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『属性適性なしの学院最下位、迷宮で見捨てられた僕は七罪の魔神と契約する ~最強英雄になった幼なじみに追いつくまで~  作者: ドキツトム


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第221話 森を読む槍

「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!


例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』


皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!



 森は、昼なお薄暗かった。


 幾重にも絡み合う枝葉が陽光を遮り、湿った土の上には苔と落ち葉が厚く積もっている。奥へ続く獣道は数歩先で大木の陰へ呑まれ、その先に何が潜んでいるのかまるで分からない。


 深い森の入口で、ロビンフッドは僕へ尋ねた。


「名前は?」


 答えは決まっている。


 父祖から受け継ぎ、いずれ僕自身が背負う名だ。


「レグルス・ヴァルモント」


 胸を張り、僕は名乗った。


 ロビンフッドの指が、僕の外套を留める銀具へ向けられる。そこにはヴァルモント家の紋章が刻まれていた。


「それを外して」


「外套を?」


「紋章ごとね」


 僕は銀具へ手をかけたまま、動かなかった。


「理由を聞いても?」


「この森に家系図を読む獣はいない」


 返ってきたのは、あまりにも短い言葉だった。


 僕の指に、わずかに力が入る。


「ヴァルモントの名は、獣に読ませるためのものではない」


「知っているよ。だから捨てろとは言っていない」


 ロビンフッドは森の入口を指した。


「そこへ置いていけ。訓練が終わるまで、君はレグルスだ。家名を名乗るのも禁止」


「家名は外套と一緒に脱げるものではない」


「なら、脱いでも残るか確かめればいい」


 軽い調子だった。


 だが、言われた僕の胸には、鎧を剥がされるよりも深い反発が生まれていた。


 ヴァルモント家の嫡男として恥じぬ振る舞いをすること。それは幼い頃から僕の内に刻まれてきた。家名は飾りではない。僕がどこから来て、何を継ぐ者なのかを示すものだ。


 それを名乗るなと言われ、穏やかでいられるはずがない。


 それでも、これは訓練だ。


 僕は外套を外し、丁寧に畳んだ。地面へ直接置く気にはなれず、入口脇の平らな岩へ載せる。


「これでいいだろう」


「次は鎧」


 胸当てを外した。


 肩当て、籠手、腰を守る装甲も、順に取り外していく。留め具が外れるたび、身体が不自然なほど軽くなった。


 残ったのは、薄手の戦闘衣と長靴、そして銀槍だけだった。


 鎧の重みは動きを鈍らせるものではない。僕にとっては、踏み込みの均衡を支える一部でもある。普段と違う軽さは、速く動けるという解放感より、重心の拠り所を失った不安をもたらした。


