第224話「囚人の理解」
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例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
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アルトが姿を消してから、九か月が過ぎようとしていた。
夜明け前の影蛇騎士団本部は、地上よりも冷える。
地下搬入口の鉄扉が開き、無地の棺が運び込まれた。騎士団の紋章も、王国旗もない。雨に濡れた黒い木箱にしか見えないそれを、三人の騎士が音を立てぬよう床へ下ろした。
留め金を外す。
中に横たわっていたのは、エドガー・ノイルだった。
胸元まで掛けられた布の端には、まだ乾ききっていない血が滲んでいる。右手の指は焼け、爪の隙間に青白い術式灰が固まっていた。
「報告を」
生還した騎士が背筋を伸ばす。
「星冠教団の転移中継術式は破壊されました。離脱路が崩れたため、ノイル三等騎士が我々を先行させ、一人で中継核を切断。逆流した魔力を正面から受けました」
「地上への流入は」
「切断から十一秒後に停止。旧水路への濁流到達前です」
壁面図には、地下中継路と旧水路が赤い線で重ねられていた。
地上では崩落に巻き込まれた住民を、水蝶騎士団が救助している。中継術式を残せば、溜め込まれた魔力が旧水路へ流れ込み、住民も救助隊も内側から焼き尽くされるはずだった。
エドガーが切った十一秒が、その結末を変えた。
「潜入経路は、まだ使えるか」
「はい。内部協力者二名も露見していません」
「ならば任務の存在を封じる」
迷いなく答えたつもりだった。
機密処理室で、私は五枚の書類へ目を通した。
潜入経路、生存した騎士、教団内部に残る情報網。そのどれか一つでも漏れれば、エドガーが命を懸けて逃がした者たちが殺される。
だから、公の勲章はない。騎士団葬も、王都への死亡発表も、任務を刻んだ墓碑も、英雄としての記事もない。
公的な記録に残るのは、ただ一行。
――任務中の事故死。
署名欄へ筆先を置く。黒いインクが紙へ丸く染み、そこで手が止まった。
この命令は必要だ。団長である私が、その必要性を誰より理解している。
理解しているから、拒めなかった。
サイラス、と書き終えた名の下で、インクの最後の一滴が鈍く光った。
棺を閉じる前、私は黒い糸を一本切り、左袖の内側へ結んだ。
名を隠して死んだ影蛇騎士を、せめて同じ影の者だけは忘れぬための弔糸だった。
◇
朝になってから、私はエドガーの母と妹を訪ねた。
応接卓の上で、出された茶だけが冷めていった。
任務中に死亡したこと。遺体は戻ったこと。詳細は国家機密に指定され、伝えられないこと。
話せる事実は、それだけだった。
母親は膝の上で両手を重ね、長いあいだ俯いていた。妹も声を上げず、兄が最後に送ってきた手紙の封を指でなぞっている。
「団長さん」
やがて、母親が顔を上げた。
「エドガーは、誰かを守れたのでしょうか」
救われた者の数も、地上で続く救助も口にできない。
「守った」
私は、それだけ答えた。
母親は目を閉じ、小さく頷いた。
「でしたら、あの子らしい最期だったのだと思います。けれど……どうか、名前だけは忘れないでやってください」
「忘れません」
誓いは口にできた。
その名を、国のどこにも残せない命令へ署名した手を、私は卓の下で握っていた。
◇
昼過ぎ、旧水路の周囲には数え切れない人が集まっていた。
遺族宅から本部へ戻る道が封鎖され、私は馬を降りた。直後、地下から水柱が立ち上がり、崩れかけた石壁を透明な膜で包み込む。
「西側の支柱を固定してください。第三班は負傷者を先に。水位を下げます」
澄んだ声が轟音を通り抜けた。
レイシア団長は旧水路の入口に立ち、幾重もの水の帯と結界を同時に操っていた。ひび割れへ水を浸透させて石材を支え、別の流れで瓦礫を持ち上げ、その隙間から住民を一人ずつ運び出していく。
救助された人数は、二百人を超えていた。
それでも彼女は地上へ戻らなかった。
最後の一人が担架へ移されたあとも、水の蝶を崩落区画の奥まで飛ばす。三度確認し、取り残された魔力反応がないと確かめてから、ようやく自ら入口を越えた。
銀青の髪は泥に濡れ、白い手袋の指先が裂けている。彼女の判断と力、部下へ届き続けた指示がなければ、誰一人として同じ形では帰れなかっただろう。
その瞬間、王都の鐘が鳴った。
