第200話 灰の演武場
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
王都側の最後の坂を越え、七旗ドラフトの演武場へ辿り着いた時、傷ついたガイと灰鬼騎士団の向こうで、中央に積もった大量の灰だけが風に揺れていた。
違う。
そう思ったのに、声にならなかった。
ひび割れた銀青色の鱗が、走るたびに私の両脚から剥がれていく。背中の水流外套はほとんど蒸発し、右腕と脇腹では、装甲を失った傷口から血が流れていた。
五人の団長を倒したわけではない。
四方へ引き離し、私を殺せないという制約へ踏み込んで、再び封鎖線を築かれる前に抜けただけだ。
だから、立ち止まれなかった。
折れかけた《リヴァイアサン》の水圧で身体を押し、私は演武場の入口を越えた。
「アルト!」
返事はなかった。
代わりに、負傷者を運ぶ灰鬼騎士団員たちが一斉にこちらを見た。
ひび割れた盾を支えに立つ者。肩を押さえて座り込む者。鎖で擦れた掌を成人医療担当者に診せている者。
誰も勝利を喜んでいなかった。
成人封印担当者たちは、亀裂の入った封印柱と確認板を往復していた。透明な隔壁には白い筋が走り、今も小さく軋んでいる。
ローディンは演武場外縁にいた。
記録板を両手で持ち、損傷した石床と残留魔力を照合している。その周囲に魔法陣はなく、空間の裂け目もない。
中央には、ガイが立っていた。
召喚獣全身換装《両面宿儺》は既に解除されている。腕は二本に戻り、灰黒色の鎧も消えていた。
額から流れた血が頬で乾いている。甲冑はへこみ、大剣の刃には無数の欠けと、焼き付いた黒赤い跡が残っていた。
その足元から、石床が深く陥没していた。
砕けた停止杭が転がっている。
引き千切られた拘束鎖は、何匹もの死んだ蛇のように折り重なっていた。縁の欠けた成人盾が何枚も倒れ、焼けた床から薄い煙が上がっている。
石床を割って伸びた根の残骸。
三方向へ張られた索付き矢。
風圧に削られた細い溝と、銀槍の穂先が穿った一点。
紫電が走ったような焦げ跡。
そして、大剣同士が正面から衝突した、深すぎる切断痕。
全部が中央へ集まっていた。
けれど、そこにいるはずの五人がいない。
白い髪も、青灰色の瞳もない。
フィアの剣も、ティアナの声も、レグルスの銀槍も、セルフィナの弓も見えない。
あるのは、破砕痕を埋めるほどの灰だけだった。
「アルトはどこ?」
自分の声とは思えないほど、掠れていた。
ガイは答えなかった。
私はふらつきながら近づき、その胸当てを掴んだ。指へ力を込めた途端、残っていた鱗が砕けて水になった。
「聞いてるの。アルトはどこ!」
「……処刑は完了した」
その言葉だけが、演武場の全ての音を消した。
「何を、言ってるの」
「周囲魔力の強制吸収が確認された。本人の意思では停止できなかった。命令どおり、即時死刑へ移行した」
「人格は残ってた!」
「残ってた」
ガイは否定しなかった。
「人間も精霊も対象外だった! アルトは誰も傷つけたくないって、ずっと――」
「分かってる」
「なら、どうして!」
胸当てを押しても、私の腕にはもうガイを揺らす力さえ残っていなかった。
ガイの背後で、大剣にこびりついた灰が風に剥がれた。
黒赤い粒が、中央の灰へ落ちる。
私は息を呑んだ。
「フィアたちは……?」
喉が閉じる。名前を続けるだけで胸の奥が裂けそうだった。
「ティアナは。レグルスは。セルフィナは、どこ?」
ガイの声は低かった。
「強制換装したアルトを止めるために入った。身体の主導権を奪い返させながら、物理拘束を続けた」
「どこにいるのって聞いてる!」
ローディンが記録板を持ったまま近づいてきた。
「制圧参加者フィア、ティアナ、レグルス、セルフィナ。四名とも最終衝突後、生存反応を確認できず。遺体は確認不能。公式記録では、アルト・ロウェルの暴走へ巻き込まれたものと判定されています」
「嘘」
即座に言った。
「そんな記録、信じない」
四人は生きていた。
アルトが一年間、殺したと思い込まされていた四人は、現実には生きていた。ローディン自身が、アルトの前でその正式記録を読み上げたはずだ。
その四人が、今はいない。
「自分で確かめる」
胸当てから手を離した。
ガイは止めなかった。灰鬼騎士団も武器を向けなかった。
私は傷ついた両腕を広げ、残っている魔力を引きずり出した。
「第四階位・水探知魔法《水蝶脈索》」
