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『属性適性なしの学院最下位、迷宮で見捨てられた僕は七罪の魔神と契約する ~最強英雄になった幼なじみに追いつくまで~  作者: ドキツトム


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第225話「愛を疑う幻」

「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!


例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』


皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!



 パンが焼ける匂いで、僕は目を覚ました。


 香ばしくて、少し甘い匂い。


 遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえる。


 廊下を駆ける足音。誰かが椅子を引きずる音。開いた窓から入り込んだ風が、薄いカーテンをふわりと持ち上げていた。


 剣戟もない。


 警鐘も、誰かの悲鳴もない。


「……ここは」


 身を起こすと、小さな寝台が軋んだ。


 梁に走る木目。壁に残った古い傷。窓枠の端に刻まれた、子どもの背丈を測った印。


 どれも、忘れるはずのないものだった。


 ロウェル孤児院。


 僕とレイシアが育った場所。


 胸の奥で固く結ばれていた何かが、ゆっくりとほどけていく。


 寝台から下り、窓辺へ歩いた。


 庭の向こうにあったはずの訓練場は、菜園へ変わっていた。


 剣を振るために踏み固められていた土には、青々とした葉が列を作っている。朝露をのせた豆の蔓が支柱へ巻きつき、赤い実をつけた野菜の間を、小さな子どもがじょうろを抱えて歩いていた。


