第214話「魂に降りる条件」
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例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
その言葉が、樹洞の静けさへ沈んでいく。
卓上に広げられた王国の地図には、《怠惰》ベルフェナスの因子と一致した痕跡が記されていた。けれど、そこに名前はない。顔も、所属も、向かう先もない。
分かっているのは、離れた複数の場所に、時間を置いて痕跡が現れたということだけだった。
因子そのものが運ばれているのか。
誰かが宿しているのか。
何かの器に収められているのか。
何一つ、確定していない。
それでも、動いているかもしれないという事実は、僕の胸を急かすには十分だった。
服の下にある三つの紋章が、急に重くなったように感じる。
今すぐ内側へ降りるべきだ。
三魔神と向き合い、せめて自分の中にあるものだけでも制御できるようにしなければならない。
そんな考えが、喉元までせり上がった。
けれど、僕は言葉にする前に一度息を吸った。
以前の僕なら、異変を隠していた。
心配をかけたくないと言いながら、自分だけで決め、自分だけで背負おうとしていただろう。
その結果、何度も仲間を危険へ巻き込んだ。
「急がないといけない」
僕は地図から顔を上げた。
「でも、急ぐことと、手順を飛ばすことは違う。術を始める前に、安全手順を全員で決めたい」
ティアナが小さく頷く。
「うん。それがいいよ」
オベイロンは僕をしばらく見つめたあと、地図を静かに畳んだ。
「具体的に、何を確認したい」
「誰が何をするのか。どんな異常で中断するのか。それから――どこから先は、外にいるみんなにも救えないのか」
自分の口で言うと、最後の問いだけが重く響いた。
セリスティアが卓の前へ進み、細い指を僕の手首へ添える。脈を測るような触れ方だった。
「まず、わらわが担うのは、おぬしの肉体と魂を繋ぐ帰路の保持じゃ。おぬしが内へ降りたのちも、呼吸、脈、魔力の乱れ、紋章の変化をこちらで見張る」
「紋章が少し広がっただけでも中断しますか?」
「変化の速さによるのう。緩やかな反応まで断てば、三魔神へ触れること自体ができぬ。じゃが、急激な拡大、呼吸の停止、脈の著しい乱れ、肉体を損ないかねぬ魔力の逆流があれば、続行は認めぬ」
セリスティアは保証するような言葉を選ばなかった。
できることと、できないことを一本ずつ並べるように話している。
「異常を認めた場合、わらわが中断を告げる。オベイロンが三つの領域との接続を切り、わらわは余計な干渉を閉ざして帰路だけを残す。その後、四人がおぬしへ呼びかける。順序を違えてはならぬ」
オベイロンが引き継ぐ。
「私は、《憤怒》サタネグラス、《色欲》アスモリーナ、《暴食》ベルゼバス、それぞれの精神領域へ道を接続する」
「三つを一つにするわけではないんですよね」
「違う。領域も因子も融合させない。接続した状態で、それぞれの境界を維持する」
彼は卓上へ三枚の木片を並べた。木片同士が触れないよう、指一本ほどの間隔を空ける。
「一体が帰路を塞ぐこと、別の領域へ入り込むこと、他の領域を装ってお前を誘導することを監視する。ただし、私が見破れる範囲に限る。三魔神の精神領域で、私の術が常に優位だとは考えるな」
「絶対に安全ではない」
「そのとおりだ」
迷いのない返答だった。
「ティアナ、レグルス、セルフィナ、フィアの四人は、外からお前を支える。だが、彼らが精神世界にいるお前を操ることはできない。錨とは、お前が自分の名と帰る理由を見失わぬための目印だ。拘束する鎖ではない」
僕は並べられた木片を見つめた。
手順は分かった。
けれど、まだ一つだけ、誰も口にしていない穴がある。
「僕が向こうで、帰らないと決めたら?」
誰もすぐには答えなかった。
