第203話「二週間後の水蝶」
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
扉を覆っていた封印が消えたのは、十四日目の朝だった。
淡い青の術式が、外周から一本ずつほどけていく。
最後に錠へ繋がっていた光が消えると、部屋の空気が僅かに動いた。閉ざされていた廊下側から、乾いた紙と石壁の匂いが入り込んでくる。
私は寝台の端に腰掛けたまま、その様子を見届けた。
封印は、私を力ずくで閉じ込められるほど強固なものではなかった。
壁の四隅に置かれた術式核を水蝶で同時に断てば、音を立てずに解除できたはずだ。聖剣を使うまでもない。
けれど、この十四日間、私は一度も封印へ触れなかった。
任務区域を離れたのは、私自身の判断だったからだ。
誰かに操られたわけでも、命令を聞き違えたわけでもない。
アルトの因子反応が消える前に追わなければならない。
その一念で、私は副官へ指揮を預け、正式な許可を待たずに持ち場を離れた。
七大魔法騎士の一人が命令系統を乱した。
その事実は、アルトが大切だったからという理由では消えない。
三度、扉が叩かれた。
「レイシア・ロウェル団長。監察命令に基づく待機措置は、本日の日の出をもって解除されました」
「承知しました」
立ち上がり、淡い銀青の髪を指で整える。
鏡のない部屋でも、乱れている場所は分かった。長い耳の付け根へかかった髪を後ろへ流し、襟元を正してから扉へ向かう。
外には、女性監察官と二人の護衛騎士が立っていた。
監察官の腕には、水色の外套が丁寧に畳まれている。その上へ置かれていたのは、銀細工の水蝶をかたどった団長章だった。
「お預かりしていた品を返却します」
「ありがとうございます」
外套を受け取り、肩へ羽織る。
二週間ぶりの重みだった。
水蝶騎士団長であることは、この部屋へ入った日にも失われていなかった。けれど、団長章のない胸元を見るたび、自分の判断によって預けることになった責任を突きつけられていた。
銀の留め具を胸元へ差し込む。
羽を閉じた水蝶が、朝の光を静かに返した。
「これより、最終査問へご同行いただきます」
「はい。お願いします」
廊下を歩き出す。
窓の外には、いつもと変わらない王都の屋根が連なっていた。白い石壁。青い尖塔。朝の鐘に合わせて開いていく市場の天幕。
世界は、二週間前と同じように動いている。
その中にアルトたちがいないという報告だけが、まだ私の中で形を持たなかった。
監察棟の最奥にある査問室には、三人の査問官と一人の記録官が待っていた。
中央に座る主席査問官は、机の上の記録結晶へ手を添えた。
「水蝶騎士団長、レイシア・ロウェル。着席してください」
「失礼いたします」
勧められた椅子へ腰を下ろす。
窓のない部屋だった。
白い石造りの壁には装飾がなく、机の中央に置かれた記録結晶だけが淡い光を放っている。誰かを威圧するためというより、余計なものを判断へ持ち込まないための部屋に見えた。
主席査問官が、最初の書類を開いた。
「確認します。あなたが指定任務区域を離脱していた時間は、記録上、四十七分間です。相違ありませんか」
「ありません」
「離脱に先立つ上位指揮官の許可はなく、緊急追跡への移行を示す正式な命令も発令されていません」
「はい」
「副官へ現地指揮を預けたことは確認されています。しかし、引き継ぎは口頭のみであり、周辺部隊への共有は遅れました」
「そのとおりです」
記録結晶が、私の返答を一つずつ刻んでいく。
右側の査問官が、被害報告を読み上げた。
私の離脱中、副官たちは防衛線を維持した。
周辺二部隊との連携にも一時的な混乱はあったものの、指揮は崩壊しなかった。私の不在を直接の原因とする死者はなく、民間区画にも重大な被害は出ていない。
その報告を聞いた時だけ、胸の奥に張りついていたものが僅かに緩んだ。
けれど、それを表情には出さなかった。
「結果として、重大な被害は発生しませんでした」
主席査問官の声は、責めるものではなかった。
「ですが、それは副官以下の部隊が指揮を維持したためです。七大魔法騎士が私情によって独断で持ち場を離れた事実とは、分けて判断する必要があります」
「はい」
「異論はありますか」
「ありません」
私は記録結晶を真っ直ぐに見た。
「任務を離れたのは、私の判断です」
「追跡対象が、あなたと同じ孤児院で育ったアルト・ロウェルだったことは、判断へ影響しましたか」
