第186話 一年後の朝
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
黒い拘束台ではなく白い寝台の上で目を開けた時、朝の光がこれほど静かなものだったことを、僕は思い出せなかった。
淡い光が、窓から清潔な敷布の上へ落ちていた。
手首を締める拘束環はない。
足首も、腰も、胸も固定されていない。視界を塞いでいた黒い鏡板も、魔力を流し込む設備もなかった。
身体へ掛けられているのは、保温用の毛布だけだった。
それでも、指先を動かすまでに何度も息を確かめた。
動いていいのか分からなかった。
短くなった左小指が敷布を擦る。右前腕には、赤黒く盛り上がった瘢痕が残っている。
毛布の端から出た左腕には《暴食》の黒い紋章。右上腕には《憤怒》の赤黒い紋様。治療着の下、上胸部には《色欲》の暗紫色の紋様があった。
三つは別々の場所に留まっている。
消えてはいない。
けれど、何も開いていなかった。
「アルト」
聞き間違えようのない声だった。
扉の近くにレイシアが座っていた。
淡い銀青色の長い髪。澄んだ水色の瞳。髪の間から伸びる長い耳。
昨日、二人だけの約束を答えた僕を、彼女は同じ場所から見守っていた。
幻ではない。
そう分かっているのに、胸の奥で剣を振った感触が蘇った。
レイシアの身体が倒れる音まで、現実と同じ重さで残っている。
僕の呼吸が浅くなると、彼女は立ち上がりかけて止まった。
こちらへ駆け寄らない。
僕との間に決められた距離を守っている。
「ここは……」
「救助隊が確保した救護区画だよ。あの拘束室からは出られた」
レイシアの隣には成人の救護担当者がいた。出入口には成人封印隊員が立っているが、武器を僕へ向けてはいない。
救護担当者が椅子を寄せた。
「いくつか確認してもよろしいですか。苦しくなった場合は、途中で止めます」
「はい」
本当に止めてくれるのかという疑いは残った。
それでも、黒い拘束室で聞いた声とは違う。目の前の人は、質問する前に僕の返事を待っている。
「お名前をお願いします」
「アルト・ロウェルです」
自分の名前は、口にした瞬間にも僕と結びついていた。
「年齢は?」
「十五歳です」
答えると、救護担当者の筆が止まった。
レイシアの長い耳が僅かに下がる。
その反応だけで、何かが違うと分かった。
「アルト」
レイシアが静かに僕を呼んだ。
「あなたが保守区画で拉致されてから、一年が経過しています」
「一年……?」
一日でも、一週間でもなかった。
けれど、一年という長さを身体の中へ置く場所がなかった。
拘束室では朝も夜も分からなかった。食事を与えられた回数も、灯具が消えた回数も、途中から数えられなくなった。
「その間に誕生日を迎えています。現在は十六歳です」
救護担当者の説明が、知らない誰かの記録のように聞こえた。
「僕は……十六歳になったんですか」
「はい」
誕生日を過ぎた記憶はない。
灰鬼騎士団の新人として、任務と訓練を重ねるはずだった一年。
フィアたちと話し、失敗し、次はどうするかを考えるはずだった時間。
レイシアと孤児院へ帰り、婚約を報告するはずだった。
正式な手続きをして、二人で指輪を選ぶはずだった。
その全てが、僕の知らない場所で過去になっていた。
右上腕の赤黒い紋様が脈打った。
熱が血管を伝い、喉元へ迫る。
奪われた。
遅すぎた。
そんな言葉へ変わろうとする熱だった。
けれど、一年を奪ったのは、僕を探し続けた人たちではない。
目の前の救護担当者でも、レイシアでも、仲間でもなかった。
怒りはあった。
その熱が誰かを責めてよい理由になるわけではなかった。
「右上腕が……熱いです」
僕が告げると、救護担当者は金属板へ視線を落とした。
「《憤怒》の契約反応を確認しました。発語と判断は維持されています。痛みはありますか」
「少し。でも、話せます」
紙へ記録される音がした。
僕は息を整えようとして、まだ聞いていないことに気づいた。
最も怖くて、聞けなかったこと。
「フィアは」
声が掠れた。
「フィアは、生きていますか」
「生きてるよ」
レイシアは迷わず答えた。
胸の内側で、フィアの剣を振り下ろした偽の感触が重なる。
「ティアナは?」
「生きてる」
「レグルスは?」
「生きてるよ」
「セルフィナは?」
「生きてる」
一人ずつ尋ねるたび、倒れた姿が記憶の中へ現れた。
それでも、レイシアの答えは変わらなかった。
「ローディンは?」
「ローディンも生きてる。五人とも、今も生きてるよ」
息を吸ったはずなのに、胸が痛んだ。
嬉しいのか、怖いのかも分からないまま、涙が頬を伝った。
救護担当者が机から綴じられた紙を持ち上げる。
「王国側で確認した生存記録です。急いで全てを読む必要はありません。お名前と確認欄だけでも構いません」
