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『属性適性なしの学院最下位、迷宮で見捨てられた僕は七罪の魔神と契約する ~最強英雄になった幼なじみに追いつくまで~  作者: ドキツトム


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第204話 女団長の夜

「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!


例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』


皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!



 同じ一文を、私は三度読んだ。


 そのことに気づいたのは、淡い水色の蝶が、たった今運び終えたはずの頁をもう一度持ち上げたからだった。


 薄い翅が魔法灯の光を透かし、紙の端を挟んで舞い上がる。


 右の整理済みの束へ置くはずが、蝶は机の中央を一周し、また私の前へ同じ頁を置いた。


「……そちらではありません」


 指先で術式を修正する。


 水蝶は小さく旋回すると、今度は左側の未確認資料へ紙を戻した。


 私はしばらく、その頁を見つめた。


 現場封鎖の開始時刻。


 搬送隊が到着した時刻。


 最初の魂跡測定が行われた時刻。


 三つの記録には、わずかなずれがある。


 それ自体が何かを証明するわけではない。混乱した現場で時刻が数分前後することは珍しくなかった。


 だからこそ、推測で埋めてはいけない。


 誰が、どの時計を基準に記録したのか。


 原記録はどこにあるのか。


 転記の際に数字が変わった可能性はないのか。


 外部鑑定士に確認してほしい事項を書き添え、私は頁の隅へ小さな番号を振った。


 机の右端には、すでに四冊の質問目録が積まれている。


 魂跡。


 因子反応。


 空間転移。


 偽装および外部干渉。


 私は再鑑定の担当者から自分の名前を外した。鑑定の過程にも、最終的な判断にも関与しない。


 その代わり、初回調査で提出されなかった原資料や、要約だけが残されている測定記録を洗い出していた。


 何を調べるべきかは示す。


 けれど、その先にどのような答えがあるべきかは示さない。


 それが、私に許された境界だった。


 魔法灯の隣には、夕刻に運ばれてきた食事が置かれている。


 野菜の煮込みは表面の油が白く固まり、切り分けられた魚もすっかり冷えていた。茶器へ触れても、指先に伝わるのは陶器の冷たさだけだった。


 食べようとは思っていた。


 あの記録を確認したら。


 この時刻のずれを書き終えたら。


 次の束へ移る前に。


 そうしているうちに、窓の外から聞こえていた夜間巡回の足音も途絶えていた。


 壁の時計は、とっくに日付が変わったことを示している。


 私はもう一度、目の前の文章を読んだ。


 途中で文字が滲んだ。


 涙ではない。


 焦点が合っていないだけだった。


 目を閉じ、指先で眉間を押す。


 深く息を吸ってから瞼を開くと、水蝶がまた同じ頁へ翅を差し入れようとしていた。


「あと一枚だけです」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


 一枚で終わった夜など、この数日、一度もなかった。


 扉が三度叩かれた。


 返事をするより先に、扉が開く。


「まだやっていたのね」


 冷たい夜気とともに入ってきたのは、シルフィ団長だった。


 その後ろには、長い金髪を高く束ねたアーサー団長が立っている。二人とも簡素な夜間用の団服姿だったが、胸元の団長章は外していなかった。


「お二人とも、どうしてこちらへ?」


「質問をする前に、自分の顔を鏡で見たらどうかしら」


 シルフィ団長は机へ近づくと、私の返事を待たずに資料の上へ手を置いた。


 水蝶がその手を避けようと舞い上がる。


 けれど彼女が指先を軽く振ると、室内へ細い風が走り、水蝶は資料から押し戻された。


 そのまま表紙が閉じられる。


「シルフィ団長。そこまでは確認させてください。時刻の記録が――」


