第208話「閉ざされた街道」
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
古街道の緩やかな坂を越えると、その先に宿場町の屋根が見えた。
低い石壁の向こうから、炊事の煙が何本も上がっている。荷を積み直しているのか、荷馬車の車輪が軋み、馬をなだめる声も風に乗ってきた。少し遅れて、時を告げる鐘が二度鳴る。
人が暮らしている音だった。
だからこそ、僕たちは足を速められなかった。
左腕の黒銀色の封魔具を隠す布が、歩くたびに皮膚を擦る。昨日、《暴食》を開いたのは二呼吸だけ。それでも鈍い痛みは残り、指先は時々、僕の意思とは関係なく震えた。
朝に食べたはずなのに、腹の底には空洞のような飢えがある。右脚にも疲労が溜まり、踏み込むたびに重かった。
僕の前を歩いていたセルフィナが、片手を上げた。
「止まってください」
全員が足を止める。セルフィナは頭巾の奥で耳を澄ませ、今来た道へ視線を戻した。
「背後から七人。足幅が揃っています。急いでいますが、走ってはいません」
彼女が轍を指す。
乾いた泥の溝を、髪の毛ほど細い黒い線が走っていた。ところどころで僕たちの足跡へ枝分かれし、残った魔力の痕を舐めるように明滅している。
「追跡具を使っています。あの線が、私たちの痕跡を拾っています」
宿場町の側からは、別の音が近づいていた。
複数の騎馬の蹄。一定の間を置いて鳴る鎧と剣帯の金具。旗はまだ見えないが、レグルスが音を聞いて目を細める。
「王国式の装備だ。巡回隊だろう」
敵ではない。
けれど、王国の記録で僕たち五人は死んでいる。騎士章も武器も家紋も隠した今、事情を話して信じてもらえる保証はない。調べられれば、教団より先に足を止められる。
背後には教団。正面には巡回騎士。その先は宿場町だった。
「追跡の線、切れる?」
僕が小声で聞くと、フィアは轍を一度だけ見た。
「切れる。でも、まだ」
ここで線だけを消せば、追手は最後に僕たちを捉えた場所を探す。目の前の宿場町へ入る可能性も高い。
ティアナが本道の南側を見た。草と落ち葉に半ば埋まった、古い荷運び道がある。
「町には入らない。あの廃道へ流すよ」
廃道は弓なりに森へ入り、先で再び本道へ戻っている。途中の窪地から南へ折れれば、世界樹領域へ続く涸れ沢にも下りられた。
「追手は生かして捕らえる。持ち物も壊さない」
レグルスは布と革を巻いた銀槍を握り直した。
「教団だと分かる形で、巡回隊に拾わせる。僕たちは残らない」
「うん。それでいこう」
ティアナがしゃがみ、指先を地面へ触れた。
低く、土が押し上がる音がした。
宿場町側にある廃道の出口が、古い土手にしか見えない高さまでゆっくり盛り上がる。反対に、僕たちの背後側の入口では土が左右へ退き、草に隠れていた道幅が広がった。
本道には手を触れない。騎馬が通る中央は平らなままで、穴も段差もできていなかった。動かした土も根も廃道の内側へ収まり、宿場町側へは一欠片も流れていない。
「こっち、踏んで」
ティアナが示した場所を、僕たちは順に踏んだ。五人分の足跡が、本道から南の廃道へはっきり続く。ほかの痕跡は薄く土に覆われていった。
巡回騎士のための道は残し、教団にだけ入口を見せる。
僕たちは廃道へ入り、本道から姿が見えない最初の曲がり角まで進んだ。
右手の斜面には古い里程標が傾いている。その先で廃道は宿場町側へ弧を描き、左手の窪みからは白い石ばかりの涸れ沢が南へ延びていた。
木々の隙間、そのずっと先に、白い幹が何本か見える。
追手を待つ短い間、僕はセルフィナの隣へ寄った。
「セルフィナ。世界樹の精霊は、僕と三つの因子を分けて見てくれるかな」
彼女はすぐには答えなかった。白い木々を見たあと、僕の布に隠れた左腕、右上腕、胸元へ順に視線を落とす。
「分かりません。《暴食》《憤怒》《色欲》は、どれも精霊にとって禁忌です。あなたの意思を確かめる前に、危険なものとして拒む可能性があります」
「境界にも入れない?」
「あり得ます」
セルフィナはそこで言葉を切った。
「私も、長老や領域の管理者から『人間へ禁忌を持ち込んだ者』と判断されるかもしれません。拘束され、審問を受け、その結果として処罰される可能性もあります。まだ何も決まってはいません」
