第221話 森を読む槍
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
森は、昼なお薄暗かった。
幾重にも絡み合う枝葉が陽光を遮り、湿った土の上には苔と落ち葉が厚く積もっている。奥へ続く獣道は数歩先で大木の陰へ呑まれ、その先に何が潜んでいるのかまるで分からない。
深い森の入口で、ロビンフッドは僕へ尋ねた。
「名前は?」
答えは決まっている。
父祖から受け継ぎ、いずれ僕自身が背負う名だ。
「レグルス・ヴァルモント」
胸を張り、僕は名乗った。
ロビンフッドの指が、僕の外套を留める銀具へ向けられる。そこにはヴァルモント家の紋章が刻まれていた。
「それを外して」
「外套を?」
「紋章ごとね」
僕は銀具へ手をかけたまま、動かなかった。
「理由を聞いても?」
「この森に家系図を読む獣はいない」
返ってきたのは、あまりにも短い言葉だった。
僕の指に、わずかに力が入る。
「ヴァルモントの名は、獣に読ませるためのものではない」
「知っているよ。だから捨てろとは言っていない」
ロビンフッドは森の入口を指した。
「そこへ置いていけ。訓練が終わるまで、君はレグルスだ。家名を名乗るのも禁止」
「家名は外套と一緒に脱げるものではない」
「なら、脱いでも残るか確かめればいい」
軽い調子だった。
だが、言われた僕の胸には、鎧を剥がされるよりも深い反発が生まれていた。
ヴァルモント家の嫡男として恥じぬ振る舞いをすること。それは幼い頃から僕の内に刻まれてきた。家名は飾りではない。僕がどこから来て、何を継ぐ者なのかを示すものだ。
それを名乗るなと言われ、穏やかでいられるはずがない。
それでも、これは訓練だ。
僕は外套を外し、丁寧に畳んだ。地面へ直接置く気にはなれず、入口脇の平らな岩へ載せる。
「これでいいだろう」
「次は鎧」
胸当てを外した。
肩当て、籠手、腰を守る装甲も、順に取り外していく。留め具が外れるたび、身体が不自然なほど軽くなった。
残ったのは、薄手の戦闘衣と長靴、そして銀槍だけだった。
鎧の重みは動きを鈍らせるものではない。僕にとっては、踏み込みの均衡を支える一部でもある。普段と違う軽さは、速く動けるという解放感より、重心の拠り所を失った不安をもたらした。
「最後にこれ」
ロビンフッドが取り出したのは、濃緑の布だった。
「目隠しか」
「途中で外したら、その時点で失敗だ」
布が両目を覆い、後頭部で固く結ばれた。
視界が閉じた瞬間、森の広さを測る基準が消えた。
足元の土が、それまでより深く靴底へ沈み込む。
湿っている。表面だけではない。踏み込めば、柔らかな層がわずかに横へ逃げた。
肩へ小枝が触れた。
鎧があれば、音さえ意識しなかったはずの接触だった。細い先端が戦闘衣を擦り、露出した首筋へ冷たい空気が流れ込んでくる。
右から葉の擦れ合う音。
少し遅れて、頭上のどこかで木の実が枝を二度叩いた。落下し、湿った土へ小さく埋まる。
自分の呼吸が、ひどく大きい。
鼓動まで耳の奥で鳴り、森の音を押し退けようとする。
僕は銀槍の石突きを地面へつけた。
硬いものへ触れた振動が槍身を走り、掌へ届く。土のすぐ下に、太い根があるらしい。
空いた左手を伸ばすと、樹皮の割れ目へ指先が食い込んだ。乾いたささくれが刺さり、鋭い痛みが走る。古い樹脂の匂いが鼻へ届いた。
見えていたときには、どれ一つ意識していなかった。
ロビンフッドの声が、すぐ耳元で響いた。
「日が沈むまでに、森のどこかにいる本物の僕を見つけろ」
「それだけか?」
「それだけ」
肩を押された。
一歩先へ踏み出した靴が、湿った土へ沈む。
次の瞬間には、ロビンフッドの足音が消えていた。
森へ放り出されたのだ。
僕は銀槍を握り直した。
鎧がない。
視界もない。
家名さえ、ここでは名乗れない。
それでも、槍はある。
ならば十分だ。
「ここだよ、レグルス」
正面から声がした。