「勘違いしないことね。貴女を慰めるためではないわ」


 鋭い声だった。


 けれど、資料を押さえる彼女の手は、紙を傷めないよう力を加減していた。


「ここで倒れられたら、仕事が私たちへ回ってくる。それが迷惑だから連れていくのよ」


「倒れるほどではありません。もう少しだけ――」


「レイシア」


 アーサー団長が私の言葉を遮った。


 声は静かだったが、言い逃れを許さない響きがある。


「今、読んでいた一文を言ってみろ」


「現場封鎖の開始が……第二刻の、十四分前で――」


「違う。それは三行上だ」


 私は口を閉じた。


 アーサー団長が、机の上を一瞥する。


「同じ頁を、水蝶が四度運んだ。お前自身も、同じ一文を三度読んでいる。今のお前は文字を追えていない」


「ご覧になっていたのですか」


「廊下からでも見えたわよ。扉の下から、同じ水蝶が何度も出たり入ったりしていたもの」


 シルフィ団長が閉じた資料を、私の手が届かない机の奥へ押した。


「今夜の作業は終わり。異論は認めないわ」


「ですが――」


「団長三名による非公式の情報交換だ」


 アーサー団長が告げる。


「場所は統括棟奥の小食堂。出席者は、私とシルフィとレイシア。記録官は置かない」


「そのような予定は伺っておりません」


「今、決まったのよ」


 シルフィ団長は私の椅子の背から外套を取ると、こちらへ差し出した。


「歩けるうちに立ちなさい」


 二人の顔を交互に見る。


 ここで拒めば、シルフィ団長は本当に私を椅子ごと運びかねない。


 私は小さく息を吐き、外套へ腕を通した。


「……非公式の情報交換でしたら、参加いたします」


「最初からそう言えばいいのよ」


 執務室を出ると、統括棟へ続く渡り廊下は静まり返っていた。


 窓の外では、王都の灯が星のように点在している。


 私が歩調を速めると、床がわずかに傾いたように感じられた。


 足を止めるほどではない。


 そう思った直後、シルフィ団長が前を歩く速度を落とした。


 アーサー団長は何も言わず、私の反対側へ移る。


 二人とも私の腕を取らなかった。


 ただ、もし私が傾けば支えられる距離を保っていた。


 統括棟奥の小食堂には、侍従も部下もいなかった。


 普段は夜間勤務の士官が使う場所で、飾り気のない木の卓と椅子が並んでいる。その最も奥の卓にだけ、三人分の食事が用意されていた。


 大きな晩餐ではない。


 湯気を立てる根菜のスープ。


 香草とともに柔らかく煮込まれた肉。


 焼き直された丸いパン。


 それに、眠りを妨げにくい香草茶。


 鍋の下では小さな保温石が赤く光っていた。


 温かな匂いに触れた途端、空腹だったことを身体が思い出す。


「お座りなさい」


 シルフィ団長に促され、私は卓の一辺へ腰を下ろした。


 アーサー団長が正面、シルフィ団長が斜め向かいへ座る。


「それで、情報交換というのは――」


「食べてからだ」


 アーサー団長は短く答えた。


「お話を聞きながらでも食べられます」


「食べながら書類を読めると言った者が、夕食をそのまま冷やしていた。信用できんな」


 反論できなかった。


 スプーンを取る。


 スープを一口含むと、塩気のある温かさが舌から喉へ落ちていった。


 胃が驚いたように縮む。


 けれど、二口目は先ほどより素直に飲み込めた。


 アーサー団長は何も話さない。


 私が三口目を飲み、パンを少しちぎるまで、香草茶のカップにすら手をつけなかった。


「もう大丈夫です」


「肉も食べろ」


「アーサー団長」


「噛める程度には柔らかい。今のお前でも問題ない」


 仕方なく、肉を小さく切り分けた。


 香草の香りが鼻へ抜ける。ゆっくり噛むと、冷え切っていた身体の内側へ、ようやく火が戻ってくるようだった。


 シルフィ団長もスープを口へ運びながら、呆れたように言う。


「ガイなら、これだけ用意しても酒だけ飲んで帰りそうね」


「ガイ団長、ですか?」


「今日の統括会議でも、眠そうな顔で椅子へ沈んでいたでしょう。あの男、無精髭が今日で六日目よ。三日目まではまだ本人の趣味と言い張れるけれど、六日目はただの怠慢だわ」


