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『属性適性なしの学院最下位、迷宮で見捨てられた僕は七罪の魔神と契約する ~最強英雄になった幼なじみに追いつくまで~  作者: ドキツトム


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第201話「死んだ僕の朝」

「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!


例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』


皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!


 冷たさが、最初に戻ってきた。


 背中から染み込んだ冷気が、骨の隙間をゆっくり這い上がってくる。


 息を吸う。


 胸の奥が軋み、途中で呼吸が止まった。喉には埃が張りつき、口の中には乾いた血の味が残っている。


 瞼を持ち上げても、ぼやけた暗闇しか見えなかった。


 石の天井らしきもの。そのどこかで、水滴の落ちる音がしている。


 ここがどこなのか。


 僕の身体が、どれだけ動くのか。


 それを確かめるより先に、名前が口からこぼれた。


「……ティアナ」


 一度目は、声になりきらなかった。


 胸の痛みを押さえ、もう一度呼ぶ。


「ティアナ……いる?」


 暗がりの右側で、布が擦れた。


「いるよ」


 掠れてはいたが、間違えようのない声だった。


「ちゃんと、生きてるよ。アルトも聞こえてるね?」


 肺に詰まっていたものが、少しだけ抜けた。


 けれど、まだ一人だ。


「……フィア」


 今度は正面に近い場所から、短い息遣いが聞こえた。


「生きてる」


 間を置き、フィアは付け加えた。


「右腕は、動きにくい」


 声に痛みが混じっている。


 それでも、フィアだ。


「レグルス」


「聞こえている」


 左奥から、硬い声が返った。


「君こそ、勝手に意識を手放すな。まだ僕との決着はついていない」


 いつもより呼吸が浅い。けれど、その言葉を選ぶだけの意識はある。


 最後の一人を呼ぶ。


「セルフィナ」


「ここにいます」


 少し離れた場所で、微かな風が揺れた。


「意識は明瞭です。呼吸も保てています」


 四人。


 四人全員の声を聞いてから、僕はようやく長く息を吐いた。


 痛かった。


 それでも、吐けた。


 あの光の向こうで、誰か一人でも失っていたら。


 そこまで考えた瞬間、左腕の奥がどくりと脈打った。


 黒い紋章のある場所から、熱い針を何本も差し込まれたような痛みが走る。


 僕は右手を石床についた。


 起き上がろうと力を込めた途端、胸から腹へ痛みが抜け、肘が折れた。


「アルト」


 ティアナの声が近づく。


 床へ手をつき、這うようにして僕のそばまで来たらしい。薄暗い中、蜂蜜色の髪が埃に汚れているのが見えた。


「立たなくていいよ。どこが痛い?」


 いつもの癖で、心配させない言葉が喉まで出かかった。


 けれど、飲み込む。


 分からないことを隠せば、次に判断を誤る。


「今は動けない。息を深く吸うと、胸が痛い。左腕が熱い。指は動くけど、魔力はほとんど残ってない」


「意識は?」


「はっきりしてる。目も見えてきた」


「分かった。そこまで聞ければ十分だよ」


 ティアナの手が僕の額へ触れた。


 冷たい指だった。


 僕の熱を確かめると、彼女は近くに転がっていた荷箱へ手を伸ばした。その蓋を開け、短く息を呑む。


「包帯がある。水も」


「使える状態か確認してくれ」


 身体を壁へ預けたレグルスが言った。


 白金の髪には血が固まり、片方の肩を庇っている。それでも紫の瞳は、荷箱と周囲を鋭く見比べていた。


「封は破られていない。水の変色もありません」


 セルフィナが答える。