足音も続く。軽い。距離は十歩ほど。
僕は反射的に腰を落とした。
見えなくても、相手より速く動けばいい。
音がした場所へ、最短距離で届けばいい。
一歩目で湿った土を蹴抜き、二歩目へ風を重ねる。銀槍へ沿わせた空気が抵抗を削り、穂先から腕、肩、背へ至るすべてが一本の直線へ結ばれた。
声の中心へ、迷いなく突き込む。
手応えがない。
肉も、骨も、衣服も捉えなかった。
代わりに、無数の葉が穂先へ当たり、風に巻かれて僕の頬と腕を打った。
分身体。
そう認識した直後、足元で木の杭が跳ねる音がした。
縄が弾け、地表の土が前方へ崩れる。
踏み込んだ左足が滑った。
身体が頭から斜面へ投げ出されかける。僕は銀槍を横へ突き立てた。穂先が太い根へ食い込み、槍身が大きくしなった。
両手へ衝撃が走る。
僕は槍を支点に身体を引き戻したが、完全には止められなかった。肩が枝の束へ突っ込み、戦闘衣を突き破った先端が上腕を浅く裂く。
「くっ……!」
温かなものが皮膚を伝った。
足元へ落ちた小石が斜面を転がり、何度も根や幹へ当たりながら遠ざかっていく。
もし銀槍を突くのが一瞬遅れていれば、僕も同じように転げ落ちていた。
声がした場所へ、僕が一直線に突っ込む。
それを前提として、罠が置かれていたのだ。
肩を押さえながら立ち直ると、別の場所から笑いを含んだ息が漏れた。
僕は即座に風を練った。
周囲の空気を一気に膨らませ、葉も低木もまとめて吹き払う。分身体が木の葉と風で形作られているなら、強い風へ耐えられない可能性が高い。
森全体を揺らす出力へ達する、寸前。
僕は魔力を止めた。
膨らみかけた空気が、首筋と袖口を抜けて散っていく。
湿った土には、踏み込んだ者の足跡が残る。
折れた細枝も、衣服が擦った葉も、地表を蹴った際の細かな土の崩れもあるはずだ。触れた幹には匂いが残り、動いた身体のあとには、わずかな空気の乱れが生まれる。
ここで強風を放てば、分身体は散らせるかもしれない。
だが足跡は舞い上がった土に埋まり、新たに折れた枝が古い痕跡へ混ざる。擦れた葉も、残った匂いも、移動によって生じた空気の乱れも、すべて僕自身の風で上書きされる。
探すべき証拠を、自分で消すことになる。
「吹き飛ばさないのかい?」
遠くから、ロビンフッドの声がした。
「君の得意技だろう?」
僕は答えなかった。
広がりかけていた風を、完全に収める。
直後、森の音が増えた。
一つ。
二つ。
三つ。
異なる方向から、同じ間隔の足音が生まれる。
四つ、五つ、六つ。
木の枝を踏む音。呼吸。布が葉へ擦れる気配。
七つ、八つ、九つ。
どれも同じ声で、短く僕の名を呼ぶ。
十、十一、十二。
遠近は異なるのに、足運びの癖までよく似ていた。
十三、十四、十五。
最後の一つが、僕の背後を横切る。
十六。
十六体の分身体が、一斉に森を走り始めた。
近いものから追う。
それが最も合理的だ。
僕は左前方の足音を選んだ。
分身体は、細い獣道らしき場所を一直線に逃げていた。足音の間隔が一定で、左右の低木へ触れる衣擦れもない。
僕の槍が最も力を発揮する道だ。
背中へ風を集める。
押しつけるのではなく、踏み込みに合わせて流す。最初の一歩を長く、二歩目を鋭く。銀槍を脇へ引き絞り、足音との距離を一気に削った。
十歩。
八歩。
五歩。
追いつける。
分身体がわずかに速度を落とした。
僕は制動へ移るため、前足の角度を変えた。
その着地点から、空洞を叩く鈍い響きが返ってきた。
遅い。
薄く土を被せた板が割れ、足元が抜ける。
浅い落とし穴だ。
深さそのものは大したことがない。だが僕が最高速度から制動を始める、その一歩だけを正確に狙っている。
銀槍を穴の外へ突き立てた。
石突きを握る手へ反動を逃がし、そのまま身体を浮かせる。穴へ落ちることは免れた。
だが、着地した先で乾いた縄が切れた。
曲げて固定されていた枝が、唸りを上げて戻ってくる。
避ける間はなかった。
太い枝が、先ほど傷つけた肩を横殴りにした。