ティアナの指が、膝の上でわずかに動く。フィアは僕から目を逸らさない。レグルスは腕を組んだまま、セルフィナは静かに答えを待っていた。
セリスティアが僕の手首から指を離す。
「そのとき、わらわたちには、おぬしを救い出せぬ」
飾りのない言葉だった。
「肉体の異常を理由に接続を断つことはできる。魂の帰路を残すこともできる。されど、おぬし自身が帰還を拒めば、外より魂を引き戻すことはできぬ」
「無理に引けば?」
「戻ってきたものが、今ここにおるアルトと同じ存在である保証がなくなる」
樹洞の奥で、火皿の薪が小さく爆ぜた。
「記憶を持ち、同じ顔で目覚めようとも、それをおぬしだと断言できぬ。ゆえに、わらわはその方法を取らぬ」
オベイロンも否定しなかった。
「我々は道を残せる。道があると思い出させることもできる。しかし、その道へ足を向けるのはお前自身だ」
僕は目を閉じ、胸の奥に落ちた言葉を確かめた。
生きるかどうかも、魂の主導権も、仲間へ預けきることはできない。
最後に帰ると決めるのは僕だ。
「分かりました」
目を開ける。
「その条件で、術を受けます」
◇
「私は、これ」
ティアナが指したのは剣ではなかった。
僕が普段使っている、ごく普通の剣。その柄の近くに結ばれた緑の紐だった。
何度も雨に濡れ、土埃を浴びた紐は、結ばれた頃より少し色褪せている。それでも解けず、切れずに残っていた。
「これを結んだ頃、アルトは自分で決めたんだよね。誰を守るか。どこへ剣を向けるか」
ティアナが紐の端を指先で持ち上げる。
「誰かに器の役目をもらったからじゃない。アルトが選んだ。それを思い出して」
「うん」
「剣じゃなくて、こっちだからね」
念を押す声が少しだけ普段の明るさへ戻り、僕も小さく笑った。
次に、レグルスが布に包まれたものを卓へ置く。
布を開くと、古い木剣の柄が現れた。刀身に当たる部分は根元から折れ、残った木肌には、細かな傷が幾重にも刻まれている。
「それ……」
「九歳の雨の日から、六年だ」
レグルスは柄を僕の前へ押し出した。
濡れた地面。手のひらへ食い込んだ木の感触。何度倒されても剣を拾った、あの日の冷たい雨が一瞬だけ蘇る。
「持っていたんだ」
「捨てる理由がなかっただけだ」
レグルスは澄ました顔で言い切った。
「僕は、君との勝負が終わったとは認めていない。三体の魔神が何を言おうと、それは変わらない」
彼の指が、折れた箇所を一度叩く。
「君の都合で、勝負から降りるな」
「分かった。帰ったら、続きをしよう」
「当然だ。もっとも、今の君が僕に勝てるとは思わないが」
慰める言葉は一つもなかった。
けれど、この傷だらけの柄は知っている。
僕が魔神の器と呼ばれるより前から、アルトという一人の少年が、雨の中で剣を握っていたことを。
セルフィナは、小さな木箱を両手で卓へ置いた。
蓋を開くと、淡い色の羽が一枚、柔らかな布の上に横たわっている。
「これは、森を出る前に精霊が自ら残していったものです。抜け落ちたのではありません。私が求めたものでもありません」
セルフィナは、羽に触れずに言った。
「精霊が私たちを見届けたあと、自分の意思で置いていきました。そこまでが、私に確認できる事実です」
「この羽が、僕を導くんですか?」
「いいえ。これは帰還を保証するものではありません。特別な力であなたを引き戻すこともありません」
彼女は一度言葉を切る。
「ただ、あなたが現在の世界に存在していることを示す目印にはなります。それが術者としての私の解釈です」
「セルフィナ自身は?」
「役に立つことを望んでいます。ただし、それは事実ではなく、私の希望です」
あえて線を引く言い方が、セルフィナらしかった。
最後に、全員の視線がフィアへ集まる。
フィアは何も持っていなかった。腰の剣にも、衣服の内側にも手を伸ばさない。
オベイロンが尋ねる。
「お前は何を錨にする」
「呼ぶ」
「何をだ」
「アルト」
短い二音が、僕の胸へまっすぐ届いた。
以前、《暴食》の飢えに呑み込まれかけたときもそうだった。