「最後にこれ」


 ロビンフッドが取り出したのは、濃緑の布だった。


「目隠しか」


「途中で外したら、その時点で失敗だ」


 布が両目を覆い、後頭部で固く結ばれた。


 視界が閉じた瞬間、森の広さを測る基準が消えた。


 足元の土が、それまでより深く靴底へ沈み込む。


 湿っている。表面だけではない。踏み込めば、柔らかな層がわずかに横へ逃げた。


 肩へ小枝が触れた。


 鎧があれば、音さえ意識しなかったはずの接触だった。細い先端が戦闘衣を擦り、露出した首筋へ冷たい空気が流れ込んでくる。


 右から葉の擦れ合う音。


 少し遅れて、頭上のどこかで木の実が枝を二度叩いた。落下し、湿った土へ小さく埋まる。


 自分の呼吸が、ひどく大きい。


 鼓動まで耳の奥で鳴り、森の音を押し退けようとする。


 僕は銀槍の石突きを地面へつけた。


 硬いものへ触れた振動が槍身を走り、掌へ届く。土のすぐ下に、太い根があるらしい。


 空いた左手を伸ばすと、樹皮の割れ目へ指先が食い込んだ。乾いたささくれが刺さり、鋭い痛みが走る。古い樹脂の匂いが鼻へ届いた。


 見えていたときには、どれ一つ意識していなかった。


 ロビンフッドの声が、すぐ耳元で響いた。


「日が沈むまでに、森のどこかにいる本物の僕を見つけろ」


「それだけか?」


「それだけ」


 肩を押された。


 一歩先へ踏み出した靴が、湿った土へ沈む。


 次の瞬間には、ロビンフッドの足音が消えていた。


 森へ放り出されたのだ。


 僕は銀槍を握り直した。


 鎧がない。


 視界もない。


 家名さえ、ここでは名乗れない。


 それでも、槍はある。


 ならば十分だ。


「ここだよ、レグルス」


 正面から声がした。


 足音も続く。軽い。距離は十歩ほど。


 僕は反射的に腰を落とした。


 見えなくても、相手より速く動けばいい。


 音がした場所へ、最短距離で届けばいい。


 一歩目で湿った土を蹴抜き、二歩目へ風を重ねる。銀槍へ沿わせた空気が抵抗を削り、穂先から腕、肩、背へ至るすべてが一本の直線へ結ばれた。


 声の中心へ、迷いなく突き込む。


 手応えがない。


 肉も、骨も、衣服も捉えなかった。


 代わりに、無数の葉が穂先へ当たり、風に巻かれて僕の頬と腕を打った。


 分身体。


 そう認識した直後、足元で木の杭が跳ねる音がした。


 縄が弾け、地表の土が前方へ崩れる。


 踏み込んだ左足が滑った。


 身体が頭から斜面へ投げ出されかける。僕は銀槍を横へ突き立てた。穂先が太い根へ食い込み、槍身が大きくしなった。


 両手へ衝撃が走る。


 僕は槍を支点に身体を引き戻したが、完全には止められなかった。肩が枝の束へ突っ込み、戦闘衣を突き破った先端が上腕を浅く裂く。


「くっ……!」


 温かなものが皮膚を伝った。


 足元へ落ちた小石が斜面を転がり、何度も根や幹へ当たりながら遠ざかっていく。


 もし銀槍を突くのが一瞬遅れていれば、僕も同じように転げ落ちていた。


 声がした場所へ、僕が一直線に突っ込む。


 それを前提として、罠が置かれていたのだ。


 肩を押さえながら立ち直ると、別の場所から笑いを含んだ息が漏れた。


 僕は即座に風を練った。


 周囲の空気を一気に膨らませ、葉も低木もまとめて吹き払う。分身体が木の葉と風で形作られているなら、強い風へ耐えられない可能性が高い。


 森全体を揺らす出力へ達する、寸前。


 僕は魔力を止めた。


 膨らみかけた空気が、首筋と袖口を抜けて散っていく。


 湿った土には、踏み込んだ者の足跡が残る。


 折れた細枝も、衣服が擦った葉も、地表を蹴った際の細かな土の崩れもあるはずだ。触れた幹には匂いが残り、動いた身体のあとには、わずかな空気の乱れが生まれる。


 ここで強風を放てば、分身体は散らせるかもしれない。


 だが足跡は舞い上がった土に埋まり、新たに折れた枝が古い痕跡へ混ざる。擦れた葉も、残った匂いも、移動によって生じた空気の乱れも、すべて僕自身の風で上書きされる。


 探すべき証拠を、自分で消すことになる。


「吹き飛ばさないのかい?」


 遠くから、ロビンフッドの声がした。


「君の得意技だろう?」


 僕は答えなかった。


 広がりかけていた風を、完全に収める。


 直後、森の音が増えた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 異なる方向から、同じ間隔の足音が生まれる。


