第216話 四つの修行場
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
何度、アルトの名前を呼んだのかは覚えていない。
けれど、戻ってきた鼓動は一度も数え間違えていなかった。
一つ。
二つ。
三つ。
アルトの手首へ当てた指先に、弱い脈が触れる。
少し遅い。それでも確かに、彼自身の心臓が血を送り出している。
「アルト」
呼んでも、閉じた瞼は動かない。
握った手にも力は返ってこなかった。
胸が上下するたび、私は次の呼吸を待った。吐いた。吸った。そのあとに脈を数える。
数拍前まで、そこには何もなかった。
触れていたはずの手首から脈が消え、胸の奥から鼓動が失われた。あの空白だけは、今も指に残っている。
寝台のそばには、赤黒く変質した《魔剣サタン》が置かれていた。
世界樹の根が何重にも絡みつき、刃から柄までを封じている。けれど、ティアナが結んだ緑の紐だけは焼け落ちず、黒い柄から静かに垂れていた。
あれがアルトの剣であった証だけが、そこに残っているように見えた。
「心臓は自力で動いている」
寝台の反対側で、オベイロンが診断術の光を消した。
その声は静かだった。安心させるために事実を曲げることも、恐怖を煽ることもない。
「外から魔力を送り続けなければ止まる、という状態ではない。脈も呼吸も、今のところは保たれている」
「なら、どうして起きないの?」
ティアナが問い詰める。
声は震えていなかったが、寝台の縁を掴む指が白くなっていた。
オベイロンはアルトの額へ手をかざし、僅かに目を細めた。
「魂は肉体から完全には離れていない。接続は残っている。ただし、意識だけが深い層へ沈んでいる」
「戻せないの?」
「私の診断術では届かない」
オベイロンは、はっきりと答えた。
「無理に引き上げれば、帰還の途中にある魂を傷つける恐れがある。今の私に分かるのは、ここまでだ」
「いつ目覚める?」
私が聞くと、彼は首を横に振った。
「断定できない。すぐかもしれない。一日、一月、あるいは、それ以上かもしれない」
指先へ、次の脈が触れた。
弱い。
けれど、消えてはいない。
「ここにいる」
誰かに許可を求めたわけではなかった。
アルトが目を開けるまで、私はここを動かない。
それだけを告げた。
「手を握ることが救いとなる時もある」
セリスティアの声が、世界樹の広間へ静かに響いた。
床を走る根の淡い光が、アルトの寝台へ集まっている。光は胸元、喉、額へ細く伸び、呼吸と鼓動に合わせて明滅していた。
「じゃが、今は違う。世界樹が脈と呼吸、魂との接続を見守っておる。変化があれば、どの修行場にいようと、わらわがおぬしらへ告げよう」
分かっている。
今の私の手が、アルトをこちらへ引き戻しているわけではない。
それでも、指を離せなかった。
「無理に触れれば、かえって深く傷つけることもある。今は待つしかないのじゃ」
「なら、待つ」
「フィアよ。わらわは、その気持ちを否定しておるのではない」
セリスティアは私の正面へ立った。
幼い姿をしていても、その目だけは長い時間を知っていた。五百年前の傷が、今も薄れず残っているような目だった。
「じゃが、同じ場所で待つだけなら、目覚めたアルトは、また一人で全てを背負うことになる」
指先に触れる脈が、一つ進んだ。
「五百年前にも、仲間を守ろうとして、己だけで全てを背負った者がおった。残された者たちは、その背中に追いつけぬまま、多くを失った」
セリスティアの声に怒りはなかった。
嘲りもない。
ただ、同じ光景を二度と見たくないという重さだけがあった。
「おぬしらが傷ついたまま、何も変わらずここにおれば、あの者は目覚めた時、何をすると思う?」
答えは考えるまでもなかった。
アルトは自分の胸や剣より先に、私たちを見る。
ティアナが傷ついていないか。
レグルスが無事か。
セルフィナが何を背負っているか。
そして私の右腕が、まだ剣を振れるのか。
誰かが立てないなら、その分まで自分が立とうとする。
自分の傷を隠してでも、先頭へ出る。
今まで何度も見てきた。
