第22話 四人目
「識別番号を読め」
バルト先生から渡された誘導魔石を、僕は朝の光へ透かした。
「二七四一。台帳と同じです」
「術式は?」
「五本。経路確認、現在地測定、帰還方向、緊急信号、個体識別。認証印の下にも異常はありません」
前回は、そこに六本目の黒い術式が隠されていた。
今回は、ティアナとフィアとレグルスも魔石を覗き込む。僕の確認だけで終わらせず、台帳の番号と封印を一つずつ見比べた。
腰には紙の地図。
鞄には、壁へ取り付ける手動式の帰還標識が入っている。
迷宮入口の先では、以前より多くの監視水晶が青白く光っていた。
「改竄が見つかった区画は封鎖中だ。今日入る浅層は、教師陣が二度検査している」
バルト先生が四人を見渡す。
「異常を感じた時点で中止しろ。これは恐怖を克服する試験じゃない。確認済みの区域で、正しい手順を踏めるかを見る実習だ」
目的は三つ。
三か所の調査札を回収すること。
管理されたF級魔物へ捕縛札を取り付けること。
そして、四人全員で戻ること。
「行ってきます」
僕たちは、もう一度学院迷宮へ足を踏み入れた。
石と湿気の匂いは、数日前と変わらない。
足音が反響しただけで、落下した時の感覚が胸の奥へ蘇った。
隣を見ると、ティアナの指も一瞬だけ強く握られている。
フィアは曲がり角の手前で足を止めた。
「見てくる」
雷は使わない。歩いて角の先を確認し、十数秒で戻ってきた。
「正面は行き止まり。右が正規経路。動くものはいない」
レグルスが右の通路へ弱い風を流す。
「先から戻ってきた。奥に空洞はあるが、側道はない。後方にも異常なし」
「地図とも合ってる」
僕が誘導魔石を向けると、青い光は右を指した。
ティアナは壁際へ小さな種を落とす。二枚の葉が開き、入口の方向へ傾いた。
その横へ、手動の帰還標識も打ち込む。
「二つも必要?」
僕が尋ねると、ティアナは土を払って立ち上がった。
「必要じゃなくても残すの。一つが嘘をついた時、もう一つに聞けるでしょ」
「賛成だ」
レグルスは短く答え、前へ向き直った。
一つ目の調査札は、崩れた柱の裏にあった。
罠はない。
僕が札の識別印を確認し、ティアナが鞄へ収める。
二つ目の確認地点では、通路の途中に四角い石板が並んでいた。
奥の台座に調査札が見える。
「時間式の沈下床」
石板の縁に刻まれた術式を指でなぞる。
「最初の一枚を踏むと、奥から順に沈む。向こうへ着くまで六秒くらい」
「私なら取れる」
フィアが言った。
「でも、今回はアルトが試すんでしょう?」
「失敗したら引き戻してほしい」
「もう巻いてるよ」
いつの間にか、細い蔦が僕の腰を一周していた。
蔦の反対側をティアナが両手で持ち、その後ろでレグルスが支える。
「止まれない前提なのね」
「練習では一度も止まれてないから」
「自信満々に言うことじゃないよ」
僕は沈下床の手前へ立った。
地面を蹴る時まで、摩擦は残す。
短距離加速は一歩だけ。
その直後に、両方の靴底へ摩擦軽減を重ねる。
「行くよ」
石板を踏んだ。
低い音が鳴り、奥の床が沈み始める。
僕は地面を蹴った。
短距離加速。
身体が前へ押し出された直後、靴底から抵抗が消える。
足を動かしていないのに、景色だけが後方へ流れた。
訓練よりも速い。
使った魔力は、普通に短距離加速を繰り返すより少ない。
沈む石板を通過し、台座の調査札を掴む。
「取った!」
けれど、その先には石壁がある。
摩擦を戻せば、足だけが急停止して頭からぶつかる。
戻さなければ、そのまま壁へ衝突する。
「ティアナ!」
「分かってる!」
腰の蔦が張った。
身体が前へ引かれたまま宙へ浮き、鼻先が壁へ触れる寸前で止まる。
反動で後ろへ戻され、僕は床へ尻をついた。
「成功?」
ティアナが首を傾げる。
「札は取れた」
「停止は?」
「できてない」
「じゃあ半分」
フィアが僕の手から調査札を受け取る。
「一人なら壁に衝突していた。今は移動魔法ではなく、ティアナとの連携」
「うん。まだ一人じゃ使えない」
腰の蔦を外しながら、僕は滑走痕を振り返った。
