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『属性適性なしの学院最下位、迷宮で見捨てられた僕は七罪の魔神と契約する ~最強英雄になった幼なじみに追いつくまで~  作者: ドキツトム


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第212話「元魔導神オベイロン」

「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!


例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』


皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!



 暗い通路の奥で、布の擦れる音がした。


 一歩、また一歩と、足音が翡翠色の光へ近づいてくる。


 やがて根の隙間から、一人の男が姿を現した。長い耳と銀灰の髪。飾りのない濃紺の長衣をまとい、その目には一人の寿命では量れない時間が沈んでいる。


 男は樹洞へ入らなかった。


 絡み合う根が作る境界、その手前で足を止め、セリスティア女王へ一礼する。


 その瞬間だった。


 左腕の紋章が、ちり、と熱を持った。


 続いて右上腕の奥で火種のようなものが脈打ち、上胸部には冷たい指を押し当てられたような感覚が走る。どれも一瞬で消えた。力が溢れたのではない。ただ、三つが彼の気配へ身構えたように思えた。


「魔神の残り香」


 フィアの手が、剣のあるはずの空の腰へ反射的に走った。指が何もない場所を掴む。結界へ入る前に武器を預けていたことへ気づいても、彼女は手を下ろさなかった。僕の斜め前へ半歩出て、男を睨む。


 ティアナも僕のすぐ隣まで寄った。レグルスは動かず、男の指先と視線を静かに見定めている。


 セルフィナの顔には、もっとはっきりとした拒絶が浮かんでいた。


「なぜ、そのような残滓を持つ者が世界樹の内側に」


「名をオベイロンという」


 答えたのはセリスティア女王だった。


「かつて、この国を治めたエルフ王。そして、神ならぬ身で卓越した魔導技術を極め、《魔導神》とまで呼ばれた大魔導士じゃ」


 神、という言葉に僕は男を見直した。


 けれど女王は、僕の疑問を見抜いたように続ける。


「無論、真なる神ではない。畏れと敬意から付けられた異名にすぎぬ」


 その肩書にもオベイロンは何の反応も示さず、女王の説明が終わると自分で一つ付け足した。


「そして私は、かつて七罪カルトの司教でもあった」


 樹洞の空気が、音もなく張り詰めた。


 セルフィナの周囲で漂っていた淡い精霊の光が、彼女の肩元へ集まる。怯えているというより、近づけさせまいとしているように見えた。セルフィナはその光を盾にはせず、自分の身体を一歩前へ出した。


 レグルスが、低く問いかける。


「あなたは今、どの立場でここに立ち、何を目的としてアルトへ触れようとしているのです」


 オベイロンは、彼から目を逸らさなかった。


「私は今、王ではない。《魔導神》でも、司教でもない。アルトと三因子の境界を診断し、彼自身が選べる選択肢を示すために来た。それ以外の行為を、ここでするつもりはない」


「その経歴を持つあなたの言葉を、信用しろと仰るのですか」


 セルフィナの声は丁寧だった。だからこそ、刃のような不信が隠れなかった。


「警戒は正しい。私の後悔は、被害を受けた者への償いにはならない」


 オベイロンは、それだけを答えた。


 騙されたとも、仕方がなかったとも、許してほしいとも言わない。けれど、それは潔白の証明ではない。彼が七罪カルトで何をしたのかさえ知らない僕には、まだ信用も赦しも与えられなかった。


「わらわも、この者を赦したわけではない」


 セリスティア女王が静かに告げる。


「監視下に置いておる。三因子へ触れ、なおかつアルトの魂との境を判別できる可能性がある術者が、この者しかおらぬゆえ呼んだまでじゃ。安全を保証するつもりもない。ゆえに、わらわもここにおる」