 四つ、五つ、六つ。


 木の枝を踏む音。呼吸。布が葉へ擦れる気配。


 七つ、八つ、九つ。


 どれも同じ声で、短く僕の名を呼ぶ。


 十、十一、十二。


 遠近は異なるのに、足運びの癖までよく似ていた。


 十三、十四、十五。


 最後の一つが、僕の背後を横切る。


 十六。


 十六体の分身体が、一斉に森を走り始めた。


 近いものから追う。


 それが最も合理的だ。


 僕は左前方の足音を選んだ。


 分身体は、細い獣道らしき場所を一直線に逃げていた。足音の間隔が一定で、左右の低木へ触れる衣擦れもない。


 僕の槍が最も力を発揮する道だ。


 背中へ風を集める。


 押しつけるのではなく、踏み込みに合わせて流す。最初の一歩を長く、二歩目を鋭く。銀槍を脇へ引き絞り、足音との距離を一気に削った。


 十歩。


 八歩。


 五歩。


 追いつける。


 分身体がわずかに速度を落とした。


 僕は制動へ移るため、前足の角度を変えた。


 その着地点から、空洞を叩く鈍い響きが返ってきた。


 遅い。


 薄く土を被せた板が割れ、足元が抜ける。


 浅い落とし穴だ。


 深さそのものは大したことがない。だが僕が最高速度から制動を始める、その一歩だけを正確に狙っている。


 銀槍を穴の外へ突き立てた。


 石突きを握る手へ反動を逃がし、そのまま身体を浮かせる。穴へ落ちることは免れた。


 だが、着地した先で乾いた縄が切れた。


 曲げて固定されていた枝が、唸りを上げて戻ってくる。


 避ける間はなかった。


 太い枝が、先ほど傷つけた肩を横殴りにした。


「ぐっ!」


 衝撃で息が止まる。


 膝が土へつき、泥が戦闘衣へ染み込んだ。


 分身体の足音は、何事もなかったように遠ざかっていく。


「僕が制動する場所まで、読んでいたのか……」


 歯を食いしばり、立ち上がる。


 肩の奥が脈打っていた。腕は動く。槍も握れる。


 まだ続けられる。


 今度は二体の足音が、前方で交差した。


 一体は右から左へ。


 もう一体は左から右へ。


 交わった直後、片方だけが地面を強く踏み鳴らした。湿った土を深く蹴る、重い音だ。


 軽い足音より、体重の乗った足音の方が本体らしい。


 僕は大きな音を選び、追った。


 距離は近い。


 枝を一つ踏み折った直後、分身体の呼吸が乱れた。


 僕は踏み込み、銀槍を突き出す。


 また、手応えはなかった。


 穂先へ葉がぶつかり、渦を巻いて散る。


 同時に、靴の先へ細いものが触れた。


 縄だ。


 踏み切った勢いで引っかけてしまった。


 頭上で滑車が回り、何本もの縄が擦れ合う。空気が上から押し下げられた。


 僕は銀槍を頭上へ掲げた。


 重い網が槍身へ覆い被さり、そのまま肩と背へ絡みつく。編まれた縄が首へ迫り、腕の動きを奪った。


 息を吐き、穂先を外側へ捻る。


 一度では裂けない。


 槍身へ網を巻きつけ、強く引いた。張り詰めた部分へ穂先を押し当て、二本、三本と縄を断つ。


 ようやく片腕が抜けた。


 裂け目を広げ、網を振り払う。


 その頃には、交差したもう一つの足音は消えていた。


 僕は乱れた呼吸を整える。


 強い音を選んだ。


 それすら、僕に選ばせるための餌だった。


「レグルス。今度こそ、僕かもしれないよ」


 今度は、正面やや遠くから声がした。


 一体だけだ。


 足音が逃げ始める。


 僕も追う。


 距離は縮まない。


 こちらが速度を上げれば向こうも上げ、わずかに落とせば向こうも落とす。決して離れきらず、決して槍の間合いには入らない。


 十数歩先。


 本気で踏み込めば届く。


 そう思わせる距離だけを保っている。


 誘いだと分かっている。


