第211話「英雄の妻セリスティア」
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例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
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「その人は、誰なんですか」
セリスティア女王の視線は、僕の左腕から離れない。治療布を覆う黒銀色の封魔具。その内側で、傷が鈍く脈打っていた。
「セイン。五百年前、人の世で英雄と呼ばれた男じゃ」
英雄譚で知る名が、急に重みを変えた。
「わらわは、あの者と戦場を共にした。そして後には、妻の一人となった」
ティアナが息を呑み、フィアの目が細くなる。レグルスは背筋を正し、セルフィナの傷の残る頬も強張った。
女王の眼差しに誇示する色はなかった。僕には、五百年を経ても薄れきらない愛情と、同じ年月だけ積もった喪失があるように見えた。
五百年前を知るどころか、その時代をセインと生きた人が目の前にいる。
「ただし、あの者の武勇を聞かせるために来たのではない。セインとて、初めから正解を知っておったわけではないからのう」
武器は結界の外へ預けたまま。女王が通るため根は開いているが、その外には監視のエルフが残っている。僕たちは客人でも正式な捕虜でもなく、未分類の危険対象だ。森の試練を越えただけで信用は得ておらず、セルフィナの処分も保留されている。
「ゆえに、わらわが見た戦場の一部を見せよう」
「記憶を読ませる、ということですか」
「似ておるが、そなたらの精神へ入り込む術ではない。わらわの記憶を外へ投影し、この樹洞へ重ねるだけじゃ。見せられるのは、わらわ自身が見聞きした範囲に限られる」
「客観的な歴史でもない。五百年の間に欠け、曖昧になった箇所もある。わらわの後悔が見え方を歪めておらぬとも言い切れぬ」
女王は世界樹の壁へ触れ、僕たち一人一人を見た。
「見るか否かは、おぬしらが選べ。これは、わらわが見たものに過ぎぬ。それでも見るかえ」
「見ます」
「私も見るよ」
「見る」
「僕も異存ありません」
「私も見ます。ここに残ると決めたのは、私自身ですから」
五人の同意を受け、女王の指先から翡翠色の光が床へ広がった。樹洞の上へ灰色の空と崩れた都市が重なり、焦げた臭いが鼻を刺す。
僕は過去のセリスティア女王の視界を借り、滅びかけた街を見ていた。
それでも、現在の僕の傷や右脚の痺れは消えていない。過去へ移ったのではなく、あくまで樹洞に映された記憶なのだ。
焼け落ちた城壁と、瓦礫に塞がれた門。路上には人間と異形の死体が折り重なり、灰が敵味方の顔も旗も同じ色に覆っていく。
折れた槍。刃を失った剣。潰れた荷車の下から覗く、小さな履物。
戦えない者まで巻き込まれたのだ。勝利を叫ぶ声はなく、生き残った側にも勝者はいなかった。
視界の端に弓を握る手が映る。腕は血と煤で汚れ、指先が震えていた。
崩れた大通りの先に、一人の男が立っていた。
欠けた剣を下げ、裂けた鎧から血を流している。息のたび背が揺れ、立つだけでも苦しそうなのに、彼は退かなかった。
その前に、七つの異なる影がある。
最初の影は、狼の四肢、黒い甲殻、複眼、膜翅、大顎を備えていた。
――《暴食》ベルゼバス。
名を悟った途端、現在の左腕が一度だけ焼けた。
「左腕が熱い。《暴食》が反応しています」
僕が隠さず告げると、ティアナが左へ半歩寄った。
『力を欲した時だけ、我らを神と呼んだ』
獣じみた声にも、明確な考えがあった。
『腹が満ちれば、次には災厄と呼ぶ。飢えた者を飢えた者へ噛みつかせ、満ちた者はその上からなお奪った。人の飢えは、我より深い』
長い輪郭から乾いた声が落ちた。
『王は門を閉じるために民を門外へ捨てた。その責を我らへ着せ、救国の王を名乗った』
地面に溶ける影が笑う。
『弱い者の血で築いた秩序を、正義と呼ぶのか』
赤黒い熱と、周囲まで焼く怒気が膨れ上がる。
《憤怒》サタネグラスだ。