満たされない暗闇の中で、フィアは僕の名前を呼んだ。
「精神領域では、外からの声がそのまま届くとは限らない」
オベイロンが警告する。
「声が歪められ、お前の呼びかけが別の意味へ変えられる可能性もある」
「前も、届いた」
「次も届く保証にはならない」
「それでも呼ぶ」
フィアはそれ以上説明しなかった。
ただ一度だけ、確かめるように僕を見た。
◇
その夜、僕は一人で机へ向かった。
小さな灯りの下に紙を広げ、ペンを持つ。
宛名を書いてから、長い時間、次の一文字が書けなかった。
生きていると伝える手紙ではない。
僕が帰れなかったときにだけ、レイシアへ届く言葉だ。
だからこそ、何を書かないかを決める必要があった。
忘れてほしいとは書かない。
悲しまないでほしいとも、その先の人生をどう生きてほしいとも書かない。
それを決めるのはレイシアであって、僕ではない。
僕はようやくペン先を紙へ下ろした。
『これを読んでいるなら、僕は帰る約束を守れなかったのだと思う』
そこで一度、手を止める。
窓のない樹洞では、外の風が枝葉を揺らす音だけが、遠くから伝わってきた。
『三魔神と向き合うことは、僕自身が選びました』
『ティアナ、フィア、レグルス、セルフィナ、セリスティアたちを責めないでください。誰かに命じられた結果ではありません』
次の一文には、何度も迷った。
短く書けば、言い足りない。
長く書けば、言い訳のようになる。
『あなたの隣に立ちたいと思ったのは、そうするよう命じられたからではなく、僕自身の願いでした』
帰ることができたなら、この紙をレイシアが読むことはない。
伝えたいことは手紙に任せず、自分の口で話す。
最後にそう書き添えてから、僕は署名した。
――アルト・ロウェル。
インクが乾くのを待ち、紙を折って封をする。
セリスティアは、樹洞の奥で一人、明日の準備を続けていた。僕が封書を差し出すと、彼女は何も尋ねずに受け取った。
「僕が帰れなかったときだけ、レイシアに渡してください」
「帰れたならば?」
「僕が自分で話します」
「承知した」
セリスティアは封を確かめることなく、自分の衣の内側へ収めた。
「ならば、これはその時まで、わらわが預かろう」
◇
夕食の卓を囲んだのは、僕とティアナ、フィア、レグルス、セルフィナの五人だった。
湯気の立つ煮込みから、香草と肉の匂いが漂っている。
ティアナが僕の器を取り、具を二杯分よそった。
「少し多くない?」
「明日は体力を使うんだから、これくらいだよ」
「アルトだけ明らかに量が違うが」
レグルスが自分の器と見比べる。
「不公平を訴える前に、レグルスはパンを一つ多く取っています」
セルフィナが淡々と指摘した。
「これは残数を調整しただけだ」
「残りは四つでした。人数と一致しています」
レグルスが黙ってパンを籠へ戻す。
「塩」
フィアの声に、僕は手元の小瓶を取った。
「はい」
差し出すと、フィアは受け取り、煮込みへほんの少し振った。そのまま隣のティアナへ渡す。
器へ匙が触れる音。
パンをちぎる音。
湯気で頬を赤くしたティアナが、帰還後の報告は簡潔にまとめようと言い、セルフィナが記録すべき項目を三つ挙げる。
レグルスは、僕の剣の刃にわずかな曇りがあると指摘した。
「戻ったら手入れするよ」
「僕も見る」
フィアが言う。
「助かる」
「その後は訓練だ」
レグルスが当然のように続ける。
「術を終えた直後だよ?」
「明日やれとは言っていない。だが、先延ばしを認めたわけでもない」
「じゃあ、明後日かな」
「体調を確認してからです」
セルフィナが修正する。
誰も別れの言葉を口にしなかった。
明日以降が続く前提で、剣の手入れや報告や訓練の予定を決めている。
僕は煮込みを口へ運んだ。
温かい。
肉を噛めば塩気が広がり、根菜には火がよく通っていた。腹が減ったから食べ、食べた分だけ空腹が薄れていく。
やがて満たされたと感じたところで、僕は匙を置いた。