 だが、このままでは何も変わらない。


 僕は銀槍を低く構え、足裏へ風を集めた。


 一歩目。


 土が後方へ弾ける。


 二歩目。


 風が背を押す。


 三歩目で最高速度へ達した瞬間、左右から弦の鳴る音がした。


 鈍矢。


 空気を裂く音が、左の脇腹と右の肩へ向かってくる。


 僕は銀槍を引き戻した。


 最初の矢を槍身で打ち上げる。木が銀へ当たる硬い音が響いた。


 続く一矢へ穂先を滑らせ、軌道を外へ逸らす。


 三本目は低い。


 石突きを振り下ろし、膝を狙った鈍矢を地面へ叩き落とした。


 矢を捌いた数呼吸の間に、足音はまた遠ざかっていた。


 追おうとした直後、その身体も葉と風へ崩れる音を残して消えた。


 僕は追わなかった。


 銀槍の石突きを土へ置き、息を整える。


 三度とも、相手が僕より速かったわけではない。


 最初の分身体は、僕が制動する場所へ穴を掘っていた。


 二度目は、大きな足音を追うと分かったうえで、僕が槍を突き出す場所へ縄を置いた。


 三度目は、最高速度を出す瞬間を選ばせ、その一点へ矢を集めた。


 僕の速さは封じられていない。


 槍の直線も、破られてはいない。


 ロビンフッドはただ、僕が必ず最短距離を選ぶと知っている。


 僕が次に立つ場所を、僕より先に決めているのだ。


「速いからこそ、誘導しやすい……ということか」


 認めるのは不愉快だった。


 だが事実だ。


 最短距離そのものが間違いなのではない。


 周囲を確かめる前に最短だと決めつけるから、相手が用意した線へ飛び込むことになる。


 そこまで理解しても、解決にはならなかった。


 十六の気配は、まだ森の各所を移動している。


 どの線が正しいのか分からなければ、選びようがない。


 しばらくして、右前方から一つの足音が近づいた。


 これまでとは違う。


 踏み込む直前、ごく微かに土を押す力が揺れる。片足からもう片方へ体重が移るたび、地面へ伝わる衝撃の間隔がわずかに変わっていた。


 完全に同じ音を繰り返す分身体より、生きた身体の足運びに近い。


 距離は三十歩ほど。


 僕は速度を抑えて追跡を始めた。


 足音は逃げる。


 それでも、少しずつ距離が縮まっていた。


 あと二十数歩。


 ここから一気に踏み込めば、届く可能性がある。


 そのとき、進行方向とは反対側から、細い息が聞こえた。


 あまりにも小さく、一度は葉擦れかと思った。


 だが、もう一度。


 短く吸い、震えながら吐く。


 直後に、爪が土を掻いた。


 右前方では、追っている足音が遠ざかっている。


 背後では、浅い呼吸が途切れかけている。


 僕はその場で立ち止まった。


 追えば、まだ間に合う。


 今ここで最高速度を出せば、数十歩のうちに槍の間合いへ入れるかもしれない。


 だが背後へ戻れば、足音は確実に見失う。


 両方は選べない。


 家名を示す外套は、森の入口にある。


 僕が何をしたか記録する者はいない。


 ヴァルモント家の嫡男がここにいると知る者も、勝利を称える観客もいない。


 この呼吸を捨てて追跡を続けても、誰にも責められないだろう。


 けれど、僕は知る。


 僕だけは、自分が何を置き去りにしたのかを知っている。


 僕は銀槍の穂先を、遠ざかる足音から外した。


「……そちらではない」


 追跡を諦め、浅い呼吸の方へ戻る。


 足音はさらに遠ざかり、やがて葉擦れへ紛れた。


 代わりに、獣の匂いと、わずかな血の匂いが濃くなる。


 銀槍の石突きで足元を探りながら近づくと、太い木材へ当たった。倒木らしい。


 手を伸ばし、樹皮を確かめる。


 深い割れ目が指へ食い込み、ささくれが皮膚を傷つけた。その下から、小さな身体が激しく震える感触が返ってくる。


