第213話「神獣だった七魔神」
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例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
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赤黒い炎、甘い花園、底のない口。どの門から確かめるべきだろう。
考え始めた瞬間、鏡の中で赤黒い炎が消えた。花々は色を失い、底のない口も閉じられる。
オベイロンが鏡から手を離していた。
「待ってください。まだ、何も選んでいません」
「分かっている。お前の選択を取り上げたのではない」
鏡に樹洞の翡翠色の光が戻る。門は一つも残っていなかった。
「対話の前に、お前に見せておくべきものがある。何も知らずに彼らと対面すれば、最初に聞かされた言葉が、お前にとって唯一の真実になりかねない」
「七魔神の起源について、残された記録がある。まずそれを見ろ。知ったうえで、どの門を開くかを選べばいい」
僕がうなずくと、セリスティアは樹洞の奥へ手を伸ばした。
絡み合っていた世界樹の根が、きしむように開く。その奥から現れたのは、一冊にまとめられた記録ではなかった。
黒ずんだ樹皮写本。半分以上が欠けた石板。古代遺跡から回収された、縁の崩れた写本。そして、後世に紙へ書き直された記録。
「これらは同じ時代のものではない。書き手も、使われた言葉も異なる。欠損した箇所は多く、翻訳の違いもある。後の世に加えられた文も、意図して書き換えられた文も、無いとは言えぬ」
セリスティアは、最も新しい束を他と少し離して置いた。
「こちらは、七罪カルトが保存していたものじゃ」
セルフィナの翡翠色の瞳が、すっと細くなった。
「教義に都合のよい物語を、歴史として書き残しただけではありませんか」
「その可能性はある」
オベイロンは、ためらわずに認めた。
「七罪カルト側の記録には、改竄も、七体を神格化するための加筆もあり得る。私がかつてその側にいたことも、信頼性を保証する理由にはならない。むしろ、私の解釈にも偏りがあると疑うべきだ」
「では、信じられる部分はどこですか」
「それを今から見極めるのじゃ」
セリスティアが、一枚の樹皮を鏡の前へ置く。鏡面に、薄れた線が大きく映し出された。
文字より古いと思える図だった。
ひび割れた大地。崩れた建物の下で身を寄せ合う人々。空の器を抱えた子どもと、床に伏す人の列。その後ろでは、糧食が奪い合われている。
戦争。飢え。疫病。支配と奪い合い。
図が本当にそれを示しているのか、僕には断言できない。けれど、苦しむ人々の傍らに、大きな光が七つ描かれているのは分かった。
光の輪郭は擦れ、形は分からない。七つとも同じ存在なのかさえ、その図だけでは判断できなかった。
「古い記録には、これらを『神獣』と記すものがある。別の記録では『高位精霊』じゃ」
「七体は、同じ種族だったのですか」
セルフィナの問いに、セリスティアは首を横に振った。
「分からぬ。『神獣』が種を示すのか、崇高な存在への呼び名なのかすら定かではない。姿も力も、この断片からは読めぬ」
次に、欠けた石板が映された。
読めるのは飛び飛びの文字だけだった。セリスティアは複数の翻訳を並べ、同じ意味に読める箇所と、訳し方の分かれる箇所を一つずつ示した。
「七罪カルトの成立よりも古い断片にも、部分的に一致する文が残っておる」
彼女の指先が、欠けた一行をなぞる。
「『七体が、人間から溢れた何かを引き受けていた』。翻訳によっては、食らった、抱えた、沈めたとも読める。一つの記録では証にならぬが、異なる時代の断片に同じ骨組みが残っているのじゃ」
「つまり、負の感情を人から取り除いていた?」
僕が聞くと、オベイロンはわずかに目を細めた。