《暴食》ベルゼバスの飢えには、きっとこの終わりがない。
どれだけ呑み込んでも足りず、満ちるという感覚そのものが存在しない。
けれど僕は、もう十分だと思える。
目の前に四人がいて、誰が塩を頼み、誰がパンを多く取り、誰が僕の器へ勝手に多くよそうのかを知っている。
そんな日常の一つ一つが、僕を人間の側へ繋いでいた。
◇
翌朝。
樹洞へ差し込む淡い光の中で、僕は床へ腰を下ろした。
右には、緑の紐を結んだ剣。
左には、折れた木剣の柄。
正面には、精霊が残した羽。
ティアナ、レグルス、セルフィナ、フィアが、その外側を囲んでいる。
セリスティアは僕の背後に立ち、オベイロンは正面に座った。
「最後に確認する」
オベイロンの声が樹洞へ響く。
「肉体に異常が現れた場合、私が三領域との接続を切る。セリスティアは魂の帰路を保持し、四人が錨を通して呼びかける。異論はあるか」
「ありません」
「おぬし自身の約束も申せ」
セリスティアに促され、僕は頷いた。
「異常を感じたら隠しません。帰還の合図を無視しません。三魔神との対話や交渉が途中でも、帰ることを優先します」
「よかろう」
「セリスティア」
「何じゃ」
「帰路を、お願いします」
「わらわの力が続く限り、帰路は保持しよう。じゃが、必ず帰せるとは申さぬ」
「はい。それで十分です」
フィアが僕を見ている。
ティアナの手は、緑の紐のすぐそばにあった。レグルスは折れた柄へ指を添え、セルフィナは羽が風で動かないよう、木箱の縁を押さえている。
戻るための道標は、ここにある。
あとは僕が、それを選ぶだけだ。
僕は自分の意思で目を閉じた。
「始めてください」
最初に遠ざかったのは、床へ触れている足の感覚だった。
次に、背中に当たるセリスティアの指。
自分の呼吸が誰か遠い人のもののようになり、脈の音も少しずつ深い場所へ沈んでいく。
代わりに、三つの気配が近づいた。
一つは、肌を内側から焦がすような赤黒い熱。
炎の気配が、怒りそのもののように揺れている。
一つは、甘い花の香り。
姿の見えない花園が、柔らかく僕の意識を包もうとする。
そして一つは、底のない空洞。
巨大な口を思わせる暗がりから、満たされることのない飢えが吹き上がってくる。
三つは接続されている。
けれど、混ざってはいない。
熱と花香と飢えの間には境界があり、それぞれが別の方向から僕を見ていた。
姿は見えない。
それでも、そこにいる。
「器」
赤黒い熱の向こうから声がした。
「器」
甘い香りの奥で、別の声が囁く。
「器」
空洞そのものが、腹の底へ響く声を吐いた。
三つの呼び声が重なる。
器。
器。
器。
その言葉が、僕の名前を削っていく。
僕がどこで生まれ、誰と剣を交え、何を守ると決めたのか。積み重ねてきたものが剥がされ、何かを収めるための空っぽな形だけに変えられていく。
違う、と言おうとしても、声が出ない。
そのとき、色褪せた緑が浮かんだ。
剣へ結ばれた、細い紐。
誰かに役目を与えられる前に、僕が自分で剣の向きを選んだ証。
次に、手のひらへ木の傷が触れた。
九歳の雨の日から残る、折れた木剣の柄。
器と呼ばれるより前から、僕には負けたくない相手がいた。
そして、精霊の羽の軽さ。
僕を引き上げる力ではない。
ただ、僕が今も生きている世界があると示す、小さな目印。
三つの記憶は、僕を強制しなかった。
帰れとも、戦えとも命じない。
ただ道があることだけを、そこに残していた。
遠くから、声が届く。
「アルト」
歪みかけながらも、短い二音だけは失われない。
その声が僕を救ったのではない。
僕の代わりに答えを選んだのでもない。
ただ、ここに選べる名前があると思い出させた。
僕は削られかけた意識の底へ手を伸ばす。
与えられた役目ではなく、自分で選んできた名前を掴む。
「僕は器じゃない。アルト・ロウェルだ」
「面白かった!」
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