歓声が石造りの街路を揺らし、数百の水の蝶が陽光を砕いて空へ舞う。
「水蝶!」
「レイシア団長!」
彼女は差し出された拡声晶へ、疲労を隠すように息を整えてから告げた。
「この救助は、水蝶騎士団だけで成し遂げたものではありません。他騎士団の方々と、名を申し上げられない協力者の働きがありました。どうか、すべての方へ感謝を」
誠実な言葉だった。
だが次の号外売りが叫んだのは、水蝶の奇跡だった。民衆が繰り返したのも、レイシアという名だけだった。
私の左袖には、黒い弔糸がある。
地下搬入口には、紋章のない棺がある。
同じ一日の出来事だと理解した途端、呼吸が浅くなった。
レイシア団長の偉業は本物だ。彼女は命を懸け、最後の一人まで見捨てなかった。
そしてエドガーが中継術式を断たなければ、その偉業を成し遂げる時間そのものが存在しなかった。
二つの功績は、同じ命を救っている。
それでも片方には王都中の鐘が鳴り、もう片方には一行の事故記録しか残らない。
◇
拘束施設の最下層に、鐘の音は届かなかった。
ローデン評議官は封魔枷を両手にはめ、机を挟んで座っていた。背後の壁を走る鉄格子の影が、灰色の囚人服を細く切り分けている。
「旧地下網に残された転移術式について尋ねる。接続先はどこだ」
「存じません」
「術式の構築責任者は」
「お答えできることはありません」
二つ目の問いを終え、私は記録紙へ視線を落とした。
いつもなら認証経路、物資搬入、術式保守の三方向から同じ質問を重ねる。今日は言葉を組み立てることが煩わしかった。
「部下を亡くされたのですね」
顔を上げる。
ローデン評議官の視線は、私の左手に向いていた。
「何を根拠に」
「袖の内側から黒い糸が見えています。影蛇騎士が、表で弔えない同胞のために結ぶものだと、監査官時代に記録で読みました。それに、今日のあなたは質問が短い。任務上の失敗なら、もっと細かく事実を求める方です」
推測に過ぎない。
それでも、その推測は私が隠していた場所へ正確に触れた。
「尋問と関係のない話だ」
「ええ。亡くなった方が今日の鐘に関わるとも、私は申し上げておりません」
鉄格子の向こうで、ローデン評議官は姿勢を変えない。
「国には、民衆が目で見ることのできる希望が必要です。帳簿にも残せない働きを信じろと求めても、人々は明日を生きられません。レイシア団長がその役割を果たしていること自体は、正しいのでしょう」
「彼女は役割だけで人を救ったのではない」
「承知しています。実力も、覚悟もお持ちだ」
否定しないまま、彼は続けた。
「ですが、あなたの部下は国を救っても、誰にも名前を知られない。レイシア団長は立っているだけで、希望と呼ばれる」
「私へ、彼女を攻撃させるつもりか」
机の下で、指がわずかに動いた。
「彼女を傷つけるつもりはない。レイシア団長の救助を否定するつもりもない。私の部下の死を、彼女を攻撃する理由にはしない」
「私は一度も、彼女を傷つけろとは申しておりません」
返答には熱も嘲りもなかった。
「誰が正しく、誰が間違っているかという話ではないのです。国は、見える場所へ立たせる英雄と、見えない場所で失ってよい道具を、初めから分けているのではないか。私はそう尋ねただけです」
「言葉で事実の繋がりを変えるな。機密は生存者を守るためにある」
「そのとおりです。だからこそ、あなたは怒る相手を持てない」
反論は喉まで出て、止まった。
機密処理は必要だった。レイシア団長も何も奪っていない。ならば、この胸に残る理不尽さは、どこへ向ければいい。
ローデン評議官は、答えを与えなかった。
ただ、別の名を口にした。
「ベルフェナス因子」
「何だ、それは」
「私の説明を信じる必要はありません。ご自身の目で、王国の保管記録を確かめればよい。制度が何を隠し、誰の認証で隠したのか。その名を検索すれば、少なくとも私の言葉がすべて嘘かどうかは分かります」
「尋問されているのは、お前だ」
「ええ。ですから、信じていただこうとは思っておりません」
ローデン評議官は、それ以上語らなかった。
私が立ち上がっても、笑みさえ浮かべない。
牢を出る前、私は一度だけ鉄格子を振り返った。
囚人は、もうこちらを見ていなかった。
◇
夕刻、封印を解かれた私物を届けるため、私は再びエドガーの家を訪ねた。
扉へ近づいたところで、中から女の声が聞こえた。
「許可された範囲でしか、お伝えすることはできません。それでも、これだけは私自身の言葉で申し上げたかったのです」