右上腕の刻印が、一度だけ熱くなった。
「右上腕もです。《憤怒》が反応しました。今は熱だけです」
レグルスが痺れの残る右脚まで確かめる。僕はまだ立てると頷いた。
『怒る権利さえ、弱者には与えなかった』
『奪われて怒れば罪人。踏みにじられて抗えば反逆者。人が人の中へ生んだ怒りを、最後には我だけの罪として封じるというのか』
嘘とは思えない。だが、周囲には王でも権力者でもない者が、その怒りに焼かれていた。
紫黒色の影が、七つの中央で静かに揺れた。
『愛している。忠誠を求める。守ってやる。人は美しい言葉で鎖を飾る』
《色欲》アスモリーナ。
上胸部の因子が一度だけ熱を放った。
「胸の因子も反応しました。《色欲》です。三つとも、まだ熱以外の変化はありません」
「分かった。隠さないでね」
『相手の望みを聞かず、愛を理由に所有する。それを愛と呼ぶ人間に、選択など残す価値があるのですか』
静かな声だからこそ、深く入り込んできた。
残る四つの異なる輪郭と気配からも、違う声が続いた。力を借りた記録だけを栄光とし、代償を押しつけたこと。弱者を盾にした者と、その盾を命懸けで守った者まで同じ人間と括られる矛盾。
声の一つが告げる。
『人間は、もう選ぶに値しない』
『滅ぼすべきだ』
『否。永遠に支配し、二度と選ばせぬ』
怒りには理由がある。だが、その結論は、まだ罪を犯していない者まで人間というだけで裁くものだった。
セインが震える腕で、欠けた剣を持ち上げた。
「お前たちの怒りを、間違いだとは言わない」
「人間がしたことを、なかったことにもできない。だが、まだ何も選んでいない者の答えまで、お前たちが先に決めるな」
顔のない巨大な輪郭が、低く問い返した。
『ならば、人間の罪も我らの怒りも、すべてお前が背負うのか』
セインは裂けた手袋から血を落とし、剣を握り直した。
「それしか止める方法がないなら、そうする」
視界の端で傷ついた腕が弓を上げる。瓦礫の陰でも、生き残った仲間たちが武器を杖に立とうとした。
「全員、退け」
セインは振り返らなかった。
「まだ戦える」
借りた視界の中で、若い女王の声が響いた。
「だから退け。ここからは俺が決める」
僕には、皆を守るために、皆の答えまで彼一人で決めようとしているように見えた。
セインは欠けた剣を握り、七体の前へ一人で踏み出した。
そこで、翡翠色の光が砕けた。
灰も焼けた臭いも薄れ、世界樹の樹洞が戻る。
痺れた右脚から力が抜け、僕は壁へ手をついた。左腕も痛む。フィアは固定した右腕の震えを耐え、ティアナは消耗に浅く息をつく。レグルスの目元にも疲労が残っていた。
女王も世界樹から指を離すと呼吸を乱し、額に薄く汗を浮かべた。
「怒ってた」
フィアの一言は、僕には恐れるより確かめようとしているように聞こえた。
「そうじゃ。理由のない怒りではなかった。じゃが、理由があれば何をしてもよいわけではない」
「分かる部分はありました。人間がしたことまで嘘だとは思えません。でも、理解できることと、関係のない人まで殺すことを許すのは違います」
「その区別を捨てたゆえに、あれらは七つの罪となった」
「では、なぜ現代の歴史では、七魔神は言葉を持たない災厄のように記されているのです。今の記憶がすべてでないにしても、違いが大きすぎる」
「勝ち残った者にとって、歴史は削ることのほうが容易いからじゃ。魔神の訴えを残せば、人の王や権力者が犯した罪も残さねばならぬ。災厄に言葉はなかったとすれば、封じた側はただの英雄でいられる」
「されど、今見せたものを反対側から見れば、異なる記憶もあるであろう。わらわの記憶とて絶対の真実ではない。それだけは忘れるでない」
「セインは、あのあと七魔神を理解して、支配したのですか」
「理解し尽くしたのでも、屈服させたのでもない。七つの力が世界へ散れば、あの都市だけでは済まなかった。ゆえに、あの場で最も犠牲が少ないと思われた手段を選び、自らの内へ留めた」
「正しかったから選んだのではない。ほかよりは、まだ失うものが少ないと思うたから選んだのじゃ」