 窓ガラスに映る僕は、記憶の中より少しだけ成長している。


 肩は広くなり、手には剣だこが残っていた。


 けれど、左腕に黒い紋章はない。


 傷も、封魔具もない。


「アルト」


 名前を呼ばれて振り返った。


 戸口に、レイシアが立っていた。


 淡い銀青の髪を肩の前へ流し、白いエプロンをつけている。長い耳の先を、朝日が薄く透かしていた。


 澄んだ水色の瞳が僕を見つめる。


 次の瞬間、レイシアは駆け寄ってきた。


「やっと起きた」


 僕の右手を両手で包み、そのまま指を絡める。


 触れた手は温かかった。


 かすかな石鹸の匂いも、髪が頬をくすぐる感触も、僕が知っているレイシアそのものだった。


「おかえり、アルト。もう、どこにも行かなくていいよ」


 その一言を聞いた途端、息が震えた。


 僕は帰ってきたのだと思った。


 どこから帰ってきたのかは、うまく思い出せない。


 長い間、暗い道を走っていた気がする。


 誰かの命に間に合わなくなることを恐れ、届かない背中へ手を伸ばし続けていた。


 でも、もう走らなくていい。


 レイシアがここにいる。


「ただいま、レイシア」


「うん。おかえり」


 握られた手を、僕も強く握り返した。


 レイシアは満足そうに笑うと、僕の肩へ額を寄せた。


「遅いよ。ずっと待ってたんだから」


「ごめん」


「本当に寂しかったんだよ」


「うん」


「もう勝手にいなくならないでね」


「約束する」


 口にした途端、不思議なくらい心が軽くなった。


 ここには戦場がない。


 魔神も、騎士団も、世界の命運もない。


 僕が守らなければならないものは、もう目の前にある。


 食堂へ入ると、焼きたての丸パンが籠いっぱいに積まれていた。


 温かな湯気を立てる野菜のスープ。焦げ目のついた卵。窓際には切ったばかりの林檎が並び、甘い香りが漂っている。


 子どもたちが僕を見つけ、一斉に名前を呼んだ。


「アルト兄ちゃん!」


「やっと起きた!」


「ねえ、昨日の話、聞いて!」


 四方から袖を引かれ、椅子へ押し込まれる。


 庭で大きな芋虫を見つけたこと。


 乳歯が抜けたこと。


 怖い夢を見たけれど、隣の子と手を繋いだら眠れたこと。


 どれも、命を懸けなくていい問題だった。


 僕は一つずつ話を聞き、芋虫は素手で掴まない方がいいと約束させた。


「アルト、パンには何をつける?」


 レイシアが二つの瓶を持ち上げる。


「林檎のジャムと蜂蜜」


「じゃあ、林檎のジャムにしようかな。レイシアは?」


「私も林檎」


 レイシアがすぐに答えた。


 同じものを選んだ。


 ただそれだけのことが、妙に嬉しかった。


 壁には、僕の片手剣が掛けられている。


 特別な由来のない、普通の剣。


 鞘には薄く埃が積もり、長い間、誰にも触れられていないことが分かった。


 その隣の外套掛けは空だった。


 神下ろしの聖剣もない。


 水蝶騎士団の青い外套も、団長章もない。


 けれど、その空白を見ても不安にはならなかった。


 必要がなくなったのだ。


 レイシアが剣を持たずにいられる世界へ、ようやく辿り着けた。


「アルト、レイシア! いる?」


 明るい声とともに、玄関の扉が開いた。


 ティアナが大きな籠を抱えて入ってくる。


 蜂蜜色の髪には畑の葉が一枚ついていて、籠の中には形の不揃いな人参や、丸々とした南瓜が詰まっていた。


「今朝採れた分、持ってきたよ。こっちの曲がった人参も甘いから、見た目だけで避けないように言っておいてね」


「ありがとう、ティアナ。それと、葉っぱも持ってきてるよ」


「葉っぱ?」


 髪についていた葉を取って見せると、ティアナは目を丸くした。


「これは畑仕事を頑張った証拠。たぶん」


 その後ろでは、フィアがいつの間にか床へ座っていた。


 子どもから壊れた木の鳥を受け取り、外れた片翼をじっと見ている。


「直せる?」


「軸が曲がってる」


 短く答え、細い針金を抜く。


 迷いのない手つきで軸を直し、羽根の位置を合わせた。


 木の鳥が再び両翼を動かすと、フィアはそれを子どもへ返した。


「直った」


「すごい!」


 歓声を上げる子どもの横で、フィアはほんの少しだけ口元を緩めた。


 庭へ出ると、セルフィナが風の精霊たちと花壇の手入れをしていた。


 小さな精霊が運んできた雫を、セルフィナが乾いた根元へ落としている。


「西側の土は、今朝の時点で水分が不足しています。これは確認できた事実です」


 セルフィナは土を指でほぐし、空を見上げた。


「雲の流れから判断すると、明日は雨になる可能性が高いでしょう。ただし予測ですので、夕方にも確認します」


「僕も手伝うよ」


「ありがとうございます。ですが、その前に玄関をご覧になった方がよいと思います」


 直後、荷車の車輪が石を踏む音がした。


 レグルスが物資を積んだ荷車を引き、門をくぐってくる。


