第210話 翡翠の国
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
枝角の大鹿が、白い森の奥へ歩き出した。
一歩進むごとに、行く手を塞いでいた太い根が左右へほどけていく。重なっていた白い幹までわずかに傾き、その間に、さっきまでどこにもなかった道が現れた。
僕たちは互いの顔を見たあと、何も言わずにその後を追った。
王都から姿を消して、もう五か月になる。
追手を避け、名前を隠し、眠る場所を変えながら、ようやく辿り着いた世界樹の森。その最奥へ招かれたというのに、足取りは軽くなかった。
左腕では、蔦に抉られた傷から流れた血が、黒銀の封魔具の下を濡らしている。右脚も、踏み出すたびに鈍い痺れを返してきた。
「アルト、脚は?」
隣を歩くティアナの声にも、いつもの張りがない。森の攻撃を防ぎ続けたせいで、魔力を使い切る寸前だった。
「痺れは残ってる。でも歩ける。強くなったらすぐに言うよ」
「うん。隠さないでね」
フィアは少し前を歩いていた。術式線を斬った右腕が、指先まで細かく震えている。それでも歩幅は落とさず、ときどき振り返って僕の位置だけを確かめた。
セルフィナの頬には、精霊の風に裂かれた細い傷が残っていた。彼女は大鹿の足跡を見失わないよう前を向いている。
最後尾のレグルスだけは、何度も背後を振り返っていた。森が静まっても、僕たちを追ってきた者たちまで消えたとは限らない。
葉陰に浮かぶ小さな光が、僕たちの移動に合わせて揺れた。
精霊たちだ。
襲ってはこない。けれど、僕が近づけば、そのぶんだけ白い幹の裏へ退いていく。
道を開いてもらえたことと、受け入れられたことは違う。
僕はまだ、森にとって飢えを抱えた異物だった。
どれほど歩いただろう。
大鹿が、光の差す斜面を登った。僕も根の段差へ足をかけ、痺れる右脚をティアナに支えられながら、その背を追う。
最後の白い枝をくぐった瞬間、視界が開けた。
「……すごい」
ティアナの声が、吐息と一緒に零れた。
森の向こうに、山が立っていた。
そう思ったものは、一本の樹だった。
天を覆うほどの枝葉。幹は遠くから見ても端から端まで視界へ収まらず、地面を這う根の一本一本さえ、王都の大通りより太い。
そして、その根も、幹も、枝も、すべてが街になっていた。
僕たちのいる斜面から、巨大な根の上へ道が続いている。木肌に沿う大通りには人々が行き交い、幹の窪みには扉や丸い窓を備えた住居が並んでいた。
見上げれば、枝と枝の間を編んだ蔓の橋が揺れている。その上には広場があり、さらに高い枝には段々畑が緑の帯を作っていた。
葉の奥から流れ落ちた細い滝が、途中の枝で水路へ分かれる。水は樹皮の溝を透き通った音とともに走り、下の街区へ注いでいた。
その流れを横切って、葉の形をした小舟が上下の街区を行き来している。荷を載せた吊り足場が、太い蔓に引かれてゆっくり昇っていくのも見えた。
風が吹くたび、花と若葉、それから焼いた木の実の匂いが届く。枝葉の間を縫って飛ぶ精霊たちの笑うような音が、滝の音へ重なった。
何より目を奪われたのは、世界樹の内側を流れる光だった。
翡翠色の光が根から幹へ、幹から枝へ脈打っている。半透明の木肌を透かし、水よりもゆっくりと空へ昇っていく。その光が住居を照らし、水路に映り、国全体を淡い緑に染めていた。
人間の街が地面の上へ広がるものなら、この国は樹とともに空へ向かって育っている。
「王都を三つ積み上げても、まだ足りないだろうね」
レグルスが背後を警戒したまま、それでも率直に感嘆を漏らした。
「上下の移動まで街の構造に組み込まれている。見事だ」
フィアは何も言わず、首が痛くなりそうなほど上を見ていた。視線の先にある最上層は、雲と葉に隠れて見えない。
セルフィナだけは見上げなかった。
懐かしいとも、帰ってきたとも言わず、大鹿の後をまっすぐ歩いていく。
僕たちが根の大通りへ足を踏み入れた瞬間だった。
街の音が途切れた。
話していた人たちが口を閉ざす。笑っていた子供を親が抱き寄せ、道の端へ下がった。木の実を並べていた店主は商品を屋内へ引き入れ、僕たちが通る前に扉を閉めた。
一匹の光る精霊が、僕の左腕の近くまで飛んでくる。
封魔具の隙間から滲む血を見た途端、弾かれたように逃げていった。
「あれが、魔神因子の器……」
「森が排除しようとした者を庇ったそうだ」
抑えた囁きが、足音の隙間を縫って届く。
恐れられているのは僕だと思った。