開いた扉の先で、レイシア団長が白い花を卓上へ置いた。
名もない野の花だった。
「エドガー・ノイルが繋いでくださった時間がなければ、私はあの方々を連れて帰れませんでした。私は、彼の名前を忘れません」
水蝶騎士団の紋章は、濃紺の外套で隠されていた。
護衛も、記録官も、報道役もいない。外には見物人すらおらず、彼女は一人で母親と妹へ頭を下げた。
やがて家を出た彼女と、門の前で向かい合う。
「正式な許可は得ています」
私が問う前に、レイシア団長は答えた。
「騎士団長統括と機密管理官から、接触可能な範囲も指定されています。任務の内容は話していません」
「同情ですか」
「いいえ。騎士としての敬意です。エドガー・ノイルは、私が忘れてはならない方です」
水色の瞳に、偽りは見つからなかった。
彼女の敬意は本物だ。
アルトが失踪してから九か月、捜索申請へ一日も欠かさず署名しながら、公務も救助も止めていない。その目の下には薄い影があり、外套を押さえる指もわずかに震えていた。
それでも、母と妹の前では自分の疲労を一度も口にしなかったのだろう。
「失礼します、サイラス団長」
頭を下げて去る背を、私は見送った。
正しい敬意を、正しいものとして受け取ればよかった。
だが、牢で聞いた言葉が、その光景へ別の輪郭を与えていた。
十分な名誉を持つ者が、余った称賛を名も残らない者へ分け与えている。
彼女は頭を下げても、英雄の冠を失わない。
そう考えることが、レイシア団長へ不公平だとは分かっていた。彼女は今日、何一つ間違えていない。
自分の見方の醜さを認めた瞬間、私は誰にも話せなくなった。
◇
深夜、影蛇騎士団の機密書庫へ入った。
ローデン評議官を信じたわけではない。
あの囚人の言葉が嘘だと、自分の目で証明するためだ。
記録端末へ団長印を置き、検索欄に名を刻む。
――ベルフェナス因子。
間もなく、王国最高機密を示す黒い封印格子が画面を覆った。
通常権限で開けたのは概要だけだった。
ベルフェナス因子は、王都地下の封印庫に保管されている。能力、由来、適合条件は、いずれも最高機密として伏せられていた。
だが、封印へ外部から接触を試みた痕跡が、過去に複数回ある。
接触術式の残滓は、星冠教団のものと一致。
さらに、その接触記録の一部は、外部侵入ではなく王国の正規認証によって削除されていた。
ローデン評議官一人を拘束して終わる話ではない。
制度の内側に、まだ協力者がいる可能性がある。
詳細記録は閉ざされていた。閲覧には騎士団長統括、または複数団長の承認が必要となる。
私は承認者一覧を閉じた。
代わりに選んだのは、差し迫った敵対工作を調査するときにのみ許される、緊急防諜権限だった。
画面が赤く変わる。
――職務範囲外。
――単独閲覧禁止。
――複写禁止。
――アクセス履歴は監査記録へ保存される。
指が、警告画面の前で止まった。
統括へ報告すべきだ。
複数団長を集め、正規の承認を待つべきだ。
だが、その間にも内部協力者が記録を消せば、また誰かが、名前も残せず死ぬかもしれない。
私は自分の団長印で、緊急閲覧を承認した。
他人の認証は使わない。監査記録も消さない。履歴を偽る操作にも触れなかった。
敵対工作を調べているのだから、残すべき記録だと本気で考えていた。
影蛇騎士団の暗号記録晶を端末へ差し込む。
保管場所。過去の封印履歴。星冠教団による接触記録。削除に用いられた正規認証の痕跡。
四つの記録を選択すると、再び複写禁止の警告が浮かんだ。
私は無視した。
暗号記録晶の内部へ、青い光が一本ずつ満ちていく。
因子そのものを取り出すつもりはない。封印庫へ向かうつもりもない。ただ敵の計画を調べるためだ。
次の犠牲者を出さないためだ。
エドガーの死を無駄にしないためだ。
これは裏切りではなく、調査だ。
そう言い聞かせ、複写を終えた記録晶を懐へ収めた。
どれほど理由を正しく並べても、許可なく最高機密を持ち出した事実は変わらない。
私が初めて越えた一線は、剣を向ける音も、扉を壊す音もしなかった。
端末を消す。
黒くなった表面へ、封印格子に切り分けられた私の顔が映った。
その顔を見つめていると、牢を離れる前にローデン評議官から聞いた言葉が、脳裏に蘇った。
「努力が足りなかったのではない。努力で越えられないよう、最初から作られていたのです」
「面白かった!」
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