 頼まれてもいないのに、言葉が続いた。


「髪も整えていない。外套の左肩の留め具は割れかけているし、裏地は以前の遠征で焦がしたまま。しかも右側だけ、元の色とはまるで違う糸で雑に縫っているのよ。灰色の外套に、なぜ黄土色の糸を使うのかしら。補修するなら、せめて同系色を選ぶべきでしょう」


 私は肉を切り分けていた手を止めた。


 シルフィ団長は、眉間へ皺を寄せている。


「会議が終わると、あの外套を平気で床へ落とすのよ。今日なんて自分で裾を踏んでいたわ。騎士団長の外套は雑巾ではないのよ? 装備を大切に扱えない者が、どうして大剣だけは毎回きちんと手入れしているのか理解できないわ」


「外套の裏地まで、よく知っているな」


 アーサー団長が淡々と指摘した。


 シルフィ団長のスプーンが止まる。


 彼女は一度だけ瞬きをした後、何事もなかったようにスープを飲んだ。


「風でめくれただけよ」


「補修に使った糸の色まで見えたのか」


「目立つ色だったの。あれほど身なりがだらしなければ、嫌でも目に入るわ」


「焦げ跡が、どの遠征でついたものかも?」


「同期として、事実を記憶しているだけよ。あのとき敵陣へ踏み込みすぎて、背後から火を浴びたのだから」


「なるほど」


 アーサー団長はそれ以上追及しなかった。


 ただ、青い瞳がわずかに細められている。


 その視線に気づいたシルフィ団長が、背筋を伸ばした。


「何か言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」


「いや。風鷹騎士団の観察力は、任務外でも優秀だと思っただけだ」


「任務外ではないわ。七大魔法騎士の品位に関わる問題よ。私はすでに留め具の交換を二度勧告しているもの」


「二度も」


「正式な勧告よ」


「本人は?」


「一度目は読んだあと、大剣を置く台の高さが合わないと言い出したわ。二度目は外套の内ポケットに入れたまま忘れて、その外套を会議室の床へ落としたの」


 シルフィ団長の声音には、本気の苛立ちが滲んでいる。


 けれど、ガイ団長の髭が何日目かまで把握し、誰も見ない外套の裏地や縫い糸まで覚えている理由を、本当に品位だけで説明するのは難しい。


 アーサー団長と目が合った。


 どちらからともなく、すぐに視線を戻す。


 シルフィ団長の特別な関心を知らないのは、おそらく、その関心を向けられている本人だけだった。


「何がおかしいの、レイシア」


「いえ……何も」


 答えたとき、私の口元から小さな息が漏れた。


「ふふっ……」


 笑ったのだと、自分でも少し遅れて気づいた。


 ほんの短い笑いだった。


 シルフィ団長が不満そうにこちらを見る。


 アーサー団長の口元も、わずかに緩んでいた。


 けれど、その温かさは長く続かなかった。


 手元のスープから、まだ湯気が立っている。


 柔らかな肉も、焼かれたパンも、私のために用意されたものだ。


 私は暖かな部屋で食事を取り、今、笑った。


 アルトたちがどこにいるのかも分からないのに。


 ティアナも、フィアも、レグルスも、セルフィナも。


 五人が同じ場所にいるのかさえ分からない。


 笑みが消えた。


 手にしていたスプーンを、音が立たないよう器へ戻す。


「笑った自分を責めているのか」


 アーサー団長が尋ねた。


 顔を上げることができなかった。


「……いいえ」


「なら、なぜ食べる手を止めた」


「もう、十分いただきましたから」


「レイシア」


 静かな呼びかけだった。


 叱責ではない。


 だからこそ、作った言葉を返すことができなかった。


「眠ると、その間に手掛かりを失うような気がするんです」


 スープに映った自分の顔を見つめた。


 銀青の髪は乱れ、目の下には薄い影ができている。