紙は寝台の脇へ置かれた。
フィア。
ティアナ。
レグルス。
セルフィナ。
ローディン。
それぞれの名の横に、成人医療担当者の確認印がある。治療とリハビリを経た記録、救助作戦前の生存確認、本人の署名や識別印も残っていた。
指で文字をなぞろうとして、震えが止まらなかった。
「本当に……」
「うん。本当に生きてる」
レイシアの言葉だけではない。
紙がある。
複数の確認印がある。
五人が生きていなければ残せない記録が、一年の時間を持って僕の前にあった。
「あなたが、最後まで致命傷になる軌道を外したからです」
救護担当者が言った。
「四名は重い負傷をしました。しかし治療を受け、その後の捜索へもそれぞれの記録を提供しています」
僕は実際に四人を傷つけた。
ティアナの拘束を破り、レグルスの槍を折り、セルフィナを弾き飛ばし、フィアを倒した。
それは偽記憶ではない。
「僕が傷つけたことは、消えません」
「消えません」
レイシアは安易に否定しなかった。
「でも、殺してない。アルトは最後まで止めようとしてた」
フィアの剣の重さが掌へ戻る。
右手だったはずの持ち手が、次の瞬間には左手へ変わる。
傷の位置も、槍の破片も合っていなかった。
黒鉄製の搬送棺が閉じた後に、僕が保守区画へ戻っているはずもない。
五人は生きている。
ならば、四人を追撃した続きを事実として置くことはできない。
それでも、ティアナが名前を呼ぶ声は消えなかった。
「偽物だったと分かっても、まだ感じます」
僕は自分の両手を見た。
「剣の重さも、声も。フィアたちに会ったら、またあの光景を思い出すかもしれない」
「思い出してもいいよ」
レイシアは静かに答えた。
「すぐ忘れなくていい。生きてることを、何度でも確かめればいい」
「会えますか」
「今すぐは難しい。でも、会えるようにする」
身体と契約の安全確認が必要なのだろう。
それでも、「会えない」とは言われなかった。
「会ったら、謝りたいです」
成人担当者へ向けた言葉は、自然と丁寧になった。
「僕が選んだことではなくても、傷つけたのは僕の身体です。生きていてくれたことも、自分の目で確かめたい」
救護担当者は、僕の言葉を診療記録へ書き加えた。
「その希望も記録します」
失った一年は戻らない。
けれど、その先まで消えたわけではない。
五人に会うという未来が、最初に戻った。
僕はレイシアを見た。
彼女も、生きている。
僕が振ったはずの剣も、倒れる音も、彼女の現在を奪ってはいない。
その事実へ触れようとしただけで、上胸部の暗紫色の紋様が強く締めつけた。
また失うかもしれない。
次に目を閉じたら、いなくなるかもしれない。
恐怖を膨らませようとする反応だった。
「胸が苦しい?」
レイシアが尋ねた。
「うん。《色欲》の紋様が反応してると思う」
「私はここにいるよ」
「分かってる」
会えなくなることは怖い。
それでも、怖さはレイシアを縛ってよい理由にはならない。
僕が彼女を大切にしたいと思ったのは、因子を刻まれるより前からだ。
胸を締めつける反応と、僕が彼女に何を願うかは別だった。
窓の光に、僕の白い髪が映った。
以前の濃紺は一房も残っていない。
右前腕の瘢痕も、欠けた左小指も消えない。
三つの契約を抱えた身体が、元へ戻る保証もなかった。
偽記憶を忘れられる日が来るのかも分からない。
「僕は、前と同じには戻れないかもしれない」
「戻らなくていいよ」
レイシアは迷わなかった。
「それでも、一緒に帰れるかな」
「帰れる。時間がかかっても、二人で帰ろう」
その言葉は、治療が必ず成功するという約束ではなかった。
明日にもここを出られるという意味でもない。
今の僕を置いて、過去のアルトだけを探すつもりはないという答えだった。
「孤児院へ報告しないとね」
「うん」
「正式な手続きも、まだしてない」
「指輪も選んでないよ」
淡い銀青色の髪が、朝の光を受けて揺れた。
「時間がかかるかもしれない」
「その時間も、一緒に作ればいい」
一年は失われた。
でも、十六歳から先の全てまで奪われたわけではない。
まず治療を受ける。
五人に会う。
二人で孤児院へ帰る。
婚約を報告し、正式な手続きをして、指輪を選ぶ。
白髪のままでも、傷が残っていても、今の僕としてレイシアの隣に立つ。
それは遠い夢ではなく、これから進む時間の中にある未来だった。
レイシアの水色の瞳に、一筋だけ涙が浮かんだ。
それでも彼女は泣き崩れず、僕へ笑顔を求めることもなかった。
ただ、白い寝台の上にいる現在の僕を見た。
「『一年遅れたけど、見つけたよ』とレイシアが告げた朝、止まっていた僕の時間の先に、二人で孤児院へ帰る未来がもう一度生まれた。」
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