第185話 扉の向こうのレイシア
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例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
「光の中に立つレイシアの背後には、幻にはいなかった大勢の騎士たちがいた。」
先頭で大型盾を構えているのは、灰色の鬼面を刻んだ盾列だった。
灰鬼騎士団。
僕が配属された騎士団の紋章を、忘れるはずがない。
盾列の後ろには、封印具と測定器を携えた成人騎士たちがいる。さらに奥では、水蝶の紋章を付けた救護班が担架、治療布、保温具、水を準備していた。
幻では、レイシアは一人だった。
僕を見つけ、迷わず手を差し出した。
今、扉の向こうにいる彼女は、すぐには動かなかった。
淡い銀青の長髪が外から入る風に揺れている。
澄んだ水色の瞳が、黒い拘束台の上にいる僕を捉えた。
白くなった髪。
痩せた身体。
赤黒く盛り上がった右前腕の瘢痕。
先端を失った左小指。
左腕、右上腕、上胸部に刻まれた三つの紋様。
それらを見た瞬間、レイシアの呼吸が止まった。長い耳も、髪と一緒に揺れることを忘れたように静止した。
けれど、それは一瞬だけだった。
「灰鬼盾列は扉と後方を維持してください」
レイシアの声が響く。
「成人封印隊は供給口と拘束設備を確認。水蝶救護班は私の合図まで待機してください」
「了解」
複数の成人騎士が同時に答えた。
灰鬼盾列は僕へ武器を向けず、大型盾だけを廊下側へ構え直す。
成人封印隊の二人が、盾の脇から拘束室へ入った。
一人は壁の供給口と物理弁を確認し、もう一人は床、天井、排水溝、通気口へ視線を走らせる。
「供給弁、閉鎖状態」
「黒い鏡板、投影反応なし。外部魔力の流入も確認できません」
黒い鏡板には、現在の拘束室だけが映っていた。
倒れた四人も、僕が剣を振るう姿もない。
それでも信じられなかった。
幻が鏡板の外まで広がっただけかもしれない。
マリアベルなら、僕が次に何を疑うかまで予測している。
今度はレイシア一人では足りないと考え、騎士団ごと再現したのかもしれない。
「救助対象の外見を確認。頭髪は白。両眼は青灰色を維持」
成人封印隊員が僕を見ながら報告した。
「左腕に既知の契約反応。右上腕と上胸部にも、それぞれ別系統の反応があります」
「解除判断は保留してください」
レイシアが即答した。
「拘束設備にも細工が残されている可能性があります。本人の状態確認を優先します」
感情に任せて駆け寄らない。
僕を見つけても、救助隊全員の安全を考える。
その判断は、僕の知っているレイシアらしかった。
だからこそ、作られたものに見えた。
僕がレイシアをどう覚えているか、あの鏡板は知っている。
本物らしい慎重さまで再現できる。
レイシアは腰の武器を収めたまま、両手を僕から見える位置へ下ろした。
盾列の前を通り、拘束室へ一歩入る。
左腕が熱を持った。
《暴食》の黒い紋章が、肩の手前まで脈打つ。
人間は対象外。
その規則へ必死にしがみついた直後、右上腕の赤黒い紋様が燃えた。
遅い。
なぜ今になって来た。
なぜ一年近く、僕を見つけられなかった。
王国は何をしていた。
レイシアは、どこで何をしていた。
右腕から湧いた怒りが、理性より先に言葉を作ろうとする。
不当だと分かっていた。
僕は王国側の状況を何も知らない。
誰かが捜索を止めた証拠も、レイシアが僕を諦めた証拠もない。
それでも《憤怒》は、空白だった時間を見捨てられた時間へ塗り替えた。
上胸部の暗紫色の紋様が締まる。
本物なら、二度と離れてほしくない。
他の任務も、他の仲間も選ばないでほしい。
僕のそばだけにいてほしい。
僕だけを見てほしい。
それは僕が望んだ愛し方ではない。
レイシアを閉じ込めるために婚約したのではない。彼女自身が選んだ道の隣へ立つために、僕は帰る約束をした。
分かっているのに、執着は消えなかった。
来るなという理性と、どこにも行くなという欲求が、胸の中で互いを引き裂く。
「アルト」
レイシアが僕の名前を呼んだ。
声まで同じだった。
幻の中で、僕の剣を受ける直前に呼んだ声と。
「近づかないで」
喉から出た声は震えていた。
レイシアの足が止まる。
拘束台まで、まだ数歩以上の距離があった。
「僕がまた動いたら、君を傷つける」
「分かりました。ここから先へは進みません」
レイシアは一歩も詰めなかった。
背後の救護班も待機したままだ。
「幻なら、消えろ」
「私は幻ではありません」
「同じことを、前の君も言った」
レイシアの水色の瞳が僅かに揺れた。
「君は一度ここへ来た。僕に手を差し出して、帰ろうと言った。僕は……君を殺した」
「私は今、生きてあなたの前にいます」
「そう見せられているだけかもしれない」
左腕、右上腕、上胸部。
三つの紋様が別々の間隔で痛む。
喰いたいわけではない。
壊したいわけでも、縛りたいわけでもない。
それでも、どれが僕自身の感情なのか分からなかった。
「そこにいる騎士たちも、全部作り物だ。僕が助けを待っていたから、今度は救助隊まで用意した」
灰鬼盾列の盾が床へ触れ、鈍い重量音を響かせた。
成人封印隊員が物理弁を工具で固定する。金属同士の擦れる音が聞こえた。
