第223話「憤怒の答え」
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
『怒ることすら恐れる者が、憤怒を制御できるものか』
声が、赤い処刑場を揺らしていた。
僕は俯かなかった。
胸の奥には、喉を塞ぎ、触れるものすべてを傷つけたくなるような熱がある。怒りだと認めれば、また誰かを斬ってしまう気がして、ずっと名前をつけるのが怖かった。
けれど、名前をつけなくても怒りは消えない。僕の見えないところへ潜り、代わりに剣を握るだけだ。
「……僕は、怒っている」
口にした途端、足元が鳴った。
石床が裂け、赤い亀裂が走る。ついた掌へ、ざらついた石の冷たさが食い込んだ。床がせり上がり、壁が落ち、いくつもの場所が乱暴に縫い合わされていく。
群衆に囲まれた王都の処刑台。白い卓が並ぶ学院の査問室。祈祷文の刻まれた星冠教団の拘束室。そして、僕の身体と魂を何度も測られた黒い実験場。
四つの場所が血を滲ませるように繋がり、一つの巨大な処刑場になった。
焼けた鉄と灰、乾いた血の匂いが鼻の奥へ貼りつく。赤黒い炎の熱が顔を炙る一方で、床に触れた指先は凍えるほど冷たい。
立ち上がろうとした足を、重い鎖が引く。両手首と両足首だけでなく、冷えた鉄輪が首にも嵌まり、身じろぎするたび皮膚を擦った。
ここは幻だ。血も炎も現実のものではない。それでも、胸を焼く怒りまで偽物になるわけではなかった。
鎖の先を目で追う。
中央には僕の背丈より大きな鉄輪が立ち、無数の鎖が別々の牢へ伸びている。
正面の牢には、ローデン評議官がいた。
両腕を吊られても背筋は伸びている。その左右では、白い法衣の信徒たちが手枷と首輪で鉄格子へ繋がれていた。
別の牢には、レイシアがいる。
淡い銀青の髪は汚れ、両手は頭上で戒められていた。僕を見つめる水色の瞳に、胸を抉る痛みが浮かんでいる。
ティアナは鉄格子を掴んで唇を結び、フィアは細剣を奪われた右手を鎖に縛られている。レグルスは血のついた額を上げ、セルフィナのそばでは光を失った精霊たちが浮かんでいた。
誰も僕を罵らない。その沈黙が、かつて幻の中で彼らを斬った感触を指の骨にまで蘇らせた。
中央の鉄輪には《器》。
処刑台には《怪物》。
僕の膝元の石床には《役立たず》。
深く刻まれた三つの言葉から、どす黒い赤が滲んでいた。
「ようやく受け入れられたようですね」
ローデン評議官の声は穏やかだった。怯えも、命乞いもない。
「感情の発生は、器の稼働に伴う反応にすぎません。あなたの肉体も魂も、いずれ主を迎えるために調整されたものです。人間として扱う必要はない」
信徒たちが低く祈る。
「主の器」
「主の器」
腹の底で、熱が膨れた。
次の瞬間、轟音とともに処刑台へ一本の剣が落ちた。
石を割った刀身は、固まった血のように赤黒い。炎が空気を歪めても、柄の緑の紐だけは焼けずに残っていた。
ティアナが、僕の剣へ結んでくれた色。
《魔剣サタン》だった。
『取れ』
鎖が緩む。
『すべて斬れ』
僕は立ち上がり、処刑台へ歩いた。足首の鎖が石を引っ掻き、耳障りな音を立てる。
『器と呼ぶ者を』
ローデン評議官たちの牢に炎が灯る。
『失望させる者を』
レイシアと仲間たちの牢が赤く照らされる。
『最後に、お前を』
僕の足元で、《役立たず》の文字が脈打った。
『誰も残らぬ。もう裏切られぬ』
声は甘くない。逃げ道のない事実を告げるように重かった。
『失望も、裁きも、自責も消える』
怒る相手も、僕に失望する誰かも、僕を裁く誰かもいなくなる。怒っている僕自身まで消えれば、確かに怒りは残らない。
もう暗い拘束室で助けを待たず、遠ざかる足音に絶望せず、自分の過ちを夜ごと数えなくて済む。終わらせるだけなら、簡単だった。
僕は《魔剣サタン》の前で足を止めた。
「ローデン評議官。僕は、あなたに怒っている」
「僕の意思を奪った。身体も魂も勝手に使い、因子を刻んだ。僕の望みを一度も聞かず、人間ではなく《器》と呼んだ」
「一年を奪われた。その時間は、あなたを斬っても戻らない。だから今も許せない」
僕は次に、レイシアを見た。
胸が痛む。愛しい気持ちは、怒りを認めても揺らがない。大切だったからこそ、僕は彼女の名を何度も呼んだ。