けれど、すれ違う人々の視線を追ううちに気づいた。
いちばん強く見られているのは、セルフィナだった。
「人間を四人も……」
「なぜ連れ帰った」
怒鳴る者はいない。石を投げる者もいない。
ただ、彼女が近づけば会話が止まり、道が空き、扉が閉じる。その静かな拒絶は、叫び声よりもはっきりしていた。
薄緑色の小さな風精霊が、道の先から飛んできた。
セルフィナの前で一度止まり、くるりと回る。セルフィナの指がわずかに持ち上がった。以前から知っている精霊なのかもしれない。
けれど、指先が届くより早く、風精霊は上の枝へ逃げた。
セルフィナは手を下ろした。
足を止めず、背筋も曲げなかった。
やがて大鹿は、幹へ続く大きな門の前で立ち止まった。
緑銀の鎧をまとった衛兵たちが、大鹿へ深く頭を下げる。大鹿は一度だけ枝角を揺らすと、来た道へ静かに戻っていった。
衛兵の責任者らしい女性が、僕たちへ向き直る。
「武器を、こちらへ」
フィアの左足が半歩だけ前へ出た。レグルスも銀槍を立てたまま、門の内側にいる衛兵の数を見ている。
「森が道を開いたことと、あなた方の安全が認められたことは同義ではありません」
声は冷たく聞こえたが、言っていることは正しかった。
僕は腰から片手剣を外した。
由緒も特別な力もない、僕の普通の剣。それを鞘ごと両手で差し出す。
「預けます」
フィアが僕を見る。数秒遅れて細剣を外した。レグルスも銀槍を渡し、ティアナは空の両手を見せる。
最後にセルフィナが弓を差し出すと、責任者は彼女をまっすぐ見た。
「あなたも例外ではありません」
「承知しています」
僕たちは門の脇にある処置室へ通された。
負傷を放置されることはなかった。治療役のエルフがフィアの右腕を固定し、セルフィナの頬を洗って傷を塞ぐ。ティアナには魔力消耗を和らげる香草水が渡された。
僕の番になると、結界の外に衛兵が三人並んだ。
「封魔具には触れません。外すことも認められません」
「はい。そのままでお願いします」
治療役は封魔具と皮膚の隙間へ細い布を差し込み、出血している部分だけを慎重に洗った。薬が傷へ染みて息が詰まる。処置が終わっても左腕の鈍い痛みと、右脚の痺れは消えなかった。
その後、僕たちは太い枝の内部へ案内された。
樹洞を整えて作られた円い部屋だった。寝台も卓もある。水と食事も、小さな受け渡し口から運び込まれた。
けれど、出入口は僕たちが入ると生きた根に塞がれた。窓の向こうには国の景色が広がっているのに、表面を透明な樹液の壁が覆っている。預けた武器は廊下の結界より外。扉の向こうには複数の衛兵が残り、天井近くには三体の精霊が浮かんでいた。
レグルスは壁、天井、根の継ぎ目を順に見てから、卓へ指を置いた。
「これは僕たちを外の危険から守る部屋ではないね。異常が起きた時、被害を内側だけに封じ込める構造だ」
「檻」
フィアが言った。
セルフィナは否定しなかった。
「危険性を判別できない存在を隔離し、観察する場所です。客室でも、罪人を収容する房でもありません」
つまり僕たちは、客人でも正式な捕虜でもない。
まだ名前をつけられない危険物に近かった。
衛兵が根の向こうへ去ってから、僕はセルフィナを見た。
「僕がいなければ、セルフィナがこんなふうに見られることはなかった」
口にしてから、それだけでは足りないと分かっていた。
セルフィナはすぐに否定も、許しもしなかった。
「あなたを庇うよう頼まれたことはありません。森の前に立つと決めたのは、私です」
翡翠色の瞳が、まっすぐ僕へ向く。
「その選択の責任まで、あなたに奪わせるつもりはありません。ただし、魔神因子の保持者を庇い、この国へ連れ帰った事実も、それが住民と精霊へ与えた恐怖も消えません。《暴食》が精霊や世界樹の魔力を捕食する可能性がある以上、その恐怖には理由があります」
閉じられた扉と、逃げた風精霊が浮かんだ。
「謝罪より、今後どうするかを示してください」
僕は左腕を右手で押さえた。
「森で差し出された魔力を、僕は強く欲しがった。封魔具を自分で開きたくなるくらいに。ベルゼバスの声も聞こえてた」
喉の奥に、あの甘い匂いがまだ残っている気がした。
「次も必ず耐えられるとは言えない。何が起きるか分からないのに、安全だとも言わない。でも、飢えや左腕の異変はもう隠さない。自分のものじゃない命や力は喰わない。必要な検査も監視も拒まない」
一度、四人の顔を見る。
「その上で、五人で生きて帰る。それを僕の今後の行動にする」