廊下から流れ込む空気が、僕の白髪を揺らしている。
現実にしか思えない。
現実にしか思えないように作られた幻を、僕は既に見ていた。
「私たちは偶然ここへ辿り着いたのではありません」
レイシアは距離を保ったまま言った。
「一年間、記録と物証を繋いできました」
一年。
その長さを聞いた途端、《憤怒》の紋様が強く脈打った。
一年も掛かったのか。
一年間、僕をここへ置いたのか。
「フィアが、あなたを収容した搬送棺の進行角度と、最後に見えた軌道を記録していました」
レイシアは僕の反応に構わず続けた。
「ティアナは区画回転後の床の傾きと荷重方向を残しました。レグルスは鉄粉と油を確保し、既存の軌道痕と照合しました」
成人封印隊員が、壁際から声を上げる。
「内側の軌道へ同種の油を確認。検査棒の付着物と一致します」
「セルフィナは、図面上では行き止まりの壁から空気が流れていることを記録しました。ローディンは旧保守図と現行図の差を洗い出した」
「……嘘だ」
「五人の小さな記録を、成人封印隊が一つずつ検証しました。壁厚を越えて進んだ検査棒と、その先端に付着した新しい油と鉄粉。それが、存在しないことにされていた内環へ繋がったのです」
五人。
その言葉が胸へ刺さった。
レイシアは、僕が最も聞くことを恐れていた名前を、一人ずつ口にした。
「フィアも、ティアナも、レグルスも、セルフィナも、ローディンも生きています」
息が止まりかけた。
「あなたが致命傷になる軌道を外したからです。五人の記録が、私たちをここまで連れてきました」
生きている。
その言葉を信じたかった。
床に倒れた四人の姿が浮かぶ。
続いて、フィアの剣を拾った感触が戻った。
ティアナへ刃を下ろした。
レグルスを追撃した。
セルフィナを動かなくした。
最後にフィア自身の剣で、フィアを殺した。
「そんな都合のいい話を、信じられるわけがない」
声が掠れた。
「僕が一番聞きたい答えを言えば、僕が信じると思ったのか」
「アルト」
「その名前を呼ばないで」
名前まで、記憶から使われる。
希望まで、僕を壊すための道具になる。
「四人を殺した感触が残っている。君を殺した感触もある。生きていると言われても、どちらが本物なのか分からない」
レイシアは反論しなかった。
僕の記憶が間違っていると、遠くから決めつけもしない。
ただ、ほんの僅かに息を震わせた。
「任務が終わったら、二人で孤児院へ帰る」
その言葉を聞いた瞬間、胸の固定帯が壊れそうなほど身体が跳ねた。
「やめろ!」
救助班の何人かが息を呑む。
灰鬼盾列は動かなかった。
「その言葉も使われた!」
喉が裂れそうだった。
「その顔で、その声で、同じ約束を言った。正式な手続きをして、指輪を選ぶって……それから僕の剣で倒れた!」
レイシアの水色の瞳が見開かれた。
私的婚約を詳しく説明するつもりはなかった。
それでも、あの幻の言葉が口から漏れてしまった。
レイシアは救助隊を振り返らない。
僕だけを見ていた。
その顔から血の気が引き、長い耳が僅かに伏せられる。
僕たちの約束が、僕を支えるためではなく、殺すために使われたのだと理解したのだ。
それでも彼女は近づかなかった。
「分かりました」
声は小さかったが、崩れてはいなかった。
「同じ言葉だけで、私を信じてとは言いません」
一度、静かに息を整える。
「約束には、続きがありました」
また記憶を使うつもりなのか。
そう疑った僕へ、レイシアは何も求めずに告げた。
「先に帰れたとしても、孤児院の門は一人でくぐらない」
時間が止まった。
第182話の幻は、その言葉を口にしていない。
孤児院へ帰ること。
正式な手続き。
指輪を選ぶ未来。
僕の記憶にある大きな約束は、全て使われた。
けれど、その後に交わした短い続きだけは使われなかった。
レイシアは答えを言わない。
幻のように、僕が望む言葉を全て与えようとしない。
ただ、扉の内側で待っていた。
突入前夜。
別々の命令配置へ向かう前、どちらかだけが先に戻れるかもしれないと話した。
孤児院へ無事を知らせるべきだという僕に、レイシアは首を横へ振った。
門の外で待つ。
二人で約束した帰還なのだから、一人では帰還にしない。
その次に答えた言葉が、喉の奥から震えながら戻ってきた。
「二人揃って、ただいまを言う」
レイシアの瞳から、涙が一筋だけ落ちた。
それでも彼女は距離を越えなかった。
「はい。それが、私たちの約束です」
灰鬼盾列は後方を守っている。
水蝶救護班は命令通り待機している。
成人封印隊は供給口を一つずつ手作業で封じている。
扉から入る空気は冷たく、白い髪を揺らし続けていた。
何より、レイシアは僕の答えを奪わなかった。
近づくなと言った僕の判断を尊重し、僕が自分で続きを選ぶまで待っていた。
三つの紋様は消えない。
四人を殺した感触も、レイシアを斬った幻も残っている。
怒りも、執着も、見捨てられる恐怖も、胸の中で渦巻いたままだった。
それでも、目の前の彼女だけは違った。
「二人だけの約束の続きを聞いたその時、僕は初めて、扉の向こうにいるのが幻ではなく、本物のレイシアだと分かった。」
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