「だったら、セルフィナだけ先に帰って。僕たちは境界の外で待つから」
「帰るかどうかは、私が決めます。あなたが代わりに決めないでください」
普段より早い声だった。
怒鳴ってはいない。けれど、差し込む余地はなかった。
「……分かった」
「私は一緒に入ります」
それだけ言って、セルフィナは廃道の入口へ向き直った。
フィアの手が、隠していた細剣の柄へ掛かる。
「来た」
黒い線が、廃道の轍を走ってくる。
その後ろから、灰色や茶色の外套をまとった七人が現れた。先頭の一人は、星冠の刻印が入った黒い追跡盤を両手で持っている。線は盤の縁へ吸い込まれ、また足元へ流れ出していた。
中央の男の腰には、封蝋の残る命令筒が下がっている。外套の隙間には黒い星冠の装具も見えた。
僕たちは、廃道の中央で待っていた。ティアナは涸れ沢の入口寄り。セルフィナは南側の斜面。フィアは木立側へ身を低くし、僕とレグルスが正面に立つ。
先頭の男が、僕の頭巾から漏れた白髪を見つけた。
「白髪は生かせ。ほかは足を止めろ」
七人目の踵が廃道へ入る。
同時に、背後で土が鳴った。
ティアナが掌を返すと、追手が入ってきた側だけ地面が盛り上がり、本道への戻り道を塞ぐ。土は廃道の内側で止まり、すぐ北を通る本道には届かなかった。
フィアが踏み込んだ。
細剣の先が轍の黒い線へ触れ、キィン、と硝子を弾くような高い音が響く。
《雷剣・断線》の一閃は人にも追跡盤にも触れず、術式の線だけを断ち切った。黒い明滅が足元から消え、盤の縁で途切れる。
「切った」
追跡盤を持つ男が戸惑った瞬間、根がその両足首へ絡んだ。
「下だけ。締めるよ」
ティアナが根を引く。男の身体が傾いたところへ、レグルスの槍の石突きが脇腹ではなく腰の武器帯を打った。
槍へ巻かれた革と布が鈍い音を吸い、追跡盤が手から離れる。レグルスは盤を踏まず、柄で男の手首だけを押さえた。
右から曲刀が来る。
僕は普通の片手剣を抜き、刃を返した。
剣の腹と曲刀が、ガンッと重い音を立てる。
正面では止めない。手首を落とし、相手の勢いへ低い弧を添える。
学院式剣術・第三型《流し月》。曲刀は僕の肩を外れ、そのまま土へ食い込んだ。僕は柄頭を男の胸当てへ当て、右肩で押す。
右脚が遅れた。踏ん張った腿に痛みが走り、倒し切れない。
けれど男の踵には、もう細い根が巻きついていた。ティアナが引くと、男は背中から地面へ落ちた。
木立側では二人がフィアへ斬りかかった。
「右」
僕が向くより早く、フィアの細剣が一人目の短剣を跳ね上げる。返した柄が手首を打ち、短剣が落ちた。もう一人の刃は身体を半歩ずらして避け、剣の腹で肩を叩く。
最初の術式斬りで負担が掛かったのか、フィアの右腕が一瞬下がった。彼女は大きく追わず、足運びだけで二人との間合いを外す。
南側の斜面で草が強く揺れた。
「弓です。左の木、幹の手前」
セルフィナが見えた動きをそのまま告げ、弦を放す。
敵が矢をつがえた腕を上げた瞬間、その外套の袖が矢に貫かれ、背後の木へ縫い止められた。肌には触れていない。引き剥がそうとした手へ小さな風精霊が砂を巻き上げ、男が目を閉じる。その足元を根がさらった。
「器を傷つけるな!」
誰かの声に、右上腕の《憤怒》の紋様が一瞬だけ熱を持った。
布の下で焼けるような怒りが膨らむ。
僕は息を吐き、剣を握る右手の力を抜いた。熱は熱のまま、使わない。
命令筒を下げた男が、腰の革袋へ手を入れた。
取り出したのは、小さな火打ち具だった。もう片方の手で命令筒と札の入った袋をまとめて掴み、火花を散らす。
レグルスなら、そのまま男を打てた。
けれど銀槍は男ではなく、火へ向いた。
「そいつを追うな。袋だ。焼かせるな」
槍の周囲に風が巻き、地面の砂をさらった。
封蝋の端へ移りかけた小さな火が、横から押し潰される。赤い舌が一度だけ揺れ、ぱつりと消えた。
その隙に、別の男がレグルスの右後ろから短槍を突き出した。
「後ろです!」
セルフィナの声。
僕は右脚で地面を蹴った。
呼吸と重心と踏み込みを一線へ繋ぐ。一歩、二歩、三歩。《閃駆》でレグルスとの間へ身体を滑り込ませた。
疲れた右脚が悲鳴を上げる。それでも、槍先より先に届いた。
剣の腹を短槍へ当てる。