「しました」
そこを曖昧にすれば、責任を認めたことにはならない。
「因子反応がアルトのものだと判断し、見失う前に追わなければならないと考えました。正式な追跡命令を待たず、私個人の判断を優先しました」
「その判断によって被害が出なかったことを、どう評価しますか」
「幸運だったと考えています」
主席査問官の視線が僅かに上がる。
「幸運、ですか」
「はい。被害が出なかったことは幸運でした。私の判断が正しかった証明にはなりません」
もし副官の対応が一つ遅れていたら。
もし別の場所で防衛線が破られていたら。
私はアルトへ辿り着けないまま、守るべき人々まで失っていたかもしれない。
起こらなかった被害を数えて自分を許すことはできなかった。
「同じ条件が揃った場合、再び同じ判断をしますか」
「いいえ。指揮権の移譲と周辺部隊への共有を完了し、正式な許可を求めます。追跡の必要が切迫している場合でも、私一人の判断で命令系統を外れることはしません」
「追跡対象がアルト・ロウェルであっても?」
胸の奥が痛んだ。
それでも、答えは変えなかった。
「はい」
それは、アルトを見捨てるという意味ではない。
彼を助けるために、他の誰かを無断で危険へ置かないということだ。
あの時の私は、その境界を越えた。
「処分に対する申し立てはありますか」
「ありません。処分を受け入れます」
主席査問官が、左右の二人と記録を確認する。
やがて、正式な処分が読み上げられた。
十四日間の軟禁を懲戒拘束期間として算入すること。
本日付で水蝶騎士団長としての職務復帰を認めること。
ただし、無断離脱および命令系統を乱した事実は、七大魔法騎士の正式な職務記録へ残されること。
「以上が、監察院の決定です」
「承知しました」
差し出された処分確認書へ、私は迷わず署名した。
羽根筆の先が紙を滑る。
レイシア・ロウェル。
自分の名を書き終え、筆を置いた。
「では、最後の確認へ移ります」
記録官が処分書を下げ、代わりに黒い縁取りの施された分厚い書類を机へ置いた。
表紙には、事件終結報告書と記されている。
その下に並んでいた五人の名前を見た瞬間、部屋の空気が冷たくなった気がした。
アルト。
ティアナ。
フィア。
レグルス。
セルフィナ。
「当該事件における、最終的な死亡認定案です」
主席査問官が告げる。
「関係する七大魔法騎士団長として、内容を確認したうえで署名してください」
私は書類を開いた。
最初の頁には、事件の推移が時刻順に整理されていた。
複数の魔神因子を有するアルト・ロウェルが、戦闘中に制御を喪失。
異常な因子反応が周囲一帯を呑み込み、同行していたティアナ、フィア、レグルス、セルフィナの四名が巻き込まれた。
その後、アルト自身の生命反応も消失。
現場から遺体が発見されなかったのは、魔神因子の暴走によって肉体と魂が消滅した可能性が高い。
以上により、五名全員を死亡として処理する。
文面は慎重に整えられていた。
断定を避ける言葉を使いながら、その先に置かれた結論だけは動かないように作られている。
私は頁を飛ばさなかった。
現場見取図。
残留魔力の測定記録。
因子反応の分布。
生存反応の捜索範囲。
魂跡鑑定の結果。
軟禁中にも閲覧を許された資料だったが、もう一度、最初から最後まで目を通した。
読み終えるまで、誰も口を挟まなかった。
最後の頁には、私の署名欄があった。
先ほどと同じ羽根筆が差し出される。
私はそれを取らなかった。
「署名できません」
声を荒らげる必要はなかった。
主席査問官の眉が、僅かに寄る。
「理由を述べてください」
「任務離脱に関する処分には、異議はありません」
私は署名欄から視線を上げた。
「ですが、この結論には署名できません」
「自らへの処分と、この報告書は一連の事件に基づくものです」
「発端が同じであっても、判断すべき事実は同じではありません」
机の上へ置かれた処分確認書と、死亡報告書。
二つの間には、紙一枚以上の隔たりがある。
「私の違反と、アルトが四人を殺したという判断は、別の問題です」
左側の査問官が、報告書へ指を置いた。
「この書類は刑事裁定ではありません。現時点で最も可能性の高い経過を採用し、事件を行政上終結させるためのものです」
「それでも、正式記録へ残れば同じです。後に閲覧する者は、アルトの暴走によって四人が死亡したと読みます」
「実際、現場には彼の因子反応が残っています」
