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『属性適性なしの学院最下位、迷宮で見捨てられた僕は七罪の魔神と契約する ~最強英雄になった幼なじみに追いつくまで~  作者: ドキツトム


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第209話「森が拒むもの」

「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!


例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』


皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!



 逃げた精霊たちは、消えたわけではなかった。


 白い幹の陰。重なり合う葉の裏。地面を這う根の向こう。


 淡い緑や水色の光が、遠巻きに僕を囲んでいる。


 けれど、どの光も近づいてはこない。


 風は完全に止まっていた。


 頭上を覆う白い葉も、セルフィナの長い髪も、僕の外套の裾さえ動かない。


 虫の羽音がない。


 鳥の声もない。


 足元には、白い根が複雑に絡み合っている。その隙間に溜まった淡い土も、細かな砂粒ひとつまで息を潜めているようだった。


 僕は白い根を越えた直後の位置で立ち尽くしていた。


 一歩先にはセルフィナ。


 背後の境界付近には、ティアナとフィア、レグルスがいる。そのさらに後ろには、僕たちが通ってきた涸れ沢が細く続いていた。


 森全体が、僕だけを見ている。


 目なんてないはずなのに、そうとしか思えなかった。


 左手の指先が震えた。


 前の戦いから残っている痛みのせいだけではない。


 精霊たちが恐れているものが、僕の左腕にある。


 それを、僕自身が知っているからだ。


 セルフィナは、遠ざかった精霊たちを追わなかった。


 弓を持ったまま、静かに両足を揃える。白い幹のさらに奥へ目を向け、声を張り上げることもなく呼びかけた。


「境界の守り手たち。話を聞いてください」


 返事はなかった。


 葉も揺れない。


 精霊の光も動かない。


 ただ、沈黙だけが深くなった。


 やがて。


 ぎし、と。


 左腕から小さな音がした。


 黒銀色の封魔具が軋んでいる。


 目を落とした瞬間、止まっていたはずの風が動いた。


「っ……!」


 四方から集まった風が、左腕へ叩きつけられる。


 髪も外套も揺れていない。


 僕の左腕だけに、風が集中していた。


 手首を捻り上げ、肘を外へ押し、上腕を境界の向こうへ引き戻そうとする。見えない何本もの手に掴まれたように、腕だけが別々の方向へ引かれた。


 直後、白い木々から蔦が伸びた。


 一本が左手首へ巻きつく。


 もう一本が左肘を締め上げ、太い蔦が上腕の封魔具へ絡みついた。


 さらに髪ほどの細さしかない蔓が、黒銀の装甲板と二重固定された革帯の隙間へ入り込んでくる。


「ぐ……っ!」


 蔓が内側から持ち上がり、固定具が皮膚へ食い込んだ。


 封魔具の下に残っていた傷が、一斉に開いたように熱くなる。


 腕を引き抜かれそうな力に耐えようとしただけで、肩から指先まで鋭い痛みが走った。痺れた左手は握ることさえできず、震える指が頼りなく開閉する。


 それでも、森の攻撃は左腕から逸れない。


 首も、胸も、剣を持つ右腕も狙われていなかった。


 白い蔦は僕の身体を無差別に傷つけようとしているのではない。


 狙っているのは、封魔具に覆われた左腕だけだ。


 封魔具を引き剥がそうとしているのか。


 それとも、この腕ごと森の外へ排除しようとしているのか。


 僕には断定できなかった。


 ただ、封魔具が壊れれば、その下に封じているものが露出する。


