第207話「名を捨てても」
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
休憩所を離れてからも、背中に紙の擦れる音がついてくる気がした。
古街道は森の中を細く曲がり、割れた石畳を夏草が覆っている。僕たちは一列になって進んでいた。
暗いフードは外せない。
さっきの掲示板には、僕たち五人の名前が死亡者として並んでいた。
その隣には、星冠教団の旧式暗号。白髪の若者を含む五人の目撃情報を求める印が残されていた。
肩の荷紐を直すと、荷物の底にしまった硬いものの感触が背へ伝わる。布に包んだ騎士章だ。捨ててはいない。ただ、今は名と一緒に隠している。
「止まってください」
先頭のセルフィナが腰を落とした。
頭巾の影から道を見渡し、浅い泥へ指を触れる。
「新しい轍です。二台。蹄鉄の沈み方から、荷は重いと思われます。人の足跡も十人以上。北へ進んでいます」
僕が息を吸った、そのときだった。
前方で木材の折れる鈍い音がした。続けて荷台が崩れる激しい音。馬のいななきへ狼に似た咆哮が重なり、森の鳥が一斉に飛び立った。
「誰か! 助けてくれ!」
人の声だった。
剣を使えば型を見られる。土と植物、雷の細剣、風槍、エルフの弓。五人揃った戦い方は、休憩所の暗号への答えになり得る。
考えがそこまで走ったとき、僕の手はもう剣の柄にあった。
「助けよう」
言い終える前に、ティアナは種子袋を取り出していた。フィアは古い鞘の留め具を外し、レグルスは銀色を隠した槍へ手を掛けている。セルフィナも弓を抜いていた。
誰も、見捨てるかどうかを話し合わなかった。
僕たちは走った。
道が大きく曲がった先に、二台の荷馬車が見えた。
一台は道の端で傾き、もう一台は横倒しになって街道を塞いでいる。十数人の男女が荷台と森の間へ追い詰められ、灰褐色の狼型魔物が包囲を狭めていた。
セルフィナの視線が素早く左右へ走った。
「見える避難民は十五人。負傷者は三人です。道上に狼型が七、右手の藪に枝を踏む音が二つ。横転した荷馬車の向こう側は見えません」
「森側の窪地まで通す! 荷物は捨てて、動ける人は負傷者を支えて!」
ティアナが両手を地面へ向けた。
土が低く鳴り、割れた石畳の隙間を根が走る。道の中央に腰ほどの土壁が連なり、荷馬車から森側の窪地まで、狼の牙が届かない細い通路を作り出した。
避難民も動いた。若い男が肩を痛めた老人を背負い、女が額から血を流す男の腕を取る。荷袋へ手を伸ばしかけた者は、自分でそれを蹴り捨て、泣く子の背を押した。
狼が一斉に通路へ向きを変える。
そこへ、革と布を巻いた槍が横から割って入った。
レグルスの一突きに風が巻きつき、砂と枯れ葉が扇状に吹き上がる。先頭の三頭が右へ押し流され、後続との間に空白が生まれた。
「通路へは入れさせない。急いで退避を」
レグルスは追撃せず、避難路と僕たちが戻る道の両方を守れる位置へ下がる。
「左、荷台の陰から来ます」
セルフィナの声と同時に弓弦が鳴った。
矢は狼ではなく、その鼻先の地面へ刺さる。驚いて跳ねた一頭の進路が逸れた。
僕はその隙間へ踏み込む。
避難民へ飛びかかろうとした別の一頭が、前脚を大きく伸ばした。
正面から止めない。剣を低く寝かせ、牙と爪の勢いへ弧を添える。
学院式剣術・第三型《流し月》。狼の身体が石畳を滑り、土壁の外へ転がった。
右から二頭目が迫る。
踏み込み、重心、呼吸を一本に結ぶ。《閃駆》で数歩の距離を詰め、片手剣の平で顎を跳ね上げた。魔物が怯んだ間に、親子が通路へ駆け込む。
横転した荷馬車のそばでは、青白い光が車輪と荷台へ蜘蛛の糸のように伸びていた。
雷の薄光を帯びたフィアの剣先が一本へ触れるたび、硬い硝子を弾くような高い音がした。車軸へ絡んだ線が切れ、荷台の板へ走っていた線も消える。右腕が小さく震えていたが、狙いは一度も外れない。
「奥、二頭です」
「見えている」
レグルスの風が一頭を道の外へ押し返し、もう一頭を僕が剣で牽制する。フィアが最後の術式線を断った頃には、避難民のほとんどが窪地へ入っていた。