セルフィナはしばらく黙っていた。
「では、私はその選択を最後まで見届けます」
ティアナがセルフィナの隣へ腰を下ろした。受け渡し口から届いた水を自分より先に彼女へ手渡す。
「飲もう。傷、まだ痛そうだよ」
フィアは固定された右腕を抱えたまま、僕たちの近くへ残った。
「五人で決めた」
レグルスは卓に薄い記録板を置いた。
「なら、感情ではなく事実を揃えよう。森へ入った時点から順に、五人の証言を記録する。女王へ示せる形にすべきだ」
僕たちは水を分け、冷めた木の実の粥を口へ運びながら、森での行動を一つずつ確認した。
窓の外では、傾いた陽が世界樹の葉を金色に染めていた。
王都から姿を消して、五か月。
レイシアは、僕が生きているかさえ知らないかもしれない。
騎士を目指すきっかけをくれた、何より大切な幼なじみ。帰還を知らせると約束したのに、生きているという一言すら届けられていない。学院の皆も、僕たちがどこで倒れたのか探し続けているかもしれなかった。
交代した衛兵が食器を下げに来た時、僕は根の扉越しに呼び止めた。
「お願いがあります。僕たちが生きていることだけでも、人間の国へ伝えてもらえませんか」
衛兵は少し沈黙した。
「あなた方の存在を国外へ伝えてよいかも、女王陛下が判断します」
「生存だけでも、駄目ですか」
「今は認められません」
受け渡し口が閉じた。
生きて帰るには、道や武器を返してもらうより先に、この国から人間として扱われなければならない。
陽が、葉の向こうへ沈んだ。
その直後だった。
世界樹の最も外側にある葉から、翡翠色の光が消えた。
風で雲がかかったのではない。一枚、また一枚と、意思を持って瞼を閉じるように光を落としていく。
闇は上層の枝へ移り、広場を沈め、段々畑を包んだ。滝を縁取っていた光が消え、水路の輝きが途絶える。小舟も吊り足場も動きを止めた。
やがて幹を流れていた光が上から下へ細くなり、根の大通りまで静かな闇に沈んだ。
国全体が夜になったのではない。
世界樹そのものが、誰かを迎えるために光を落としたように見えた。
住民の声が止む。天井近くで僕たちを監視していた精霊も光を弱めた。
廊下で鎧が鳴る。
透明な樹液越しに見ると、立っていた衛兵たちが一斉に片膝をついていた。
出入口を塞いでいた根が、誰も触れていないのに動き出す。
一本ずつ絡みを解き、左右へ退いた。
暗い通路の奥から、一人の女性が歩いてくる。
冠はない。護衛も連れていない。
淡い銀の髪と、深い緑の衣。静かな足音が近づくたび、壁の木目がかすかに翡翠色を帯び、彼女が通り過ぎると再び消えた。
セルフィナが即座に膝をついた。
「セリスティア女王陛下」
僕たちも遅れて頭を下げる。
女王は部屋へ入り、まずセルフィナを見た。
「おぬしの判断については、後ほど聞く」
「はい」
許しも、叱責も、それ以上はなかった。
女王の静かな視線が、ティアナへ移る。次にレグルス、そのあとでフィアを見た。
その瞬間だけ、女王の瞳がわずかに見開かれた。
息が止まったように見えたのは、ほんの一瞬だった。
フィアの顔。そして、剣を預けたあとも柄を握る形に曲がっている、震えの残る右手。
女王の視線は、その三つを確かめるように移った。
「何?」
フィアが鋭く尋ねる。
女王は答えなかった。すでに表情は、初めから何も揺れていなかったような静けさへ戻っている。
最後に、その瞳が僕へ向いた。
顔の輪郭をなぞるように、長く見つめられる。
「よく似ておる。だが、おぬしはあやつではない」
「誰のことですか」
女王は答えず、僕の左腕へ一度目を落としてから尋ねた。
「差し出された魔力を、欲しいとは思わなかったのか?」
何を答えるべきか迷う必要はなかった。
「欲しかったです。封魔具を開きたくなるくらいに」
「では、なぜ喰らわなかった?」
「僕のものではなかったからです」
それ以上に立派な理由はない。
欲しくなくなったわけでも、飢えに勝ったわけでもない。ただ、欲しがったまま手を出さなかった。それだけだった。
セリスティア女王は、僕の顔と左腕を静かに見比べた。
「現代の人々は、それを《魔神因子》と呼び、今の時代に初めて現れた災厄だと思っているようじゃのう」
封魔具の下で、傷とは違う熱がかすかに脈打った。
女王の視線は、そこから逸れなかった。
「五百年前、七つの罪をその身に宿した者を、私は知っている」
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