 この森が最も恐れている《暴食》を、自分たちの手で解き放つことになる。


「待ってください」


 セルフィナが僕を振り返らずに言った。


「まだ、この人の意思を見ていません」


 遠くにあった精霊の光が、一斉に震えた。


 止まっていた白い葉が、風もないのに擦れ合う。


 さわさわという音が幾重にも重なり、幼い声にも、老人の声にも聞こえる響きへ変わっていく。


『魔神を連れ込んだ裏切り者』


 言葉が向けられたのは、僕ではなかった。


 白い葉の先も、淡く輝く精霊たちも、セルフィナへ向いている。


 彼女の肩の近くに残っていた小さな風精霊が、弾かれたように飛び退いた。


 セルフィナが手を伸ばしかける。


 けれど、その手が届くより早く、風精霊は白い枝の裏へ隠れた。わずかに覗く光は、怯えたように細かく明滅している。


 悪意があるようには見えなかった。


 精霊にとって、《暴食》は自分たちの生命まで喰らい得る力だ。


 その力を宿す人間を、セルフィナが領域へ連れ込んだ。


 森から見れば、拒絶する理由はある。


 だからといって、このまま封魔具を壊させるわけにはいかない。


 僕は右手で剣を抜いた。


 学院で支給された、飾りのない片手剣。


 刃を向ければ、手首の蔦くらいなら斬れる。


 だが、目の前にある白い蔦も、この森で生きているものだ。


 僕は手首を返し、刃筋を外した。


 横から伸びてきた蔦へ、剣の腹を添える。


「学院式剣術・第三型――《流し月》」


 正面から受け止めない。


 蔦が伸びてくる力へ剣を重ね、低い弧を描く。


 足元の根を避け、土の見えている狭い場所へ向けて力を流す。


 剣の腹を滑った蔦が、僕の脇を抜けた。


 白い表皮には傷ひとつついていない。


 けれど、一本を流した隙に、左肘を縛っていた蔦が強く縮んだ。


 肘の固定具がずれ、硬い縁が傷口を抉る。


「う、あ……っ!」


 息が止まった。


 左肩を引かれ、身体が傾く。


 踏ん張ろうとした右脚に力を込めた途端、腿から足首まで鈍い痛みが走った。


 前に《閃駆》を使った疲労が、まだ深く残っている。


 右膝が折れかける。


 倒れる先には、地面から盛り上がった白い根があった。


 咄嗟に足を出せば、靴底で根を踏みつける。


 僕は右脚を止めた。


 左腕を引かれたまま、腰を捻って倒れる向きを変えようとする。


「根には触らない。足場だけ作るよ」


 背後からティアナの声が飛んだ。


 涸れ沢から運ばれてきた平たい石が、地面すれすれを滑る。


 白い根を押すことなく、その間にある僅かな土だけがふわりと盛り上がった。


 大小三つの石が重なり、根と根の隙間へ低い足場が差し込まれる。


「右、そこ踏んで」


 折れかけた右脚の下へ、最後の石が入った。


 靴底が硬い面を捉える。


 身体が完全に倒れる寸前、ティアナの手が僕の背中へ触れた。


 押し戻すのではなく、傾きが止まるまで支えるだけの手だった。


「ありがとう……!」


「前、来るよ」


 ティアナが手を離す。


 僕の正面から、二本の蔦が同時に伸びてきた。


 一本は手首の封魔具。


 もう一本は上腕の固定具を狙っている。


 剣を低く構え直したとき、視界の端で細い光が走った。


「線だけ」


 フィアが僕の左側へ踏み込んだ。


 彼女の剣先が狙っているのは蔦ではない。


 白い蔦から封魔具へ伸びる、緑白色の細い光。


 手首、肘、上腕。


 拘束されている三か所へ、森の魔力が術式線となって流れ込んでいた。


「左。三本」


 フィアの剣が鋭く返る。


「《雷剣・断線》」


 一筋の斬撃が、三本の光だけを横切った。


 白い蔦には触れない。


 根にも、遠くで明滅する精霊にも刃を向けない。


 乾いた音が三度重なり、拘束術式線だけが途切れた。


 手首を捻り上げていた力が弱まる。