「食事をすると、私だけが日常へ戻ってしまうような気がします。こうして笑えば……アルトがいない日常を、私が受け入れたことになるような気がして」


 そんなはずはないと、頭では理解している。


 笑ったことに証拠としての意味などない。


 食事の温度で、五人の生死が変わるわけでもない。


 それでも胸の奥では、まるで自分だけが置き去りにして先へ進んだように感じてしまう。


「だから、止まれなかったのです」


「止まらなければ、何かを償えると思ったの?」


 シルフィ団長の問いは鋭かった。


「分かりません」


「なら、償いという言葉で、自分を壊すことを正当化してはいけないわ」


「……はい」


「理解している顔ではないわね」


 私は指先を重ねた。


 何度も言葉を選び直し、それでもうまく整えられないまま口を開く。


「私はずっと、アルトを待っているつもりだったんです」


 魔法鏡の向こうへ、何年も言葉を送り続けた。


 今日の任務。


 王都で見つけた花。


 孤児院で暮らしていた頃の思い出。


 おやすみなさい。


 また明日。


 返事のない鏡へ語りかけながら、私だけが待っているのだと思っていた。


「ですが、違ったのかもしれません」


「何がだ」


 アーサー団長が先を促す。


「アルトと同じ場所へ戻ってからも、私は何度も言っていたんです。任務が終わったら、と」


 終わらない任務などないと思っていた。


 けれど一つ終えれば、次の任務が待っていた。


「式典が終わったら。王都が落ち着いたら。今度こそ時間を作るから、もう少しだけ待っていて、と」


 アルトは、責めなかった。


 幼い頃からそうだった。


 私が魔法の勉強に夢中になって帰るのが遅くなっても、孤児院の門の近くで待っていてくれた。


 私が失敗を恥じて部屋から出られない夜も、扉の向こうで何も言わずに座っていた。


 いつしか私は、アルトは待ってくれる人なのだと思い込んでいた。


「英雄としての務めを終えて振り返れば、アルトは必ずそこにいてくれる。英雄になった私を、アルトならいつまでも待ってくれる。私は……心のどこかで、そう甘えていたんです」


 水蝶騎士団長として必要とされることに、迷いはなかった。


 救える命があるなら救いたかった。


 私にしか果たせない役目から、逃げたくはなかった。


 けれど、それと同時に私は、アルトだけは変わらず待っていてくれるのだと信じていた。


「任務が終わったら、二人でロウェル孤児院へ帰ろうと約束していました」


 その光景を、何度も思い描いていた。


 古い石塀。


 少し傾いた木の門。


 風が吹くたびに軋む看板。


 アルトと並んで門をくぐり、二人で同時に、ただいまと言う。


 英雄でも、騎士団長でもない。


 あの孤児院で育った、アルトとレイシアとして帰る。


「本当は、すぐにでも帰れたはずなんです。たった一日……いいえ、半日でもよかった。私が予定を空けると決めていれば」


 けれど、約束の日は何度も先へ延びた。


 そして、その約束を果たす前に、アルトは消えた。


「もし、あのとき私が――」


「そこまでよ」


 シルフィ団長が言葉を切った。


 私は顔を上げる。


 彼女は腕を組み、真っ直ぐに私を見ていた。


「約束を果たせなかったことと、五人が消えた原因は別よ」


「それは、分かっています」


「分かっていないから、自分の予定を空けなかったことと、あの現場で起きたことを同じ秤へ載せているのでしょう」


「ですが、私がもっと早くアルトのそばにいれば――」


「何が起きたかは、まだ確定していない」


 シルフィ団長の声には、一切の曖昧さがなかった。


「貴女は査問で、事実と願いを分けた。遺体がないことも、魂の残滓が確認されていないことも、因子反応だけでは四人に何が起きたか証明できないことも、感情ではなく事実として示した」