「はい。アルトの因子が発動したことは否定していません」
私は測定記録の頁を開いた。
「ですが、発見された遺体は一つもありません。五人分すべてです」
「因子の作用によって消滅した可能性は、報告書に記載されています」
「可能性としては理解しています。ですが、それを裏づける痕跡は確認されていません」
次に、魂跡鑑定の頁を示す。
「五人が同じ場所で、ほぼ同時に死亡したのであれば、通常は個別の魂の残滓が残ります。強い魔力災害によって乱れたとしても、五人分が一つも識別できないという結果は、改めて検証すべきです」
「魔神因子が魂の残滓まで呑み込んだ可能性があります」
「その可能性を否定しているのではありません」
私は首を横へ振った。
「ただ、それは現時点では仮説です。報告書の中には、アルトの因子が魂を消滅させたと証明する記録がありません」
記録官の羽根筆が、紙の上を走る。
「現場に残っているのは、アルトの因子反応だけです」
右側の査問官が確認するように言った。
「それこそが、他の四名を巻き込んだ証拠とは考えられませんか」
「因子が発動した証拠ではあります」
私は因子反応の比較表へ頁を戻した。
「ですが、アルトが四人を殺した証拠ではありません」
過去に記録された暴走時の数値。
今回の現場で測定された数値。
二つの間には、同じ人物の反応とは思えないほど大きな差があった。
「今回の因子反応は、過去の暴走記録と比較して不自然なほど強く残っています。測定器が上限へ達した地点も一か所ではありません」
「複数の因子を保有していた以上、過去最大の暴走が起きても不自然ではないでしょう」
「起こり得ます。ですが、強い反応が残ったという事実だけでは、その力が誰へ、どのように作用したかまでは分かりません」
因子の発動。
五人の消失。
二つの出来事が同じ場所で起きたからといって、間にあるはずの過程まで証明されたことにはならない。
「では、あなたはアルト・ロウェルが生きていると断言するのですか」
主席査問官の問いが、静かな部屋へ落ちた。
胸の中では、今すぐ肯定したい私がいた。
生きている。
アルトは生きている。
そう言ってしまえば、ほんの一瞬だけでも、この苦しさから逃れられる気がした。
けれど、それは私が欲しい答えであって、今ここにある証拠ではない。
「いいえ」
自分の声が揺れていないことを確かめながら、続ける。
「生存を断定できる証拠はありません」
「ならば、死亡認定を拒む根拠はないのでは?」
「同じように、死亡を断定できる証拠もないと申し上げています」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
記録結晶の光だけが、ゆっくりと脈打っている。
やがて主席査問官が、机の上で両手を組んだ。
「団長。あなたも、王国が置かれている状況は理解しているはずです」
「はい」
「死亡認定がなければ、家族や身元引受人への補償、遺品の整理、所属組織での手続きを進められません。行方不明のままでは、待つ側へ終わりのない負担を強いることになります」
私は黙って聞いた。
「加えて、複数の魔神因子を有する者が所在不明という状態は、国民へ大きな不安を与えます。既に王都では、根拠のない目撃情報が相次いでいます。そのたびに捜索部隊を動かさなければなりません」
右側の査問官が続ける。
「星冠教団の残党も、王国の発表と部隊の動きを見ています。捜索が長期化すれば、こちらが何を把握し、何を把握していないかを知らせることにもなり得ます」
「一連の襲撃で、王国の防衛体制は大きく損耗しました」
左側の査問官の前には、別の被害報告が積まれていた。
「事件を終結させ、部隊を本来の任務へ戻す必要があります。復旧を待つ地域も少なくありません」
どれも、軽んじてよい事情ではなかった。
遺された者が、いつ戻るか分からない人を待ち続ける苦しさも知っている。
危険な力を持つ者が行方不明だと聞けば、人々が恐れることも当然だった。
騎士や術者の数には限りがある。終わりの見えない捜索によって、別の場所で救えない命が出る可能性もある。
「王国に答えが必要なことは理解しています」
それでも、必要性と事実を同じものにはできない。
「ですが、必要だから作られた答えは、真実にはなりません」
「真実が明らかになるまで、すべてを保留にせよと?」
「少なくとも、死因と加害者を一つの仮説だけで確定させるべきではありません。公表範囲を制限したうえで、未確定案件として扱うことはできます」