 肘と上腕の蔦も、ほんの僅かに緩んだ。


 その隙に左腕を引き寄せようとしたが、フィアの斬った光はすぐに伸び始めた。


 白い根から蔦へ魔力が流れ、途切れた線の両端が細い糸を引く。


「また来る」


 フィアは追撃しなかった。


 剣を握る右腕が小さく震えている。


 彼女の右腕も、まだ完全には回復していない。先ほどの一撃だけで傷が痛んだのか、剣先が僅かに下がっていた。


 それでもフィアは退かず、僕の左腕と術式線が同時に見える位置へ立つ。


 つながり直した三本のうち、上腕の線だけが急激に太くなった。


 封魔具が、嫌な音を立てる。


「一本」


 フィアが短く踏み込む。


 今度は最小限の振りで、太くなった一本だけを断った。


 斬撃の直後、彼女は右肩を押さえそうになった。


 だが、左手を剣の柄に添え、震えを抑えるだけに留める。


「まだ切れる」


 短い言葉とは反対に、呼吸は浅かった。


 何度も任せられない。


 僕は剣を握り直した。


 封魔具の隙間へ潜り込んだ細い蔓が、さらに奥へ進もうとしている。


 これだけは流す場所がない。


 斬らずに退けるには、剣の腹へ押す力を集めるしかなかった。


 右腕を曲げ、蔓と固定具の間へ剣の平らな面を差し込む。


「集え、散るな。形なき力よ、我が一点に重みを結べ――第一階位・基礎魔法《衝圧》」


 剣の腹、その一点だけに重みが宿った。


 衝撃波は広がらない。


 白い根を揺らすことも、周囲の葉を吹き飛ばすこともない。


 剣の腹が蔓を押し、封魔具の隙間からゆっくりと逸らしていく。


 蔓は切れずにしなり、固定具の外へ押し出された。


 すぐに再び巻きつこうとしたが、《流し月》の軌道へつなげ、根のない左後方へ流す。


 剣先が土へ触れそうになり、寸前で止めた。


 右腕が重い。


 完全詠唱で魔力を一点へ集めただけでも、消耗した身体には堪えた。


 息を吸うたびに胸が熱く、視界の端が暗くなる。


「アルト、肩」


 ティアナの声に合わせ、僕は身体を僅かに後ろへ預けた。


 彼女の手が右肩を支える。


 その間に、足元の石が少しだけ動いた。


 根を押さないよう、根の間にある土だけを固め直している。


「そこなら崩れないよ。右脚、無理に伸ばさないで」


「うん」


 答えた直後、涸れ沢の奥から石を踏む音が響いた。


 一人ではない。


 荒い足音が二つ、こちらへ近づいてくる。


 振り返る余裕はなかったが、境界の外へ視線を向けたレグルスが銀槍を構えた。


「来客まで重なるとはね」


 白い蔦の隙間から、二人の人影が見えた。


 前に捕らえ、巡回騎士へ引き渡せる位置へ残してきた七人ではない。


 どちらも泥に汚れた外套をまとい、片方は円盤状の魔導具を握っている。


「最後の反応は、この辺りだ」


「足跡が境界まで続いている。急げ」


 短い言葉を交わし、二人が涸れ沢を駆け上がってくる。


 街道の周辺に残されていた者たちが、追跡盤の最後の反応と足跡を辿ってきたらしい。


 レグルスが、僕と二人の間へ入った。


「君は前を見ろ。背後は僕が止める」


 銀槍が横薙ぎに振られる。


 穂先ではない。


 長い柄が先頭の男の短剣を弾き、その胸元を押して涸れ沢側へ戻す。


 もう一人が魔導具を掲げた。


 レグルスは石突きを乾いた地面へ打ち込む。


 狭い範囲だけで風が巻き、二人の足元に砂と小石が舞い上がった。


 風は境界を越えず、涸れ沢の内側だけを巡っている。


「くっ……!」


 視界を奪われた男が腕を振り回す。


 レグルスはその手首へ槍の柄を当て、魔導具を打ち落とした。石突きで足を払われたもう一人も、乾いた沢底へ背中から倒れる。


 二人とも動いている。


 致命傷を与えた様子はない。


 だが、レグルスが後方へ下がったことで、境界側の守りが薄くなった。


