第219話「怒っていい」
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
魔剣が、また僕の腕を奪おうとした。
柄が手の中で脈打ち、刃が右へ跳ねる。切っ先の先には、人間の幻がいた。怯えた顔で立ち尽くす男。その喉へ、魔剣は迷いなく吸い寄せられていく。
「っ……!」
両手で柄を引き戻す。靴底が黒い地面を擦り、肩の奥で筋が軋んだ。
止めたと思った次の瞬間、魔剣は逆へ向きを変えた。今度は背後にいる女の胸を狙っている。僕が剣筋を上へ逸らすと、刃は髪のすぐ上を通り過ぎた。
周囲には、何人もの幻が立っていた。
知っている顔も、知らない顔もある。誰も武器を持っていない。それなのに魔剣は、喉、胸、腹と、人の命を断てる場所ばかりを求めて暴れ続ける。
僕の腕が震えていた。
剣が重いからだけではない。胸の内側にある熱が、柄を通して刃へ流れ込んでいるのが分かった。
怒りがあるから、魔剣が暴れる。
なら、怒らなければいい。
僕は息を吐き、頭の中に浮かぶ言葉を一つずつ押し潰した。
器と呼ばれたのは、僕が危険だからだ。
実際に僕の中には、人を喰らおうとする力がある。警戒されるのは仕方がない。
星冠教団に通信を遮断されたことも、もう過ぎたことだ。失った時間は戻らない。今さら怒っても何も変わらない。
傷や異変を隠したのは、仲間を心配させたくなかったからだ。迷惑をかけたくなかった。悪気があったわけではない。
レイシアが帰ってこなかったのも、仕方がない。
彼女は水蝶騎士団の団長で、七大魔法騎士だ。僕一人より、ずっと多くの命を守らなければならなかった。
仕方がない。
全部、仕方がなかった。
そう繰り返すたび、胸の熱が薄くなっていく。
魔剣の震えも、少しずつ弱まった。
黒かった地面が灰色になる。幻たちの服も、肌も、髪も、色を失っていく。遠くで誰かが何かを叫んでいたけれど、声は水の底から聞こえる音のようにぼやけ、言葉として頭に入ってこなかった。
剣を握る手には、いくつも傷ができていた。
指の付け根が裂け、薄く血が滲んでいる。それが自分の手だとは分かるのに、痛みは他人のもののようだった。
怖くない。
焦りもしない。
悲しくもない。
魔剣の切っ先が、ゆっくりと下がった。
できた、と思った。
けれど、安心はしなかった。安心というものが、どんな感覚だったのか思い出せなかった。
目の前には人がいる。
斬らずに済んだ。
それなのに、なぜ斬ってはいけないのか、その理由が浮かばない。
守りたいとも思わなかった。
灰色の景色の奥で、硬い音がした。
黒い鎖が地面を這っている。
鎖は幻たちの背中へ繋がり、そこから枝分かれして手首や足首に巻きついていた。鎖が引かれるたび、幻たちの身体が不自然に揺れる。
その向こうに、レイシアが現れた。
片膝をつき、片手を地面についている。白い衣装の脇腹には裂け目があり、肩で浅く息をしていた。
本物ではない。
試練が作った幻だ。
そう理解した直後、僕の左にいた男の鎖が張った。
男の右足が前へ運ばれる。握らされていた剣が持ち上がり、その切っ先がレイシアへ向いた。
動きは見えていた。
鎖が肩を引き、肘が伸びる。振り下ろされる場所も分かる。
僕が一歩踏み出せば、間に合う。
けれど、足は動かなかった。
レイシアを傷つけようとする相手へ怒れば、魔剣がまた暴れる。
怒りさえ抱かなければ、僕は誰も斬らずに済む。
それに、これは幻だ。本物のレイシアではない。
男の剣が振り下ろされた。
刃がレイシアの肩を掠め、白い布に赤い線が走る。レイシアは声を上げず、傷を押さえて膝をついた。
僕を責める言葉はなかった。
だからこそ、僕が動かなかったという事実だけが、灰色の景色に残った。
「よくできた」
《憤怒》の声が、頭上から落ちてきた。
「誰も憎まず、誰も守らなかった」
「怒ったら、魔剣が人を斬る」
声にしたはずなのに、自分の言葉まで遠かった。
「だから、消すしかない」
「剣が引いた。だが、斬ると決める腕まで剣のものか」
「僕が止められなければ同じだ」
「怒りを悪と決めれば、お前は何も選ばずに済む」
魔剣の切っ先が、地面に触れた。
《憤怒》の声だけが、鈍く胸へ響いた。
「俺は斬れとは言っていない。何を許せないのか、見ろと言っている」
「何を……許せないのか」
「誰に怒っている」
「分からない」
それは嘘ではなかった。
怒ってはいけないと思うことには慣れていた。けれど、自分の怒りがどこへ向いているのかを、僕は一度も正面から見てこなかった。
「見ろ」
黒い鎖が軋んだ。
その音を聞いた途端、「器」という呼び声が蘇った。