 白金の髪に汗を光らせながらも、背筋はいつもどおり真っ直ぐだった。


「ちょうどいいところにいたね、アルト。小麦袋が十二、干し肉が四箱だ。鐘が鳴るまでに、どちらが多く倉庫へ運べるか競わないか?」


「荷下ろしまで競争にするの?」


「平和になったからといって、僕が君に負けていい理由にはならないよ」


 穏やかな口調とは裏腹に、紫の瞳には変わらない負けん気がある。


「分かった。重い方を選んで後悔しても知らないよ」


「君こそ、先に言い訳を考えておくといい」


 ティアナが呆れたように笑う。


 フィアは僕たちを一度だけ見て、


「子ども」


 と呟いた。


 誰も欠けていない。


 誰も傷ついていない。


 みんなが自分らしい顔で、朝の光の中に立っている。


 その光景を見ているだけで、胸の奥が熱くなった。


 これでいい。


 僕が欲しかったのは、きっとこれだった。


 昼前には荷下ろしも終わり、僕たちは食堂へ戻った。


 レイシアが冷たい果実水を注いでくれる。


 水差しの表面を滑った雫が、机に小さな輪を作った。


「午後は何をするの?」


「菜園の柵を直そうと思う。昨日、子どもが隙間から外へ出ようとしたみたいだから」


「じゃあ、私も手伝う」


「レイシアはパンの仕込みがあるんじゃなかった?」


「アルトが柵を直すなら、私も一緒に直すよ」


 言葉は優しい。


 笑顔も穏やかだった。


 けれど、胸の内側に小さな違和感が残った。


「……今日は、一緒に孤児院にいてほしい」


 僕は確かめるように言った。


「うん。ずっとアルトと一緒にいるよ」


 一瞬の迷いもない。


 嬉しいはずの返事だった。


 昔のレイシアなら、頬を緩ませて僕の腕へ抱きついただろう。


 けれど、その後できっと言う。


 どうして急にそんなことを言うの。


 何か隠しているんじゃないの。


 勝手に一人で危ないことをしようとしていないよね、と。


 僕の願いを喜びながらも、その理由を聞こうとする。


 それが、レイシアだった。


「レイシア」


「何?」


「騎士へ戻りたいとは思わないの?」


 窓の外で、風が豆の葉を揺らした。


「アルトが望まないなら、戻らないよ」


「僕のことは関係ない。レイシアが騎士として生きたいなら、戻った方がいい」


 わざと、反対のことを言った。


 困らせたいわけではない。


 ただ、否定してほしかった。


 怒ってもいい。


 勝手に決めないで、と眉を寄せてくれればよかった。


 けれど、レイシアは同じ笑顔のまま頷いた。


「うん。アルトがそう思うなら、戻るよ」


「そうじゃない」


 思ったより低い声が出た。


「僕がどうしてほしいかじゃない。レイシアは、どうしたいの?」


 水色の瞳が僕を映している。


 けれど、その奥には何もなかった。


 怒りも、寂しさも、迷いもない。


「私は、アルトが望むことを望むよ」


 僕は、握っていたレイシアの手を離した。


 温かさが指の間から抜け落ちる。


 レイシアは手を離された理由すら尋ねない。


 本物のレイシアは、こんなふうに笑わない。


 僕が無茶をすれば怒る。


 傷を小さく報告すれば、本気で叱る。


 離れたくないと泣くこともある。


 それでも、自分が行くべきだと決めた場所へは、自分の足で向かう。


 僕の言葉がなければ、自分の望みさえ持てない人ではない。


「違う」


 僕の声だけが、静かな食堂に落ちた。


「君は、レイシアじゃない」


 その瞬間、すべてが止まった。


 窓から入っていた風が消える。


 持ち上がっていたカーテンが、宙で固まった。


 庭の葉も、子どもの髪も動かない。


 食堂の奥で笑っていた子どもたちは口を開いたまま静止し、鍋から立ち上る湯気さえ、白い筋になって止まっていた。


 音が一つもない。


 机の上の水差しへ目を落とす。


 曲面に映っていたのは、僕でも、レイシアでもなかった。


 見知らぬほど整った微笑みを浮かべ、アスモリーナがこちらを見ている。


 窓ガラスにも。


 銀の匙にも。


 止まった水滴の一つ一つにも、同じ姿が映っていた。


「お気に召しませんでしたか?」


 穏やかな声だった。


「あなたを愛し、あなたへ逆らわず、決して離れていかないレイシアです」


「こんなのはレイシアじゃない」


「あなたが守りたかった彼女ですよ。剣を持たず、傷つかず、あなたの帰りだけを待っている」


「僕は、レイシアから全部を奪って守りたいわけじゃない」


「では、愛する相手を自分だけのものにしたいと思ったことは、一度もありませんか?」


「ない」


 即答した。


 けれど、声がわずかに硬くなった。


「本当に?」


 水差しの中で、アスモリーナが首を傾げる。


「神下ろしの聖剣はありません。水蝶騎士団の外套も、公務を告げる書簡も、帰りを待つ団員の姿もない。彼女が積み重ねた責任も、仲間との結びつきも、この家の外へ置いてきたようですね」