 その変化に反応したのか、足元の白い根が動く。


 僕を中心に、幾本もの根が緩やかな弧を描いて持ち上がった。


 ティアナは触れていない。


 根は森自身の意思で伸び、境界を横切っていく。


「レグルス!」


「分かっている!」


 レグルスが槍の柄でもう一人を押し戻し、こちら側へ跳んだ。


 彼の踵が境界を越えた直後、二本の太い根が重なり合う。


 白い格子のように涸れ沢への道を塞ぎ、二人の教団残党と僕たちを隔てた。


 外側から根を叩く音がした。


 けれど、重なった根は揺れもしない。


 レグルスはすぐに僕のそばまで戻らず、境界近くで銀槍を構えたまま二人を警戒している。


 森は侵入者を拒んだ。


 だが、僕たちを守ったのだとは思えなかった。


 白い根で出口を塞がれた今、僕も森の内側へ閉じ込められている。


 左腕の蔦が、さらに強く引いた。


「っ……あ!」


 上腕の固定具が皮膚へ沈む。


 封魔具の下を、温かいものが流れた。


 開いた傷から出た血が、肘の内側を伝っている。


 金属と革の隙間へ血が入り、左腕を動かすたびに焼けるような痛みが走った。


 剣を振る右腕にも力が入らない。


 流した蔦が、白い幹を回り込んで戻ってくる。


 森の中で生きるものを相手に、持久戦をして勝てるはずがなかった。


 それでも、斬るわけにはいかない。


 刃を返し、峰で蔦の向きを変える。


 低い弧。


 根のない隙間。


 一歩ずらした右足が石の端を踏み、疲労した膝がまた沈んだ。


 ティアナが腰の後ろへ手を当てる。


「足場、もう一つ入れるね」


 小さな石が滑り込み、踵の下を支えた。


 土が固まる感触はあったが、隣の白い根は少しも動いていない。


 正面から伸びた蔦を流す。


 左側から来た一本は、剣の峰で下へ落とす。


 その間にも手首の拘束術式線が太くなり、黒銀色の装甲板が持ち上がっていく。


「フィア、手首……!」


「見えてる」


 フィアの剣が閃いた。


 太くなった線だけが切れ、装甲板が元の位置へ戻る。


 彼女はすぐに剣を引き、右腕を身体へ寄せた。


 指の震えが柄から刃へ伝わっている。


 再びつながった細い線には手を出さない。


 封魔具が壊れそうなものだけを選び、数呼吸を稼いでいる。


 僕たちは森へ反撃していなかった。


 けれど森の側からすれば、反撃しないことが安全の証明になるとは限らない。


 今は耐えていても、次の瞬間に《暴食》を開くかもしれない。


 精霊たちは、その可能性ごと恐れている。


 そして、それは間違いではなかった。


 左腕の奥には、今も森を喰らい得るものがある。


 封魔具を外し、《暴食》を開けば、蔦に流れる魔力を奪えるかもしれない。


 拘束を抜けるだけなら、それが最も早い。


 だからこそ、使えない。


 僕が歯を食いしばったとき、セルフィナが弓を下ろした。


 弦から手を離し、鏃を地面へ向ける。


 精霊へ矢を向けるつもりがないことを、見せるような動作だった。


「セルフィナ、危ない」


「承知しています」


 彼女は精霊たちが待つ森の奥へ戻らなかった。


 反対に、僕の正面へ歩いてくる。


 白い蔦の軌道を見ながら、その間を抜け、僕と遠巻きにしている精霊たちの間へ立った。


 背を向けられた精霊の光がざわめく。


「危険がないとは言いません」


 セルフィナは声を荒らげなかった。


「私も、まだ見極めています」


 白い葉の間から、細い風が走った。


 僕の左腕へ集中している風とは別の一筋が、セルフィナの頬を掠める。


 淡い銀緑の髪が数本切れ、白い頬に細い赤色が浮かんだ。


 彼女は傷へ触れなかった。


「ですが今、この人は喰らっていません。できるのに」


 僕へ振り返らず、目の前の精霊たちを見たまま続ける。


「それは、私が見ています」