「取り除いていたとまでは言えない。人間から溢れ、世界へ広がるはずのものを引き受け、鎮めていた。その可能性だ」
オベイロンが、七つの光を順に指した。
「《憤怒》サタネグラスは、怒り、憎悪、復讐心を。《傲慢》ルシフェレインは、他者を見下す驕り、自分だけが正しいと信じる心、自分を絶対視する欲求を。《暴食》ベルゼバスは、飢餓と欠乏への恐怖、何を得ても満たされない渇望を」
三つ目の名に、左腕の奥が冷たく疼いた。
食べたいというだけの飢えではない。無くなることが怖い。手に入れても、次が要る。満たされない空白を、何でもいいから埋めたくなる。それが《暴食》なのだとしたら、あの底のない口は、僕の中にも開き得る。
「《色欲》アスモリーナが引き受けたとされるのは、愛情から生まれる執着、所有欲、失いたくないという願いだ。単純な肉体の欲求だけを指すものではない」
甘い花園が頭に浮かぶ。
大切な人に生きていてほしい。離れてほしくない。その願いは、僕の中にも確かにある。願いがいつ、相手の選択を縛る鎖になるのか。その境界は、花園の香りと同じように甘く、見えにくかった。
「《怠惰》ベルフェナスは、疲弊、諦め、生きることや再び立ち上がることまで手放したくなる心を。《強欲》マモルギアは、富、土地、権力、そして他者の命まで自分のものとして囲い込もうとする欲望を。《嫉妬》レヴィアティアは、他者との比較から生まれる妬み、劣等感、相手を引きずり下ろしたいという願いを。そう読み取れる」
知っていた七つの名が、飢えた子どもや、立ち上がれない人の姿と重なり、それまでとは違う響きに聞こえた。
「それなら、七体は昔、人間を助けていたの?」
ティアナが、そっと僕のすぐ隣へ立った。
「その可能性はある。人を守るためであったのか、世界の安定を保つためであったのか、それも断言できないがな」
フィアはティアナではなく、鏡の中の図を見ていた。
「今は違う」
短い言葉が、樹洞の湿った空気に冷たく通った。
「その通りじゃ」
セリスティアが、古代遺跡から回収された写本を開いた。そこには同じ七つの光と思われる線があったが、最古の樹皮とは様子が違っていた。
人々から光へ流れていた細い線は、今度は光の側から人間へ伸びている。線に触れた人々は、争い、奪い、互いの手を振り払っているように見えた。
「後の記録ほど、七体の周囲に黒い染みが増えておる。数千年にわたり、怒り、欲望、飢餓、嫉妬、執着、諦めを引き受け続けたことで、その人格まで侵されたのではないか。そのように読めるのじゃ」
鏡の中で、古い樹皮の図と、後の写本の図が重なった。
最初の七体が何を思っていたのか、線だけの図は教えてくれない。ただ、記録の時代が下るごとに、人と七体の間にあった何かが逆向きになっていく。
怒りを引き受けていた者が、人間の怒りを煽る。
飢えを鎮めていた者が、決して満たされない飢えを広げる。
愛する者を失う苦しみを引き受けていた者が、愛情を所有と束縛へ変える。
感情を抱える存在だったはずのものが、いつしか、その感情そのものへ変わっていく。
人の感情を喰らっていた七体も、同じ感情に内側から喰らわれたのかもしれない。
「そこからは、記録ではなく、お二人の解釈ですか」
セルフィナが静かに確かめた。
「そうじゃ」
セリスティアは言い切った。
「七体が自ら望んで引き受けたのか、人間が一方的に役目を押しつけたのか、わらわにも分からぬ。どの瞬間に神獣や高位精霊から魔神になったのかも、七体すべてが同じ道を辿ったのかも、残されたものだけでは定められぬ」
「本人たちに聞いても、確かめられない?」
僕の問いに答えたのは、オベイロンだった。
「彼らが真実を隠す可能性も、自分に都合よく語る可能性もある。それだけではない。長い侵食の中で、彼ら自身の記憶が既に変質していることも考えられる。本人の証言であっても、事実と同じではない」
