第222話「精霊女王の細剣」
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
訓練庭の草は、風が通るたび、淡い緑の波を作っていた。
波間では、小さな光がいくつも跳ねている。
風精霊たちは舞い上がる綿毛を追い、木の葉の裏へ隠れては、また別の枝へ飛び移る。笑い声に似た高い音が、葉擦れへ溶けていた。
私の前にも、一体の風精霊が浮かんでいる。
幼い頃から契約を結んできた精霊だ。
淡い光の身体を細く伸ばして私の指先へ近づき、触れる寸前で身を翻す。肩の周りを一度回ってから、近くの葉へ降りた。
「契約を続けるか、森へ戻るか。どちらを選んでも、私はあなたの返答を尊重します」
精霊は答えない。
葉から飛び立ち、私の胸元まで来ると、また距離を取る。
迷っていることは分かる。けれど、何を迷っているのかまでは読み取れない。
精霊の心を、都合よく理解したつもりになるべきではない。
私は何も言わず、その子の答えを待った。
「して、セルフィナ。おぬしはどうしたいのじゃ?」
背後から届いた声に振り返る。
セリスティアは木陰に立ち、遊び回る精霊たちを眺めていた。
「私の希望を伝えれば、この子の判断を誘導する可能性があります。契約者である私の意向を、必要以上に気遣わせたくありません」
「うむ。その考えは正しい。相手の自由を守ろうとするおぬしの敬意も、偽りではない」
セリスティアの翡翠色の瞳が、静かに私を捉える。
「じゃが、おぬしは一度も言うておらぬな。残ってほしいとも、離れとうないとも」
「それは、公平な返答を得るためです」
「それも偽りではあるまい。されど、公平な契約者の顔をしておれば、拒まれても傷つかずに済む。そうして己を守っておるおぬしも、どこかにいるのではないかえ?」
胸の奥へ、細い針を差し込まれたようだった。
「それは、セリスティア様の推測です」
「そうじゃ。わらわの推測に過ぎぬ。ならば、この子へ望みを言えるかえ?」
口を開く。
けれど、声は出なかった。
残ってほしい。
その一言を告げたあとで、それでも森へ戻ると選ばれたなら。
私はその答えを、本当に変わらぬ顔で受け止められるのだろうか。
セリスティアは急かさなかった。
責めるでもなく、風に揺れる私の髪を見ている。
「望みを伝えることと、答えを奪うことは同じではないぞ」
先に口を開いたのは、彼女だった。
「おぬしの望みが見えぬままでは、この子も、おぬしと何を共に選ぶのか決められぬ」
「ですが、自由な返答を認めるなら、契約者の希望は伏せるべきではありませんか」
「自由を認めることと、己が傷つかぬところまで退くことも、同じではない」
契約者の意思は精霊へ大きな影響を与える。
だからこそ慎重であるべきだという考えは、今も変わらない。
ただ、先ほど言葉が出なかったという事実だけは、否定できなかった。
不意に肩が軽くなる。
「――何を」
風が弓の留め具を外し、矢筒ごと私の背から持ち上げていた。
手を伸ばすより早く、弓と矢筒は木陰の長椅子へ運ばれていく。
「セリスティア様?」
「今日は、それを使え」
代わりに差し出されたのは、鞘に収められた細剣だった。
柄を受け取り、ゆっくりと抜く。
現れた刃は銀緑色。葉を幾重にも重ねたような護拳が、木漏れ日を柔らかく返している。
軽い。
けれど、重さが剣先へ細く集まっている。
弓とは、手の内で感じる均衡がまるで違った。
「わらわが昔使っておったものじゃ。精霊女王の細剣と呼ぶ者もおる」
刃から、強い魔力は感じなかった。
魔法剣に見えるが、内部に大きな術式が刻まれている様子もない。
「この剣は風を生まぬ。精霊が己の意思で貸した風だけを、刃と足へ通す。従わせる刻印は一つも入れておらぬ」
「私は弓使いです。剣術では、フィアの足元にも及びません」
「うむ。ゆえに渡したのじゃ」
セリスティアは足元から、訓練用の細い枝を一本拾い上げた。
「弓なら、遠くから答えを待てる。相手に拒まれても、その場で刃を向けられることはない。されど細剣では、自ら拒まれる距離へ入らねば届かぬであろう?」