「その間も、混乱は続きます」
「誤った結論を確定させれば、後から訂正するために、より大きな混乱が生じます」
右側の査問官が、因子反応の記録を閉じた。
「調査を広げること自体が危険となる場合もあります。残党に情報を与え、封じるべき痕跡へ触れる者を増やすことになる」
それが純粋に情報管理上の懸念なのか、別の意味を含んでいるのか、私には判断できなかった。
だから、言葉の裏側ではなく、示された問題にだけ答える。
「その危険を抑えるための申請書を用意しています」
私は外套の内側から、封をした書類を取り出した。
軟禁中、閲覧を許された記録を読み返しながら作成したものだった。
監察官から渡された紙は、一枚も無駄にしなかった。
主席査問官の前へ差し出す。
「七大魔法騎士団長の権限に基づき、大規模魔力災害に関する独立再鑑定を申請します」
主席査問官が封を切る。
最初の頁には、調査対象と必要性を記した。
二頁目以降には、具体的な申請項目を三つに分けてある。
「第一に、五人分の魂の残滓と生存反応の再捜索です。初回調査とは異なる術式と範囲で行ってください」
誰かの魂が見つかることを望んでいるわけではない。
見つからないことを、都合よく生存の証拠にするつもりもない。
ただ、何もなかったという結果が正しいのかを確かめる必要がある。
「第二に、現場へ残ったアルトの因子反応と、過去の暴走記録との比較鑑定。強度だけでなく、残留時間と魔力構造の差異も調べてください」
頁がめくられる。
「第三に、現場に残る空間転移、偽装、外部干渉の痕跡調査です。現時点で存在を示す証拠はありません。だからこそ、除外するための調査が必要です」
「偽装の可能性まで含めるのですか」
「はい」
「誰かが事件そのものを作ったと疑っている?」
「断定していません。遺体も魂の残滓もなく、因子反応だけが残っている以上、検討せずに除外できないと考えています」
主席査問官は最後の頁まで読み、私へ視線を戻した。
「この申請が、アルト・ロウェルに対するあなたの私情に基づくものではないと言えますか」
「いいえ」
私は否定しなかった。
「私には、私情があります。アルトは同じ孤児院で育った幼なじみです。私にとって、かけがえのない人です」
それを隠して公正さを装うほうが、ずっと危うい。
「だからこそ、私自身を鑑定担当から外していただいて構いません」
「水蝶騎士団も外しますか」
「騎士団全体を外す必要はありませんが、水蝶騎士団だけで調査を完結させることには反対します。監察院が選任する魂跡鑑定士、空間術者、因子研究者を含め、所属の異なる複数の術者による再調査を求めます。互いの記録を独立して作成し、最後に照合してください」
「再鑑定の結果が、現在の報告書と同じであった場合は?」
「鑑定手順と根拠が適正であれば、結果を受け止めます」
「あなたにとって望ましくない事実が出ても?」
喉の奥が、僅かに狭くなる。
「はい」
言葉にするだけで、胸の中へ冷たい刃が入ってくるようだった。
それでも、ここで目を逸らせば、私も自分に必要な答えを作る者になってしまう。
「私が欲しいのは、アルトに都合のよい答えではありません」
声を柔らかく保ったまま、はっきりと告げる。
「まだ出ていない答えです」
主席査問官は、しばらく申請書を見つめていた。
左側の査問官が、調査による情報漏洩の危険と必要人員について意見を述べる。
右側の査問官は、既存資料の保全期間を延長する場合に必要な管理区画を確認した。
反対意見も、懸念も、記録官によって一つずつ書き留められた。
誰が何を守ろうとしているのか。
その場に並べられた言葉だけで、決めつけることはできない。
やがて主席査問官が、申請書の受理欄へ監察院の印を押した。
「申請を正式に受理します」
小さな音だった。
けれど、二週間動かなかった何かが、初めて前へ進んだ音に聞こえた。
「調査範囲と選任する術者については、監察院と騎士団統括部で審査します。申請内容がすべて認められるとは限りません」
「承知しています」
「審査が終わるまで、現場記録、採取済みの残留物、測定結晶、回収物の廃棄を停止します。既存の死亡認定案も、最終承認を保留とします」
「ありがとうございます」
「これは、五名の生存を認めたという決定ではありません」
「はい。理解しています」
勝ったとは思わなかった。