「はい」


「なら、自分の心の中だけで二つを混ぜてはいけないわ。約束を果たせなかった後悔は、貴女のものよ。けれど、それを五人が消えた原因に仕立てる権利は、貴女にもない」


 厳しい言葉だった。


 それでも私を傷つけるための言葉ではないことは分かった。


 シルフィ団長は、私が自分自身へ下そうとしている、証拠のない判決を止めている。


「……おっしゃるとおりです」


 理解はできる。


 けれど、理解したからといって、果たせなかった約束が消えるわけではなかった。


「それでも、後悔してしまいます」


「後悔するなとは言っていないわ」


 シルフィ団長は静かにカップを置いた。


「勝手に罪へ作り替えるなと言っているのよ」


 香草茶の揺れる音だけが、卓の上に残った。


 私は胸元へ手を当てる。


 その奥にあるものを、ずっと別の言葉で包んできた。


 アルトを守りたい。


 アルトが傷つかないようにしたい。


 そのために強くなったのだと。


 どれも嘘ではない。


 けれど、「守りたい」という言葉はあまりにも美しかった。


 水蝶騎士団長が口にすれば、英雄の願いとして聞こえる。


 自分自身にさえ、本当の形を見せずに済んでしまうほどに。


「私は、アルトを守りたいのだと思っていました」


「違うのか」


「違いません。けれど、それだけではなかったんです」


 言葉にすれば、あまりにも個人的だった。


 身勝手で、幼くて、英雄の願いとは呼べない。


 だから私は、それを胸の奥へ隠していた。


「私が欲しかったのは、アルトを守ったという結果ではありません」


 喉が震えた。


 それでも、今度は言葉を戻さなかった。


「守りたかったのではなくて……ただ、隣にいてほしかったんです」


 その瞬間、アーサー団長の手が止まった。


 持ち上げかけていたカップが、卓から指一本分ほど浮いたまま静止している。


 彼女は私を見ていた。


 けれど、その青い瞳が映しているのは、今ここにいる私ではないように見えた。


 もっと遠い場所。


 長い年月の向こう側にいる、誰か。


 アーサー団長の唇が、かすかに開く。


「その言葉は……」


 続きは音にならなかった。


 彼女は何かを飲み込むように口を閉じ、カップをゆっくり卓へ戻した。


「アーサー団長?」


「いや」


 青い瞳が、再び私へ焦点を結ぶ。


「よく似た横顔と、よく似た言葉を知っている」


「それは、どなたですか?」


 わずかな沈黙があった。


 アーサー団長は答えず、香草茶の表面へ目を落とした。


 これ以上尋ねるべきではない。


 そう感じた私は、再び自分の言葉を探した。


「私は、アルトに名前を呼んでほしかったんです」


 水蝶団長ではなく。


 七大魔法騎士でもなく。


 聖女でも、英雄でもない。


 ただのレイシアとして。


「誰かを守り終えて帰る場所に、アルトがいてほしかった。アルトが帰ってこられる場所に、私がなりたいと思っていました」


 その願いも、本当だった。


 けれど、半分しか見えていなかった。


「本当は、私のほうがアルトを帰る場所にしていたんです」


 任務から戻った夜。


 多くの人々から感謝の言葉を受けたあと。


 英雄として正しく振る舞い続けて、誰にも弱音を見せられなくなったとき。


 魔法鏡の向こうにアルトがいると思うだけで、私はレイシアへ戻ることができた。


 アルトの帰る場所になりたかった。


 それ以上に、アルトのいる場所へ帰りたかった。


「守れるなら、それでいいと思おうとしていました。アルトがどこかで無事に生きているなら、私の隣でなくてもいいと」


 声が途切れた。


 嘘ではない。


 無事なら、それだけでいい。


 そう願う気持ちは確かにある。


 けれど、胸の奥には、もっと正直な願いが残っていた。