「レイシアにも、怒っていた」
「もっと早く来てほしかった。どうして見つけてくれないんだって思った。僕よりも守らなきゃいけない誰かを選んで、僕のことは後にしたんじゃないかって……そんなことまで考えた」
レイシアは何年も魔法鏡へ言葉を送り、あの一年も探し続けてくれた。彼女に責任がないことは分かっている。それでも、もっと早く来てほしかった僕まで嘘にしたくなかった。
「君を愛している。それと、あの時間に怒っていたことは、どちらも本当だ」
レイシアは何も言わず、噛んでいた唇を震わせた。
ティアナたちへ顔を向ける。
「みんなにも怒っていた。どうして止めてくれなかったのか。どうして僕を連れ去らせたのか。どうして僕だけ置いていったのかって」
「理不尽だって分かっている。みんなが命を懸けて僕を止めようとしたことも知っている。それでも、鎖に繋がれていた僕の中に、その怒りは生まれた」
怒った事実を認めれば、仲間を有罪にしなければならない。僕はそう思い込んでいた。
でも違う。怒りは僕の感情だ。誰かの罪を決める証拠じゃない。
最後に刀身へ目を落とす。そこには歪んだ僕の顔があった。
「一番怒っているのは、僕自身かもしれない」
弱かった。
異変や危険を小さく報告し、自分だけで抱えた。そのせいで仲間を傷つけた。
過ぎた一年を取り戻せず、何かを守れないたび、僕は心の中で自分を《役立たず》と呼んだ。他の誰かより、ずっと多く。
『ならば斬れ』
《憤怒》の声が落ちる。
『己を裁け』
「それは責任を取ることじゃない」
僕は柄へ手を伸ばした。
触れた瞬間、灼熱が掌を貫いた。指が開きかけたとき、緑の紐が触れる。僕は柄を握り直した。
「自分を斬って消えるのは、生きて向き合うことから逃げるだけだ」
《魔剣サタン》を引き抜くと、赤黒い炎が吹き上がり、すべての鎖が張り詰めた。
試しにローデン評議官へ切っ先を向けると、床の溝に赤い光が走った。僕の腕を引くような力が剣へ加わり、彼の首輪へ一直線に刃を導こうとする。
レイシアへ向ければ別の溝が光り、手枷の鎖が彼女の首元へ巻きつく。
「アルト」
呼ばれた名に、僕は剣を止めた。
全員の鎖が中央の鉄輪に集まっている。
怒りを抱いた相手は有罪。有罪なら斬っていい。斬れない僕は役立たず。
この場所は、剣の先に人間を置き、怒りと判決を一本の鎖で繋いでいる。
教団は僕を《器》にし、僕を恐れた者は《怪物》という姿だけを見た。そして僕自身は、何もできなかった自分を《役立たず》へ閉じ込めた。
ローデン評議官も、仲間たちも、レイシアも、僕も。この処刑場では、罪人か処刑人という一つの役割しか与えられていない。
罪が消えるわけでも、裁きが不要になるわけでもない。けれど、僕の怒りだけで下すつもりはなかった。
「僕が斬るのは、人間じゃない」
剣を返し、自分の首へ伸びる鎖へ振り下ろす。
甲高い音が弾け、赤黒い刃は首輪のすぐ下で鎖の一節だけを断つ。炎は切断面を焼いたが、僕の皮膚へは触れなかった。
続けて両手、両足。四度の斬撃で鉄が床へ落ち、僕は自分の足で立った。
最初に、レイシアの牢へ向かう。
《魔剣サタン》を横薙ぎに振るった。
赤黒い軌跡が鉄格子だけを三本断ち、彼女の髪を熱風で揺らす。返す刃を肌と鉄の間だけへ通し、左右の手枷を落とした。白い手首に傷はなく、炎も足元で止まる。
ティアナの牢では、蔦のように絡んだ鎖の結び目だけを斬る。炎は緑金の瞳を照らしたが、鉄格子の向こうへ進まない。
フィアの鎖は、右手首へ負担をかけないよう二度に分けて断った。
レグルスの首輪は、背後の留め金だけを突き砕く。
セルフィナの牢では精霊の光を避け、細い炎で金属だけを溶断する。
鉄の厚さ。鎖の張り。人までの距離。炎が走る先。力任せに壊さず、一つずつ見た。
剣がどれほど怒りを燃やしても、斬る場所を決めるのは僕だ。五つの牢が崩れた。
僕は振り返り、ローデン評議官たちの牢へ歩く。
信徒の一人が身を硬くする。僕は牢の錠を斬り、続く斬撃で信徒たちの手枷と首輪だけを断った。
最後にローデン評議官の鎖を切る。床へ降りても、彼は頭を下げなかった。
「私を許すのですか」
「違う」
迷わず否定する。
「許したわけじゃない。あなたたちがしたことを、なかったことにもしない。現実へ戻れば、証拠を示して、正式な裁きを受けてもらう」