それでも、少ない魔力で以前より遠くへ進めた。
次に直すべき場所も、はっきりしている。
三つ目の調査札を回収した先に、捕縛区画があった。
円形の石床。その中央に、捕縛札を作動させるための印が描かれている。
反対側の鉄格子が上がった。
現れた魔物を見て、僕たちの足が揃って止まった。
僕の膝ほどの高さしかない、小型の蜥蜴型魔物。
背中には茶色い鱗が並び、喉元には魔力を溜める袋がある。
異常成長した鎧蜥蜴とは、比べることさえできない。
それでも、床を擦る爪の音が同じだった。
フィアの右手が細剣を強く握る。
レグルスの銀槍に残った亀裂が、照明石の光を受けた。
誰も大丈夫だとは言わなかった。
フィアが一歩だけ前へ出る。
「右へ誘導する」
「僕は反対側を塞ぐ」
レグルスが左へ回る。
ティアナは捕縛地点の近くへ種を二つ落とした。
僕は魔物の身体と、喉元の魔力の動きを見る。
「来る」
フィアが細剣の切っ先を床へ向けた。
細い雷が石を走る。
蜥蜴型魔物は光へ反応し、フィアを追って右へ向きを変えた。
彼女は一人で突き込まない。
魔物との距離を保ちながら、捕縛地点へ進路を曲げていく。
逃げようとした後脚へ、ティアナの蔦が絡んだ。
強く縛るのではない。
引いたのは一瞬だけ。
魔物の腹が床へ落ち、身体が傾く。
「レグルス!」
風を纏った銀槍が、その脇腹へ滑り込んだ。
穂先ではなく、槍の柄が魔物の身体を押す。
レグルスは倒そうとせず、崩れた姿勢を利用して捕縛地点へ押し込んだ。
槍の石突に挟んでいた札を、魔物の背中へ押し当てる。
青い術式が広がった。
捕縛まで、あと数秒。
蜥蜴型魔物の喉が大きく膨らむ。
「魔力弾!」
顔が向いた先には、蔦を維持しているティアナがいた。
両手を使っている。避けられない。
僕は二人の間へ飛び込んだ。
青白い魔力弾が吐き出される。
剣で横へ弾けば、その先にはティアナがいる。
受け止めきれば、今の僕の腕では押し負ける。
身体が考えるより先に動いた。
一つを、一呼吸だけ。
左腕の紋章を開く。
魔力弾が剣へ触れる寸前、その輪郭が崩れた。
青白い光が黒い糸へほどけ、剣の腹へ巻きつく。糸は制服と手袋の下を抜け、左腕の紋章へ吸い込まれた。
魔力弾だけが消えた。
「今のは……」
フィアの声が聞こえる。
答える前に、腹の中が潰れた。
「うっ……!」
膝をつく。
胃が裏返るような空腹。
吐き気が込み上げ、冷たい汗が首筋を流れる。
喰った魔力は、ほんの一口だった。
それなのに左腕は、次を探して脈打っている。
『足りぬ』
捕縛術式の中でもがく蜥蜴型魔物から、濃い匂いがした。
『獣も喰え』
その近くに、ティアナの蔦がある。
緑色の魔力が、蜜を垂らした果実のように見えた。
フィアの雷は舌を刺す香辛料。
レグルスの風は、冷たく澄んだ水。
『近くに、もっと甘いものがある』
蔦の先にいるティアナまで、一つの温かな食べ物のように感じかける。
僕の左手が、蔦へ伸びた。
『口を閉じるな』
右手で左手首を掴む。
「五歩……離れて」
ティアナの表情が止まった。
けれど、問い返さなかった。
「分かった。フィア、レグルスも五歩離れて」
蔦の魔力が消える。
同時に捕縛札の術式が閉じ、蜥蜴型魔物の四肢を青い帯が拘束した。
魔物は倒れ、喉の光も消えた。
それでも空腹は残っている。
ティアナが携帯食と水筒を床へ置き、土を少し盛り上げて僕の近くまで滑らせた。
自分は五歩の距離を保つ。
僕は硬い携帯食を噛んだ。
胃へ物が入ると吐き気は少し和らいだ。
けれど魔力への飢えは消えない。
一つを、一呼吸だけ。
そして、必ず口を閉じる。
左腕へ爪を立てる。
もっと喰えという衝動を、息を吐くたびに押し戻す。
ようやく紋章の熱が皮膚の奥へ沈んだ時、僕は立ち上がった。
「戻れる?」
ティアナは近づかないまま尋ねた。
「歩ける。理由は、まだ言えない」
「今は聞いてないよ。帰れるかを聞いたの」
「……帰れる」
「なら帰ろう」
帰還路では、レグルスが前へ立った。