 セルフィナは、僕が安全だとは言わなかった。


 これから先も絶対に《暴食》を使わないと、保証することもしなかった。


 ただ、今この瞬間に起きていることだけを伝えた。


 白い蔦に封魔具を引かれても。


 傷を抉られても。


 僕が精霊を喰らっていないという事実だけを。


 遠くで白い葉が騒めいた。


 一度だけ。


 大勢が同時に息を呑み、次の言葉を失ったように、その音が途切れる。


 森の攻撃は止まらなかった。


 手首の蔦は残り、上腕へ集まる風も弱まらない。


 だが、白い幹の奥で何かが動いた。


 最初に見えたのは、枝ではなかった。


 白い幹の間をゆっくりと進む、大きな枝角だった。


 幾重にも分かれた角が葉の下をくぐる。


 その先端には、小さな風精霊と植物精霊の光が宿っていた。


 淡い光を連れ、大鹿が森の奥から姿を現す。


 毛皮はない。


 身体は滑らかな白い樹皮と、その隙間を流れる光で形作られている。


 胸の奥には、鼓動の代わりに緑白色の光が満ち引きしていた。


 地面へ置かれた蹄は、細い根にも触れている。


 けれど根は潰れず、水面のように僅かな光の波を広げるだけだった。


 大鹿は、セルフィナの隣を通り過ぎた。


 僕の前で止まる。


 深い森の色をした両目が、僕ではなく左腕へ向けられた。


 蔦が動きを止める。


 緩んだわけではない。


 手首と肘、上腕を締めたまま、次の力を待つように静止した。


 僕も剣を構えたまま動けなかった。


 大鹿は前脚を揃え、ゆっくりと頭を下げる。


 枝角の間に、光が集まり始めた。


 最初は小さな粒だった。


 白い葉から緑の光が降り、足元の根から淡い光が昇る。


 枝角に宿っていた風精霊と植物精霊からも、それぞれ細い光が伸びた。


 集まった魔力は、濁りがなかった。


 属性の癖も、術者の意思による歪みも感じられない。


 水より澄み、朝露よりも柔らかい。


 純粋な魔力そのものだった。


 大鹿が枝角を僅かに傾ける。


 集められた魔力が細い流れとなり、僕の左腕のすぐ前まで下りてきた。


 近い。


 黒銀色の封魔具と、指一本分も離れていない。


 それは宙へ放たれた魔力ではなかった。


 枝角の間から伸びる流れの後ろには、無数の淡い光の筋が残っている。


 一本は大鹿の胸へ。


 何本かは白い根へ。


 さらに細い筋が頭上の葉へ分かれ、枝角にいる小さな精霊たちの光へつながっている。


 目の前の魔力は、森から切り離されていない。


 白い根や葉、精霊たちを生かしている流れの一部が、そのまま僕の左腕へ差し出されている。


 これを《暴食》で喰らえば、拘束を破るだけの力は得られる。


 けれど吸収が目の前の魔力だけで止まる保証はない。


 光の筋を遡り、根へ。


 葉へ。


 枝角に宿る小さな精霊たちへ。


 その先まで喰らってしまうかもしれない。


 そう理解した瞬間、封魔具の内側で紋章が脈打った。


「――っ」


 腹の奥が裏返った。


 胃が空になったという程度ではない。


 身体の内側に大きな穴を開けられ、そこへ何もかも吸い込まれていくような空腹だった。


 喉が一瞬で乾く。


 唾を飲み込もうとしても、舌が上顎へ張りつくだけで何も落ちていかない。


 歯が疼いた。


 噛むものなどないのに、歯の根元から甘い痛みが湧き、目の前の魔力へ食らいつけと訴えてくる。


 視界から色が消えていく。


 大鹿の白い身体も。


 セルフィナの髪も。


 ティアナが作った石の足場も。


 フィアの剣も、境界近くに立つレグルスの銀槍も。


 すべてが薄く霞み、純粋な魔力の流れだけが鮮明に残った。


 欲しい。


 喉ではなく、腹でもなく、身体のすべてが欲しがっている。


 あれを喰えば、傷ついた左腕を満たせる。