名前を呼ばず、僕の中にあるものだけを見ていた人たち。僕が何を考え、何を選び、誰と歩いてきたのかを確かめる前から、中身のない容器のように扱った人たち。
「僕は、器じゃない」
その答えは、もう知っている。
僕はアルト・ロウェルだ。
けれど、それだけではなかった。
「僕を器と呼んだ人たちに、怒っていた」
危険を調べられることが許せないわけではない。必要な監視や制限まで拒みたいわけでもない。
それでも、僕の名前も意思も、積み重ねた選択も見ずに、最初から人間ではないものとして扱われたことが許せなかった。
「他には」
「星冠教団」
答えると、胸の奥に小さな熱が戻った。
「教団は、レイシアとの通信を遮断した」
奪われたのは、魔法鏡が繋がる機会だけではない。
届くはずだった声。
伝えられたはずの言葉。
互いに忘れられたのだと思わずに済んだ年月。
一人で待たなくてもよかった夜。
「レイシアは、ずっと送ってくれていた。僕も、声を聞きたかった。教団は、その時間を奪った」
戻らないから怒っても仕方がないと、何度も飲み込んだ。
でも、戻らないことと、奪われたことを許すのは同じではなかった。
「まだある」
魔剣を握る傷が痛み始めた。
「僕自身にも、怒っている」
「なぜだ」
「傷を隠した。異変も小さく報告した」
仲間を心配させたくなかった。
僕が我慢すれば、みんなは自分の役割に集中できると思っていた。
けれど、それは違った。
「僕は、仲間から選ぶ権利を奪っていた。僕の状態を知った上で、進むか、止まるか、どう支えるかを決める権利を」
自分が嫌いだからではない。
自分を傷つけたいわけでもない。
間違ったことを、また繰り返したくなかった。
「次は隠さない。痛みを勝手に小さくしない。そのために、僕はあの時の自分へ怒っている」
色のなかった血が、赤さを取り戻した。
指が痛い。肩が重い。膝が震えている。
それでも、さっきよりずっと息がしやすかった。
「それだけか」
《憤怒》が問う。
「教団と、器と呼んだ者と、自分。それだけか」
倒れたレイシアの幻が視界に入った。
「レイシアは悪くない」
僕はすぐに答えた。
「彼女は騎士団長だった。守らなければならない人が大勢いた。何年も僕へ通信を送ってくれていた。届かなかったのは教団のせいだ。レイシアが僕を忘れたわけでも、見捨てたわけでもない」
「悪くなければ、寂しくなかったのか」
喉が詰まった。
レイシアの事情は分かっている。
今も、その考えは変わらない。彼女が騎士団長として背負ってきた責任を、否定したいわけではない。
それでも、孤児院で帰らない足音を待っていた夜まで消えるわけではなかった。
「帰ってきてほしかった」
胸の奥に押し込めていた言葉が、ようやく形になった。
「置いていかれて、寂しかった」
レイシアへ怒っていると認めたら、彼女を責めることになると思っていた。
嫌いになることだと思っていた。
傷つけてもよいと、自分へ許すことになるのだと思っていた。
けれど、違う。
僕はレイシアを愛している。
彼女の事情も理解している。多くの命を守るため、簡単には帰れなかったことも分かっている。
それでも帰ってきてほしかった。
置いていかれたと感じて、寂しくて、怒っていた。
どれか一つを消さなくても、全部、僕の中にあった。
怒ることと、憎むことは同じではない。
怒ることと、傷つけることも同じではない。
怒りは正しさの証明ではない。僕が見ていない事情もある。思い違いをしていることだってある。
それでも、何かが踏みにじられたと感じたことまで消せば、確かめることも、選ぶこともできなくなる。
景色に色が戻った。
黒い地面。白い衣装。赤い傷。濡れたように光る鎖。
同時に、魔剣が跳ね上がった。
柄が掌へ食い込み、刃が目の前の男の首へ走る。
「斬らない!」
肘を落とし、剣筋を肩の外へ逃がす。
幻たちの鎖が一斉に鳴った。
三人が前へ出る。一人は剣、一人は槍、もう一人は短い斧を握らされている。
身体より先に鎖が動いていた。
背中から伸びた黒い鎖が張り、その一瞬後に足が踏み出される。手首へ繋がる鎖が引かれたあとで、武器が振られる。
見るべきなのは人ではない。
人を動かしているものだ。
剣を持つ男が上段から斬りかかってきた。
僕は正面で受け止めず、学院式剣術・第三型《流し月》の低い弧へ相手の刃を乗せた。衝撃を外へ流しながら斜め前へ踏み込み、男の脇を抜ける。
魔剣が男の喉へ戻ろうとした。
肩を引き、手首を返す。力に逆らって止めるのではなく、自分で選んだ線へ刃を運ぶ。
体勢を崩した男の背後で、鎖が伸び切った。