「ならば、ここで私を斬ることと何が違うのです」
「僕が怒っているから、僕一人で刑を決める。そんな裁きにはしない」
ローデン評議官の表情は変わらない。
「あなたを牢から出したのは、赦したからじゃない。この処刑場に、僕の剣の対象を決めさせないためだ」
感謝も謝罪もない。それでよかった。誰を許せば優しい人間になれるかを証明する場所ではない。
僕は中央の鉄輪へ向き直る。
「人間を一つの呼び名へ閉じ込める、この場所を斬る」
両手で《魔剣サタン》を構えた。
鉄輪から鎖が一斉に跳ね上がり、解放された全員の首と手足を再び捕らえようとした。
僕は、人ではなく全員の鎖が重なる鉄輪の中心へ踏み込む。
振り下ろした刃が、低く重い音を響かせる。
赤黒い亀裂が鉄輪を貫く。巨大な輪が二つに割れ、幾百もの鎖が力を失った。
凄まじい金属音が重なり、落ちた鎖の振動が靴底から膝へ突き上げる。
僕は《器》と刻まれた鉄輪の残骸を斬った。
《怪物》と刻まれた処刑台へ、刃を横一文字に走らせた。
最後に、《役立たず》と刻まれた石床へ切っ先を突き立てる。
炎は石の亀裂だけを進み、三つの言葉を貫いた。
三つの文字が赤黒い光の中で割れ、意味を失った石片となって跳ねた。
処刑台が崩れ、牢の壁が倒れ、黒い実験台と査問室の白い卓が砕けた。舞い上がる破片は、解放された人々の身体をすり抜けていく。
レイシアが淡い光へ変わった。
ティアナ、フィア、レグルス、セルフィナも、何も言わずに輪郭を薄れさせる。
笑顔も、称賛も、感謝もない。ローデン評議官と信徒たちも灰になり、赤い風に運ばれて消えた。
誰かに赦されたわけではない。僕が選んだものだけを斬り、選ばなかった命を残した。ただ、それだけだった。
処刑場のすべてが崩れ、《魔剣サタン》も掌で赤黒い火の粉へ変わった。灼ける痛みが抜け、緑の紐は炎へ溶けていく。
『怒りは消えたか』
何もない暗がりで、《憤怒》が問う。
「消えていない」
胸の奥には、今も熱がある。
「ローデン評議官と教団にされたことを、僕はまだ許せない。レイシアに早く来てほしかった怒りも、仲間へ向けた理不尽な怒りも、自分への怒りも残っている」
これからも、愛するレイシアや信じる仲間、間違える自分へ怒ることはある。
「でも、怒りに剣の行き先は決めさせない」
熱が何を訴えているかは聞く。伝えるべき言葉を飲み込まず、止めるべきことを見過ごさない。
けれど、誰を敵と呼び、何を止め、何を斬るか。
「それは僕が決める」
沈黙のあと、暗がりで炎が一度だけ脈打った。
『怒りを捨てず、判決にも変えぬか』
地の底を擦るような声が続く。
『斬る対象を、自ら選んだ。その答えは認めよう』
褒める響きはない。許しも力も与えられていない。ただ問いへ答えた事実だけを、サタネグラスは認めた。
「契約は?」
『まだだ』
即座に返される。
『《憤怒》《色欲》《暴食》――三つの門を越え、三つの答えを持ち帰れ』
暗がりの向こうで、赤黒い門が形を現した。
『その時、改めて条件を交わす』
門は僕の正面に立っていた。開いた奥から、さっきまでの熱と鉄の匂いが微かに流れてくる。
やがて門の輪郭が揺らぎ、僕の横を滑るように通り過ぎた。
閉じても、壊れても、消えてもいない。振り返ると、赤黒い門は僕の背後に立っていた。
もう僕を奥へ呑み込もうとはしていない。必要な時だけ振り返り、この手で取っ手を掴む。その時に、自分の意思で開くための門だった。
焼けた鉄の匂いが薄れていく。
代わりに、甘く濃い花の香りが漂った。
足元へ、一枚の花弁が落ちる。
紫黒色の花弁は、闇の中でも濡れたような艶を帯びていた。
前方に、蔓草と花に覆われた門が浮かび上がる。
音もなく開いた門から、《色欲》アスモリーナが姿を現した。咲き乱れる花を背負い、細めた瞳で僕を見る。
『愛する娘にも怒ると認めたのですね』
優しい声だった。
だからこそ、その奥に隠された刃がはっきり分かった。
アスモリーナは一歩もこちらへ踏み込まず、花園の門に手を添えた。
『次は、あなたが愛と呼んでいるものを疑いましょう』
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