「でも、苦しんだことまで、嘘だと決めつけるつもりはありません」
記録も魔神の言葉も、そのまま信じはしない。けれど、知らないからといって、最初から無かったことにするのも違う。
「同情しても構わない。ただし、過去への同情は、現在の罪を消さない」
オベイロンの声は静かだった。
「悲劇的な起源が真実であったとしても、七魔神が今、生み出している犠牲は消えない。彼らを理解することと、赦すことは別だ」
「アルト。もう一つ、対話の前に理解しておけ」
オベイロンの目が、僕の左腕から右上腕、上胸部へ動いた。
「魔神の因子は、宿主の中に感情を無から作り出すわけではない。元からそこにある感情を足場にして増幅し、極端な方向へ傾ける」
「つまり、ベルゼバスが僕を空腹にしたんじゃない」
「お前の空腹、欠乏への恐怖、力を求める渇望が先にあった。ベルゼバスはそれを、お前の理性では制しきれないほどに膨らませた」
あの地下で飢えを過負荷されたとき、敵の漏出魔力だけでなく、仲間の体温まで空白を埋める何かに見えかけた。
「喰うな」と言う声が届かなければ、僕は手を伸ばしていたかもしれない。
けれど、その前から僕は飢えていた。力が足りないことへの怖さも、守りきれないかもしれないという焦りも、僕のものだった。
「サタネグラスも同じですか」
「その可能性が高い。お前の怒りへ接続し、憎悪や破壊衝動へ傾けるだろう」
仲間が傷つけられたとき、相手を止めるのではなく、傷つけ返したいと思いかけた瞬間がある。あの怒り自体を、誰かに入れられたわけではない。
火種は僕の中にある。魔神はその火に息を吹きかけ、普通なら手のひらで覆えるほどの炎を、誰かを焼き尽くすまでに膨らませる。
だからといって、「全部が魔神のせい」と言って、僕が選んだ行動まで渡すつもりはない。
逆に、「全部が僕の弱さ」と思い込むのも違う。実際に、因子は感情を異常な大きさへ変える。その影響まで、意地で無かったことにすれば、次も同じ場所から崩される。
それでも、誰へ力を向けるか。異変を報告するか。仲間の声を聞くか。足を止めようとするか。
そこは、魔神にも誰にも渡さない。僕の選択だ。
「感情を消すことが、因子に勝つ方法じゃないんですね」
「感情が無ければ、人は選ぶ理由も失う。必要なのは抑圧だけではない。自分の中に何があり、魔神が何を足場にしようとするのか、お前が知ることだ」
自分の感情を理解することは、弱さを数えることではない。僕の魂の主導権を守るために、足場にされる場所を僕自身が知ることだ。
「一つ、確認したい」
それまで黙っていたレグルスが、鏡とオベイロンの間へ視線を通した。
「魔神が君の感情を足場にするなら、自由に語らせること自体が危険ではないのか。君の力が上回る間に彼らを屈服させ、先に契約を強制する方法は使えないのか」
「一時的に服従させることはできる」
オベイロンは、すぐに答えた。
「だが、それは契約ではない。力関係が逆転する時までの服従だ。押さえつけられた側は、命令に従うことと、条件を受け入れることを同じには考えない」
「では、逆転させなければいい」
「人は常に同じ力を保てない」
「私は、力によって他者を従わせることも、従っているように見えたものが、力の緩んだ瞬間に反転することも見てきた。押さえつける力だけに預けた秩序は、弱まった一瞬で崩れる」
「七魔神が長い間、人間の負の感情を引き受け、利用され、最後に封印された存在ならば、彼らが人間を信用していない可能性は高い。力で跪かせれば、その不信を正しいと証明するだけになる」
「アルトが一度でも弱まれば、そこを使われる、ということか」
レグルスが言う。
「負傷したとき。眠ったとき。恐怖、怒り、執着に呑まれたとき。押さえつける力は必ず弱まる。その瞬間、魔神はアルト自身の感情を足場にして、主導権を奪い返す。力だけでの服従は、必ず破綻する」