枝の先端が、私の胸元すれすれで止まった。
「まずは風を借りず、足からじゃ」
フィアの細剣は速い。
ただ雷を纏うからではない。
踏み込む前から重心が整い、剣先と爪先が同時に相手の間合いを奪う。攻撃を始めた瞬間には、すでに相手の逃げ道まで狭めている。
その姿を思い浮かべ、右足を踏み出した。
剣先だけが先へ流れる。
乾いた音が鳴り、枝が手首を打った。
「っ……」
指の内側まで痺れ、細剣を落としかける。
「弓を射るとき、おぬしは射線が定まるまで後ろ足へ重心を残す。その癖が出ておる」
次は、先に腰を運んだ。
踏み込み自体は速くなる。だが、後ろ足が土へ残った。突きのあとに戻れず、枝が肩を打つ。
三度目は引き足を意識しすぎた。
間合いへ入る前に腰が引け、枝の先が脇腹へ食い込む。
短く息が漏れた。
半歩足りない。
剣が外へ開きすぎている。
踏み込みと引き足の間隔を狭め、肩ではなく腰から――。
考えをまとめた瞬間、また手首へ枝が触れた。
「分析は正しい。じゃが、動くには遅い」
「……はい」
打たれた場所が赤くなるたび、原因は理解できた。
理解してから直そうとする。
だから、次の一歩にも間に合わない。
「フィアなら、今の距離を一歩で――」
「フィアの一歩を借りるでない」
セリスティアの声は穏やかだった。
しかし、枝先は下がらない。
「フィアの身体も、雷も、積み重ねた剣術も、すべてあの娘のものじゃ。おぬしをフィアにするための訓練ではない」
枝が、私の剣先を軽く弾く。
「わらわが見ておるのは、おぬし自身が半歩を踏み出せるかじゃ」
私は細剣を握り直した。
「敵を倒そうとせずともよい。近づく腕を拒み、おぬしと精霊が退くための距離を作れ。それが今のおぬしに必要な剣じゃ」
結局、休息までの間に枝を奪うことはできなかった。
それでも剣先だけで相手を追わず、足と刃を同時に半歩進める感覚は、打たれた痛みとともに足裏へ残った。
短い休息のあと、訓練庭の中央へ三体の樹木人形が運び込まれた。
太い根を脚とし、革を巻いた枝を腕にした人形だ。
枝の先端は潰されているが、まともに受ければ骨を痛める。訓練用だからといって、動きまで鈍いわけではない。
私の隣には、拳よりも小さな風精霊が浮かんでいた。
人の言葉も、左右や距離の概念もほとんど理解していない、幼い精霊だ。
「その子と共に、向こうの石門まで行け。使える武器は細剣のみじゃ」
セリスティアが石門を示す。
「周りの精霊が自ら手を貸すことは妨げぬ。されど、誰にもおぬしへ従う義務はないぞ」
「危険時の停止条件は?」
「わらわが止める。命を損なうような危険にはせぬ。じゃが、訓練中は何も教えぬ」
セリスティアは、三体すべてへ風を届かせられる石縁へ移動した。
私は幼い精霊へ向き直る。
「私の後方を維持してください」
精霊は私の前へ回り込み、細剣の光を追い始めた。
「そこではありません。右側の根の陰へ移動してください。合図をするまで、その位置から動かないでください」
右を指し示す。
しかし、精霊は舞い上がった綿毛を追って高く飛んだ。
「石門から三歩手前にある太い根です。その内側で、地面から私の肩までの高さを――」
精霊は私と根の間を忙しく往復し、ついにはその場でくるくると回り始めた。
地面が軋んだ。
一体目の樹木人形が根の脚を踏み込み、革を巻いた腕を振り下ろす。
私は斜めへ下がり、細剣を合わせた。
受け流すつもりだった。
だが刃を立てすぎた。
硬い衝撃が柄から肘へ抜け、先ほど打たれた手首に痺れが戻る。
その間に、幼い精霊は木漏れ日へ飛び出していた。
二体目の人形が外側から回り込む。
「私の後ろへ。地面から私の肩までの高さを保ち、三歩以内に――」
精霊は一度止まった。
しかし、二体目の枝が起こした風に乗り、反対側へ流されてしまう。
追えば、石門までの退路が空く。
退路を守れば、精霊が孤立する。
私は精霊を追った。
二体目の腕を細剣で牽制する。
倒そうとして、枝の関節へ深く突き入れた。
剣を引き戻すより早く、一体目が背後から迫る。