「ぐっ!」
衝撃で息が止まる。
膝が土へつき、泥が戦闘衣へ染み込んだ。
分身体の足音は、何事もなかったように遠ざかっていく。
「僕が制動する場所まで、読んでいたのか……」
歯を食いしばり、立ち上がる。
肩の奥が脈打っていた。腕は動く。槍も握れる。
まだ続けられる。
今度は二体の足音が、前方で交差した。
一体は右から左へ。
もう一体は左から右へ。
交わった直後、片方だけが地面を強く踏み鳴らした。湿った土を深く蹴る、重い音だ。
軽い足音より、体重の乗った足音の方が本体らしい。
僕は大きな音を選び、追った。
距離は近い。
枝を一つ踏み折った直後、分身体の呼吸が乱れた。
僕は踏み込み、銀槍を突き出す。
また、手応えはなかった。
穂先へ葉がぶつかり、渦を巻いて散る。
同時に、靴の先へ細いものが触れた。
縄だ。
踏み切った勢いで引っかけてしまった。
頭上で滑車が回り、何本もの縄が擦れ合う。空気が上から押し下げられた。
僕は銀槍を頭上へ掲げた。
重い網が槍身へ覆い被さり、そのまま肩と背へ絡みつく。編まれた縄が首へ迫り、腕の動きを奪った。
息を吐き、穂先を外側へ捻る。
一度では裂けない。
槍身へ網を巻きつけ、強く引いた。張り詰めた部分へ穂先を押し当て、二本、三本と縄を断つ。
ようやく片腕が抜けた。
裂け目を広げ、網を振り払う。
その頃には、交差したもう一つの足音は消えていた。
僕は乱れた呼吸を整える。
強い音を選んだ。
それすら、僕に選ばせるための餌だった。
「レグルス。今度こそ、僕かもしれないよ」
今度は、正面やや遠くから声がした。
一体だけだ。
足音が逃げ始める。
僕も追う。
距離は縮まない。
こちらが速度を上げれば向こうも上げ、わずかに落とせば向こうも落とす。決して離れきらず、決して槍の間合いには入らない。
十数歩先。
本気で踏み込めば届く。
そう思わせる距離だけを保っている。
誘いだと分かっている。
だが、このままでは何も変わらない。
僕は銀槍を低く構え、足裏へ風を集めた。
一歩目。
土が後方へ弾ける。
二歩目。
風が背を押す。
三歩目で最高速度へ達した瞬間、左右から弦の鳴る音がした。
鈍矢。
空気を裂く音が、左の脇腹と右の肩へ向かってくる。
僕は銀槍を引き戻した。
最初の矢を槍身で打ち上げる。木が銀へ当たる硬い音が響いた。
続く一矢へ穂先を滑らせ、軌道を外へ逸らす。
三本目は低い。
石突きを振り下ろし、膝を狙った鈍矢を地面へ叩き落とした。
矢を捌いた数呼吸の間に、足音はまた遠ざかっていた。
追おうとした直後、その身体も葉と風へ崩れる音を残して消えた。
僕は追わなかった。
銀槍の石突きを土へ置き、息を整える。
三度とも、相手が僕より速かったわけではない。
最初の分身体は、僕が制動する場所へ穴を掘っていた。
二度目は、大きな足音を追うと分かったうえで、僕が槍を突き出す場所へ縄を置いた。
三度目は、最高速度を出す瞬間を選ばせ、その一点へ矢を集めた。
僕の速さは封じられていない。
槍の直線も、破られてはいない。
ロビンフッドはただ、僕が必ず最短距離を選ぶと知っている。
僕が次に立つ場所を、僕より先に決めているのだ。
「速いからこそ、誘導しやすい……ということか」
認めるのは不愉快だった。
だが事実だ。
最短距離そのものが間違いなのではない。
周囲を確かめる前に最短だと決めつけるから、相手が用意した線へ飛び込むことになる。
そこまで理解しても、解決にはならなかった。
十六の気配は、まだ森の各所を移動している。
どの線が正しいのか分からなければ、選びようがない。
しばらくして、右前方から一つの足音が近づいた。
これまでとは違う。
踏み込む直前、ごく微かに土を押す力が揺れる。片足からもう片方へ体重が移るたび、地面へ伝わる衝撃の間隔がわずかに変わっていた。
完全に同じ音を繰り返す分身体より、生きた身体の足運びに近い。
距離は三十歩ほど。