「会いたいです。もう一度、アルトに会いたい」


 口にした途端、呼吸が浅くなった。


 ずっと胸の底へ沈めていた言葉が、堰を切って溢れようとする。


 私は俯き、目元へ力を入れた。


「泣けばいい」


 アーサー団長が言った。


「……泣けません」


「なぜだ」


「今、私が泣いてしまったら、本当にアルトを失ったと認めることになる気がします」


「泣くことは、アルトの死亡認定へ署名することではない」


 アーサー団長の声は、どこまでも静かだった。


「涙は鑑定結果ではない。生存を示す証拠にも、死亡を示す証拠にもならない」


 彼女は団服の内側から、白いハンカチを取り出した。


 卓越しに、私の前へ差し出す。


「悲しみを捨てる必要はない」


「ですが、私は団長です。私が崩れれば、団員たちが――」


「英雄だから泣かないのではない」


 アーサー団長は私を抱き締めようとはしなかった。


 ただ、そこにいる。


 私がハンカチを受け取るかどうかも急かさず、澄んだ青い目でこちらを見ていた。


「泣いても、涙を拭って民の前へ戻る。それが団長だ」


 シルフィ団長が立ち上がった。


 椅子を持ち上げ、扉のそばへ移動させる。


「シルフィ団長?」


「今夜、ここへ入ってくる者は私が追い返すわ」


 扉を背にして椅子へ腰を下ろし、長い脚を組む。


「泣き顔を見られたくないのでしょう。私たち二人で我慢なさい」


「お二人にも、見られたくありません」


「贅沢を言える立場だと思っているの?」


 いつもと変わらない尊大な声音だった。


 その声に背中を押されたように、私は差し出されたハンカチへ手を伸ばした。


 指先が布へ触れる。


 それだけで、視界が滲んだ。


 慌てて瞬きをすると、一滴が頬を伝い、手の甲へ落ちた。


「これは……」


 止めようとした。


 けれど、一度溢れた涙は、もう言うことを聞かなかった。


 次々と頬を伝い、白いハンカチへ染み込んでいく。


 声を上げないよう唇を結んだ。


 それでも呼吸が震えた。


 肩が小刻みに揺れる。


「アルト……」


 名前を呼ぶと、さらに涙が溢れた。


 会いたい。


 帰ってきてほしい。


 約束を果たしたい。


 謝りたい。


 もう待たせたくない。


 どの言葉も胸の中で絡まり、声にはならなかった。


 私は顔を覆った。


 大声で泣き叫ぶことはできなかった。


 ただ、止めようとするほど涙が溢れ、息を吸うたび喉の奥が震えた。


 シルフィ団長は扉の前から動かなかった。


 アーサー団長も、私へ触れなかった。


 アルトは生きているとも、もう死んでいるとも言わなかった。


 慰めのための答えを作ることも、諦めるよう促すこともなかった。


 二人はただ、そこにいた。


 壁の時計が時を刻む。


 保温石の赤い光が、少しずつ弱くなる。


 残っていたスープから湯気が消えても、二人は席を立たなかった。


 どれほど時間が過ぎたのか分からない。


 やがて涙の間隔が長くなり、乱れていた呼吸も少しずつ戻ってきた。


 悲しみが薄れたわけではない。


 胸の奥には、まだ重いものが沈んでいる。


 けれど、そのすべてを一人で喉元まで抱え込んでいたときより、少しだけ息を吸いやすくなっていた。


「……申し訳ありません」


 涙で濡れたハンカチを握り、私は顔を上げた。


「謝る必要はない」


 アーサー団長が答える。


「ハンカチは、洗ってお返しします」


「返却はいつでもいい。次は茶を飲め」


 新しい香草茶が注がれた。


 両手でカップを包むと、穏やかな温もりが掌へ伝わる。


 シルフィ団長も扉の前から椅子を戻した。


「泣き終わったのなら、ようやく情報交換を始められるわね」


「今からですか?」


「そのために連れてきたと言ったでしょう」