 彼女は壁際に座り、片手を胸元へ添えていた。その肩に寄り添う淡い風の精霊へ何かを囁き、返ってくる空気の揺れを待っている。


「ただし、開封後にも匂いと魔力反応を確認します」


「お願い」


 ティアナは水筒の口を開けると、まず自分の指先へ一滴落とした。


 セルフィナが頷くのを待ってから布を湿らせ、僕の頬と口元の血を拭う。


「大きく開いている傷はなさそう。次、胸を見るね」


「うん」


 服を必要な分だけ緩め、ティアナは手早く傷を確かめていった。


 痛む場所へ触れる前には必ず声をかける。僕の反応を見て、包帯を巻く強さを変える。


 その間にも、フィアは立ち上がろうとしていた。


 細剣を杖の代わりにはせず、左手を壁へついて身体を支える。


「フィア、待って。右腕を見せて」


「出口が先」


「血が止まってるかだけ。すぐ終わるよ」


 フィアは扉らしき影を見つめたまま、数秒黙った。


 やがてティアナの前へ右腕を差し出す。


「早く」


「うん」


 僕の胸へ包帯を巻き終えると、ティアナはフィアの右腕を固定し、そのままレグルスとセルフィナの状態も確かめた。


 無傷の者はいない。


 けれど、意識はある。呼吸もできる。血も、ひとまず止められる範囲だった。


 全員が生きている。


 その事実だけは、何度確かめても変わらなかった。


 視界が暗さに慣れるにつれ、部屋の形が浮かび上がってきた。


 僕たちが倒れていたのは、広い石室の中央だった。


 壁に埋め込まれた魔導灯は二つが割れ、残った一つだけが弱々しく明滅している。


 天井近くには細い換気口があり、そこから青白い光が差し込んでいた。


 夜の色ではない。


 転移から、少なくとも数時間は経っている。


 朝が来ていた。


 壁の中央には、翼と王冠を組み合わせたルミナリア王国の紋章が刻まれている。だが、表面は剥がれ、翼の半分が湿気で黒ずんでいた。


 寝台が六つ並んでいるものの、どれも厚い埃を被っている。


 天井を走る配管には赤茶色の錆が浮き、継ぎ目から落ちた水が床へ暗い染みを作っていた。


「王国の施設か」


 レグルスが壁の紋章を見上げる。


「かなり古いね」


 ティアナが答えた。


 部屋そのものは、長い間使われていない。


 それなのに、荷箱の中身だけが不自然だった。


 密封された水筒。清潔な包帯。保存食。火を使わずとも光る携帯灯。


 隣の箱には、埃のついていない毛布がきっちり五枚畳まれている。


 六枚でも、十枚でもない。


 五枚だけだ。


「偶然とは考えにくいですね」


 セルフィナが、断定を避けるように言った。


「この部屋が最後に使われた時期と、物資が置かれた時期は一致していないように見えます。少なくとも、包帯と水は比較的新しいものです」


「僕たちが来ると知っていた者がいた」


 僕が言うと、セルフィナはわずかに首を振った。


「その可能性はあります。ただ、五人分であることだけでは確定できません」


「それでも、気味のいい話ではないな」


 レグルスは銀槍を引き寄せ、ゆっくり立ち上がった。


 足元が揺れたが、壁へ手をついて堪える。


「僕は設備と物資を確認する。フィア、出口には触れるな。まず見るだけにしろ」


「分かってる」


 フィアは短く答え、石室の外へ続く通路へ向かった。


 以前なら、止める声より先に扉まで駆けていただろう。


 今は一歩ごとに床を見ている。壁と天井、足元を走る術式線を確認し、細剣の柄へ手を置いたまま進んでいった。


「空気に強い毒性は確認できません」


 セルフィナのそばで、風の精霊が小さく旋回する。


「精霊も、施設内に生物の気配は感じていないようです。ただし、閉ざされた区画の向こうまでは分かりません」


「僕も、見える範囲を整理する」


 壁へ背を預けたまま、僕は室内を見渡した。


 紋章の下に、金属板が埋め込まれている。


 表面の埃をティアナが拭うと、地図と目盛りが現れた。


「位置表示器だよね、これ」


「ああ。旧式だが、まだ魔力が残っている」


