第21話 槍を折らない理由
銀槍の中央に、細い亀裂が走っていた。
鎧蜥蜴の尾を受け止めた場所だ。
槍は訓練場の机へ横たえられ、その傷だけが朝の光を黒く断ち切っている。
「頼みがある」
レグルスは、槍の向こうから僕たちを見た。
昨日の負傷で左腕を布に吊り、制服の下には肋骨を固定する帯を巻いている。それでも姿勢だけは崩していなかった。
僕の胸と右脚にも包帯がある。
ティアナは肩を固定し、フィアの右手には新しい包帯が巻かれていた。
ここにいる全員が、あの空洞から無傷では帰れなかった。
「あの鎧蜥蜴へ通した一撃を、もう一度組み立て直したい」
「再戦するの?」
ティアナが尋ねる。
「今すぐではない。そもそも、あれは学院側が拘束している」
レグルスは亀裂へ指を添えた。
「僕一人が敵を倒す方法ではない。四人の攻撃を通す方法を考える」
そこで一度、言葉を切る。
誰かへ何かを頼むことに慣れていないのだと思う。
「力を貸してくれ」
命令でも挑戦でもなかった。
僕たちは、すぐには返事をしなかった。
あの鎧蜥蜴の爪が振り下ろされる光景を、僕もまだ夢に見る。
正しい判断をした。間違った作戦を選んだわけでもない。
それでも僕たちは負けた。
「分かった」
最初に答えたのはフィアだった。
彼女は机へ近づき、銀槍の亀裂を包帯の巻かれた指でなぞる。
「でも、その槍は交換した方がいい。実戦中に折れれば、次は腕では済まない」
「壊れたまま使うつもりはない。今日、工房へ持ち込む」
「なら、新しい槍にすればいい」
「修復することと、傷を消すことは違う」
レグルスの声に迷いはなかった。
「芯を入れ直し、強度も補う。だが、表面の亀裂は残す」
「どうして?」
「守るために受けた傷なら、この槍から消すつもりはない」
フィアの視線が、わずかに止まった。
その傷は、レグルスが彼女を尾から庇った時についたものだ。
けれどフィアは礼も謝罪も口にしなかった。
「次は、槍に受けさせる前に避ける」
「そうしてくれ。何度も同じ場所を修理する気はない」
会話はそこで終わった。
二人らしい答え方だった。
「じゃあ、始めようか」
ティアナが訓練場の土へ片手を触れる。
盛り上がった土が形を変え、机の上へ小さな鎧蜥蜴を作った。
四本の太い脚。大きな尾。開閉できる喉元の鱗まである。
さらに僕たちを模した四体の小さな人形が並んだ。
「ずいぶん細かいね」
「昨日、寝ながら何度も考えたから」
ティアナは鎧蜥蜴の後脚へ蔦を巻きつける。
フィアの模型が正面から横へ移動し、鎧蜥蜴の頭を向けさせた。
僕の模型が喉元へ近づき、鞘で鱗を押し開く。
最後に、レグルスの模型が槍を突き入れた。
「ここまでは、できていた」
槍先は確かに喉へ届いた。
僕たちの攻撃は外れていない。
でもティアナが鎧蜥蜴の模型へ触れると、槍で開いた穴が土に埋められていく。
再生。
その直後、尾が振られ、四体の模型がまとめて倒された。
「私は、後脚を長く止めようとしすぎた」
ティアナは蔦の模型を短くした。
「長く拘束できたとしても、あの魔力ならすぐ破られる。必要なのは、フィアが動く一瞬だけだったんだと思う」
余った蔦が、倒れた僕の模型の近くへ置かれる。
次の防御に回す余地だ。
「私はここにいた」
フィアが自分の模型をつまみ、鎧蜥蜴の頭より遠い位置へ置いた。
「速さを全部、注意を引くために使った。槍が届いた時、私は次の攻撃へ戻れない」
「でも、フィアがいなければ喉元は開かなかった」
「だから注意を引かない、ではない。引いた後にどこへ抜けるかを決める」
模型が鎧蜥蜴の背後ではなく、僕の反対側へ移された。
レグルスは、自分の模型を見つめていた。
槍は喉へ届いている。
四人の中で、唯一攻撃らしい攻撃を通した位置だった。
それなのに、模型の槍使いは再生が始まったあとも動けない。
「僕は、自分の槍が最後の一撃になると決めつけていた」
レグルスが静かに言った。