 彼女が卓へ戻るのと同時に、アーサー団長が一枚の白紙を広げた。


 書類の上部には、任務分担表とだけ記されている。


「まず、再調査に関する役割を明確にする」


 アーサー団長は紙を三つの欄へ分けた。


「証拠の保全状況は私が確認する。封印がいつ、誰によって行われ、保管場所が何度変更されたか。独立鑑定士の選任過程と、関係者との利害関係も調べる」


「アーサー団長ご自身が?」


「雷虎騎士団の監査班を使う。監察院と騎士団統括部との調整も、私が受け持つ。資料が外部鑑定士へ届くまでの管理経路に、一つでも不明な点を残さない」


 筆先が、最初の欄へ簡潔な項目を書き込んでいく。


 次にシルフィ団長が紙を引き寄せた。


「私は、現場周辺の飛行記録を洗い直すわ。飛行魔法、飛行騎獣、輸送艇。正規の記録だけではなく、訓練や緊急搬送として処理されたものも含める」


「初回捜索でも、確認は行われています」


「確認されたのは、指定範囲内だけでしょう」


 シルフィ団長が地図を広げ、現場の外側を指でなぞる。


「当夜の風路を再現する。魔力の流れが乱れていたなら、通常の漂着予測は当てにならない。搬送経路と目撃証言も、風鷹騎士団側で最初から取り直すわ」


「捜索範囲の外へ移動した可能性を調べるのですね」


「可能性があるかどうかも含めて、よ。先に答えを決めるつもりはないわ」


 シルフィ団長らしい言葉だった。


 彼女は二つ目の欄へ、飛行記録、搬送経路、風路、目撃証言と書き込む。


 そして筆が私の前へ置かれた。


「レイシアは、過去の因子記録を整理しろ」


 アーサー団長が言う。


「魔法鏡の通信記録もだ。初回資料から抜けていた項目を一覧にし、原資料とともに外部鑑定士へ提出する」


「それは、今まで私が行っていた作業です」


「範囲が違う。お前は不足項目の整理と、事実関係への質問だけを行う。再鑑定の手法と結論には関与しない」


「外部鑑定士から確認を求められた場合は?」


「書面で回答する。私的な接触は避け、すべて記録へ残せ」


 私は頷いた。


「承知しました」


 自分の欄へ、担当する資料を書き込む。


 因子反応の過去記録。


 魔法鏡の送受信記録。


 初回調査で要約しか提出されていない原資料。


 不足項目と質問事項。


 その最後へ、私は自分の手で一文を加えた。


 ――再鑑定の判断および結論には関与しない。


「これで構いませんか」


「ああ」


 アーサー団長が確認する。


「次は通常任務だ」


 新しい紙が広げられた。


「水蝶騎士団の巡回、救護支援、魔力水路の保全任務。その一部を雷虎騎士団と風鷹騎士団が引き受ける」


「お待ちください」


 私は思わず声を上げた。


「お二人の騎士団にも、それぞれの任務があります。再調査へご協力いただくだけでも、大きな負担になるのに――」


「一人で全部抱えて倒れる団長が、いちばん多くの仕事を増やすのよ」


 シルフィ団長が即座に切り返す。


「今の貴女が倒れたら、水蝶騎士団の指揮権調整、進行中の任務の引き継ぎ、監察院への報告、再鑑定資料の再整理まで必要になる。どれほど迷惑か、計算してみる?」


「ですが、団員たちだけで対応できる任務もあります」


「だから、正式な合同支援にするのよ。貴女の不在を理由にせず、三騎士団の連携強化として命令書を出す。水蝶の指揮系統は守られるし、団員たちへ余計な憶測も生まれないわ」


 すでにそこまで考えていたらしい。


 アーサー団長も、分担表へ雷虎騎士団の名を書き加えた。


「これは同情ではない。五人の真実を確かめるための共同任務だ」


「共同任務……」


「アルトたちが生きているとは約束できない」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 けれど、アーサー団長は目を逸らさなかった。