 レグルスが側面のレバーを引く。


 鈍い音を立てて、地図の一部へ小さな光がともった。


 王国の国境線は、地図の端に細く刻まれている。


 現在地を示す光点は、その線から大きく離れた場所にあった。


「こんなに……?」


 ティアナの指が、国境と光点の間をなぞる。


 縮尺が消えかけているため、正確な距離までは出せない。


 それでも、負傷した僕たちが歩いて今日明日に帰れる距離でないことだけは分かった。


「国境の外に造られた退避拠点かもしれない」


 レグルスが地図の縁に刻まれた文字を読む。


「古い戦時避難施設だ。侵攻を受けた際、王族か高位の指揮官を逃がすためのものらしい」


「なら、転移装置があるはずだよね」


 ティアナの言葉に、僕たちは石室の奥を見た。


 床には巨大な魔法陣が描かれていた。


 僕たちが倒れていた、まさにその場所だ。


 円環の半分以上が黒く焼け焦げ、術式を刻んだ金属線は溶けて石へ貼りついている。


 転移の受け側。


 ただし、一方向にしか接続できない旧式だ。


「再使用はできません」


 セルフィナが焼けた円環の手前で膝をつく。


「残留魔力はありますが、術式そのものが焼き切れています。送信元を示す反応も、私には追えません」


「偶然飛ばされたわけではなさそうなのに、戻る道だけは消えている」


 僕は五枚の毛布へ目を向けた。


 誰かが僕たちをここへ送った。


 誰かが僕たちの到着に備えた。


 同じ人物かどうかさえ、まだ分からない。


「通信器がある」


 レグルスが、寝台の陰に置かれた金属箱を見つけた。


 持ち上げると、表面から厚い埃が落ちる。


 正面には音声筒と受信表示盤。側面には記録用の円筒が収められていた。


 レグルスは背面を開き、内部の配線を追う。


「送信回路がない」


「壊れてるの?」


「違う。初めから受信専用だ。王国の緊急放送だけを拾い、自動で記録する装置だろう」


 僕は唇を噛んだ。


 王国からの声は聞ける。


 けれど、こちらの声は届けられない。


「記録が一件あります」


 セルフィナが表示盤を指す。


 小さな赤い光が点滅していた。


 記録された時刻は、今朝の第一鐘。


 数時間前だ。


 レグルスが再生レバーへ指を置く。


「流すぞ」


 誰も反対しなかった。


 歯車が回り始める。


 砂を擦り合わせるような雑音の後、感情のない声が石室に響いた。


『王国緊急公報。以下、王国危機管理局および王立魔導調査局による共同発表です』


 ティアナの手が、包帯の上で止まった。


『昨夜、王国管理区域内で発生した大規模魔力崩壊について、現場の状況および残留魔力の調査結果が公表されました』


 声は一定だった。


 水滴が落ちる音と変わらないほど、平坦だった。


『当該事案に関与していた五名について、現場の崩壊規模から生存は絶望的であると判断され、本日付で死亡が認定されました』


 一瞬、意味が理解できなかった。


 音声筒の中で、紙を送る小さな音がした。


『死亡者は、ティアナ・テラフォード』


 僕の隣にいるティアナが、ゆっくり顔を上げる。


『フィア・ヴァルティエ』


 通路の奥で、フィアの靴音が止まった。


『レグルス・ヴァルモント』


 レグルスの指が、再生レバーを強く握る。


『セルフィナ』


 風の精霊がセルフィナの肩へ寄り添った。


『アルト・ロウェル』


 僕の名前だった。


 今、ここで息をしている僕の名前が、死者として読み上げられた。


『なお、五名の遺体は現時点で確認されていません。現場に残された転移痕の損壊状況と魔力崩壊の規模を踏まえ、生存の可能性はないものと判断されています』


 遺体はない。


 それでも僕たちは、もう死んだことになっている。


 放送は止まらなかった。


『また、現場から高濃度の魔神反応が検出されています。王立魔導調査局は、アルト・ロウェルが保有していた魔神因子に暴走が発生し、同行者四名を巻き込んで死亡した可能性が高いとの見解を示しています』