「おぬしは、それを望むのか」
「望まない」
アルトの手首から、ゆっくり指を離した。
脈は消えなかった。
私が触れていなくても、彼の心臓は動いている。
「ならば、ただ待つのではない。目覚めた時、隣へ立てる己になって戻るのじゃ」
「分かった」
右腕を見下ろす。
これまでの戦いで傷つき、固定されていた痕がまだ残っている。指を曲げれば、骨の奥で鈍い痛みが返ってきた。
この腕を理由に、アルトの後ろへ下がるつもりはない。
「強くなる」
世界樹の細い根が、私の右腕へ巻きついた。
淡い光が皮膚から染み込み、熱が筋肉と骨の間をゆっくり進んでいく。固まっていた関節が僅かに軋み、指先まで感覚が戻った。
痛みが全て消えたわけではない。
けれど、剣は握れる。
それで十分だった。
セリスティアが床へ手を触れる。
地の底から響くような音とともに、広間の床が揺れた。
アルトの寝台を中心に、四本の巨大な根がせり上がる。
一本は右へ。
一本は左へ。
残る二本は、寝台の頭側と足側へ。
根は大きく湾曲し、それぞれが別の門を作った。
四つの門の中央に、アルトだけが残る。
けれど、置き去りにする形には見えなかった。
四本の根は全て寝台の下で繋がっている。私たちがどの門へ進んでも、その道はアルトのもとから伸びていた。
最初の門の向こうには、ひび割れた大地が広がっていた。
壊れた魔法陣が幾重にも重なり、その下を複雑な地脈が走っている。光の流れは絡み、途切れ、場所によっては逆向きに巡っていた。
オベイロンが門の前へ立つ。
ティアナはすぐには続かなかった。
「あなたを信用したわけじゃないからね」
「それで構わない」
オベイロンは振り返らなかった。
「信用ではなく、私の術式と判断を検証してほしい。誤りがあれば疑い、止めればいい」
「言われなくても、そうするよ」
ティアナは《魔剣サタン》へ近づくと、根の隙間から伸びた緑の紐へ指先で触れた。
「起きた時、また全部一人でやろうとしたら怒るからね」
返事はない。
ティアナは一度だけアルトの顔を見てから、オベイロンの待つ門をくぐった。
二人の姿が、壊れた魔法陣の向こうへ小さくなっていく。
二つ目の門には、深い森があった。
木々の間を抜ける風は、一瞬ごとに向きを変えている。枝葉が右へ揺れた直後には、足元の草が逆方向へ伏せた。
森の入口で、ロビンフッドが待っていた。
レグルスは折れた木剣の柄を手にしている。
彼は門へ向かう前に、アルトの寝台の横で足を止めた。
「君との勝負は、まだ終わっていない」
アルトの顔を見下ろす横顔に、哀れみはなかった。
「仮に一年眠っていたとしても、僕は待ってやるつもりはない。目覚めた時に差が開いていても、言い訳は認めないよ」
折れた柄を握り直し、レグルスは森へ踏み込んだ。
「随分と厳しい見舞いだな」
ロビンフッドが言う。
「対等でいるための礼儀です」
「嫌いじゃない」
二人の姿は、揺れる木々の奥へ消えた。
三つ目の門の向こうには、さらに深い世界樹の根が見えた。
広間にあるものより遥かに太い根が幾層にも重なり、地の底へ続いている。隙間には青や緑の小さな光が漂っていた。
セルフィナは門の手前で、セリスティアへ向き直った。
「確認します。アルトさんの状態に変化があった場合、私たちにも届くのですね」
「世界樹が捉えられる脈、呼吸、魂との接続の変化であれば、必ず告げる」
「意識が戻ることも分かりますか」
「その兆候を捉えられればのう。じゃが、いつ目覚めるかも、その帰還が必ず傷なく済むかも、わらわには保証できぬ」
セルフィナは少しだけ目を伏せた。
「事実として分かるのは、監視が継続していること。変化があれば、感知できる範囲で通知されること。そこまでですね」
「そうじゃ」
「分かりました」
セルフィナは自分の意思で門の前へ立った。
「では、進みます。待つだけでは、私も同じものをアルトさんへ背負わせてしまいますから」
セリスティアが頷く。
門をくぐる直前、彼女は私へ振り返った。
「おぬしの先に現れる二人は、蘇った死者ではない。魂を呼び戻したものでもない」
「記憶?」