肩へ重い衝撃を受けた。
「くっ……」
視界が揺れる。
三体目の腕を避けようとして、左右の足が交差した。
引き足が遅れる。
枝が脇腹を掠め、衣服が裂けた。浅い熱が皮膚を走り、片膝が土へ落ちる。
私は肩の痛みより先に顔を上げた。
幼い精霊が、露出した太い根の間へ入り込んでいる。
左右から二体の樹木人形が迫り、逃げられる空間が少しずつ狭まっていた。
「可能であれば、力を貸してください」
庭にいる精霊たちへ呼びかける。
葉が揺れた。
いくつかの光が、こちらを向く。
けれど、私の足にも細剣にも風は来ない。
あと二歩退けば、訓練の境界を越える。
そこでセリスティアが人形を止める。
幼い精霊が傷つくことはない。
私は失敗を認めればいい。
私の指示が戦術的に間違っていなかったことと、この精霊には理解できなかったことを、正確に報告すればいい。
樹木人形の腕が上がる。
私はこの子へ、安全な位置ばかり伝えていた。
どこにいれば危険を避けられるか。どれだけ距離を取るべきか。どの高さを保つべきか。
けれど、なぜそこにいてほしいのかは、一度も伝えていない。
精霊の意思を尊重する。
その言葉を盾にすれば、私が手を伸ばさなかった責任まで、精霊が選ばなかった結果にできてしまう。
幼い精霊は、私へ助けを求めていない。
私に従うとも言っていない。
それでも。
私は、この子を置いていきたくなかった。
痺れる指へ力を込め、細剣を構え直す。
「私は、この子を助けたい」
声は大きくなかった。
それでも風へ溶けてしまわないよう、一語ずつはっきり告げる。
「皆さんが力を貸さないと選んでも、責めるつもりはありません。拒まれても、この気持ちは変わりません」
根の間で震えていた光が、私を向いた。
「私は、この子と一緒にここを出たいのです」
庭から音が消えた。
次の瞬間。
根の間から細い風が生まれた。
草の穂を一本ずつ揺らしながら地表を走り、私の足首へ触れる。
強い風ではない。
迷っていた前足を、半歩だけ先へ運ぶ。
ただ、それだけの風だった。
けれど、その半歩で刃が届く。
フィアの速さは追わない。
セリスティアに教えられたとおり、樹木人形の正面を外し、斜めへ入る。
振り下ろされた腕へ銀緑の刃を添え、力の向きを外へ逸らした。
続けて、刃を枝の関節へ差し込む。
護拳へ風が集まった。
風は私の意思で引きずり込まれたのではない。
自ら刃へ入り、銀緑の刀身を駆け抜けた。
私一人では押し切れなかった腕がわずかに浮き、樹木人形の上体が横へ傾く。
倒す必要はない。
一歩分の道があればいい。
私は空いた根元へ左手を伸ばした。
幼い精霊は掌の上を一周すると、私の手首へ淡い光を巻きつける。
「一緒に行きましょう」
返事の代わりのように、涼しい風が頬へ触れた。
二体目の樹木人形が背後で向きを変える。
私は深追いせず、剣先を関節へ向けて接近を鈍らせた。
腕が伸びてくるたび外へ流し、そのたび一歩ずつ石門へ下がる。
受け流し切れず、傷めた肩がまた軋んだ。
一度は引き足が絡みかけた。
それでも幼い精霊の風は、命じていないのに私の踵へ回り、退く足を押してくれた。
三体目が石門の前へ立つ。
私は人形の胴を狙わなかった。
踏み込んできた根脚の付け根へ剣先を差し入れ、横へずらす。
幼い風が刃を抜ける。
樹木人形の根脚が土を滑り、石門との間に細い隙間が生まれた。
そこへ身体を通す。
私と精霊が石門を越えた瞬間、訓練庭の風向きが変わった。
三体の樹木人形が腕を下ろし、その場で停止する。
張り詰めていた息を吐き、私は片膝をついた。
手首は脈打つように痺れ、肩は熱を持っている。
幼い精霊は私の手首を離れ、髪先へ降りた。薄い水色の毛先を、小さな風で揺らしている。
「完全な合格とは言えぬのう」
セリスティアが石門まで歩いてくる。
「踏み込みの重心が高い。退くときに足を交差させた。指示は細かすぎて、あの子には理解できぬ。精霊が動くのを待つ時間も長い。それから二度、細剣で人形を倒そうとして、自ら間合いを壊した」