フィアは何度も速度を落とし、僕の歩幅に合わせる。
ティアナは僕へ蔦を伸ばさず、石床の段差だけを土で埋めた。
僕も地図を手放さない。
誘導魔石と手動標識を照らし合わせ、三人へ進路を伝え続けた。
僕たちは、制限時間が尽きる少し前に入口へ戻った。
最速記録には遠い。
バルト先生は三枚の調査札と、作動済みの捕縛札を確認した。
「記録は平凡だ」
四人とも黙って聞く。
「だが三つの地点を巡り、捕縛札を作動させ、四人で帰った。今回の合格条件は、それで全部だ」
先生の視線が僕で止まる。
「ロウェル。顔色が悪い。報告を終えたら医務室へ行け」
「はい」
「魔力弾を剣で消した件も検査してもらえ。妙な受け方をして経路を傷めていないか確認しろ」
暴食に気づいた様子はない。
監視水晶には、魔力弾を剣で受けたようにしか映らなかったらしい。
実習の終了を告げられ、僕たちは装備を片づけた。
今回で臨時班は解散できる。
そう聞いても、誰もすぐには帰らなかった。
「次の実習申請にも、僕の名前を書け」
レグルスが沈黙を破った。
銀槍の亀裂へ指を添えている。
「まだ、あの敗北を返していない。この四人でなければ確かめられないことがある」
「これからも四人で組むってこと?」
ティアナが尋ねる。
「必要だから申請する。それ以上の意味はない」
「私は構わない」
フィアは淡々と答えた。
「レグルスが前にいると、後方確認を任せられる」
「僕も賛成だよ」
僕が言うと、ティアナが笑った。
「じゃあ、レグルスが四人目だね」
「僕が最後に付け足されたような言い方はやめろ」
「実際、最後に入ったでしょ?」
レグルスは不満そうに眉を寄せた。
けれど、自分が四人目であることは否定しなかった。
学院へ戻ると、中央広場が騒がしかった。
何人もの生徒が、大型の掲示板を校舎前へ吊り上げている。
僕たちが広場へ入った瞬間、太い縄が一本外れた。
「下がって!」
掲示板が生徒たちへ倒れ始める。
二つの輪が空を切った。
次の瞬間、十を超える投擲輪が異なる軌道から飛び込んだように見えた。
そのほとんどは光の幻。
二枚の実物だけが予備の縄を引っかけ、左右の柱へ巻きつく。
掲示板が空中で止まった。
「右側、そのまま結んで! 左の子は板の下から出て!」
明るい声が広場へ響く。
橙色の髪を高い位置で結んだ少女が、戻ってきた投擲輪を両手で受け止めた。
「メルナ!」
ティアナが駆け寄る。
「おかえり、ティアナ。迷宮帰り?」
蜂蜜色の瞳が僕へ向いた。
少女――メルナ・アリエスは、僕の顔とティアナを交互に見る。
それだけで、何かを理解したように頷いた。
「ああ。この子が、ティアナが最近ずっと話してるアルト?」
「え?」
「昨日だけで名前が七回出たけど」
「なんで数えてるの!?」
「四回目から面白くなって」
ティアナの頬が赤くなる。
「僕の話で、そんなに話題があった?」
「アルトは黙ってて!」
「どうして?」
メルナが楽しそうに笑う。
その背後で、固定された掲示板へ光が灯った。
鐘が鳴る。
一度、二度――七度。
校舎の窓を七色の光が駆け上がり、空中へ大きな紋章を描く。
掲示板に鮮やかな文字が浮かんだ。
――七彩祭、開催決定。
武闘大会。
三人迷宮競技。
舞踏会。
魔法展示。
僕の視線は、武闘大会の文字で止まった。
ティアナは舞踏会を見ている。
フィアは三人迷宮競技へ目を向けた。
レグルスだけが、競技人数を見て眉を寄せる。
「三人か」
四人で組むことを決めたばかりなのに、迷宮競技へ出られるのは三人だけだ。
メルナがティアナの耳元へ顔を寄せる。
「舞踏会、誰を誘うか分かってるよね?」
「ま、まだ何も決めてないから!」
七色の光の下で歓声が重なる。
僕たち四人が初めて同じ場所へ立った日、次の競争を告げる鐘が学院中へ鳴り響いていた。
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
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