 柔らかな毛。


 指先へ触れた長い耳。


 野兎だ。


 倒木の下へ手を差し入れると、後ろ脚の一本が挟まっていた。無理に引けば、骨か筋をさらに傷める。野兎が暴れるたび、血の匂いが強くなった。


「暴れないでくれ。すぐに持ち上げる」


 言葉が通じるはずはない。


 それでも、僕は声を落とした。


 倒木の周囲を手と石突きで探る。


 少し離れた場所に、地表へ張り出した太い根があった。さらに、拳ほどの石が土へ半分埋まっている。


 僕は銀槍の穂先側を倒木の下へ差し込んだ。


 槍身を根へ載せる。


 支点を作り、石突き側へ体重をかけた。


 倒木が、わずかに持ち上がる。


 傷ついた肩へ激痛が走った。


 歯を食いしばり、さらに押し込む。


 槍身が低く軋む。根が土を押す振動が、両手へ返ってきた。


 倒木の下に、指数本分の隙間が生まれる。


 僕は片足で先ほどの石を寄せた。爪先で角度を確かめ、浮いた隙間へ押し込む。


 石が噛んだ。


 慎重に力を緩めても、倒木は完全には落ちてこない。


 僕は槍から片手を離し、野兎の胸と腹を包むように触れた。挟まれた脚を引かないよう、身体を少しずつ横へ滑らせる。


 野兎が甲高く鳴いた。


「あと少しだ」


 最後に腰を引き寄せると、傷ついた脚が倒木の下から抜けた。


 僕はすぐに身体を土へ下ろした。


 呼吸は浅いままだ。


 脚へ触れると、骨の位置が不自然にずれている感触はなかった。ただし傷口からは、まだ血が滲んでいる。


 治せはしない。


 だが、これ以上悪化させないことはできる。


 僕は戦闘衣の裾へ穂先で小さな切れ目を入れ、両手で布を裂いた。


 細長くした布を折り重ね、傷口へ当てる。強く締めすぎれば血の巡りを止める。指先で脚の温度を確かめながら、ずれない程度に固定した。


 野兎は僕へ身を預けなかった。


 逃げようとして土を掻き、痛みに震え、また浅い呼吸を繰り返す。


 それでいい。


 僕に懐く必要などない。


 周囲を探ると、太い根が三方へ張り出し、その間だけ土が比較的乾いている場所があった。虫の群れる気配もなく、倒木がさらに転がってくる場所からも離れている。


 僕はそこへ野兎を移した。


 刺激しないよう、風の出力を可能な限り落とす。


 これまで僕は、風を押しつけてきた。


 敵を退けるため。


 退路を開くため。


 銀槍を、より速く、より深く届かせるため。


 だが今は、野兎の小さな身体へ強い風を当てるわけにはいかない。


 すでに森を流れている空気へ、ごく細い魔力だけを重ねる。


 鼻先を通った空気が、どう変わって戻るのか。


 僕は急がず待った。


 野兎が息を吸う。


 鼻先の周囲から、空気がほんの僅かに引かれた。


 胸が膨らむ。


 それに合わせて前脚へかかる重さが変わり、爪の下の土が微かに沈む。


 息を吐く。


 温かな空気が僕の指先を撫で、その先にある一枚の葉を揺らす。


 胸が戻ると、前脚の力も抜ける。


 次の呼吸。


 空気が引かれ、胸が動き、土へ震えが伝わる。


 そして吐息が葉へ届く。


 呼吸。


 葉の揺れ。


 土の震え。


 それらは、別々の痕跡ではなかった。


 一つの身体が息をし、重さを支え、周囲の空気と土へ触れることで生まれる、連続した一つの流れだった。


 今まで情報がなかったのではない。


 僕が速すぎたのだ。


 力を放つことばかり考え、戻ってくる変化を待たなかった。


 野兎を助けるために追跡を捨て、風を弱め、一つの呼吸へ意識を留めた。


 だからようやく、見落としていたものへ触れられた。


 僕は野兎から少し離れ、銀槍を手に立った。


 森には、もともとの風がある。


 幹へ触れて分かれ、葉を撫で、地表の窪みを這い、生き物の呼吸へ引かれ、動いた身体に押し返される風だ。