「わらわが目撃し、世界樹が保存しておった記憶じゃ。戦い方、話し方、人格の一部を組み直しておる。わらわが知らぬ過去も、見たことのない力も持ってはおらぬ」
「十分」
「痛みまで偽物とは限らぬぞ」
「それでいい」
セリスティアは僅かに目を細め、セルフィナとともに深層へ降りていった。
広間に残ったのは、私とアルトだけだった。
四つ目の門の向こうには、灰色しか見えない。
私は腰の剣へ触れた。
右手で柄を握る。鈍い痛みは残っているが、握力は戻っていた。剣を抜き、振り、戦うことができる。
寝台へ戻り、最後にもう一度だけアルトの手へ触れた。
温かい。
脈を数える必要はなかった。
「アルト。行ってくる」
指を離す。
閉じた瞼は動かない。
「起きたら、呼んで」
背を向け、四つ目の門をくぐった。
そこには空も壁もなかった。
どこまで見ても、薄い灰色が続いている。
足元だけが演武場の形に平らに固められ、ところどころに巨大な陥没が残っていた。一撃で地面そのものを沈ませたような痕だ。
その周囲には、無数の剣傷が走っている。
浅い傷。深く抉れた傷。直線だけではない。途中で角度を変え、別の傷へ繋がっているものもあった。
私の前方へ、光の粒が集まり始める。
最初に輪郭ができた。
一人は女。
もう一人は、女より大柄な男。
光が肌と衣服を形作り、最後に二人の目へ色が宿る。
魂ではない。
セリスティアの記憶から作られた、過去の影。
それでも、二人から向けられる圧は本物だった。
女が私の顔を見る。
その瞬間、呼吸が一拍だけ止まった。
目が僅かに見開かれ、持ち上がりかけた指が宙で止まる。知らない相手を見る反応には見えなかった。
けれど、女は何も言わない。
男も私の髪へ視線を滑らせ、次に目を見た。
最後に、右手で剣を握る形を凝視する。
「その握り方……」
低い声が途中で途切れた。
「何?」
「いや」
男はそれ以上を話さなかった。
二人とも初めて会うはずなのに、妙に古いものを見定められている感覚があった。
「名前は?」
女が私をまっすぐに見る。
「名前は必要ない」
一歩、前へ出た。
「《鬼神》と呼びなさい」
男は太い腕を組む。
「俺は《破壊神》。それで足りる」
「そう」
異名が何であろうと、やることは変わらない。
私の返事を聞き、《鬼神》の口元がほんの僅かに緩んだ。
笑われたとは思わなかった。
何かを確かめたような表情だった。
「剣を抜きなさい」
《鬼神》は武器を持っていない。
両腕を自然に下ろしたまま、演武場の中央へ立つ。
「最初の課題は一つ。私へ一撃、届かせること」
腰を落とし、鞘へ左手を添えた。
右腕の状態を確かめる。
握れる。抜ける。痛みも動きを止めるほどではない。
問題は腕ではない。
目の前の女から、隙が見つからないことだった。
構えがないから、起こりも読めない。
なら、動かれる前に届かせる。
息を吐く。
つま先、膝、腰、肩、右手。
全てを一本の線へ揃えた。
雷の魔力を脚と剣へ巡らせる。
アルトの《閃駆》に近い発想だった。
別々の動作を速くするのではない。
踏み込み、重心移動、抜剣を一つへ繋ぎ、動作と動作の隙間を消す。
けれど、これはアルトの技ではない。
私の雷と、私の剣で届かせる。
前足で地面を噛む。
次の瞬間、雷が足元を走った。
灰色の床が後方へ流れる。
鞘から抜けた刃が、最短の軌道で《鬼神》の首筋へ向かう。
《鬼神》は動いていなかった。
私より速く退いたわけでも、横へ逃れたわけでもない。
最初から、そこにいた。
私の踏み込みと剣筋が交わる、ただ一点に。
刃が届く直前、《鬼神》の手が上がった。
素手の指が剣身を掴む。
「――っ」
止められた。
正面から力で押さえ込まれたのではない。
私の剣が最も速く、最も軌道を変えられなくなる場所を掴まれた。
《鬼神》の指が、剣身を僅かに捻る。
ほんの僅かな角度だった。
それだけで手首が外へ向き、肘が浮く。肩が前へ引かれ、踏み込んだ右足から重心が外れた。
剣だけを戻そうとしても、もう遅い。
崩れが手首から肘、肩、腰へ一息に伝わっていく。
《鬼神》が私の懐へ入った。