 失った魔力も、重くなった右脚も、全身を蝕む疲労も、何もかも塗り潰せるように思えた。


 左手の指が勝手に開きかける。


 蔦に縛られているのに、掌だけが目の前の魔力へ向こうとした。


 封魔具の内側で紋章がもう一度脈打つ。


 どくん、と。


 自分の心臓よりも大きく感じる。


 黒銀色の装甲板が内側から押され、二重の固定具が小さく軋んだ。


 ぎし。


 音が、乾いた喉の奥まで響く。


『喰え』


 ベルゼバスの声が一度だけ聞こえた。


 低く、近い。


 命令なのか、衝動そのものが言葉になったのか、区別できなかった。


 左手がさらに開く。


 封魔具の隙間から、黒いものが滲み出そうな感覚がした。


「アルト」


 ティアナの声が聞こえた。


 けれど、それ以上は続かなかった。


 僕の腕へ手を伸ばすこともない。


 ただ足場を保ったまま、右隣に立っている。


 フィアも動かなかった。


 剣を握っているが、狙いは僕の左腕ではない。再び太くなり始めた拘束術式線へ剣先を向けたまま、浅い呼吸を繰り返している。


 セルフィナは僕と精霊の間から退かない。


 境界近くでは、レグルスが銀槍を手にこちらを見ていた。


 誰も逃げない。


 誰も僕の左腕を掴まない。


 開きかけた《暴食》を、外から力ずくで封じようともしない。


 目の前の魔力だけが、僕のものではなかった。


 光の筋の先で、小さな風精霊が震えている。


 植物精霊の淡い光が、明滅を繰り返している。


 白い根には穏やかな魔力が流れ、その流れが遠くの幹や葉へ続いている。


 喰えば、どこまで届くか分からない。


 僕の左手が、また魔力へ近づいた。


 止めようと力を込めるほど、指が開く。


 欲しくないわけじゃない。


 今まで感じたどんな空腹より、強く欲しい。


 目の前に差し出されているものを奪えば、この苦しさから抜け出せる。


 それでも。


 僕のものではない。


 右膝を曲げた。


 疲労した脚が体重を支えきれず、身体が沈む。


 白い根へ倒れそうになったところで、ティアナが作った低い石の足場へ膝を落とした。


 硬い石が膝を打つ。


 その痛みで、薄れていた視界が一瞬だけ戻った。


 僕は蔦に引かれる左腕を、力任せに下へ引いた。


 固定具が傷へ食い込み、息が漏れる。


「ぐ、う……っ」


 それでも肘を曲げる。


 開きかけた左手を、石の足場へ押しつけた。


 掌と石の間で細かな砂が擦れる。


 指は言うことを聞かない。


 だから、開こうとする指を石の縁へ引っかけた。


 人差し指。


 中指。


 震える薬指を順に曲げ、石の角を掴む。


 爪の間へ砂が入り、皮膚が擦れて痛んだ。


 僕は左肩をさらに捻った。


 封魔具の正面を、純粋な魔力の流れから背ける。


 目の前から見えなくなれば楽になると思った。


 けれど、身体は魔力の位置を知っている。


 喉の渇きも、歯の疼きも消えない。


 石を握る左手の中で、封魔具が震えた。


 一呼吸。


 空気を吸い込む。


 森の匂いは分からなかった。


 乾いた喉に冷たい空気が触れ、咳が出そうになる。


 それでも《暴食》は開かなかった。


 二呼吸。


 腹の奥の穴が広がる。


 今すぐ振り返り、左腕を魔力へ向けろと、全身が訴えてくる。


 石を掴む指が一度伸びかけた。


 僕は爪を立て、また縁を握った。


 黒銀色の装甲板が軋む。


 それでも《暴食》は開かない。


 三呼吸。


 目の前が暗くなった。


 純粋な魔力の光だけが、閉じた瞼の裏にまで焼きついている。


 欲しい。


 その思いは消えなかった。


 消せなかった。


 僕は欲しがったまま、石から手を離さなかった。


 紋章は封魔具の内側で脈打ち続けている。


 左手も震えている。


 喉も、歯も、腹の奥も、まだ目の前の魔力を求めていた。