「お前の申請が望む結果へ繋がるとも言えない。再鑑定の結果、受け入れがたい事実が示される可能性もある」


「はい」


「だが、真実を調べる価値があることは、査問によって認められた。ならば調べる。証拠を守り、見落としを拾い、検証できる形で答えを出す」


 アーサー団長が、三人の名が並んだ任務表を私の前へ置く。


「その間、真実を探すお前を一人にはしない」


 涙を拭ったはずの目が、また熱を帯びた。


 シルフィ団長が頬杖をつき、わずかに顔を背ける。


「貴女が勝手に一人で戦っているつもりだっただけよ。五人の失踪を、いつから水蝶騎士団だけの問題にしたのかしら」


「……ありがとうございます」


「礼は結果が出てからにしなさい。それと、今夜の貴女の任務を忘れているわ」


「まだ何か?」


 シルフィ団長が任務表の一番下へ、迷いなく文字を書き加えた。


 睡眠、六時間以上。


「これは任務表へ記載するものではありません」


「食事も一人では完遂できない者が、何を言っているの?」


 続けてアーサー団長が、その下へ一日三度の食事と記した。


「アーサー団長まで……」


「食べろ。眠れ。判断力を戻せ」


「ですが、明日も資料が――」


「資料は逃げない。逃げる可能性がある証拠は、私が保全する。移動した可能性がある痕跡は、シルフィが追う。お前は自分の担当だけを確実に終えろ」


 役割が分かれている。


 私が眠っている間にも、誰かが証拠を守ってくれる。


 私が食事をしている間にも、誰かが別の経路を探してくれる。


 休むことは、アルトを諦めることではない。


 食べることも、アルトのいない日常を選ぶことではない。


 明日も調べ続けるために必要な、私自身の任務なのだ。


 まだ、心のすべてが納得したわけではなかった。


 執務室へ戻れば、また資料を開きたくなるだろう。


 眠りへ落ちる直前には、魔法鏡へ手を伸ばしてしまうかもしれない。


 悲しみは残っている。


 後悔も消えていない。


 それでも今は、一人で夜を削り続ける以外の道が、目の前に置かれていた。


「承知しました」


 私は任務表へ署名した。


「今夜は部屋へ戻り、休みます。明朝、食事を取ってから資料整理を再開します」


「よろしい」


 アーサー団長が頷く。


 シルフィ団長も、ようやく満足したようにカップへ手を伸ばした。


「最初から素直に従えば、ここまで時間はかからなかったのよ」


「それは……申し訳ありません」


「謝罪ではなく改善で示しなさい。ガイのように、同じ勧告を二度も無視しないことね」


「三度目の勧告を出すのですか?」


「必要なら出すわ。今度は外套の修繕担当まで手配して――」


 シルフィ団長が、途中で口を閉じた。


 私とアーサー団長の視線に気づいたらしい。


「何よ」


「何も言っていません」


「なら、その顔をやめなさい」


 ほんの少しだけ、また笑えそうになった。


 今度は、その感情を無理に押し殺さなかった。


 そのとき、扉が強く三度叩かれた。


 シルフィ団長の表情が変わる。


「誰?」


「騎士団統括部より、緊急封書をお持ちしました」


 扉の向こうから、張り詰めた声が返ってくる。


 シルフィ団長は立ち上がり、扉を細く開けた。


 使者の身分章と封書の印を確認してから、室内へ通す。


 入ってきた騎士は夜間用の外套をまとい、両手で封書を捧げ持っていた。


「深夜に失礼いたします。拘束中のローデン評議官について、尋問体制が正式に決定されました」


 アーサー団長が封書を受け取り、封印を確認する。


「開始はいつだ」


「初回尋問は、翌朝第一刻より開始されます。監察院、騎士団統括部、王国法務院から、それぞれ立会人が派遣されます」


「主任は?」


 使者の背筋が伸びた。


「諜報および潜入任務を専門とする、影蛇騎士団の団長が任命されました」


 シルフィ団長の表情から、先ほどまでの軽さが消えた。


 アーサー団長の青い瞳も鋭くなる。


 使者は封書の内容を正式な文言で読み上げるため、私たち三人へ向き直った。


「ローデン評議官に対する主任尋問官が決定しました」


 使者が一拍置く。


「影蛇騎士団長――サイラス・ヴェルナーです」

 「面白かった!」


 「続きが気になる、読みたい!」


 「今後どうなるの!!」


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