第215話 深い眠り
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
声が消えた。
三つの方角から重なっていた「器」という呼び声が、僕の名に押し返されたように途切れる。
胸の奥で、何かが剥がれる。
痛みはない。けれど、自分の内側へ指を差し込まれ、薄い膜だけを丁寧につまみ上げられたような、不快な感触があった。
透明な一枚が、胸から抜けていく。
蜂蜜色の髪をした誰かの顔が、急にぼやけた。笑うと目尻が下がることは覚えているのに、なぜ僕のそばで笑っていたのかが分からない。
さらに一枚。
剣の柄に残った硬い感触が遠ざかる。何度も皮が破れた掌も、夜明け前に剣を握った理由も、他人の記憶のように曖昧になった。
もう一枚。
小さな手の温度と、僕を呼んでいた声が離れていく。
「待て……」
伸ばした指は、どの記憶にも届かない。
剥がれた透明な板は闇の中へ並び、その表面に色を宿していく。映っていた過去が、板を抜け出し、人の形になった。
僕だった。
最初に立っていたのは、ロウェル孤児院で暮らしていた幼い僕だ。
小さな身体。擦り切れた服。血で受け継いだ家名も、誇れる血筋もない。属性も力も、将来を約束するものは何ひとつ持っていない。
それでも、その青灰の瞳だけは、まっすぐ僕を見ていた。
「何も持っていなかった僕を、まだ自分だと言えるの?」
幼い僕の隣に、レイシアの淡い銀青の髪が揺れた気がした。
顔は見えない。けれど、その子の隣に立ちたいと願ったことだけは、消えずに胸へ残っている。
守られるばかりではなく、いつか守れる騎士になりたい。
誰かに命じられた願いではなかった。
「言えるよ」
僕は少年の前へ膝をつく。
「君には、選べる力さえなかったのかもしれない。でも、何を願うかだけは自分で選んだ。何も持っていなかったからこそ、あの願いは誰から借りたものでもない」
その横へ、二人目が現れる。
学院の制服を着た僕だった。手にしているのは、特別な由来などない、使い込まれた普通の片手剣だ。
属性適性なし。魔力量は学年下位。戦闘順位は最下位。
「今の僕に、最下位だった僕は必要ないだろう」
学院の僕は、疲れ切った手で剣を下げた。
「負けた記録も、笑われた時間も消してしまえばいい。今の君には、もう強さがある」
「違う」
今度は迷わなかった。
「今の僕が立っているのは、誰にも見られていない場所で、君が剣を振り続けたからだ。最下位だった時間を消したら、そこから歩いてきた道までなくなる」
三人目は、左腕を抱えていた。
皮膚を這う黒い紋章。内側から身体を喰い破りそうな飢えに、唇を強く噛んでいる。
器。
災厄。
人間ではないもの。
姿のない声が、暗がりから幾重にも浴びせられた。
「僕は《暴食》を選んだ」
黒い紋章を持つ僕が言う。
「生き延びるために契約して、結果を背負うことになった。僕まで残せば、君も永遠に器のままだ」
「契約を選んだのは僕だ」
喉の奥に、あの飢えが蘇る。正しかったと言い切って飾れる選択ではない。その先で生じた結果まで、なかったことにはできない。
「全部悪くなかったなんて言わない。けれど、契約したことだけで、僕の全部が器になったわけでもない。生きるために選び、その結果を背負っている君も、僕の人生から消さない」
最後の一枚は、なかなか人の形にならなかった。
透明な板の内側で、赤いものだけが滲んでいる。
やがて現れた僕は、血に濡れた剣を握っていた。
「仲間殺し」
誰かがそう呼んだ。
胸の古傷へ、冷たい刃を差し込まれたようだった。
血に濡れた僕が、問いかける。
「僕も、本当に君なのか?」
「違う。僕は――」
反射的に出かかった言葉と同時に、幼い僕の頬へ亀裂が走った。
学院の僕の肩が、白い砂となって崩れる。黒い紋章を持つ僕まで、輪郭を失い始めた。
違う。
これは、ひとつだけを捨てる話ではない。
一人を切り離した瞬間、僕が歩いてきた時間そのものがほどけていく。最後に残るのは、名も過去もない空白だけだ。
本物の僕を一人だけ選ばせ、ほかを僕自身の手で捨てさせる。そして空いた場所を、もう一度「器」と呼ぶために。
「……違うのは、その呼び名だ」