「喉を貫けば終わる。その前提で、三人の動きを自分の一突きへ集めた」
「僕も同じだよ」
鱗を開いている僕の模型は、剣を抜ける姿勢ではなかった。
「レグルスの槍が届けば終わると思った。だから、その後に僕がどこへ動くか考えてなかった」
誰か一人の失敗ではない。
僕たちは全員で、一つの攻撃を最後にしてしまった。
再生された時、次の一撃を持つ者がいなかった。
「一度で倒せない相手なら、次へ渡すしかないね」
ティアナが倒れた模型を起こす。
「私からフィアへ。フィアからアルトへ。アルトからレグルスへ」
「そこで終わらせず、また次へ渡す」
フィアが自分の模型を、レグルスの後方へ置いた。
形は見え始めた。
けれど、土の模型でできることと、僕たちの身体でできることは違う。
その日は負傷が残っていたため、立ち位置を確かめるだけで終えた。
数日後。
医務室から軽い運動の許可が出ると、僕たちは木製の鎧蜥蜴を相手に動作を再現した。
「始めるよ」
ティアナの蔦が、標的の後脚へ巻きつく。
拘束は一瞬。
蔦が緩む前に、フィアが左から入り、細剣の鞘で頭部を横へ押した。
僕が反対側から近づき、腰の鞘を装甲板の隙間へ差し込む。
レグルスの訓練槍が、その隙間を引き継いだ。
前回なら、ここで刺突が入って終わりだった。
今回はレグルスが槍を横へひねり、装甲を開いたまま保持する。
「アルト、戻れ」
「うん!」
僕は鞘を手放し、二歩下がって剣を抜く。
再び近づくために身体強化を使い、足へ短距離加速の魔力を集めた。
踏み込む。
剣先が装甲の内側へ入るより先に、仕掛けられた板が閉じた。
鈍い音とともに、僕の剣が弾かれる。
「遅い」
フィアが告げる。
分かっている。
鱗を開くために接近し、いったん離れ、もう一度攻撃位置へ戻る。
それだけで、僕は二度も加速へ魔力を使う。
「出力を上げれば届く。でも、それだと次が残らない」
「お前の魔力量ではな」
レグルスが地面へ槍先で線を刻んだ。
開始位置から標的までの距離を見て、僕は考える。
速く動くために、より強く身体を押し出す。
それでは今までと同じだ。
強く押せないなら、押し出した力を失わなければいい。
「摩擦を減らしたらどうかな」
「床を滑るの?」
ティアナが靴底を見る。
「地面を蹴る時は、そのまま。短距離加速を使ってから、靴底の摩擦だけを弱くする。勢いが落ちなければ、少ない魔力でも遠くまで進めるはずだよ」
「止まる時は?」
「……摩擦を戻す」
「今の間が不安」
不安は正しかった。
一度目。
僕は地面を蹴る前に摩擦を減らしてしまい、右足だけが後ろへ滑った。
「わっ」
剣を抜くことすらできず、胸から地面へ倒れる。
二度目。
蹴った直後に摩擦を減らすことには成功した。
けれど右の靴底だけ発動が早く、身体が横へ回転する。
ティアナの作った柔らかい土へ、肩から転がり込んだ。
「右と左で、魔力がずれてる」
フィアが僕の足元へしゃがむ。
「蹴る、ではなく、その後。二つを同時にしようとしてるから崩れる」
レグルスが新しく三本の線を引いた。
「ここで踏み切れ。二本目で摩擦を減らし、三本目で戻す」
三度目。
踏み切りには成功した。
短距離加速のあと、両足の摩擦を弱める。
風が頬を撫で、身体が地面の上を滑った。
二本目を越える。
三本目。
摩擦を戻す。
靴だけがその場で止まり、上半身が勢いよく前へ投げ出された。
「ぶっ」
また土へ突っ込んだ。
「停止というより、投擲されてるね」
ティアナが土から僕の顔だけを出す。
「自分で言うのも変だけど、だんだん埋めるのが上手くなってない?」
「受け止める回数が多いから」
四度目。
今度は停止へ意識を向けすぎず、まず滑走だけを揃えた。
踏み切る。
加速。
その直後に、摩擦を弱める。
消費した魔力は、いつもの短距離加速より少ない。
それなのに、身体は停止線を越えても速度を保っていた。
以前より遠い。少しだけ速い。