「はい。特に二度目は、剣を戻す経路まで考えられていませんでした」
「そこまで分かっておるなら、次は直せ」
セリスティアは、私の髪で休む精霊へ目を向けた。
「されど、最後の半歩だけは正しかったぞ」
私は細剣の護拳へ視線を落とす。
「私が望みを伝えたことで、この子を従わせてしまった可能性はありませんか」
「おぬしは望みを伝えただけじゃ。風を貸すと決めたのは、この子ぞ」
幼い精霊が髪から離れる。
庭の上を自由に一周した。
そのまま遠くへ行くこともできたはずだ。
けれど精霊は再び私の前へ戻り、銀緑の護拳へ光を寄せた。
刃が風を引きずり出したのではない。
あの風は、根の間から私のところまで、自分で来た。
その感触を、足首も、痺れた手も覚えている。
「……伝えることと、奪うことは、同じではないのですね」
「うむ。答えを受け止める覚悟は要るがのう」
セリスティアが指を動かす。
木陰から弓と矢筒が風に運ばれ、私の前へ戻ってきた。
慣れた重さを肩へ戻し、息をつく。
しかし、セリスティアは細剣を受け取ろうとしなかった。
「弓を捨てる必要はない。おぬしは弓使いじゃ。その強みは変わらぬ」
銀緑の刃を示す。
「じゃが、距離を失うたとき、己の望みまで後ろへ置いてこぬために、その剣も持っておれ」
私は細剣を鞘へ収め、腰へ留めた。
不慣れな重さが腿へ触れる。
今日できたのは、風に助けられた一度の踏み込みだけだ。
足運びも、防御も、距離の作り方も、最初から鍛え直す必要がある。
「お預かりします。次は、引き足から教えてください」
「よかろう」
セリスティアはわずかに微笑んだ。
それから、何気ない調子で続ける。
「おぬしがアルトを見届けたいという気持ちも、同じではないかえ?」
細剣の留め具を確かめていた指が止まった。
「監視任務は、すでに終了しています。そのうえで同行しているのは、私自身の判断です」
私は事実を順番に並べた。
「アルトの力には未解明の部分があります。今後、彼がどのような選択をするのか観察することには、合理的な意味があります。危険な判断をした場合、それを止める者も必要です」
「うむ。どれも事実じゃ」
正確に説明できたはずだった。
けれど、セリスティアは最初と同じ眼差しを向けている。
「じゃが、わらわは同行する理由を聞いたのではない」
翡翠色の瞳が、私の逃げ道を塞ぐ。
「おぬしが、どうしたいのかを聞いておる」
喉の奥で、次の言葉が止まった。
私は、アルトの判断を見届けたい。
危険な選択をすれば止めたい。
無事に帰るところまで確かめたい。
それはもう、任務ではない。
誰かに命じられた行動でもない。
私自身が望んでいることだ。
そこまでは認められる。
けれど、なぜ自分がそこまで望むのか。
その答えへ形を与えようとすると、胸の内側で風向きが乱れた。
「……現時点では、適切な言葉にできません」
「ならば、今日はそれでよい」
セリスティアは答えを迫らなかった。
「されど、いつまでも隠したままなら、アルトもおぬしの本当の意思を知らぬまま選ぶことになる。それだけは覚えておけ」
腰の細剣が、先ほどより重く感じられた。
返事をしようと息を吸ったとき、髪にいた幼い精霊が胸元へ降りてくる。
耳を澄ますように、光の身体を傾けた。
「セルフィナ、どきどき」
「訓練直後ですから、鼓動が速いのは当然です」
周りの精霊まで集まってきた。
悪意の欠片もなく、私の心臓の音を聞き比べ始める。
「セリスティア様」
変わらない。
「フィア。ティアナ。レイシア」
「名前を並べても、検証にはなりません」
そう告げた直後、一体の精霊が試すように囁いた。
「アルト」
どくん、と。
鼓動が一つ、大きく跳ねた。
耳先へ急に熱が集まる。
私は何でもないように髪を払い、その熱を隠した。
「今のは肩の痛みと、呼吸の乱れによるものです」
精霊たちは草の上を跳ね、楽しそうに声を重ねた。
「でもね。アルトの名前を聞いた時だけ、セルフィナの鼓動は速くなるよ」
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