 オベイロンは女王へ許可を求めなかった。根の境界に立ったまま、まっすぐ僕を見た。


「アルト。君の魂と三因子の接続を診てもよいだろうか」


 相手のためだと決めつけず、本人に聞く。さっき出した答えが、すぐ僕自身へ返ってきた。ならば僕も、何も考えず頷いてはいけない。


「何をするのか、先に説明してください」


「鏡に君の魂の輪郭を映し、三因子がどこまで達しているかを見る。因子を動かしも、切り離しもしない。まずは観察だけだ」


「異変が起きたら、僕が言います。すぐに止めてください。それと、みんなをここから出さないでください」


「約束する。異変の申告があれば即座に中止する。診察を理由に、誰かへ退室を求めることもしない」


 僕はみんなを見た。誰も代わりに答えようとはしない。フィアも空の腰から手を離しただけで、警戒は解いていなかった。


「その条件なら、お願いします」


 セリスティア女王が根へ指先を向けると、境界が人一人分だけ開いた。オベイロンはそこで初めて樹洞へ足を踏み入れた。


 彼が長衣の内側から取り出したのは、くすんだ銀縁の鏡だった。


 オベイロンは鏡を根の台へ立て、僕から数歩離れた位置に置いた。


「鏡面を見てほしい。触れる必要はない。苦痛だけでなく、熱、寒気、声、感情の急な変化があれば、その時点で言ってくれ」


「分かりました」


 彼が鏡の縁へ二本の指を添える。


 詠唱はなかった。


 曇っていた鏡面へ淡い光がにじみ、僕の姿を映すはずの場所に、人の形をした光が現れた。顔はない。髪も服もなく、輪郭さえ水面へ落ちた月のように揺らいでいる。


 それでも、なぜか僕だと分かった。


 人型の左腕へ黒く濁った根が食い込み、右上腕には赤黒い筋、上胸部には花の蔓にも見える紫がかった線が絡んでいた。


 三つは鏡の中で交わっていなかった。


 だが表面へ貼りついているだけでもない。それぞれ別の場所から光の内側へ潜り、魂の深部へ根を下ろしている。因子と僕の光は絡み、どこまでが異物なのか追えなかった。


「左腕から伸びるものが《暴食》ベルゼバス。右上腕が《憤怒》サタネグラス。上胸部が《色欲》アスモリーナだ」


 オベイロンの声は変わらず平静だった。


「三因子は融合していない。それぞれが独立している。だが、アルトの魂から簡単に切り離せる状態でもない」


 鏡の像を見れば、楽観はできない。三つの根すべてに、僕自身の光が絡みついていた。


「確認させてください」


 セルフィナが鏡を見据えたまま言う。


「いま確定した事実と、あなたの推測を分けて示してください」


「確認できる事実は二つ。三因子が肉体だけでなく魂へ到達していること。そして、三因子同士は融合していないことだ」


「切り離せないというのは」


「現状から導く判断だ。切除した際、アルトの魂のどこが、どの程度傷つくかまでは予測できない。絶対に切除できないと確定したわけではない。しかし、安全に切除できるとも言えない」


 切ったあと、僕が僕のままか分からないのだ。


「境界を判別できるのであれば、因子だけを断つことはできないのですか」


 レグルスの問いに、オベイロンはすぐ答えなかった。


「境界を浮かび上がらせる。アルト、僅かな接触だが、異変があれば言ってくれ」


「はい」


 鏡の縁に添えられた指が、ほんの少し動いた。


 人型の左腕で、黒い根と淡い光の境目が細く白く浮かぶ。


 次の瞬間、胸の奥を内側から掴まれた。


「っ……痛いです。魂の中を、引かれてるみたいです。止めてください」


 言い終わるより早く、オベイロンの指が鏡から離れた。


 白い境界が消える。胸の奥を引く力も途切れ、僕は詰めていた息を吐いた。膝は折れなかったけれど、背中には冷たい汗が滲んでいた。


 ティアナの手が僕の腕へ伸び、触れる寸前で止まる。


「もう痛くない?」


「うん。今は大丈夫」


 フィアは鏡と僕を交互に見た。オベイロンへ向けた目だけが、先ほどより鋭くなっている。


「今のは、境界を見えやすくしただけだ」


 オベイロンは事実を隠さなかった。


「それでもアルトの魂は、因子と共に引かれた。力だけを切り取ろうとすれば、彼自身の魂まで損なう危険がある」


「損なわれるのは、何ですか」


 僕が尋ねると、オベイロンは少しも慰めるような顔をしなかった。


「分からない。記憶か、人格か、意識か、生命か。あるいは複数か。何が、どの程度傷つくかを断定できない。それこそが切除の危険だ」


 知らないまま刃を入れるには、失うものが大きすぎた。


「では、封印を強化する方が現実的ではありませんか」


 レグルスは切除へ固執せず、次の可能性を探す。


「現在の封魔具と封印は必要だった」


 オベイロンの視線が僕の左腕へ落ちる。


「三因子の外部顕現を抑え、アルトが自分を保つ時間を作ってきた。緊急措置としては正しい。無意味だったわけではない」


「ですが、解決にはならない」


「そうだ。支配と封印をさらに強めれば、それに応じて反発も強くなる。三魔神は、力だけの塊ではない。意思を持つ。一方的に押さえ込まれるほど、アルトの感情、生存本能、恐怖、怒り、執着を足場にして、内側から抵抗する」