僕は速度を抑えて追跡を始めた。
足音は逃げる。
それでも、少しずつ距離が縮まっていた。
あと二十数歩。
ここから一気に踏み込めば、届く可能性がある。
そのとき、進行方向とは反対側から、細い息が聞こえた。
あまりにも小さく、一度は葉擦れかと思った。
だが、もう一度。
短く吸い、震えながら吐く。
直後に、爪が土を掻いた。
右前方では、追っている足音が遠ざかっている。
背後では、浅い呼吸が途切れかけている。
僕はその場で立ち止まった。
追えば、まだ間に合う。
今ここで最高速度を出せば、数十歩のうちに槍の間合いへ入れるかもしれない。
だが背後へ戻れば、足音は確実に見失う。
両方は選べない。
家名を示す外套は、森の入口にある。
僕が何をしたか記録する者はいない。
ヴァルモント家の嫡男がここにいると知る者も、勝利を称える観客もいない。
この呼吸を捨てて追跡を続けても、誰にも責められないだろう。
けれど、僕は知る。
僕だけは、自分が何を置き去りにしたのかを知っている。
僕は銀槍の穂先を、遠ざかる足音から外した。
「……そちらではない」
追跡を諦め、浅い呼吸の方へ戻る。
足音はさらに遠ざかり、やがて葉擦れへ紛れた。
代わりに、獣の匂いと、わずかな血の匂いが濃くなる。
銀槍の石突きで足元を探りながら近づくと、太い木材へ当たった。倒木らしい。
手を伸ばし、樹皮を確かめる。
深い割れ目が指へ食い込み、ささくれが皮膚を傷つけた。その下から、小さな身体が激しく震える感触が返ってくる。
柔らかな毛。
指先へ触れた長い耳。
野兎だ。
倒木の下へ手を差し入れると、後ろ脚の一本が挟まっていた。無理に引けば、骨か筋をさらに傷める。野兎が暴れるたび、血の匂いが強くなった。
「暴れないでくれ。すぐに持ち上げる」
言葉が通じるはずはない。
それでも、僕は声を落とした。
倒木の周囲を手と石突きで探る。
少し離れた場所に、地表へ張り出した太い根があった。さらに、拳ほどの石が土へ半分埋まっている。
僕は銀槍の穂先側を倒木の下へ差し込んだ。
槍身を根へ載せる。
支点を作り、石突き側へ体重をかけた。
倒木が、わずかに持ち上がる。
傷ついた肩へ激痛が走った。
歯を食いしばり、さらに押し込む。
槍身が低く軋む。根が土を押す振動が、両手へ返ってきた。
倒木の下に、指数本分の隙間が生まれる。
僕は片足で先ほどの石を寄せた。爪先で角度を確かめ、浮いた隙間へ押し込む。
石が噛んだ。
慎重に力を緩めても、倒木は完全には落ちてこない。
僕は槍から片手を離し、野兎の胸と腹を包むように触れた。挟まれた脚を引かないよう、身体を少しずつ横へ滑らせる。
野兎が甲高く鳴いた。
「あと少しだ」
最後に腰を引き寄せると、傷ついた脚が倒木の下から抜けた。
僕はすぐに身体を土へ下ろした。
呼吸は浅いままだ。
脚へ触れると、骨の位置が不自然にずれている感触はなかった。ただし傷口からは、まだ血が滲んでいる。
治せはしない。
だが、これ以上悪化させないことはできる。
僕は戦闘衣の裾へ穂先で小さな切れ目を入れ、両手で布を裂いた。
細長くした布を折り重ね、傷口へ当てる。強く締めすぎれば血の巡りを止める。指先で脚の温度を確かめながら、ずれない程度に固定した。
野兎は僕へ身を預けなかった。
逃げようとして土を掻き、痛みに震え、また浅い呼吸を繰り返す。
それでいい。
僕に懐く必要などない。
周囲を探ると、太い根が三方へ張り出し、その間だけ土が比較的乾いている場所があった。虫の群れる気配もなく、倒木がさらに転がってくる場所からも離れている。
僕はそこへ野兎を移した。
刺激しないよう、風の出力を可能な限り落とす。
これまで僕は、風を押しつけてきた。
敵を退けるため。
退路を開くため。
銀槍を、より速く、より深く届かせるため。
だが今は、野兎の小さな身体へ強い風を当てるわけにはいかない。
すでに森を流れている空気へ、ごく細い魔力だけを重ねる。