 壁の剣に積もった埃が、急に濃く見えた。


「戦わなくていい世界なら、剣は必要ないはずだ」


「ええ。剣は必要ないかもしれません」


 銀の匙に映ったアスモリーナが、静かに微笑む。


「ですが、彼女自身の選択まで必要なくなるのでしょうか」


 隣にいるレイシアは、僕が手を離しても同じ表情を保っていた。


 寂しがりもしない。


 理由も尋ねない。


 僕がもう一度手を差し出せば、きっと握る。


 背を向けろと言えば、何も聞かずに背を向ける。


 それはレイシアの顔をしているだけの、僕にとって都合のいい誰かだった。


「あなたの理想の未来には、彼女の笑顔がある。けれど、彼女自身の願いはありません」


「違う。これは僕の理想なんかじゃない」


「すべてがそうだとは申しておりません」


 アスモリーナの声には、嘲りも責める響きもなかった。


「これは未来ではありません。あなたの記憶、願い、恐れから形を得た一つの可能性にすぎません。ただ――何を残し、何を消せば、あなたが安らげるのかを映しただけです」


 水差しの雫が横へ流れた。


 机の木目が、石畳の継ぎ目へ変わっていく。


 床が端から冷たい灰色に塗り替えられ、壁の外套掛けに深い青の布が現れた。


 止まっていた湯気は白い朝靄となって広がる。


 その向こうで、巨大な門が軋んだ。


 菜園の支柱は騎士たちの槍へ。


 子どもたちの影は、出立を待つ人々へ変わっていく。


 僕は王都の出発門に立っていた。


 目の前にいるレイシアは、水蝶騎士団の外套をまとっていた。


 腰には、神下ろしの聖剣。


 先ほどまでのレイシアより、ずっと本物に見えた。


 外套の留め具へ伸ばした指が、ほんの少し震えている。


 その震えを隠すように指を握り、呼吸を整えてから、レイシアは僕を見た。


 水色の瞳には迷いがあった。


 それでも、その迷いを誰かへ預けず、自分で抱えて立っている。


「遠い場所なの?」


「うん。しばらくは戻れない」


 レイシアは一度だけ、門の外へ目を向けた。


「危険な任務だよ。でも、私が行けば守れる人たちがいる」


 守るべき人がいるのなら、レイシアは行く。


 僕が寂しがると分かっていても。


 自分が背負うと決めたもののために、剣を取る。


「行かないでほしい」


 口から落ちた言葉は、子どもの頃と何も変わらなかった。


 レイシアの眉が、かすかに寄る。


 すぐには頷かなかった。


 唇を開き、閉じる。


 僕へ伸びかけた指を途中で止め、胸元で強く握った。


「私だって、アルトと離れたくないよ」


 声が少しだけ震えている。


「だったら――」


「でも、行く」


 僕の言葉を遮り、レイシアは顔を上げた。


「ごめん。私は騎士だからじゃない。私が行きたいって決めたから、行くよ」


 胸の奥へ、細い刃が入ったようだった。


 行くべきだと思う。


 レイシアが自分で選んだのなら、それを尊重したい。


 そう思う僕と、門を閉めてしまいたい僕が、同じ胸の中にいる。


「……分かった」


 ようやく、それだけを絞り出した。


 レイシアは悲しそうに微笑み、僕の横を通り過ぎた。


 外套の裾が、手の甲へ触れる。


 反射的に指を曲げた。


 けれど、布は掴めずに離れていった。


 レイシアの足音へ、騎士たちの足音が重なる。


 青い外套が、白い靄の向こうへ遠ざかっていく。


 やがて、その外套が再び近づいてきた。


 戻ってきたレイシアの立ち方は、以前より強く、静かだった。


 外套には旅の汚れが残っている。


 聖剣の鞘にも、新しい傷が増えていた。


 それでも、レイシア自身は誰にも支えられず、まっすぐ自分の足で立っていた。


「もう、アルトに守ってもらわなくても大丈夫だよ」


 穏やかな言葉だった。


 喜ぶべきだと思った。


 レイシアが傷つかず、自分の足で立てるようになった。


 僕がずっと願ってきたことのはずだった。


 なのに、胸の中にぽっかりと穴が開く。


 守らなくていいという言葉が、僕の居場所までなくなったように聞こえた。


「僕がいなくても?」


「うん」


 レイシアは少し迷ってから、頷いた。


 その迷いが、かえって苦しかった。


 僕を傷つけないための答えではない。


 自分で選び、僕の痛みも見たうえで、それでも告げた答えだった。


 足元の石畳を、薄い水が流れ始める。


 水面に映る僕の姿だけが揺れ、レイシアの姿は揺れなかった。


 青い外套の傍らへ、もう一つの影が伸びてくる。


 逆光の中に、誰かが立っていた。


 顔も、名前も、立場も分からない。


 レイシアが、その人の隣へ並ぶ。


 相手が誰なのかは、どうでもよかった。


 強さの比較でも、共に過ごした時間の比較でもない。


 レイシアが僕の方を向く。


 その表情に罪悪感も、憎しみもない。


 ただ、自分で決めたことを僕へ伝えようとする、静かな覚悟だけがあった。