そして当然、止まれない。
「ティアナ!」
「着地点、できてる!」
柔らかい土の山へ、僕は頭から突っ込んだ。
成功とは言えない。
戦闘中に使えば、敵の前を通り過ぎて壁へ激突するだけだ。
それでも、少ない魔力で遠くまで進めた。
僕の小さな魔法でも、使う順番を変えれば結果は変わる。
その夜、寮の窓辺に灰色の羽が置かれていた。
羽の下の紙には、短く一行だけある。
『左腕を隠したまま来い』
第零層へ着くと、灰鴉は古い祠の前にいた。
傍らには、片手で持てるほどの小さな魔導具が置かれている。
「何があった」
説明もなく知っている様子ではなかった。
僕は鎧蜥蜴との戦いを話した。
暴食を使えば、安定魔石から流れる魔力を喰えたかもしれないこと。
けれど左腕へ意識を向けた時、鎧蜥蜴だけでなく、倒れていた三人の魔力まで食べ物のように感じたこと。
「口を開いたら、僕が二体目の怪物になる気がしました」
「だから使わなかった」
「はい」
「その判断は正しい」
灰鴉は即答した。
「だが、使わないことと、使えないことは違う」
鋭い目が、手袋に隠した僕の左腕へ向く。
「拒み続けるだけでは制御とは呼ばん。飢えに追い詰められてから初めて口を開けば、お前には閉じられない」
「なら、どうすれば」
「今夜教えるのは、喰い方ではない。閉じ方だ」
灰鴉は魔導具の側面にある取っ手を引いた。
彼自身は魔法を使っていない。
内部へ事前に込められていた魔力が動き、先端へ小さな光が集まる。
「喰うのは、放たれた弾一つだけだ。道具へ噛みつくな」
魔力弾が飛んだ。
僕は左腕へ意識を向ける。
けれど遅い。
弾は肩をかすめ、背後の壁へ当たって消えた。
「今のは、弾ではなく自分の腕を見ていた」
灰鴉が再び取っ手へ手をかける。
「対象を一つに絞れ。口は一呼吸だけだ」
二発目が放たれる。
青白い魔力弾。
魔導具から離れた瞬間、それはもう術者にも道具にも繋がっていない。
あれ一つだけ。
僕は左腕の紋章を開いた。
魔力弾が空中で歪む。
青白い光が黒い糸へほどけ、手袋をすり抜けて紋章へ吸い込まれた。
喰った。
そう理解した瞬間、胃の奥が強く縮んだ。
「うっ……!」
膝をつく。
満たされると思っていた。
実際には逆だった。
胃が裏返るような空腹に襲われ、唾液が溢れる。吐き気と冷や汗で床が揺れて見えた。
魔導具の内部に、まだ魔力が残っている。
革と金属でできた箱が、焼きたての肉よりも甘く、近くに感じられた。
『足りぬ』
ベルゼバスの声が頭蓋の内側を擦る。
『もっと喰え』
左腕が勝手に持ち上がる。
『その中身まで喰らえ』
指先が魔導具へ伸びる。
『口を閉じるな』
「……閉じる」
声にしても、紋章は閉じない。
むしろ一度味わった魔力を探し、熱が肘から肩へ這い上がってくる。
僕は右手で左手首を掴んだ。
灰鴉は魔導具を動かさない。
助け起こしもしない。
ただ、次の弾を放つことなく僕を見ている。
喰う対象は一つ。
時間は一呼吸。
もう終わっている。
僕は歯を食いしばり、開いた紋章を内側から押し潰すように意識した。
黒い熱が抵抗する。
吐き気が込み上げ、喉が鳴る。
それでも魔導具へ伸びていた左腕を、自分の胸へ引き戻した。
紋章の熱が、ゆっくりと皮膚の奥へ沈んでいく。
口が閉じた。
けれど空腹は消えない。
喰った魔力よりも、喰ったことで生まれた飢えの方が、遥かに大きかった。
「今のは制御ではない」
灰鴉が告げる。
「お前は一度、噛みついた口を閉じただけだ。次も閉じられると思うな」
僕は床へ手をつき、荒い息を繰り返した。
左腕はまだ、次の魔力を探して脈打っている。
「覚える規則は一つだ」
灰鴉の声が、飢えの底へ落ちてくる。
「一つを、一呼吸だけ喰え。そして必ず口を閉じろ」
「面白かった!」
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