの髪へ届く前に止まる。
行かないで、と命じる声は出せなかった。
レイシアが玄関の扉へ手をかける。
蝶番が軋み、ゆっくりと扉が開いた。
白い光が差し込む。
廊下の床を。
レイシアの足元を。
届かなかった僕の手を、白く塗りつぶしていく。
輪郭が光へ溶ける直前まで、レイシアは振り返らなかった。
僕にも答えは出なかった。
ただ、どこからともなく、アスモリーナの穏やかな声が響いた。
『それでも彼女の自由を愛せるのですか?』
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
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面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
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