その中から、一人の女性が青ざめた顔で戻ろうとした。
「子どもがいない! さっきまで荷台に――!」
僕たちは横転した荷馬車へ振り向いた。
耳を澄ますと、軋む木材の下から細い咳が聞こえた。
車軸と積み荷の隙間に、小さな腕が見える。
そのすぐそばに、拳ほどの獣除けの魔導具が砕けていた。民生品に刻まれる簡素な術式はほとんど暗くなっている。けれど、既に漏れ出した青白い魔力が地面の窪みと割れた木片へ溜まり、粘る水のように揺れていた。
「本体からの出力は止まりかけています」
セルフィナが目を細めた。
「ただし、荷馬車の下に魔力粒子の滞留を目視できます」
「今持ち上げたら、あれが子どもの方へ流れる。弾ける可能性もあるね」
ティアナが荷台の傾きと地面の窪みを見て、短く言った。
僕が一歩近づいた瞬間、左腕の内側で何かが口を開けた。
黒銀色の封魔具が、治療布の上から冷たく締まる。
ぎ、と金属が軋んだ。
喉の奥へ、空腹とは違う飢えが込み上げる。漏れた魔力が、ひどく近く、甘く感じられた。
いつもの癖が一瞬だけ顔を出した。まだ耐えられる。もう少し確かめてからでも――。
けれど、その言葉を飲み込む前に僕は足を止めた。
「《暴食》が反応してる。魔導具から漏れた魔力にだけ」
三人がすぐ近くへ寄る。避難民は窪地の先にいて、残った狼の咆哮とレグルスの風が音を遮っていた。
僕は三人にだけ届く低い声で言った。
「ティアナ、魔力を分けて。セルフィナ、吸っていい範囲を示して。フィア、広がったら切って」
「分かった。囲うよ」
ティアナが片膝をつき、両手を石畳へ重ねる。
「大地よ、根を束ね、守る命の道を囲み、侵す魔力の流れを分かて。味方の脈を内へ退け、敵より伸びる一筋だけを外へ残せ――第二階位・土・植物複合魔法《根界分離》」
根が細い音を立てて荷馬車の下へ潜り込んだ。
子どもの体内魔力、魔導具本体、僕たちの魔力を内側へ退ける二重の輪。既に地面と木片へ漏れた魔力だけが、根の外側へ青白い粒となって押し出されていく。
セルフィナは粒子の動きを目で追い、三本の矢を続けて放った。矢は漏出魔力を囲む三角形の頂点へ突き立つ。
「根の外へ分離された魔力だけ。三本の矢の内側です」
フィアが三角形の境界を横から見渡せる位置へ立った。細剣を低く構える。
「逸れたら斬る」
背後で風が唸った。
「道は僕が保つ。失敗した場合は、全員そのまま窪地へ退け」
レグルスは残る狼を槍で牽制しながら、僕たちの退路から一歩も離れていなかった。
二呼吸だけ。
僕は左腕を三本の矢の内側へ向け、《暴食》を開いた。
一呼吸目。
黒い紋章が治療布の下で熱を持ち、分離された粒子だけが左腕へ吸い込まれる。子どもを囲う根も、魔導具本体も動かない。
二呼吸目。
残りの粒子が消える。その直前、黒い吸収線が一本だけ三角形の外へ曲がり、砕けた本体へ伸びかけた。
鋭い高音。
フィアの細剣が、逸れた一本だけを断ち切った。
もっと欲しい、と飢えが喉を掻く。
それでも僕は、誰かの声を待たなかった。左手を握り、自分の意思で《暴食》を閉じる。
封魔具が深く食い込み、肩の手前まで痛みが駆け上がった。指先が震える。飢えも消えてはいない。
ただ、荷馬車の下に溜まっていた魔力だけはなくなっていた。
「固定する!」
ティアナが根を太くし、土を荷台の両側へ盛り上げる。横転した車体がぎしぎしと軋み、傾きを止めた。
レグルスが後方を確認してから駆け寄り、槍の石突きを荷台の下へ差し込む。巻いた革が木へ擦れた。
「三つ数える。一瞬だけ浮かせる」
僕は地面へ伏せ、車軸の隙間へ身体を滑り込ませた。
子どもは頬と膝を擦りむき、片脚に打撲があった。それでも目は開いている。
「今出すよ。僕の首に腕を回して」
小さな腕が震えながら動いた。
「一、二、三!」
槍が荷台を持ち上げ、根と土が横ずれを止める。僕は子どもを胸へ抱き込み、後ろへ這った。
そのとき、折れた金具が左袖へ食い込んだ。
布の裂ける音がする。
長袖と、その上から巻いていた正体隠しの外布だけが引き裂かれた。冷たい空気へ、治療布の上に二重固定された黒銀色の封魔具が数秒だけ露出する。固定具は外れていない。破損もない。