鼻先を通った空気が、どう変わって戻るのか。
僕は急がず待った。
野兎が息を吸う。
鼻先の周囲から、空気がほんの僅かに引かれた。
胸が膨らむ。
それに合わせて前脚へかかる重さが変わり、爪の下の土が微かに沈む。
息を吐く。
温かな空気が僕の指先を撫で、その先にある一枚の葉を揺らす。
胸が戻ると、前脚の力も抜ける。
次の呼吸。
空気が引かれ、胸が動き、土へ震えが伝わる。
そして吐息が葉へ届く。
呼吸。
葉の揺れ。
土の震え。
それらは、別々の痕跡ではなかった。
一つの身体が息をし、重さを支え、周囲の空気と土へ触れることで生まれる、連続した一つの流れだった。
今まで情報がなかったのではない。
僕が速すぎたのだ。
力を放つことばかり考え、戻ってくる変化を待たなかった。
野兎を助けるために追跡を捨て、風を弱め、一つの呼吸へ意識を留めた。
だからようやく、見落としていたものへ触れられた。
僕は野兎から少し離れ、銀槍を手に立った。
森には、もともとの風がある。
幹へ触れて分かれ、葉を撫で、地表の窪みを這い、生き物の呼吸へ引かれ、動いた身体に押し返される風だ。
そこへ自分の風を重ねる。
新たな流れを作るのではない。
消え入りそうなほど細く、自然な風と同じ速さで流す。
そして、戻ってくる変化を受け取る。
最初の一度は、完全な失敗だった。
葉。
枝。
虫の羽音。
地表を走る小さな爪。
鳥が枝から飛び立つ際の羽ばたき。
木の実が落ち、根へ当たり、土へ転がる震え。
幹同士が風で擦れ合う低い響き。
無数の変化が区別なく押し寄せ、耳の奥で膨れ上がった。
「っ……!」
こめかみの内側へ針を差し込まれたような痛みが走る。
胃が持ち上がり、吐き気に膝が揺れた。
僕は風を切り、銀槍へ縋った。
森全体が、巨大な雑音になっていた。
すべてを受け取ろうとしたのが間違いだ。
野兎の呼吸へ戻る。
吸う息。
近くの葉。
土へ移る重さ。
この三つが同じ周期で繋がっているものだけを探せばいい。
僕は銀槍の石突きを、湿った土へ深くつけた。
槍身を通じ、地表と根の震えを掌へ受ける。
穂先の周囲には、細い風を巡らせる。
土から伝わる振動と、空気から戻る変化。その二つを銀槍の一本へ重ねた。
槍が基準線になる。
まずは、すぐ近くの一本だけ。
風が幹へ触れ、二つに分かれる。
片方は粗い樹皮に乱され、もう片方は葉の集まる方へ抜ける。根へは、落ちた木の実の振動が伝わってくる。
次に、その隣の一本。
急がない。
風が枝へ触れる順番と、根を通る震えを一つずつ確かめる。
それから二本の間の地表。
虫が動く細かな震えは、呼吸と繋がらない。
葉が単独で揺れた音にも、重心移動は伴わない。
僕はそれらを追わず、さらに隣の幹へ意識を移す。
一度に森を掴もうとはしない。
一本。
その隣。
根元。
また一本。
知覚したものを形にする必要はなかった。
どこで空気が引かれ、何へ触れ、どの振動と連続しているのか。
ただ、その繋がりだけを辿る。
やがて、十六の足音が再び動き始めた。
同時に十六の呼吸音が生まれる。
布が擦れる。
枝が折れる。
土を踏む。
あらゆる方向から、ロビンフッドの声が僕を呼んだ。
先ほどより近い。
だが、僕は追わなかった。
一つ目の分身体が、息を吸う音を立てる。
周囲の空気は引かれていない。
二つ目が、大きく息を吐く。
その直後も、近くの葉は同じ周期で揺れ続けている。
三つ目は地面を強く踏む。
衝撃そのものは槍身へ届くが、呼吸に伴う重心移動がない。音だけが一歩ずつ切り離されている。
四つ目は衣擦れを響かせながら右へ動く。
けれど、身体に押されたはずの風は反対方向へ抜けた。
どれも精巧だった。
足音も、吐息も、枝を踏む音もある。
だからこそ、一つずつ聞けば本物と変わらない。
だが繋がっていない。
吸った音が空気を引かず、吐息が葉を揺らさず、足音が呼吸による重心の変化を土へ渡していない。
十六体すべてが、生命の痕跡を別々に真似ている。