 そこへ自分の風を重ねる。


 新たな流れを作るのではない。


 消え入りそうなほど細く、自然な風と同じ速さで流す。


 そして、戻ってくる変化を受け取る。


 最初の一度は、完全な失敗だった。


 葉。


 枝。


 虫の羽音。


 地表を走る小さな爪。


 鳥が枝から飛び立つ際の羽ばたき。


 木の実が落ち、根へ当たり、土へ転がる震え。


 幹同士が風で擦れ合う低い響き。


 無数の変化が区別なく押し寄せ、耳の奥で膨れ上がった。


「っ……!」


 こめかみの内側へ針を差し込まれたような痛みが走る。


 胃が持ち上がり、吐き気に膝が揺れた。


 僕は風を切り、銀槍へ縋った。


 森全体が、巨大な雑音になっていた。


 すべてを受け取ろうとしたのが間違いだ。


 野兎の呼吸へ戻る。


 吸う息。


 近くの葉。


 土へ移る重さ。


 この三つが同じ周期で繋がっているものだけを探せばいい。


 僕は銀槍の石突きを、湿った土へ深くつけた。


 槍身を通じ、地表と根の震えを掌へ受ける。


 穂先の周囲には、細い風を巡らせる。


 土から伝わる振動と、空気から戻る変化。その二つを銀槍の一本へ重ねた。


 槍が基準線になる。


 まずは、すぐ近くの一本だけ。


 風が幹へ触れ、二つに分かれる。


 片方は粗い樹皮に乱され、もう片方は葉の集まる方へ抜ける。根へは、落ちた木の実の振動が伝わってくる。


 次に、その隣の一本。


 急がない。


 風が枝へ触れる順番と、根を通る震えを一つずつ確かめる。


 それから二本の間の地表。


 虫が動く細かな震えは、呼吸と繋がらない。


 葉が単独で揺れた音にも、重心移動は伴わない。


 僕はそれらを追わず、さらに隣の幹へ意識を移す。


 一度に森を掴もうとはしない。


 一本。


 その隣。


 根元。


 また一本。


 知覚したものを形にする必要はなかった。


 どこで空気が引かれ、何へ触れ、どの振動と連続しているのか。


 ただ、その繋がりだけを辿る。


 やがて、十六の足音が再び動き始めた。


 同時に十六の呼吸音が生まれる。


 布が擦れる。


 枝が折れる。


 土を踏む。


 あらゆる方向から、ロビンフッドの声が僕を呼んだ。


 先ほどより近い。


 だが、僕は追わなかった。


 一つ目の分身体が、息を吸う音を立てる。


 周囲の空気は引かれていない。


 二つ目が、大きく息を吐く。


 その直後も、近くの葉は同じ周期で揺れ続けている。


 三つ目は地面を強く踏む。


 衝撃そのものは槍身へ届くが、呼吸に伴う重心移動がない。音だけが一歩ずつ切り離されている。


 四つ目は衣擦れを響かせながら右へ動く。


 けれど、身体に押されたはずの風は反対方向へ抜けた。


 どれも精巧だった。


 足音も、吐息も、枝を踏む音もある。


 だからこそ、一つずつ聞けば本物と変わらない。


 だが繋がっていない。


 吸った音が空気を引かず、吐息が葉を揺らさず、足音が呼吸による重心の変化を土へ渡していない。


 十六体すべてが、生命の痕跡を別々に真似ている。


 ならば本体は、その十六の中にはいない。


 僕は最も大きな音から意識を外した。


 最も近い足音も捨てる。


 森の騒音の隙間へ、細い風を通す。


 一つ。


 十六の偽りとは別に、空気がごく僅かに引かれた。


 場所は遠くない。


 僕が最初に追跡を始めた辺り。


 樹脂の匂い。


 深く割れた樹皮。


 地表を押し上げる太い根。


 目隠しをされた直後、指へささくれを刺した古い木だ。


 ただし、呼吸は根元からではない。


 幹を伝う振動を辿る。


 地面から離れた枝へ、一定の重みがかかっている。