 空腹だけではない。死にたくないとき、許せないとき、誰かを失いたくないとき。その僕自身の感情を、三魔神は足場にできる。


「それを、七罪カルトで学んだのですね」


 セルフィナの言葉には、確認と糾弾の両方があった。


「そうだ。私は七罪カルトの側で因子を扱った。だから、一方的な抑圧が何を招くかを知っている」


 誰に何をしたのか、彼は語らない。セルフィナも今は促さなかったが、その視線は問いを残していた。


「切除もできない。封印を重くすることもできない。それなら、僕に残っているのは何ですか」


 オベイロンは鏡の中の三つの根を見た。


「可能性は一つある。君自身が、三魔神と一体ずつ対話することだ」


「対話……」


「説得して友となることではない。完全に服従させることでもない。相手の要求を聞き、君の譲れない条件を伝え、双方を縛る契約条件を選ぶ」


「誰が、その条件を決めるのです」


「アルト本人だけだ。私にも、セリスティアにも、ここにいる仲間にも代わりは務まらない」


 オベイロンの答えに、女王も口を挟まなかった。


「ベルゼバスとは、もう契約しています」


「死の間際に、選択肢のないまま結ばれた契約だ。条件は一方的で、今も君を器と呼んでいる。あれも選び直さなければならない。《憤怒》と《色欲》に至っては、外から強制的に刻まれた接続であり、君自身が選んだ契約ではない」


 左腕の紋章を、右手で押さえる。


 あの暗闇で、僕は死にたくないと願った。力を求めたのは僕だ。けれど、何を差し出し、何を許さないかを選んではいなかった。


「契約を結び直せば、制御できるのですか」


「保証できない」


 オベイロンは即答した。


「三魔神が安全になるわけではない。力を自由に使えるようになるとも、完全に制御できるとも言えない。三因子が一つになることもない。対話は、君が自分の魂の主導権を保つために残された可能性にすぎない。相手の要求を知ること自体が、君を揺さぶる危険にもなる」


 希望だけを並べないことは、信頼する理由にはならない。ただ、その言葉を軽く扱わずには済んだ。


 ティアナが僕の隣で尋ねた。


「失敗したらどうなるの」


 短い問いだった。


 オベイロンも言葉を飾らなかった。


「アルトが三魔神のいずれかに主導権を奪われれば、魂は器として喰われる。肉体だけが生き続ける可能性はあっても、アルト本人は二度と目覚めない」


 ティアナの指が、僕の袖を強く握った。


「アルト」


 フィアが呼ぶ。


 それだけだった。けれど、剣のない彼女が僕のすぐ近くから動かないことも、その目が僕だけを見ていることも分かった。


 レグルスは進めとも、退けとも言わなかった。背筋を伸ばしたまま、僕が何を選ぶかを待っている。


 セルフィナは鏡から目を逸らしていなかった。僕を全面的に信じたからではない。危険を危険のまま、自分の意思で最後まで確かめようとしているのだ。


 怖かった。


 僕の空腹や怒りや、大切な人を失いたくない気持ちを、どう歪められるのか。話すと決めただけで、戻れなくなるのかもしれない。


 今すぐ三体すべてと契約すると決めることはできなかった。


 分からないものを、分かったふりで受け入れることもできない。


 それでも、知らない誰かや魔神が決めた条件のまま、器として待つのは嫌だった。僕の魂なのに、僕だけが何も知らず、何も選べないままなのは、もっと嫌だ。


 守るという言葉で、相手の選択を奪わない。


 あれは、僕自身にも向けるべき答えなのだと思う。


 まず相手を知る。受け入れられないものには、そう答える。


 今決めるのは、三つの契約ではない。


 三つの門を、この目で見ることだけだ。


「まず、見せてください。僕が話さなければならない相手を」


 オベイロンは頷き、もう一度鏡の縁へ触れた。


 淡い人型が薄れ、三つの根と共に闇へ沈む。鏡は僕たちの姿も、樹洞の翡翠色の光も映さなくなった。深い暗闇だけが、その小さな面の奥へどこまでも広がっていく。


 最初に現れたのは、赤黒い炎に包まれた門だった。


 炎は燃え上がるたび、押し殺した怒りを暴き出すように脈打っている。扉の向こうには、壊すべきものが無限に並んでいるような気配があった。


 その隣で、美しい花々が暗闇を押し広げた。


 甘い香りに満ちた花園の門。花弁の一枚一枚が、抱き締めた記憶や、離したくなかった手や、失いたくない誰かの面影を宿している。優しく奥へ誘いながら、一度そこへ囲い込んだものを決して帰さない。愛することと所有することの境を、香りの中で曖昧にする門だった。


 最後の一つには、扉らしい輪郭さえほとんどなかった。


 ただ開いている。


 光も、音も、その周囲に浮かぶ花の色さえ呑み込み続ける、底のない口。見つめているだけで、胸の内に空白を作られ、その空白へすべてを詰め込めと迫られる。


 赤黒い炎は《憤怒》、甘い花園は《色欲》、底のない口は《暴食》。鏡の中だけの光景なのに、右上腕、上胸部、左腕の因子が、ごく弱くそれぞれの門へ応じた。樹洞には炎も花も闇も現れていない。


 鏡の中で、赤黒い炎、甘い花園、底のない口――三つの門が、僕を待っていた。

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