そこへ魔剣を振り下ろす。
硬い手応えのあと、黒い鎖が弾けた。
男の身体から力が抜ける。倒れはしない。剣を下げ、自分の足で立つように静止した。
左から槍が迫った。
穂先を剣の腹で押し、頬の横へ逸らす。続けて斧が脇腹へ振り抜かれた。避けきれず、柄が左脇を打つ。
肺から息が押し出された。
左脇、打撲。呼吸はできる。足も動く。
痛みを小さく呼ばず、今の状態をそのまま数える。
槍の男が再び腕を引いた。背中の鎖が縮み、次の突きへ備えている。
僕は半歩だけ射線へ残った。
穂先が伸びる。
当たる寸前に身体を開き、槍を外へ流した。狙いを外した男の背中で、鎖が限界まで張る。
魔剣は男の胸へ向かおうとした。
僕は切っ先を下げ、踏み込んだ勢いを横へ繋ぐ。刃が鎖だけを捉え、断ち切った。
二人目が静止する。
斧の幻が横薙ぎを放つ。
大きく退けば、レイシアまで道が開く。
僕は低く沈み、踏み込みと重心移動を一線に重ねた。《閃駆》で斧の軌道の下を抜ける。消えたわけでも、飛び越えたわけでもない。刃が通り過ぎるより早く、必要な数歩を進んだだけだ。
幻の横を通る瞬間、魔剣が首筋へ吸い寄せられた。
右肩が引かれる。
僕は肘を畳み、切っ先を首から外す。剣筋を短く作り直し、足首を引いていた鎖と背中の鎖が重なる一点へ刃を通した。
黒い輪が二つに割れる。
三人目も斧を下ろし、その場に立ち止まった。
息が乱れている。脇腹も痛む。魔剣を逸らすたび、前腕の筋が焼けるように熱くなった。
怒りを認めたから、急に強くなったわけではない。
一度でも角度を誤れば、人を斬る。
だから見る。
相手の重心を。
鎖が張る順番を。
自分の足が届く距離を。
そして、刃を通す場所を。
最後の人間の幻から鎖を断った時、背後で金属音が鳴った。
振り返る。
レイシアが立っていた。
傷ついた肩は下がったままなのに、右手には剣が握られている。背中から伸びた一本の太い鎖が、彼女の腕と足を引き上げていた。
剣の切っ先が僕へ向く。
魔剣が、これまでで最も強く暴れた。
僕の中にある怒りを拾い上げ、レイシアの胸へ刃を突き立てようとする。
「帰ってきてほしかった」
僕は怒りを消さなかった。
レイシアが踏み込む。鋭い突きが胸元へ走った。
僕は半身になり、魔剣の腹で彼女の剣を受ける。《流し月》の弧で切っ先を脇へ導くと、刃が服を浅く裂いて通り過ぎた。
「置いていかれて、寂しかった」
魔剣は、近づいたレイシアの首を求めた。
僕は奥歯を噛み、腕を引き戻す。
怒っている相手だから斬るんじゃない。
愛しているからといって、怒りをなかったことにするんでもない。
レイシアの剣が返る。
僕は一歩内側へ入り、鍔元で受け流した。互いの肩が触れそうな距離を抜け、彼女の背後へ回る。
鎖が伸び切った。
魔剣はなおも、振り向こうとするレイシアの背へ向かいたがった。
僕は切っ先を下げた。
少ない魔力を刃の一点へ、一瞬だけ集める。
斬るのはレイシアではない。
彼女の意思を奪っている、最後の鎖だ。
魔剣を振り抜く。
黒い鎖が甲高い音を立て、中央から断たれた。
レイシアの剣が止まる。
彼女はゆっくり腕を下ろした。振り返り、何も言わずに僕を見る。
謝罪も、約束もなかった。
本物のレイシアと話すべきことは、この幻には預けられない。
レイシアの輪郭が淡い光に変わり、静かにほどけていった。
光が消えたあとも、胸の怒りは残っていた。
僕を器と呼び、人として見なかった者たちへの怒り。
届くはずだった声と、孤独にならずに済んだ時間を奪った星冠教団への怒り。
痛みを隠し、仲間の選択まで奪っていた自分への怒り。
事情を理解していても、帰ってきてほしかったレイシアへの怒り。
どれも消えていない。
それでも、魔剣は僕の手の中で暴れなかった。
さっきとは違う。
怒りと一緒に恐怖も悲しみも殺し、守りたい気持ちまで失ったから静かなのではない。
手の傷は痛い。脇腹も疼く。幻を守れてよかったと思える。レイシアが傷ついたことを悔しいと思える。
心は動いている。
怒りも生きている。
そのうえで、僕が斬るものを選んだ。
「一度、選んだだけだ」
《憤怒》の声が響く。
試練の空間は崩れない。黒い地面も、遠くを覆う闇も残ったままだった。
「終わったと思うな。次も同じように選べるとは限らない」
「分かってる」
魔剣は静かだが、屈したわけではない。柄の奥では、まだ獣の鼓動に似たものが脈打っている。
僕は傷ついた両手で柄を握り直した。
「怒っている。だからこそ、何を斬るかは僕が決める」
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