腰が触れる。
肩が押し上げられる。
私の身体は、自分の加速を保ったまま宙へ投げ出された。
速かった分だけ、落下の衝撃も重くなる。
背中が灰色の床へ叩きつけられた。
肺から空気が全て抜ける。
声も出ない。
視界が白く揺れた。
それでも、剣は手放さなかった。
起き上がろうと肘へ力を入れる。
その前に、《鬼神》の足が喉元の直前へ置かれた。
あと僅かに踏み込まれていれば、終わっている。
「一本」
速さで負けたのではない。
速さを一本の線へ集めたことで、その終点を読まれた。
私の最も得意な形が、そのまま崩すための取っ手にされた。
肺へ少しずつ空気を戻す。
剣を支えにして身体を起こした。
「もう一度」
「待て」
《破壊神》が前へ出た。
《鬼神》は足を退き、場所を譲る。
「次は俺だ」
私は同じ構えを取らなかった。
今のまま突っ込めば、同じ場所で止められる。
速さを封じられたなら、その後も戦える形を作る。
剣を身体の前へ置く。
両足で床を捉え、膝を曲げた。重心を低くし、雷の魔力を刃と全身へ分けて巡らせる。
受ける。
流す。
そこから斬り返す。
《破壊神》は武器を持たず、数歩先に立っていた。
巨体に似合わず、足の置き方に無駄がない。
「準備は?」
「できた」
「なら、耐えろ」
《破壊神》が一歩踏み込んだ。
大きな予備動作はない。
後ろ足が地面を押し、力が足首から膝へ上がる。腰が回り、背中が連動し、最後に肩から拳へ集約される。
ただ一度、拳が振るわれた。
狙いは私の身体ではない。
構えた剣の防御だった。
拳が剣身へ当たる。
甲高い音が鳴った。
剣は折れていない。
防げた。
そう判断した瞬間、拳の力が刃を貫いた。
衝撃が柄へ届く。
手首を押し潰し、肘を抜け、肩の奥へ突き刺さる。
身体強化で固めた体幹が軋み、両足の裏まで一つの力が通り抜けた。
受け流す方向がない。
拳は防御の中心へ正確に当たり、剣と腕と身体と足場を一本に繋いでいた。
床を掴んでいた両足が、同時に浮いた。
防御の構えを保ったまま、身体が後方へ飛ぶ。
灰色の地面が何度も視界を横切る。
一度、踵が床へ触れた。
止められない。
二度目に剣先が地面を削った。
それでも勢いは死ななかった。
演武場の端まで吹き飛ばされ、背中から床へ落ちる。
骨の内側で、鈍い音が重なった。
剣はまだ手の中にある。
折れてもいない。
けれど、その剣を持つ腕が動かなかった。
遠くから、《破壊神》の足音が近づいてくる。
一歩。
もう一歩。
起きなければならない。
剣を上げなければならない。
指へ命令しても、返ってくるのは痛みだけだった。
視界の端から黒が広がる。
最後まで立っていた二人の輪郭が消え、私は意識を失った。
目を開けると、淡い緑の光が身体を包んでいた。
世界樹の根が床に術式を描き、その中心に私は横たわっている。
息を吸っただけで、胸と背中が痛んだ。
右腕だけではない。
肩、肋骨、腰、両脚。拳から通された力の道筋が、そのまま身体へ残っていた。
修復はまだ途中だった。
肘を立てようとしても、身体が持ち上がらない。
剣は手の届く場所に置かれていた。
傷一つ増えているが、折れてはいない。
術式の外側に、《鬼神》と《破壊神》が立っている。
「もう一度」
《破壊神》が短く息を吐いた。
「その身体で言うか」
「言う」
「目は死んでいないな」
彼は腕を組み、私を見下ろした。
「これから一年、ここで鍛える」
《鬼神》が続ける。
「私に剣を止められても、そこから攻撃を続けられるようになること」
「俺の一撃を受けても、立ったままでいること」
「最後は、私たち二人を相手に一撃を届かせなさい」
手を伸ばし、剣の柄へ触れた。
まだ握り込む力は戻っていない。
それでも、指先は届いた。
「一年で、届かせる」
《破壊神》が私の目を見た。
「その意志は悪くない。だが、今のお前の剣を認めるには足りない」
《鬼神》が一歩、回復術式へ近づいた。
「速いだけの剣は、止められた瞬間に死ぬ」
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