第206話「死者の旅立ち」
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例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
夜明け前の荷継ぎ小屋に、布の擦れる音だけが続いていた。
窓を塞いだ板の隙間はまだ黒い。覆いをかけた小さな灯りの下で、僕は学院から着てきた上着を脱ぎ、色褪せた旅装へ腕を通した。
左腕には、黒銀の封魔具ごと布を巻く。《暴食》の紋章は肩の手前まで広がっている。布の端をきつく結び、その上から長袖を下ろせば、見た目には古傷を庇う旅人でしかない。
最後に暗い外套を羽織り、フードの中へ白髪を押し込んだ。
向かいでは、フィアが細剣を古い鞘へ移していた。飾りのない、革の擦り切れた鞘だ。刀身がわずかに鳴り、見慣れた銀の鍔まで地味な布の陰へ消える。
レグルスは銀槍の目立つ金具へ革を巻き、その上を汚れた布で覆っていた。穂先を包む布だけは、一息で外せる結び方になっている。
「これなら、荷運び人の護衛に見えるだろう」
確かめるように槍を一度回し、壁へ立てかける。
ティアナは腰の装具からテラフォード家の紋を外していた。小さな金具を布袋へ収め、荷物の底へ押し込む。いつも腰に提げていた種子袋も、今は服の内側へ結び直している。
セルフィナは長い耳を折らないよう、ゆっくりと頭巾を被った。弓には細い木材と丸めた布を添え、荷物の骨組みのように背へ固定する。弦だけは、手を伸ばせばすぐ外せる位置に残していた。
戦う手段を捨てたわけではない。
僕たちだと分かるものだけを、一つずつ隠していく。
そして、最後に残ったのが騎士章だった。
五つの章が、伏せた木箱の上に並んだ。灯りを吸った金属は冷たく、僕の掌へ乗せると、実際の重さよりずっと重く感じた。
持っているだけで、身元を証明してしまう。
捨てるべきだ。
古井戸へ沈めるか、二度と戻らない場所へ埋めればいい。それが一番安全だと分かっているのに、指が開かなかった。
これは地位を示す飾りじゃない。
魔力も順位も最下位だった僕が、何度倒れても剣を拾い、ようやく辿り着いた場所の証明だった。
「これ、使おう」
ティアナが、使っていない布を五枚に切って差し出した。
「今は見えなくすればいいよ」
それ以上、誰も何も言わなかった。
僕は騎士章を一枚の布へ置き、音が出ないよう二重に包んだ。フィアも、レグルスも、セルフィナも、ティアナも同じようにする。
結び目を作り、それぞれ自分の荷物の一番奥へしまった。
名前を隠すための支度を終えても、騎士を目指して歩いた時間まで捨てることはできなかった。
空が薄い灰色に変わる前に、僕たちは小屋を出た。
エルフ国へ通じる主要街道ではなく、森の縁を回り込む古い街道を選ぶ。石畳の大半は土に沈み、二本の古い轍だけが草の中に残っていた。
「主要街道には検問が置かれている可能性が高いです。人目も避けられません」
先頭に立ったセルフィナが、道端の土へ膝をつく。
「こちらは遠回りになりますが、少なくとも昨夜以降に人が通った足跡はありません」
確かめられることだけを告げ、立ち上がる。頭巾の奥で視線が道の左右をなぞった。
「目立つ魔法も、できるだけなしだね」
ティアナの言葉に、全員が頷く。
魔法の光や痕跡は、遠くからでも見つかる。道を探るのはセルフィナの目と知識、周囲を警戒するのは僕たち自身の耳と足で行う。使うのは、本当に必要になったときだけだ。
隊列はセルフィナが先頭。ティアナとフィアが中央を歩き、レグルスがその少し後ろにつく。僕は最後尾を選んだ。
出発の直前、共有の水袋と乾燥食、畳んだ天幕、野営用の縄を自分の荷物へ移していた。皆が外の様子を確認している間に詰めたから、すぐには気づかれなかった。
革紐が肩へ食い込む。
それでも歩ける。後ろを見張ることも、休憩のたびに脇道を確認することもできる。
四人は、僕と一緒にいるために名前を使えなくなった。所属先にも家族にも、生きていると伝えられない。帰る場所があるのに、自分の名前で帰れない。
狙われたのは僕だ。
なら、せめてこの程度は僕が持つべきだった。
昼近く、古い石橋を渡った先でセルフィナが足を止めた。道ではなく、僕の足元を見ている。
「アルト。あなたの足跡だけ、朝より深くなっています」
「ここは土が柔らかいからじゃないかな」
「土質の変化なら、五人とも同じです。あなたは歩幅も半歩ほど狭くなり、呼吸の間隔も乱れています」
セルフィナは僕の背負い袋へ目を移した。
「観察できる範囲では、荷物が増えたと考えるのが妥当です」
答えるより早く、肩が軽くなった。
レグルスが僕の背後から留め具を外し、荷物を奪っていた。
「待って。まだ歩ける」
「歩けるかどうかを聞いてはいない」
レグルスは道端へ袋を下ろし、中身を開く。共有の水袋が出たところで、紫の瞳が細くなった。
「随分と手際の悪い積み方だ」