 それでも、一滴も喰わなかった。


 どれほど時間が過ぎたのか分からない。


 大鹿の蹄が、白い根へ触れる小さな音がした。


 枝角がゆっくりと持ち上がる。


 左腕の前にあった純粋な魔力が、細くなった。


 光の流れは枝角の間へ戻り、そこから無数の筋へ分かれていく。


 白い根へ。


 頭上の葉へ。


 小さな風精霊と植物精霊へ。


 すべての光が、来たときと同じ場所へ戻っていった。


 精霊たちの光が弱くなった様子はない。


 白い根を流れる魔力にも、欠けた部分は見当たらなかった。


 僕の喉から、掠れた息が落ちる。


 目の前から魔力が遠ざかるにつれて、腹を抉るような飢えも少しずつ薄れていった。


 消えたわけではない。


 封魔具の内側には、まだ熱い脈動が残っている。


 石を握る左手も、自分のものではないように震えていた。


 ふいに、手首の圧迫が弱まった。


 巻きついていた白い蔦が緩む。


 肘を締めていた一本も、上腕の封魔具を引いていた太い蔦も、ゆっくりと力を失っていく。


 固定具の隙間へ入ろうとしていた細い蔓が抜け、白い幹の方へ戻った。


 封魔具へ集中していた風がほどける。


 手首を捻り上げていた流れも、肘を押していた流れも、形を失って森の空気へ溶けていく。


 緑白色の拘束術式線が、端から淡く消えた。


 一本。


 また一本。


 最後に上腕へつながっていた線が光の粒となり、白い根へ吸い込まれる。


 森を抜ける風が戻ってきた。


 今度は僕の左腕だけを狙う風ではない。


 白い幹の間を通り、葉を揺らし、セルフィナの長い髪を自然に持ち上げる普通の風だった。


 頬に触れた空気から、湿った土と若い葉の匂いがした。


 フィアが剣を下げる。


 右腕の震えは止まっていなかったが、もう術式線を探してはいない。


 ティアナは石の足場を崩さず、僕の隣へ立った。


 僕が身体を起こすときだけ肩へ手を添え、立てたと分かるとすぐに離す。


 セルフィナも精霊たちの側へ戻らなかった。


 弓を下ろしたまま、僕と森の間に立ち続けている。頬の薄い傷から流れた血が、顎の手前で止まっていた。


 境界側から足音が近づく。


 白い根に隔てられた向こうでは、二人の教団残党がまだ動いている。


 レグルスは彼らが領域へ入れないことを確かめてから、銀槍を手にこちらへ戻ってきた。


 僕たちは横一列に並んではいなかった。


 ティアナは右隣。


 フィアは左前方。


 セルフィナは僕と精霊の間。


 レグルスは少し後ろで、涸れ沢へ続く境界を警戒している。


 それぞれ違う場所にいる。


 ただ、誰も逃げずに残っていた。


 遠巻きにしている精霊たちは、まだ近づいてこない。


 風精霊も、植物精霊も、白い幹や葉の向こうから僕を見ている。


 喜ぶ気配はなかった。


 祝福もない。


 森が僕を受け入れたわけではない。


 危険ではないと認めたわけでもない。


 ただ、攻撃だけが止まっていた。


 枝角を持つ大鹿が、僕から視線を外す。


 白い根の先。


 幾重もの幹が重なり、その向こう側を見ることのできない森の奥へ身体を向けた。


 前脚を折り、静かに頭を垂れる。


 枝角に宿る小さな精霊たちの光も、同じ方向へ傾いた。


 足元の白い根が淡く輝く。


 光は大鹿の蹄から根へ伝わり、幹を昇り、数えきれないほどの葉へ広がっていく。


 森の奥で、何かが目覚めたように空気が震えた。


 声は一方向から聞こえたのではない。


 白い幹から。


 足元の根から。


 風に揺れる葉の一枚一枚から。


 森全体を通じ、深く澄んだ声が響いた。


『飢えを抱く少年と、その隣に立った四人を連れてきなさい』

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