 誰も声を出さなかった。


『本件については引き続き調査を行い、新たな事実が判明した場合には改めて公表します。以上で緊急公報を終了します』


 歯車の回転が遅くなる。


 最後に小さな音を立て、記録円筒が止まった。


 僕は怒りを感じなかった。


 自分が犯人にされたことも、怪物として扱われたことも、その瞬間にはどうでもよかった。


 浮かんだのは、レイシアの顔だった。


 淡い銀青の髪。


 水色の瞳。


 困った時、ほんの少しだけ下がる眉尻。


 強がって平気な顔を作る時、わずかに固くなる唇。


 僕は、その全部を知っている。


 彼女も、僕の顔を同じくらい知っている。


 ロウェル孤児院の狭い食堂で向かい合った朝も。


 雨の夜、同じ窓から外を見たことも。


 僕が騎士になりたいと初めて言った時、誰より先に信じてくれた声も。


 レイシアがこの放送を聞いているかどうか、僕には分からない。


 けれど、王国の緊急公報だ。


 水蝶騎士団長である彼女へ届いていないとは考えにくかった。


 僕が死んだ。


 それだけではない。


 僕が魔神因子を暴走させ、ティアナたち四人を巻き込んだ。


 そう聞かされている。


 彼女なら、すぐには信じないかもしれない。


 遺体はどこにあるのか。誰が確認したのか。残留反応だけで、なぜ原因を決められるのか。


 穏やかな声で問いながら、誰より必死に証拠を探す姿が想像できた。


 だからこそ、苦しかった。


 死んだ僕を悼むことさえ許されず、僕を信じるために戦わされる。


 それでも何も見つからなければ、いつか自分の知っていた僕と、王国が発表した僕の間で立ち尽くすことになる。


 胸の奥から、間違った言葉が浮かび上がった。


 ――生きていて、ごめん。


 息が吸えなかった。


 右手が震え、爪が石床を掻く。


 左腕の紋章が、また熱を増した。


「アルト」


 ティアナに名を呼ばれ、僕は開きかけた左手を右手で押さえた。


「左腕の熱が強くなった。でも、外へ漏れてはいない。意識もある」


 声にして報告すると、ほんの少しだけ呼吸が戻った。


 僕は通信器を見た。


「帰らないと」


 自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。


「王国へ?」


 ティアナが聞く。


「うん。生きているって伝えないと」


 石床へ右手をつく。


「レイシアに。君たちを待っている人たちにも。これは僕の名誉だけの話じゃない。四人が僕の暴走に巻き込まれて死んだなんて、そんな記録を残せない」


「私たちは巻き込まれたんじゃないよ」


 ティアナは僕の肩へ手を置いた。


 強く握り締めるのではなく、僕が顔を逸らさないようにする程度の力だった。


「一緒に行くって、自分で決めた。アルトに命令されたわけでも、何も知らずについていったわけでもない」


「でも、僕の因子が――」


「アルトの因子が危ないことも知ってたよ」


 ティアナは言葉を重ねず、まっすぐ僕を見る。


「それでも、どこに立つかは自分で決めた。私の選択まで、アルト一人の責任に変えないで」


 返す言葉が詰まった。


「同感だ」


 レグルスが通信器から記録円筒を抜く。


「君の暴走で死んだことにされるのは不本意だが、君の焦りで今度こそ本当に死ぬのは、さらに不本意だ」


「この発表を放っておけって言うの?」


「僕が言っているのは、時間を見ろということだ」


 レグルスは表示盤を僕へ向けた。


「事件が起きたのは昨夜。そして死亡認定は今朝の第一鐘だ。現場の捜索、遺体の確認、転移痕の調査。どれも十分に行う時間はない」


「崩壊の規模から、早く判断した可能性もある」


「もちろんだ。だから異常だと断定はしない。しかし、僕たちが何も考えず姿を現していい理由にもならない」


 レグルスの紫の瞳が、僕を正面から捉える。


「君は僕の競争相手だ。速さと無謀の違いくらい、見誤るな」


「公式発表には、確認された事実と推測が混在しています」


 セルフィナが通信器のそばへ寄った。


「魔力崩壊が発生したこと。高濃度の魔神反応が残されたこと。遺体が確認されていないこと。ここまでは、発表上の事実です」