「私、この人と生きていくって決めたの」


 喉が閉じた。


 息を吸ったはずなのに、胸まで届かない。


 顔もない影ではなく、その隣を選んで立つレイシアだけが目に入った。


「彼女は生きています」


 どこにも姿のないアスモリーナの声が、水面から響く。


「傷ついてもいません。自分の意思で道を選び、穏やかに笑っている。あなたが望んだとおり、幸せになったのではありませんか?」


 違う、と言いかけた。


 けれど、何が違うのか言葉にできなかった。


 レイシアは生きている。


 僕が何度も失うことを恐れた人が、目の前で息をしている。


 聖剣を握る指も、微笑む唇も、どこにも傷はない。


 それでも、痛かった。


 僕が欲しかったのはレイシアの命だった。


 彼女の笑顔だった。


 そのはずなのに。


 その人生の中に、僕がいることまで求めていた。


 生きて、僕の名前を呼んでほしかった。


 困ったときには僕を頼り、嬉しいときには僕へ一番に知らせてほしかった。


 最後に選ぶ場所が、僕の隣であってほしかった。


「僕は……」


 声が掠れた。


 それを認めれば、これまで口にしてきた「守りたい」という言葉まで汚れてしまう気がした。


 でも、違う。


 守りたい気持ちは嘘ではなかった。


 レイシアが傷つけば、僕も痛かった。


 危険が迫れば、見返りなど考えるより先に身体が動いた。


 それでも、そこに何一つ別の願いが混じっていなかったとは、もう言い切れない。


「僕が怖かったのは、レイシアの死だけじゃない」


 一つずつ、胸の奥から言葉を拾った。


「僕を必要としなくなることも怖かった。僕がいなくても幸せに生きられるようになって……最後には、僕を選ばなくなることが怖かったんだ」


 言葉にした途端、水面が黒く染まった。


 レイシアの隣にいた影も、王都の門も沈んでいく。


 黒い水の向こうから、鋭い光が走った。


 次に見えたのは、僕へ向かって手を伸ばすレイシアだった。


 その背後で、崩れ落ちる石の影が膨らんでいる。


 危ない。


 そう思った瞬間には、僕はレイシアを突き飛ばしていた。


 胸を貫くような衝撃。


 音が遠のき、膝から力が抜ける。


 冷たい床へ倒れながら、無事なレイシアの姿が見えた。


 よかった。


 その安堵に、嘘はなかった。


「アルト!」


 僕の名前を呼ぶ声を最後に、視界が暗くなる。


 暗闇が晴れたとき、僕は再びロウェル孤児院に立っていた。


 けれど、最初にあった朝の温かさはない。


 曇った窓から白い光が差し込み、食堂の隅に一脚だけ空の椅子が置かれている。


 僕がいつも座っていた椅子だった。


 机の上には、使われていない木の皿と、取っ手の欠けたカップ。


 誰も座らない席なのに、毎朝、同じ場所へ並べられているらしい。


 埃だけは、きれいに拭われていた。


 レイシアが皿へパンを一つ置く。


 自分の分には手をつけず、空席を見つめている。


 場面が夕暮れへにじんだ。


 孤児院の裏手にある、小さな墓。


 その前で、レイシアが膝をついていた。


 墓石には、僕の名前が刻まれている。


 根元には季節の違う花が幾重にも重なり、土には何度も膝をついた跡が残っていた。


「アルトが私のために死んだのに、私だけ幸せになんてなれないよ」


 レイシアの声は静かだった。


 泣き崩れてはいない。


 だからこそ、その言葉が一日だけの悲しみではなく、ずっと続いてきたものだと分かった。


「あなたは彼女の命を救いました」


 墓石の濡れた表面に、アスモリーナが映っている。


「そして、その後の人生を、あなたの死と後悔へ結びつけた」


「違う」


 僕は墓石へ近づいた。


 レイシアの肩に触れようとしても、指は幻のように通り抜ける。


「僕は、こんなことを望んでいない。ただ、生きてほしかったんだ」


「ええ。その瞬間、あなたが願ったのは彼女の生でしょう。そこに偽りがあったとは申しません」


「だったら……」


「ですが、純粋な願いの中へ、別の願いが混じることはないのでしょうか?」


 空席。


 毎朝置かれる食器。


 誰よりも深く僕を知るレイシアなら、僕が命を懸けた意味を忘れない。


 僕がいなくなっても、レイシアの心には残れる。


 僕の死を知れば、僕がどれほど大切にしていたか、疑わずに済む。


 そんな考えが、死への恐怖を一瞬でも慰めたことはなかったか。


「僕は、そんな計算で庇ったんじゃない」


「承知しております」


 否定されなかったことが、かえって苦しかった。


「彼女を縛る方法を考えて、命を投げ出したわけではない。あなたの身体は、本当に彼女を救うために動いたのでしょう」


 墓石の上を、雨粒がゆっくりと滑る。


「ですが、忘れられたくないという恐れも、必要とされ続けたいという願いも、同じあなたの中にある。それらが同居しているからといって、守りたい気持ちまで偽物になるわけではありません」