 息を吸う瞬間、その荷重がほんの僅かに変わった。


 空気が引かれる。


 胸の動きとともに重心が揺れ、枝から幹へ微細な震えが落ちてくる。


 ゆっくり吐かれた息が、すぐ近くの葉を一度だけ揺らした。


 さらに小さく、呼吸とは異なる周期の振動。


 心拍。


 十六体とは別の、十七番目。


 ほとんど動かず、古木の高い枝から分身体を操っている一つの身体。


 ロビンフッドは、森の奥へ逃げてなどいなかった。


 僕が偽物を追って走り回る間も、最初の場所の近くにいたのだ。


 十六の足音が、一斉に僕へ向かってきた。


 前後左右から、呼吸と衣擦れが迫る。


 地表では縄が張られ、頭上では滑車が回り始めた。複数の弦が、ほとんど同時に鳴る。


 罠と鈍矢。


 分身体まで、四方から間合いへ入る。


 以前の僕なら、一番近い足音へ突進していた。


 あるいは、風で何もかも吹き飛ばしていただろう。


 だが今は動かない。


 靴底から伝わる土の沈み方を待つ。


 右足の先に、わずかな空洞の響き。


 半歩だけ左へずらす。


 足元の板が僕のすぐ横で割れ、土が浅い穴へ落ちた。


 背後で縄が張る。


 石突きを地面から数寸だけ浮かせ、足首へ迫った細縄を槍身で押し下げる。そのまま一歩またいだ。


 上から網が落ちてくる。


 空気が押し下げられる方向へ逆らわず、上体を低くし、右へ一歩だけ滑る。網の端が傷ついた肩を掠め、地面へ重く落ちた。


 左から二本。


 右から一本。


 鈍矢が空気を押し分ける。


 僕は銀槍を大きく振り回さなかった。


 穂先で一矢を逸らし、槍身を僅かに返して二矢目を弾く。最後の一本には半歩だけ退き、頬の先を通過させた。


 背後の幹へ鈍い音が突き刺さる。


 分身体の足音が、すぐそばを駆け抜けた。


 僕は突かなかった。


 別の一体が大声で僕を呼ぶ。


 無視する。


 最も近い気配が、踏み込む音を立てる。


 それも無視した。


 十六体すべてを倒す必要はない。


 探すべきものは、初めから一つだけだ。


 僕は銀槍の石突きを土から離した。


 地面からの情報が途切れる。


 それでも、もう場所は失わない。


 古木の幹を通る震え。


 息を吸うたびに変わる枝の荷重。


 吐息に押される一枚の葉。


 その三つが繋がる一点へ、身体を向ける。


 肩は熱を持ち、腕の傷には乾きかけた血が張りついている。


 戦闘衣の裾は裂け、胸も膝も泥に濡れていた。


 鎧がないため、冷え始めた風が布越しに直接肌へ届く。


 紋章もない。


 僕がこの森で何を選んだのか、見届ける者もいない。


 それでも僕は、倒木の下の呼吸を捨てなかった。


 家名が僕を高潔に見せてくれるのではない。


 誰も見ていない場所で選んだものを、いつか胸へ戻す紋章に恥じないものにする。


 それだけでいい。


 僕は速さを捨てない。


 銀槍の直線も捨てない。


 ただ、相手に用意された最短距離へ飛び込むのは終わりだ。


 風を受け、葉を聞き、土の震えを繋ぎ、自分で正しい一点を選ぶ。


 後ろ足へ重心を置く。


 傷ついた肩を引く。


 銀槍の穂先を、古木の高所にある最も静かな呼吸へ向けた。


「君が隠れるなら、僕は森ごと君を見つける」

 「面白かった!」


 「続きが気になる、読みたい!」


 「今後どうなるの!!」


 と思ったら


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 面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!


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