眠りの中で《暴食》の声を聞いたことは一度ではない。眠っている間まで、剣を握り続けることはできない。
「では、対話すれば、魔神を信じられるようになるのですか」
セルフィナの問いは厳しかった。
「それも違う」
僕が答えると、オベイロンもうなずいた。
「信頼するためでも、赦すためでも、友人になるためでもない。彼らの要求をすべて受け入れるためでもない」
オベイロンは、閉じた鏡の面へ触れた。
「相手が何を求め、何を憎み、どこで嘘をつくのか。それを確かめるためだ。そのうえで、互いに越えてはならない条件を、アルト自身が選ぶ。対話とは、危険を消すことではない。危険の形を知り、主導権を渡さないための行為だ」
選ぶのは僕だ。
だが、世界樹の根の間で、不意に固いものがぶつかる音がした。
セリスティアが古い記録の上に、別の樹皮の束を落としていた。
「……これは」
初めて、彼女の声から余裕が消えていた。
「どうしたの?」
ティアナが聞く。
「七体の記録と、現在の七つの封印に残る記録を重ねておった。古い呼応の傾向と、今の痕跡の対応を確かめるためじゃ」
閉じていた鏡の面に、七本の淡い線が映った。そのうち一本だけが、時間を置いて離れた箇所に現れている。残る六本に、同じ移動の並びはなかった。
セルフィナが、すぐに古い写本と現在の記録を見比べる。
「どの因子に対応する痕跡ですか」
「《怠惰》ベルフェナスじゃ」
樹洞の空気が、それまでより冷たくなった。
「本来の封印地点からの漏出ではありませんか」
「一度の誤差ならば、わらわもそう考えた。だが、同じ反応が時を置いて複数回、王国内の離れた地点で記録されておる」
鏡の中で、セリスティアが記録された順に点を示した。
点と点は遠く離れ、時間の間隔も、現れた順も、一つの封印からの単純な漏出と考えるには不自然だった。
「同一の反応であると、どこまで確認できますか」
「《怠惰》の因子に一致する傾向が、複数地点に現れた。そこまでは事実じゃ。同じ一つのものが移動したかどうかは、まだ断言できぬ」
「しかし、固定された一つの封印からの漏出だけでは、説明がつかない」
レグルスの指先が、離れた点を順に追った。
「そうじゃ」
短い同意だった。
「考えられるのは三つ」
オベイロンが、移動する痕跡を見たまま言った。
「因子そのもの。因子を宿した人間。あるいは、因子を収めた器。そのいずれかが、王国内を移動している可能性が高い」
「誰が運んでいるかは?」
フィアが聞いた。
「分からぬ」
セリスティアは、その一言に逃げずに答えた。
「因子を宿した者が自ら移動しているのか、何者かが器で運んでいるのかも定かではない。現在地も目的地も、その理由も、この記録からは読めぬ」
七罪カルトの記録が、すぐ傍らにあった。けれど、誰もそこへ線を繋げなかった。記録にない関係を、疑いだけで事実に変えることはできない。
「ベルフェナスは、もう完全に復活しているの?」
ティアナの声が低くなる。
「それも確定できぬ。これは《怠惰》の因子に一致する痕跡じゃ。魔神自身の完全復活を示す証拠ではない。他の封印がすべて破られたとも判断できぬ」
僕の前にあった三つの門は、今は消えている。
けれど、消えたのは鏡の中の入り口だけだ。《憤怒》《色欲》《暴食》の因子は、今も僕の内側にある。
そして僕がその三体と向き合うため、この樹洞に立っている間にも、外の王国では《怠惰》の痕跡が場所を変えていた。
誰かが因子に近づいているのか、既に宿しているのか。どちらも分からない。
僕が三体と向き合う準備をする間も、外の異変は待ってくれない。
オベイロンが、鏡から僕へ視線を戻した。
「お前が眠っている間にも、王国では誰かが怠惰へ手を伸ばしている」
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