大きな水袋と鉄器は自分の荷へ。畳んだ天幕と穀物袋はティアナへ。乾燥食はフィアへ分け、セルフィナには先頭で屈む動きを妨げない軽い薬包だけを渡す。僕の袋には個人装備と縄、それに一日分の食料を戻した。
同じ重さではない。それぞれの役目と、歩きやすさに合わせた分け方だった。
「君が倒れれば移動速度が落ちる。これは親切ではなく合理性だ」
レグルスはそう言って、自分の荷物の革紐を締める。
「それに、競争相手が勝手に消耗するなど、僕は認めていない」
言い返せないまま、僕は軽くなった袋を背負い直した。
石橋から離れた林で、短い休憩を取った。
皆が水を一口ずつ飲む横で、僕は夜のことを考えた。荷物を分けられたなら、別のところで引き受ければいい。
「今夜の見張りは、僕が最初から最後までやるよ。皆は休んで」
「だめ」
ティアナが即座に言った。
「私たちはアルトの付き添いじゃないよ。五人で帰るための旅だから」
「でも、四人がこうなったのは――」
「きっかけがアルトなのは否定しないよ。アルトが狙われていて、私たちが今、名前を隠してる。それは事実だから」
ティアナは僕から目を逸らさなかった。
「でも、危険を知って残るって決めたのは私たちだよ。四人分の選択まで、アルト一人の罪にしないで。私たちが選んだことを、なかったことにしないで」
胸の奥に残る重さは、それだけで消えなかった。
けれど、反論すれば、今度は四人の意思を僕が勝手に決めることになる。
ティアナは小石を五つ並べ、見張りの順番を決めた。最初がレグルス、次がティアナ、その次が僕。フィアへ引き継ぎ、明け方はセルフィナが道の状態も確かめる。
「……分かった。その順番でやる」
「うん。それでいいよ」
日が沈む前に、崩れた街道番小屋を見つけた。
屋根は半分落ちていたが、三方の石壁は残っている。道から見えない場所へ荷物を寄せ、入口に細い縄を張った。
火は使わない。煙も灯りも、追う者へ位置を教える。
冷えた乾燥食を水で流し込み、僕たちは外套に包まった。夜の風が崩れた壁を抜けるたび、古い木片が小さく鳴った。
決められた三番目の見張りを終え、フィアへ交代しても、僕は眠れなかった。
暗い街道が、壊れた入口の先へ伸びている。
エルフ国へ着く必要があるのが僕だけなら、四人を途中の安全な場所へ残したほうがいいのではないか。
生きていることを隠せる場所を見つけて、僕だけが先へ進めば――。
衣擦れの音がして、フィアが隣へ腰を下ろした。
僕の顔を覗き込まない。手にも触れない。
細剣を膝へ置き、僕と同じ暗い道の先を見ている。
「帰る。五人で」
それだけだった。
僕は返事の代わりに石壁へ背を預け、目を閉じた。
翌朝、白み始めた空の下を歩き、古い街道の分岐にある無人の休憩所へ着いた。
傾いた屋根の脇に、掲示板が立っている。日に焼けた古い紙の上へ、まだ白い新しい告知が貼られていた。
風が吹くたび、紙の端が乾いた音を立てる。
上部には王国の公印。
その下には、死亡が記録された者として五人の名前が並んでいた。
アルト・ロウェル。
ティアナ・テラフォード。
フィア・ヴァルティエ。
レグルス・ヴァルモント。
セルフィナ。
僕は告知の中で、自分の名だけをもう一度読んだ。
生きてここに立っている僕の名前が、既に終わった者の名として記されている。
誰も告知へ手を伸ばさなかった。
「こちらを見てください」
セルフィナが指したのは、死亡告知の隣だった。
荷運び人募集。
荷車一台につき日当がいくら、経験不問、食事付き。どこにでもありそうな文面だ。
けれど、各行の末尾には小さな星印がある。文字と文字の間隔も、ところどころ不自然に広い。四隅の釘は、上の二本だけが内側へ傾き、冠の形を作っていた。
「星冠教団の旧式暗号です」
セルフィナは紙に触れず、星印のある行だけを目で追った。冠を模した釘が読み順を示し、文字の間隔が拾う箇所を指定しているらしい。
「死亡したとされる五人の目撃情報を求めています。特に白髪の若者を優先。生存を確認した場合は、指定の中継地点へ知らせるように、と」
僕はフードの縁を少し下げた。
「接触や攻撃の指示はありません。進行方向と人数だけを報告するよう求めています」
「教団は、僕たちが生きていると知っているの?」
「そこまでは確定できません。この文面は生存を前提にした命令ではなく、可能性を捨てないための照会です。旧式暗号を使っている点からも、命令系統を失った残党が情報を集めている可能性が高いです」
「誰が貼った?」
レグルスの問いに、セルフィナは首を横へ振る。
「判断できません」
荷運び人募集の紙が、死亡告知へ触れてぱたぱたと鳴った。
「剥がさないほうがいいね」
ティアナが声を落とす。
「はい。どちらかが消えれば、生存者がこの場所を通った証拠として扱われる可能性があります」
僕たちは二枚の紙を残し、掲示板から離れた。
僕たち五人の死を告げる紙の隣で、星冠教団は、生きている僕たちの情報を求めていた。
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