僕は血に濡れた僕を見返した。
「他人が下した『仲間殺し』という断定を、僕の真実として受け入れるつもりはない。でも、そう呼ばれた僕まで、いなかったことにはしない」
傷ついた。
怖かった。
怒った。
全部を切り離して逃げられるなら、そうしたいと思った。
その感情まで否定したら、あの時間を耐えた僕を、今の僕がもう一度傷つけることになる。
「選ばない」
四人の僕を見渡す。
「どれか一人だけが、本当の僕なんじゃない。何も持たなかった僕も、最下位だった僕も、器と呼ばれた僕も、あの言葉に傷ついた僕も――全部、僕が生きてきた時間だ」
闇の奥で、何かが軋んだ。
「呼び名まで真実にする気はない。選んだことも、その結果も正当化しない。それでも、その時間を生きた僕を消させない」
「全部を抱えたまま、僕はアルト・ロウェルとして進む。僕の人生を、勝手に捨てるな」
四人の姿が、透明な板へ戻った。
浄化されて消えたのではない。
一枚ずつ、僕の胸へ突き刺さるように帰ってくる。
孤児院の冷たい床。小さな手の温度。誰もいない訓練場に響いた剣の音。敗北の苦さ。左腕を焼く飢え。向けられた言葉の痛み。
剣を握った理由が、再び僕の手へ重なった。
そして、怒りが生まれた。
誰かを壊したいからではない。
僕の人生を勝手に切り分け、都合のいい名前ひとつで人間を決めようとするものへの怒り。
奪わせない。
ここから先は、僕が僕であるための境界だ。
足元から、赤黒い亀裂が走った。
世界を縦に裂いた亀裂は炎を噴き、巨大な門の輪郭へ変わる。遠く離れた残る二つの領域は、暗闇の向こうで閉ざされたままだった。
開いたのは、《憤怒》の門だけだ。
門の奥に姿は見えない。
ただ、赤黒い熱が押し寄せる。
炎の気配。こちらを射抜く視線。膝を折らせるほどの圧力。
サタネグラス。
名だけが、焼けた鉄のように意識へ刻まれた。
服従を求める声も、許しを与える言葉もない。僕も、門の向こうの存在を仲間だとは思わない。
右手へ、重みが落ちた。
現実で僕の傍らへ置かれていた、普通の片手剣だった。
柄には、緑の紐が結ばれている。
ティアナが結んだ、小さな目印。
門から溢れた赤黒い炎が、刀身の根元へ絡みつく。
「くっ……」
炎は鉄を焼き崩さなかった。
刀身の内側へ潜り込み、色と輪郭を変えていく。鍔が重い影を帯び、平凡だった剣身は赤黒く染まった。禍々しい。それなのに、王の手にある武器のような、逆らいがたい威厳が宿っていた。
ただひとつ、柄の緑だけは燃えない。
炎の中で揺れながら、僕が守ると決めた記憶を結び留めている。
剣の奥から、名が流れ込んだ。
《魔剣サタン》。
理解した瞬間、掌から腕へ凄まじい熱が駆け上がる。握れているだけだ。従えたわけでも、認め合ったわけでもない。
剣の向こう側で、誰かの手が緑の紐を強く握った。
刀身が形を変える振動が、遠い現実の剣にも重なる。
遠い場所から、その温度が伝わってくる。
「アルト!」
ティアナの声が聞こえた。
同時に、僕の魂が肉体から急激に遠ざかった。
胸の中で響いていた鼓動が、消える。
一拍。
二拍。
三拍目が来ない。
息をしようとしても、肺がどこにあるのか分からない。遠い身体の手首に指が触れ、胸へ誰かの掌が押し当てられる感覚だけが、薄い糸を通して届いた。
「脈が途切れた!」
声が水の底のように歪む。
「三領域との接続を切る。《色欲》を切断。続いて《暴食》――」
オベイロンの静かな声だった。
閉ざされていた遠方の気配が、順に遠のく。
「《憤怒》の切断へ移る。アルト、自分の側へ戻れ」
門の熱だけが、なお僕を奥へ誘うように残った。
「アルト、聞こえるよね。戻ってきて」
緑の紐を通して、ティアナの指の震えが伝わる。
雨の匂いがした。
九歳の日から残る、折れた木剣の柄。そのざらつきとともに、誇り高い声が届く。
「アルト。僕との勝負は終わっていない」
次に、頬を撫でるような風が触れた。
精霊が自ら残した羽。その羽を包む手の気配は慎重で、声は事実を曲げなかった。
「アルト。帰路はまだ残っています」
そして、何の形も持たない声が届く。
「アルト」
フィア。
「アルト」
一度きりではない。