 彼女は停止した記録円筒を指す。


「一方で、死亡の認定と、アルトの因子が原因であるという見解には推測が含まれています。それらがほとんど区別されないまま、連続して読み上げられています」


「意図的だと思う?」


「分かりません」


 セルフィナは迷わず答えた。


「緊急時の情報整理が不十分だった可能性もあります。反対に、私たちの生存を隠したい者がいる可能性もあります」


「もう一つある」


 レグルスが言う。


 セルフィナは頷いた。


「生き残っている者を、公式発表によって誘い出そうとしている可能性です。現時点では、どちらも否定できません」


 僕は部屋の隅にある外套を掴んだ。


「通信器に送信機能がないなら、外へ出て、使える通信手段を探す」


「アルト、今は歩けないよ」


「ここにいても、声は届かない」


 足を引き寄せ、壁へ手をつく。


 左腕は使えない。右脚へ体重をかけた瞬間、膝から力が抜けた。


 視界が傾く。


 ティアナが脇へ入り、肩で僕を受け止めた。


「ほら」


「……分かってる。それでも、動かないと」


 一歩。


 石床へ足をつくたび、胸の奥が揺さぶられる。


 通路の先には、錆びた鉄扉が見えていた。


 その前に、フィアが膝をついている。


 僕が近づく音を聞き、フィアは振り返らずに言った。


「アルト。来ないで」


 短い声だった。


 けれど、拒絶ではない。


 細剣の切っ先が、扉の縁から指一本分だけ離れた場所で止まっている。


 古い石壁を這う防護術式の上に、髪の毛ほど細い銀色の線が重ねられていた。


 埃の積もった壁の中で、その線だけが新しい光を保っている。


「術式か?」


 レグルスが僕たちの後ろから問う。


 フィアは頷いた。


「触れば、向こうに伝わる」


「何を伝える術式ですか?」


 セルフィナが距離を保ったまま目を細める。


「通った人の位置」


 フィアは扉の下端へ切っ先を移した。


 そこには五つの小さな認証紋が並んでいた。


「印もつく」


 レグルスが携帯灯を近づける。


 フィアが左手を上げ、光が術式線へ直接触れない位置で止めさせた。


「これは……学院の個人魔力登録に使われる識別形式だ」


 レグルスの顔から、わずかに血の気が引く。


「番号まで組み込まれている。僕たちを個別に判定できるようになっているぞ」


「何人分?」


 ティアナが尋ねる。


 フィアは五つの認証紋を見たまま答えた。


「全員分ある」


 五人のうち、誰が扉を通ったのか。


 いつ、どこへ向かったのか。


 それを、術者側へ伝える。


「攻撃の反応は、今のところ検出できません」


 セルフィナは床へ手を近づけ、流れる魔力を慎重に見ていた。


「通過した者を害することより、生存と位置を知らせるための術式に見えます。ただし、情報が送られる先までは追えません」


「この施設に元からあったものではないな」


 レグルスが石壁の刻印と銀線を見比べる。


「防護術式とは構造も年代も違う。外側から後付けされている」


 フィアの細剣なら、切れるかもしれない。


 術式と扉を結ぶ線を断つことは、彼女が何度もやってきた。


 けれど、刃は動かなかった。


 フィアは線の始点と終点を見極めた後、ゆっくり細剣を鞘へ戻した。


「切らないの?」


 ティアナが聞く。


「切れたことも、伝わるかもしれない」


 それだけ言い、フィアは扉から離れた。


 斬れるから斬るのではない。


 斬った後に何が起きるか分からないなら、今は刃を止める。


 僕は鉄扉を見つめた。


 僕一人が外へ出ても、術式はここに誰かがいることを知らせる。


 敵が来れば、負傷した四人を守りながら戦うことになる。


 五人で出れば、全員へ追跡印がつく。


 気づかず王国まで帰れば、その先には騎士団がいる。


 レイシアがいる。


 僕が彼女へ会いに行くことで、その足元まで何者かを導くかもしれない。


 帰りたい理由は、レイシアだった。


 だからこそ、レイシアを危険へ晒す帰り方は選べない。


 理屈は分かった。


 理解したのに、胸の奥は一歩も動かなかった。