アルトの無実が認められたわけでも、生存へ近づく証拠が見つかったわけでもない。
ただ、まだ確かめられていないものが、確かめる前に捨てられることは防げた。
今は、それで十分だった。
査問室を出ると、監察棟の正面階段に水色の外套が並んでいた。
第一副官を先頭に、水蝶騎士団の団員たちが待っている。
私の姿を認めると、一斉に背筋が伸びた。
揃った敬礼の音が、石造りの広間へ響く。
「水蝶騎士団長、ご帰還をお待ちしておりました」
「皆さん、ご心配をおかけしました」
私はいつものように微笑んだ。
無理に明るく見せるためではない。
彼らへ最初に向けるべきものは、私の不安ではなく、不在の間も任務を支えてくれたことへの感謝だった。
「私が持ち場を離れた間、指揮を維持してくださってありがとうございました」
「それが副官の務めです」
「それでも、ありがとうございます。皆さんが守ってくださったから、重大な被害を出さずに済みました」
副官は一度だけ唇を引き結び、深く頭を下げた。
後ろに並ぶ団員たちの中には、目の下へ疲れを残している者もいる。二週間、団長不在の騎士団を動かし続けていたのだ。
私が今すべきことは、彼らへ感情を預けることではない。
水蝶騎士団を、本来の流れへ戻すことだった。
胸元の団長章へ指を添え、傾いていないことを確かめる。
「二週間分の任務報告をお願いします。緊急度の高いものから整理して、午後から順番に確認しますね」
「既に分類を終えています。騎士団本部へ戻り次第、お持ちします」
「助かります。引き継ぎ中に判断を保留した案件も、担当者の意見を添えてください。私が戻ったからといって、最初からやり直す必要はありません」
「承知しました」
団員たちが道を開ける。
私はその中央を歩いた。
外へ出ると、夏の光が目へ刺さった。
二週間ぶりに封印越しではない風が、銀青の髪と外套を揺らす。
王都の通りを行く人々の中には、こちらへ気づいて足を止める者もいた。私は水蝶騎士団長として、いつもと同じように会釈を返した。
アルトの名前を叫ぶこともなかった。
王国への怒りを露わにすることもなかった。
私の中に何があるかを、今ここで人々へ背負わせる必要はない。
騎士団本部へ戻ると、副官から急務だけを先に受け取った。
復帰を待っていた決裁書へ目を通し、午後の報告順を決める。私が不在だった間に変更された警備配置を確認し、元へ戻す必要のないものには承認を与えた。
そこまで終えて、次の報告が始まるまでの短い時間だけ、自室へ戻った。
扉を閉める。
鍵を回す。
廊下側から錠がかかったことを確かめ、もう一度、取っ手を引いた。
誰も入ってこない。
誰にも見られていない。
そう分かった瞬間、鍵へ添えていた指が震えた。
十四日間、一度も震えなかった指だった。
外套を脱ごうとして、留め具を二度取り損ねる。
諦めて外套を羽織ったまま机へ向かい、最下段の引き出しを開けた。
書類の奥に、布で包んだ小さな魔法鏡がある。
両手で取り出し、布をほどく。
掌ほどの円い鏡。
水色の魔石を埋め込んだ縁は、何年も指でなぞり続けたせいで僅かに擦れていた。
任務へ出る朝も。
帰還した夜も。
寂しくて眠れなかった日も。
私はこの鏡へ、アルトの名前を呼び続けてきた。
返事がなかった長い年月にも、いつかまとめて届けばいいと思って、言葉を送ることをやめなかった。
一度は、声が届いた。
鏡の向こうから、成長したアルトが私を呼んでくれた。
だから、今回も。
そう願いながら、鏡へ魔力を流す。
いつもの呼び符が、縁の魔石を一周した。
「アルト、聞こえてる?」
返事はなかった。
鏡の表面には、私の顔だけが映っている。
澄んだ水色の瞳も、長い耳も、いつもどおりに整えた銀青の髪も、どこか知らない人のもののように見えた。
もう一度、魔力を流す。
「今日、外へ出られたよ」
伝えたいことはいくつもあった。
任務を離れたことで、ちゃんと処分を受けたこと。
水蝶騎士団の皆が、私の不在を支えてくれたこと。
あなたたちの死亡報告書へ、署名しなかったこと。
再調査の申請が受理されたこと。
でも、そんな報告を聞かせたいわけではなかった。
ただ、声が聞きたかった。
「私ね、ちゃんと戻ってきたよ。だから、アルトも……」
言葉が続かなかった。
鏡へ流す魔力を少しだけ強める。
魔石は反応しない。
鏡面にも、通信が繋がる時の波紋は生まれない。
「声じゃなくてもいいから、一度だけ鏡を光らせて」