「あの者は多くを救った。誰より傷つき、最後まで前に立った。それは偽りではない。じゃが、大切な者を守ろうとするほど、その者の意思まで己で決めてしまうことがあった。共に背負うと言うても、聞かぬふりをして一人で行くのじゃ」
「その強さに救われた者もおる。わらわもその一人じゃ。そして、その強さに選ぶ権利を奪われたこともある。妻であったからこそ、どちらも知っておる」
五百年を越えても、女王の声は責める硬さを帯びなかった。愛していたから美点だけを残すのでも、過ちだけで塗り潰すのでもない。僕には、その両方を手放さずに語っているように聞こえた。
「アルトよ。おぬしは、誰を守るために力を欲するのじゃ」
「仲間と、レイシアです」
騎士を目指した原点。離れていても、ずっと追い続けてきた人。
「では、その者たちがおぬしに守られることを望まなんだ時は、どうする」
答えが喉で止まった。守ることは正しいと疑っていなかった。
けれど僕は、仲間の荷物を勝手に背負った。四人を安全な場所へ残し、一人で進もうともした。
レイシアを失いたくないあまり、彼女自身の選択を考えられなくなりかけた。
《憤怒》は、守りたい人を傷つける相手への怒りを膨らませる。
《色欲》は、失いたくない願いを、所有と束縛へ変えようとする。
そして《暴食》は、人間でさえ障害ごと喰らえばよいと、今も僕を「器」と呼んで迫ってくる。星門派に無理やり刻まれたほかの二つも、安全な味方ではない。
善意だけでは、境目にならない。
ティアナは青ざめた顔で僕を見ていた。フィアは左側に残り、レグルスも黙って待つ。セルフィナは開いた根のそばから、傷の残る頬をこちらへ向けていた。
誰も、僕の代わりには答えなかった。
「……本人に聞きます」
「僕が決めつけず、本人に聞く。その答えが僕の望みと違っても、守るという言葉で奪わないようにします」
「でも、聞く時間がない時もあります。今すぐ動かなければ誰かが死ぬなら、僕が判断しなければならないこともある」
「そのときは、相手のためだったと言って逃げません。僕が決めたこととして、責任を負います。今の僕には、それしか答えられません」
正しいと胸を張れる答えではない。次の瞬間には迷うかもしれない。それでも、セインの言葉を借りたのではなく、今の僕が選べる答えだった。
女王はすぐには答えず、やがて口を開いた。
「聞いたところで、分かり合えぬこともあろう。間に合わぬことも、失うこともある。おぬしの答えが、必ず誰かを救うとは限らぬ」
「はい」
「それでも、あの者の答えをなぞるよりはよい。おぬしに必要なのは英雄セインの再現ではない。アルト、おぬし自身の答えじゃ」
女王は僕たち全員へ厳しい視線を巡らせた。
「勘違いするでない。これでおぬしを安全と認めたわけでも、全面的に信じたわけでもない。森を越えたことは、過去の危険を消しはせぬ。セルフィナの処分も保留のままじゃ」
「承知しております」
セルフィナは黙って頭を下げた。
「ただ、おぬしが災厄に答えを委ねるだけの器ではなく、自ら答えを選ぼうとする人間であることは認めよう。ゆえに、次の診察へ進ませる」
「三つの因子は融合しておらぬ。されど、おぬしの身体と魂、それぞれの魔神へ続く接続が、どこで境を成しておるかは見ただけでは分からぬ。通常の治療魔法や封印術で無理に切り離せば、どこを傷つけるか予測できぬのじゃ」
「これも、外せませんか」
「外さぬ。少なくとも、境界を確かめるまではのう。わらわは己の記憶を見せることはできる。じゃが、三因子そのものへ安全に干渉する術は持たぬ」
「この国に一人だけ、おぬし自身と魔神因子の境界を判別しながら、三つへ直接触れられる術者がおる」
観察用樹洞を囲む根がほどけ、暗い通路が現れた。翡翠色の光が届かない奥に、誰かが待つ気配だけがある。
姿も顔も見えない。返事もない。
セリスティア女王は、その暗がりへ静かに告げた。
「入ってまいれ。この者の三因子へ触れられるのは、おぬしだけじゃ」
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