ならば本体は、その十六の中にはいない。
僕は最も大きな音から意識を外した。
最も近い足音も捨てる。
森の騒音の隙間へ、細い風を通す。
一つ。
十六の偽りとは別に、空気がごく僅かに引かれた。
場所は遠くない。
僕が最初に追跡を始めた辺り。
樹脂の匂い。
深く割れた樹皮。
地表を押し上げる太い根。
目隠しをされた直後、指へささくれを刺した古い木だ。
ただし、呼吸は根元からではない。
幹を伝う振動を辿る。
地面から離れた枝へ、一定の重みがかかっている。
息を吸う瞬間、その荷重がほんの僅かに変わった。
空気が引かれる。
胸の動きとともに重心が揺れ、枝から幹へ微細な震えが落ちてくる。
ゆっくり吐かれた息が、すぐ近くの葉を一度だけ揺らした。
さらに小さく、呼吸とは異なる周期の振動。
心拍。
十六体とは別の、十七番目。
ほとんど動かず、古木の高い枝から分身体を操っている一つの身体。
ロビンフッドは、森の奥へ逃げてなどいなかった。
僕が偽物を追って走り回る間も、最初の場所の近くにいたのだ。
十六の足音が、一斉に僕へ向かってきた。
前後左右から、呼吸と衣擦れが迫る。
地表では縄が張られ、頭上では滑車が回り始めた。複数の弦が、ほとんど同時に鳴る。
罠と鈍矢。
分身体まで、四方から間合いへ入る。
以前の僕なら、一番近い足音へ突進していた。
あるいは、風で何もかも吹き飛ばしていただろう。
だが今は動かない。
靴底から伝わる土の沈み方を待つ。
右足の先に、わずかな空洞の響き。
半歩だけ左へずらす。
足元の板が僕のすぐ横で割れ、土が浅い穴へ落ちた。
背後で縄が張る。
石突きを地面から数寸だけ浮かせ、足首へ迫った細縄を槍身で押し下げる。そのまま一歩またいだ。
上から網が落ちてくる。
空気が押し下げられる方向へ逆らわず、上体を低くし、右へ一歩だけ滑る。網の端が傷ついた肩を掠め、地面へ重く落ちた。
左から二本。
右から一本。
鈍矢が空気を押し分ける。
僕は銀槍を大きく振り回さなかった。
穂先で一矢を逸らし、槍身を僅かに返して二矢目を弾く。最後の一本には半歩だけ退き、頬の先を通過させた。
背後の幹へ鈍い音が突き刺さる。
分身体の足音が、すぐそばを駆け抜けた。
僕は突かなかった。
別の一体が大声で僕を呼ぶ。
無視する。
最も近い気配が、踏み込む音を立てる。
それも無視した。
十六体すべてを倒す必要はない。
探すべきものは、初めから一つだけだ。
僕は銀槍の石突きを土から離した。
地面からの情報が途切れる。
それでも、もう場所は失わない。
古木の幹を通る震え。
息を吸うたびに変わる枝の荷重。
吐息に押される一枚の葉。
その三つが繋がる一点へ、身体を向ける。
肩は熱を持ち、腕の傷には乾きかけた血が張りついている。
戦闘衣の裾は裂け、胸も膝も泥に濡れていた。
鎧がないため、冷え始めた風が布越しに直接肌へ届く。
紋章もない。
僕がこの森で何を選んだのか、見届ける者もいない。
それでも僕は、倒木の下の呼吸を捨てなかった。
家名が僕を高潔に見せてくれるのではない。
誰も見ていない場所で選んだものを、いつか胸へ戻す紋章に恥じないものにする。
それだけでいい。
僕は速さを捨てない。
銀槍の直線も捨てない。
ただ、相手に用意された最短距離へ飛び込むのは終わりだ。
風を受け、葉を聞き、土の震えを繋ぎ、自分で正しい一点を選ぶ。
後ろ足へ重心を置く。
傷ついた肩を引く。
銀槍の穂先を、古木の高所にある最も静かな呼吸へ向けた。
「君が隠れるなら、僕は森ごと君を見つける」
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から、作品の応援をお願いいたします。
面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークといただけると本当に嬉しいです。
何卒よろしくお願いいたします。