 今も王国では、僕たちが死んだという知らせが広がっている。


 レイシアがどこにいるのか。何をしているのか。僕には分からない。


 一刻でも早く声を届けたい。


 その一刻を急ぐことが、彼女を狙う刃になるかもしれない。


 僕は鉄扉へ伸ばしかけた右手を、強く握った。


「……この扉には触れない」


 帰らないとは言えなかった。


 帰りたくないわけではない。


 帰るために、今は動けないだけだ。


「別の経路を探そう」


 僕の言葉に、レグルスが頷く。


「最初から、そのつもりだ」


 石室の隅には、施設の簡易構造図が残されていた。


 レグルスが図面と通路の位置を照合する。


 フィアは扉へ繋がる術式線を避けながら、壁沿いに古い保守用通路を探す。


 セルフィナは精霊へ無理に進ませず、壁の隙間から戻ってくる空気の流れを一つずつ確かめていった。


 ティアナは僕たちの包帯を結び直し、移動できる者と、まだ動かすべきでない者を見極める。


 僕は位置表示器の縮尺と構造図を見比べ、見落とされている区画がないか整理した。


 換気口は狭すぎる。


 排水管は途中で塞がっている。


 図面に記された保守坑は、入口ごと崩れていた。


 まだ全てを調べたわけではない。


 けれど、すぐ使える出口は見つからなかった。


「通信器の下」


 構造図へ目を戻した時、僕は違和感に気づいた。


「そこだけ、床の埃が薄い」


 レグルスがしゃがみ込み、通信器の脚部へ携帯灯を向ける。


 確かに、背面の下側だけ細い線状に埃が途切れている。


「最近、動かされた跡か」


「後ろに空洞があります」


 セルフィナが答えた。


「僅かですが、隙間から空気が戻っています」


 フィアが近づき、銀線が通信器まで伸びていないことを確かめる。


「追跡術式とは別」


「なら、開けるぞ」


 レグルスが通信器の下へ指を入れた。


 錆びついた金属板は動かない。


 ティアナが横から台座を支え、僕は構造図に描かれた固定具の位置を指した。


「右の留め具を先に押して。左は後だ」


 レグルスが順番に押す。


 小さな音がして、隠されていた収納部が手前へ開いた。


 中にあったのは、一通の封書だった。


 新しい紙。


 湿気を防ぐ薄い魔法膜。


 表には五人の名前が記されている。


 アルト・ロウェル。


 ティアナ・テラフォード。


 フィア・ヴァルティエ。


 レグルス・ヴァルモント。


 セルフィナ。


 そして封蝋には、学院の公印ではない紋章が刻まれていた。


「学院長……」


 何度も見たことがある。


 学院長オルフェン・レグナス個人の紋章だった。


 僕の左腕に魔神因子があると知ってなお、学院長は僕を閉じ込めなかった。


 兵器とも、器とも呼ばなかった。


 何を選ぶかは僕自身が決めることだと、静かに言ってくれた人だ。


 だから信じたい。


 そう思うのに、疑問は消えなかった。


 学院長が、僕たちをここへ転移させたのか。


 五人の死亡発表を知っているのか。


 僕を加害者とする見解を認めたのか。


 外の追跡術式を知っているのか。


 何一つ、封蝋からは分からない。


「表面を確認します」


 セルフィナが封書へ手をかざした。


 風の精霊が紙の周囲を一度だけ巡り、彼女の肩へ戻る。


「少なくとも、表面から敵対的な術式は検出できません。ただし、封書の内側までは断定できません」


「開ける?」


 ティアナが僕を見る。


 僕は頷いた。


「開ける」


 右手を伸ばし、封書へ触れる。


 その瞬間、封蝋から五本の淡い光が伸びた。


 一本は僕の指へ。


 残る四本は、ティアナ、フィア、レグルス、セルフィナの胸元へ届く。


 光は脈拍を確かめるように一度だけ明滅し、封蝋へ戻った。


 五人全員が生きていることを確認したように、学院長の紋章へ亀裂が走る。


 封が、ひとりでに開いた。


 折り畳まれていた紙面が広がり、淡い光の文字が一行ずつ浮かび上がる。


『アルト・ロウェル。今は、帰ってはならない』

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