止めずに沈め、外へ流す。
《流し月》の弧に沿って、槍先がレグルスの脇を抜けた。僕は男の肩へ柄を当て、勢いのまま進路を変える。
「そこ!」
ティアナが土をわずかに隆起させた。男の足が取られ、前のめりになった手首へ根が絡む。
命令筒の男は、火打ち具を捨てて涸れ沢へ逃げようとした。
セルフィナの二本目の矢が、その外套の裾を地面へ縫い止める。男が外套を脱ぐより先に、ティアナの根が火打ち具を持っていた手首だけへ巻きついた。
「一人、抜ける」
フィアの短い声がした。
先ほどフィアが肩を打った男が、宿場町側の曲がり角へ走っていた。フィアが追い、一度だけ突き出した細剣で男の剣の鍔を打った。
剣が宙を回る。
フィアは柄で男の肩を打ち、進路を南側へずらす。そこへティアナの根が足首へ巻きついた。土を擦る感触に男が足を取られ、膝から崩れる。
レグルスが槍を横に払い、まだ立とうとした二人の足元へ風を通す。砂が舞い、二人の重心が浮いたところへ、セルフィナの矢が外套と荷紐を地面へ留めた。
僕は左腕の痛みをかばいながら、一人の武器を足で遠ざけた。もう一人の手から短剣を剣の腹で叩き落とす。
やがて、立っている追手はいなくなった。
「七人。全員、息があります」
セルフィナは胸の動きと呼吸を一人ずつ確かめてから言った。出血も、転倒で擦った浅い傷だけだった。
僕たちは追手の荷から縄を出し、足りない分は自分たちの予備を使った。手首と足首を物理的に縛り、結び目を二重にする。ティアナは縄が掛かった者から順に根を解いた。
武器は全部集め、七人が転がっても届かない斜面の上へまとめる。
黒い追跡盤に割れはない。星冠の刻印も残っている。命令筒は封蝋を確かめただけで、開けなかった。
装具と、革袋に入っていた旧式暗号の札も、追跡盤の横へ並べる。
「騎士どもに話してやる。白髪の器が生きていたとな」
縛られた一人が、土に頬をつけたまま笑った。
黙らせれば、僕たちの身元は守れる。
そんな考えが頭を掠め、すぐに捨てた。
「運ぶよ。もう蹄が近い」
ティアナの声で、僕は縄の端を持った。
七人を古い里程標のそばへ移し、本道から見える向きに寝かせる。レグルスは追跡盤、封印された命令筒、星冠の装具、暗号札を一枚の黒い外套の上へ置いた。刻印を上へ向け、飛ばないよう端だけを石で押さえる。
騎馬の蹄が、本道の宿場町側から迫っていた。金具と鎧の音まで、もうはっきり聞こえる。
僕たちは里程標を離れ、南へ延びる涸れ沢へ下りた。
白い石を踏みながら二つ目の曲がりまで進む。そこでティアナが振り返り、地面へ手を触れた。
廃道と本道を隔てていた土壁の一部が、低い音とともに沈んだ。古い里程標と、その足元に拘束された七人が、本道から見える。
「人が倒れている! 全員、止まれ!」
遠くで騎士の声が上がり、蹄が一斉に速度を落とした。
僕たちは振り返らず、涸れ沢の奥へ進んだ。
沢を下るにつれ、空気から土埃の匂いが消えていく。
やがて両側に立つ木々の幹が、灰色から白へ変わった。地表には太い白根が幾重にも絡み、境界のように涸れ沢を横切っている。
葉の間を抜ける空気は澄み、小さな風精霊の淡い光が枝先を巡っていた。苔や若芽のそばでは、植物精霊の緑色の光が瞬いている。
セルフィナが頭巾を外した。
淡い銀緑色の髪が風に揺れ、その間から隠していた長い耳が現れる。彼女は白い根を見つめ、ほんの少しだけ息を吐いた。
それから先に根を越えた。
僕を引く手は伸ばさない。境界の内側で半歩横へずれ、隣に一人が立てる場所を空ける。
左腕はまだ痛んでいた。右上腕と胸元には、僕の同意なく刻まれた因子がある。どれも消えてはいないし、一つになってもいない。
僕は自分の足で、白い根を越えた。
その瞬間、風が完全に止まった。
白い葉も、セルフィナの髪も、ティアナの外套の裾も動かなくなる。
枝先にいた淡い光が震え、苔のそばの緑の光が浮き上がった。警告はない。攻撃もない。ただ、僕の左腕、右上腕、胸元から同時に離れるように、光が木々の奥へ退いていく。
世界樹領域へ踏み込んだ瞬間、周囲の精霊たちは、一斉に僕から逃げた。
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