 僕は答えられなかった。


 すべてが偽りだと言われたなら、否定できた。


 僕は本当にレイシアを助けたい。


 そのことだけは揺らがない。


 けれど、その本物の思いが、たった一つの感情だけでできているとは言えなかった。


 命を懸けた僕を、レイシアだけは忘れない。


 死んでも、その心の中にはいられる。


 そんな願いが胸の暗い場所に潜んでいなかったと、どうして断言できる。


「では、あなたを忘れ、別の誰かと幸せになる彼女を、心から喜べますか?」


 唇を開く。


 息だけが漏れ、声にはならなかった。


 忘れてほしくない。


 そう思ってしまった。


 僕のために一生泣いてほしいわけではない。


 空の皿を並べ、墓前で時間を止めてほしいはずがない。


 それなのに、僕のいない場所で、僕を思い出すこともなく笑うレイシアを想像すると、胸が冷たくなる。


 僕は膝をつき、空席へ続く泥の跡を見た。


 守ったはずの命を、僕の死で閉じ込めてしまう。


 その可能性を、今まで考えたことがなかった。


 墓石の文字が雨に溶ける。


 花の色が抜け、空の椅子も食器も、孤児院の壁さえ黒い水へ沈んでいく。


 最後に残ったのは、薄暗い廊下だった。


 幼い頃、何度も走ったロウェル孤児院の廊下。


 けれど、朝のパンの匂いはしない。


 子どもたちの声も、窓を揺らす風もない。


 古い板張りの床は冷え、閉じた玄関扉の隙間から、細い灰色の光が伸びていた。


 廊下の中央に、レイシアが立っている。


 外套も、聖剣もない。


 淡い銀青の髪が、呼吸に合わせてわずかに動く。


 水色の瞳が僕を見ていた。


 今までのどの幻よりも、本物らしかった。


 右手の親指が、左手の指を一度だけ撫でる。


 言いにくいことを伝える前、レイシアが無意識にする小さな仕草だった。


 僕の顔を見て、瞳がかすかに揺れる。


 傷つけたいわけではない。


 嫌っているわけでも、嘲っているわけでもない。


 それでも、僕に合わせて言葉を変えようとはしなかった。


「アルト」


 名前を呼んだあと、レイシアは一度息を吸った。


「私、アルトを愛してない」


 胸の内側が、音もなく裂けた。


 痛みが遅れて全身へ広がる。


 呼吸の仕方が分からなくなり、指先から熱が失われていく。


 違う。


 これは幻だ。


 本物のレイシアではない。


 そう言えば、この場面だけなら退けられる。


 けれど、言葉は喉で止まった。


 最初のレイシアを偽物だと見抜いたのは、僕の望みしか持っていなかったからだ。


 なら、今ここにいるレイシアを、僕を愛さないという理由だけで偽物だと決めれば、どうなる。


 僕がレイシアだと認められるのは、僕を選び、僕を必要とし、僕のそばへ残る人だけになってしまう。


 そんなものを、自由な一人の人間を愛していると言えるのか。


 分からない。


 それでも愛している。


 離れてほしくない。


 その気持ちと、彼女の意思を奪いたくないという気持ちの、どちらも消えなかった。


 レイシアが背を向ける。


 淡い髪が遅れて揺れ、廊下の奥にある玄関へ向かって歩き始めた。


 一歩。


 古い床板が小さく鳴る。


 もう一歩。


 足音が遠ざかるたび、胸の裂け目が広がっていく。


 僕は手を伸ばした。


 指先の向こうに、レイシアの背中がある。


 走れば追いつける。


 腕を掴み、行かないでくれと言うこともできる。


 けれど、足は動かなかった。


 伸ばした指も、レイシアの髪へ届く前に止まる。


 行かないで、と命じる声は出せなかった。


 レイシアが玄関の扉へ手をかける。


 蝶番が軋み、ゆっくりと扉が開いた。


 白い光が差し込む。


 廊下の床を。


 レイシアの足元を。


 届かなかった僕の手を、白く塗りつぶしていく。


 輪郭が光へ溶ける直前まで、レイシアは振り返らなかった。


 僕にも答えは出なかった。


 ただ、どこからともなく、アスモリーナの穏やかな声が響いた。


『それでも彼女の自由を愛せるのですか?』

 「面白かった!」


 「続きが気になる、読みたい!」


 「今後どうなるの!!」


 と思ったら


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 面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!


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