フードの端も荷台へ擦れ、白い前髪がこぼれた。
今は隠し直している時間がない。
僕は子どもを抱いたまま隙間を抜け、避難路へ走った。
「全員、下がれ!」
レグルスが最後尾へ回り、槍の風で追いすがる一頭を土壁の外へ押し戻す。フィア、セルフィナ、ティアナが窪地へ入り、僕も子どもを母親へ渡した。
誘引していた漏出魔力はもうない。狼たちは森の際で唸ったあと、一頭ずつ木々の奥へ退いていった。僕たちは追わなかった。
子どもは生きていた。
母親が呼びかけると、苦しそうにしながらも返事をする。擦り傷から血が滲み、脚は腫れ始めていた。避難民の一人が清潔な布を当て、別の者が添え木を用意する。すぐ歩かせるのは無理そうだったが、傾いた方の荷馬車なら運べる。
「本当に、ありがとうございます」
母親は子どもの肩を抱いたまま、何度も頭を下げた。
「せめて、お名前を。助けてくださった方の名前だけでも」
喉まで出かかった音を、僕は静かに止めた。
荷物の底には騎士章がある。掲示板には僕たちの名が、死者として並んでいる。
だからといって、別の名でこの出来事を自分の功績にする気にもなれなかった。
「ごめんなさい。今は名乗れません」
母親は戸惑いながらも、深く頭を下げ直した。
セルフィナが確認した道の状態をもとに、僕たちは安全な進路だけを伝えた。少し戻った先の幅広い分岐を西へ折れ、低い尾根沿いに進めば、夕刻までに人のいる宿場へ着ける。壊れた魔導具と散った荷は捨てるよう念を押した。
僕たちが何者かは言わなかった。
騎士章も見せなかった。
それでも、助けを求める声を聞いて剣を抜く理由まで、王国の記録から消されたわけじゃない。
それだけは、さっきより少し確かに思えた。
避難民が動く荷馬車とともに遠ざかったあと、ティアナが僕の左腕を取った。
「固定は無事。外側だけ巻き直すね」
裂けた布を外し、新しい地味な布を治療布と封魔具の上へ巻いていく。フィアがすぐ横に立ち、僕の指先の震えを見ていた。
セルフィナは僕の顔と左腕を順に確認した。
「反応を認識してから共有するまで、遅延はありませんでした。私が確認できた事実として、です」
「今回は、助けを求めるのが遅くなかったね」
ティアナが結び目を作り、少しだけ笑う。
「遅くなかった」
フィアも短く言った。
レグルスは槍へ巻いた布のずれを直しながら、僕を見る。
「それが正しい順序だ。次も同じにしろ」
「うん。次も言う」
左腕の痛みも、内側に残る飢えも、まだそこにあった。
僕の癖がこれで消えたわけじゃない。実際、さっきも一瞬は耐えられると考えた。《暴食》を僕一人で扱えたわけでもない。
ティアナが分け、セルフィナが範囲を示し、フィアが逸れた線を切った。レグルスが退路を守り、僕が最後に閉じた。順序を一つでも飛ばしていたら、同じ結果にはならなかった。
巻き直された布へ手を当てる。
「……裂けたとき、見られたかもしれない」
僕たちは、遠ざかる避難民をもう一度見た。
子どもを抱える母親。負傷者へ肩を貸す男。御者台から後ろを気にする老人。誰かがこちらを凝視している様子も、隊列を離れる動きもない。
不審な反応は見つけられなかった。
確かめようと戻れば、かえって印象を残す。
僕たちは武器を再び旅荷へ隠し、名前のない旅人として古街道を進んだ。
◇
斥候は、魔物が現れる前から避難民の一団へ紛れていた。
狼型魔物を招いたのは、横転で壊れた獣除けの魔導具だ。斥候が仕組んだ襲撃ではない。
だからこそ、偶然現れた五人を初めは疑っただけだった。
地味な旅装。隠された武器。フードの端からこぼれた白髪。そして、少年の袖が裂けた一瞬、左腕に見えた黒銀色の封魔具。
五人という人数まで一致している。
疑いは確信へ変わっていた。
斥候は彼らを追わなかった。声もかけず、攻撃もせず、負傷者を支える避難民の列に留まった。
ただ、遠ざかる背中が完全に見えなくなってから、誰にも届かない声で呟いた。
「死んだはずの器が、生きている」
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