僕という名前を、見失わせないために、短く何度でも呼んでいる。
「帰ると決めるのじゃ、アルト」
セリスティアの声が、細く残った帰路の向こうから響いた。
「わらわは道を保っておる。されど、わらわが選ぶのではない。おぬしが帰ると決めねば、その魂は掴めぬ」
声は僕を引っ張らない。
ただ、帰れる場所があることを教えている。
目の前では《憤怒》の門が開いていた。このまま進めば、サタネグラスのいるさらに奥へ行けるのかもしれない。
けれど、術式へ入る前に約束した。
異常を隠さない。帰還の合図を無視しない。三魔神との対話より、生きて戻ることを優先する。
僕は《魔剣サタン》を捨てなかった。
ただ、その切っ先を下げた。
力を拒むのではない。
今は、進まない。
「帰る」
自分の声で告げる。
「僕は、みんなのところへ帰る」
魔剣を握ったまま、もう片方の手を帰路へ伸ばした。
指先が見えない糸へ触れた、その瞬間。
「よう選んだ」
セリスティアの手が、ようやく僕の魂を掴んだ。
世界が反転する。
胸を内側から強く殴られた。
空白だった場所で、心臓が一度、大きく跳ねる。
痛みが全身へ走った。次の鼓動が来る。さらにもう一度。遠くにあった肉体が、急速に近づいてくる。
戻れる。
そう思った途端、帰路が歪んだ。
セリスティアに掴まれた感触を残したまま、僕の意識だけが、横へ折れ曲がった暗闇へ引き込まれた。
「アルト――」
誰の声か確かめる前に、深い眠りの底へ落ちた。
◇
目を開けると、白い床へ膝をついていた。
心臓は動いている。
胸の痛みも、息を吸ったときの冷たさもある。
それなのに、そこは樹洞ではなかった。
学院の査問室に似た壁。王国の裁定場を思わせる高い天井。その先には、処刑場で見た石段の影が続いている。
知っている場所ばかりなのに、どこにも存在しない白い広間だった。
現実へ戻ったのか。それとも、まだ帰還の途中なのか。
判断できない。
傍らには、《魔剣サタン》が置かれていた。
赤黒い刀身は沈黙し、柄の緑だけが失われている。
「アルト」
ティアナの声に、顔を上げた。
その緑金の瞳には、何度も考えた末に決めたような痛みがあった。
手には、途中で切れた緑の紐が握られている。
「ごめんね。もう、アルトの隣には立てないよ」
「ティアナ……何を」
乾いた音が、言葉を遮った。
折れた木剣の柄が、僕の前へ投げ捨てられていた。
レグルスは背筋を伸ばし、侮りなく僕を見下ろしていた。
「君を競争相手と認めたことを、撤回する」
「待ってくれ。僕は帰って――」
「観察は終わりました」
セルフィナの声は、いつもと同じく静かだった。
彼女は羽を胸元に守るように抱いている。けれど、その羽は光を失い、風の気配も返さない。
「確認できる事実に基づけば、あなたを人間として扱う根拠は、もうありません」
意味を理解する前に、喉元へ冷たい切っ先が向けられた。
フィアだった。
剣を握る姿勢に迷いはない。けれど、その目の奥には、斬りたい相手を見る色ではなく、斬らなければならないものを前にした痛みがある。
「フィア」
「動かないで」
「僕だ。フィア、名前を呼んでくれ」
「……動かないで」
それだけだった。
さっきまで何度も僕を引き留めていた名前を、彼女は一度も口にしない。
心臓は動いているのに、胸の内側だけが再び空白になった。
白い広間の奥で、硬い足音が響く。
四人が道を開けた。
淡い銀青の長い髪が、白い光を受けて揺れる。澄んだ水色の瞳。神下ろしの聖剣を携えた姿を、見間違えるはずがない。
レイシア。
僕が何も持っていなかった頃から、隣に立ちたいと願った人。
彼女は僕の前まで歩み、静かに足を止めた。
怒鳴らない。嘲笑もしない。公の場で誰に対しても向ける、穏やかで公平な若き英雄の顔だった。
その表情のまま、聖剣を両手で構える。
「水蝶騎士団長として、アルト・ロウェルの処刑を命じます」
言葉の意味が、頭へ入ってこない。
聞き慣れた声だけが、幼い日の記憶と重なった。
「レイシア……?」
「アルト。あなたはもう、人間ではありません」
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