詠唱は必要ない。
けれど、無詠唱だから負荷まで消えるわけではなかった。
胸の奥で魔力経路が軋み、口元へ血が滲む。
《リヴァイアサン》の装甲から雫が剥がれ、無数の小さな水蝶へ変わった。
水蝶は演武場へ散った。
一匹がガイの周囲を回り、呼吸と心拍を拾う。
別の蝶がローディンの肩を越え、血流と体温を確かめる。
灰鬼騎士団員、成人医療担当者、成人封印担当者。観客席の陰、壊れた盾の裏、封印柱の間、通路、控室、地下へ続く階段。
生きている者の脈動が、水を通して私へ返ってくる。
魔法は正常に働いていた。
「アルトを探して」
私は知っている。
アルトの浅く速い呼吸も、眠っている時の静かな心拍も、弱り切った血流も、一年間の拷問で歪められた魔力循環も。
三つの契約が刻まれる前から、私はアルトの命の揺れを知っていた。
水蝶が中央の灰へ降りた。
焦げた床に残る古い血痕。
黒銀色の外殻があったことを示す残留魔力。
左腕に結びついていた黒。
右上腕から流れた赤黒。
上胸部から全身へ縫い付けられていた暗紫。
その上へ、灰黒色の重い魔力と、大剣の斬撃痕が重なっていた。
痕跡はある。
けれど、呼吸がない。
心拍がない。
体温も、血流も、体内を巡る現在の魔力もない。
「もっと遠くまで」
水蝶を通路の先へ押し出した。
一匹が形を失った。
続けて二匹、三匹と、乾いた床へ落ちる。魔力が足りない。探索範囲を演武場の周囲より広げられない。
それでも無理やり進ませた。
「アルト……返事して」
水蝶は誰の声も運ばなかった。
フィアもいない。
ティアナも、レグルスも、セルフィナもいない。
いるのは、ガイとローディンと、傷ついた灰鬼騎士団だけだった。
両脚を覆っていた銀青色の鱗が水へ戻った。
腰、胴、右腕。
割れ残っていた肩の装甲まで崩れ、冷たい水が血のついた衣服を伝って石床へ落ちる。
背中から最後の水流外套が剥がれた。
リヴァイアサンの気配が、傷ついたまま契約の奥へ退いていく。
私は自分の足だけで立てなくなった。
ガイは即時死刑を命じられていた。
中央には、四本の腕と全体重を乗せた一撃の痕がある。
大剣には《魔剣サタン》の黒赤い残滓が焼き付き、その先には大量の灰がある。
アルトの三契約が残した色も、そこに混じっている。
そして、どれほど探しても、アルトの命だけがない。
間に合わなかった。
その考えが形になった瞬間、あの夜のアルトが浮かんだ。
星門派の拠点へ突入する前夜。
まだ一年間を奪われることも、白い髪になることも、三つの魔神を身体へ刻まれることも知らなかったアルトが、少し照れたように笑っていた。
「任務が終わったら、二人で孤児院へ帰ろう」
当たり前の約束だった。
別れの言葉ではなかった。
二人とも帰ると信じていた。
孤児院のみんなへ無事を報告して、正式な婚約手続きをして、それから指輪を選ぶはずだった。
どんな形がいいかさえ、まだ話し終えていない。
「アルト……」
膝が石床へ落ちた。
痛みは分からなかった。
私は灰へ両手を差し入れた。
まだ僅かに温かい。
指の間から崩れ、風に攫われていく。黒いものも、赤黒いものも、暗紫色のものも、掴もうとするほど形を失った。
骨はない。
白髪もない。
短かった左小指も、赤黒い瘢痕も、何一つ見つからない。
だから、もっと深く掻いた。
「アルト、出てきて」
爪が割れた。
傷へ灰が入り、血と混ざった。
「もう終わったよ。任務は終わったから」
返事はない。
「孤児院へ帰ろう」
灰鬼騎士団の誰も動かなかった。
ガイも、ローディンも、何も言わなかった。
「婚約の手続き、まだしてないよ。指輪だって選んでない。約束したでしょ」
胸から空気が抜け、息を吸えなくなった。
視界の端から色が消えていく。
使い切った魔力経路が焼け、脇腹から流れた血が灰へ黒い染みを作った。五人の団長から受けた傷も、王都まで走り続けた脚も、もう身体を支えられない。
それでも手を止められなかった。
「アルト」
返事はない。
「アルト……!」
冷たい水が、崩れた鱗の代わりに私の膝を濡らす。
最後の水蝶が灰の上で羽を閉じ、ただの一滴へ戻った。
「アルト……帰ろう……」
灰に両手を埋めてアルトの名を呼び続けても返事はなく、やがて私の意識も、崩れた《リヴァイアサン》の水とともに途切れた。
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