返事はなかった。
「一度だけでいいよ」
暗いままだった。
「すぐ消えても、見間違いみたいに小さくてもいいから」
何も起こらない。
私は何度も呼び符を送り直した。
魔力の流し方を変え、過去に使った予備の接続式も試した。
それでも鏡は、私の顔を映すだけだった。
これ以上続ければ、古い鏡の術式そのものを傷めるかもしれない。
もし明日、アルトから接続があった時、この鏡が壊れていたら。
そう考えて、ようやく魔力を止めた。
静かになった鏡を、胸へ抱き締める。
冷たい縁が、団長章の上から身体へ食い込んだ。
査問室で私が述べたことは、すべて事実だった。
遺体はない。
魂の残滓もない。
因子反応が、四人の死へどう繋がったのかも証明されていない。
だから、死亡を断定できない。
けれどそれは、アルトが生きていることを証明するものではなかった。
遺体がないから、生きているとは限らない。
魂の残滓がないから、どこかで呼吸しているとは限らない。
魔神因子によって、本当に何も残らなかった可能性はある。
アルト自身が、あの場所で命を失っている可能性もある。
私は、それを理解していた。
理解しているからこそ、怖かった。
私はアルトの生存を確信しているわけではない。
確かな証拠があって、帰りを待っているわけでもない。
信じている。
その言葉だけなら、強くて綺麗に聞こえる。
けれど、私の中にあるものは、もっと必死で、もっと危うい。
アルトが死んだと認めてしまえば、私は何年も、帰ってこない人へ言葉を送り続けていたことになる。
朝の挨拶も。
任務から帰ったという報告も。
今日は少し疲れたという弱音も。
会いたいと伝えた夜も。
いつか彼が聞いてくれると信じて、鏡へ預けてきた言葉の行き先が、すべてなくなる。
孤児院で交わした約束も消える。
小さな手で木剣を握り、いつか私を守れる騎士になると言ってくれた男の子。
私が先に学院へ行く日、追いつくから待っていてと約束してくれたアルト。
強くなった私を遠くから見上げるのではなく、隣へ立つために何度倒れても剣を握った人。
任務が終わったら、二人で孤児院へ帰ろうと約束した。
あの門を、今度は二人でくぐるのだと思っていた。
その先の未来まで、私は勝手にたくさん考えていた。
騎士でなくてもいい時間を、一緒に過ごしたかった。
公の場では団長と候補生であっても、二人きりになれば昔のように名前を呼びたかった。
帰る場所を守るために騎士になった私が、最後にはアルトの帰る場所でいたかった。
彼が死んだと認めた瞬間、その未来は一つ残らず崩れる。
それだけではない。
王国の記録に残るアルトは、四人の仲間を殺した魔神因子保有者になる。
何度も自分の力を恐れながら、それでも誰かを守るために剣を握ってきたことも。
危険を隠さず、監視も制限も受け入れてきたことも。
自分より先に仲間を逃がそうとしたことも。
すべてが、最後の暴走という数行で塗り潰される。
それが真実なら、私は見なければならない。
アルトに都合が悪いからといって、証拠を捨てることはできない。
もし彼が力を制御できなかったのなら、何が起きたのかを知らなければならない。
もし誰かを傷つけたのなら、その事実から目を逸らしてはいけない。
それでも、証拠のないまま怪物だったことにはさせられない。
アルトが死んだ。
仲間を殺した。
その二つを同時に受け入れたら、私はきっと壊れる。
大声で泣き叫び、何もかもを壊すような壊れ方ではない。
明日も団長章をつけ、穏やかに笑い、何も感じないまま正しい命令だけを出し続ける。
そんなふうに、中身だけがなくなってしまう気がした。
だから、私はアルトが生きていると信じる。
証明できるからではない。
信じなければ、今の私は立っていられないからだ。
その危うさを、自分で分かっていなければならない。
だから私は、鑑定から自分を外した。
私の願いが測定結果を選ばないように。
私の愛情が、不都合な痕跡を見えなくしないように。
生きているなら、見つける。
死んでいるなら、本当の最期を突き止める。
どちらの答えが待っていても、アルトの人生を、王国に必要な数行だけで閉じさせない。
私は鏡をさらに強く胸へ抱き、誰にも届かないほどの小さな声で告げた。
「あなたが死んでいても、生きていても。怪物にしたまま、終わらせたりしないよ」
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