第184話 憤怒と色欲
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
「白くなった髪を黒い鏡板へ映したまま、僕は二つの小さな容器が運び込まれるのを見ていた。」
黒い拘束台へ固定された身体は、何一つ自由になっていない。
両手首と両足首、腰、胸。頭部まで支持枠に挟まれ、十五歳の僕に動かせるのは指先と視線だけだった。
左小指は短いまま。
右前腕では赤黒い瘢痕が盛り上がり、左腕の黒い紋章は肩の手前で止まっている。
黒銀色の封魔具も、施錠箱の中に置かれたままだった。
変わったのは髪だけだ。
鏡板に映る頭髪は、どこにも濃紺を残していない。青灰色の瞳を囲む、色を失った白。
その僕の横へ、無名の担当者が金属台を運んできた。
二つの容器は、どちらも手のひらへ収まる大きさだった。
片方では赤黒いものが濁った光を脈打ち、もう片方では紫黒色の細い流れがガラスの内側へ絡みついている。
「次の段階へ移ります」
マリアベルは白髪化の記録板を閉じ、二つの容器へ視線を移した。
「赤黒い方が、七罪魔神の一角、《憤怒》のサタネグラス。紫黒色の方が、《色欲》のアスモリーナです」
名前を聞いた瞬間、左腕の紋章が微かに熱を持った。
ベルゼバスとは違う。
けれど、同じ場所から来た何かだと、身体の奥だけが理解していた。
「……何をするつもりだ」
「お二方の因子を、あなたへ追加します」
「拒否する」
声は掠れていたが、意味は明確だった。
「僕は契約しない」
「これは同意を確認する手順ではありません」
マリアベルは責めるようにも、宥めるようにも言わなかった。
「自己名と帰還理由の結合が失われた状態で、複数因子を定着させられるか確認します」
担当者が僕の右袖を上腕までずらした。
拘束環へ力を込める。
けれど、手首の骨が金属へ押しつけられただけだった。
短いガラス管が、赤黒い容器と中空の金属針を繋いでいく。右前腕の瘢痕を避け、針先が上腕へ向けられた。
「やめろ」
誰も止まらなかった。
針が皮膚を越えた。
担当者が小さな物理弁を一目盛り開く。
最初に感じたのは熱ではなく、圧力だった。
右腕の内側へ、硬い塊を無理に押し込まれたような重さが走る。
次の瞬間、その塊が砕けた。
「っ……!」
筋肉が勝手に収縮し、右肩が拘束台から浮きかける。胸の固定帯が食い込み、息が詰まった。
赤黒い熱が腕を巡った。
血の流れとは違う。皮膚の下を鋭い亀裂が走り、その形が表へ浮かび上がる。
右上腕へ刻まれたのは、黒ずんだ赤い線だった。
一本が二本へ分かれ、さらに細かく裂けていく。
左腕の《暴食》の紋章とは繋がらない。右前腕の瘢痕とも重ならない。
別の何かが、僕の中へ場所を作った。
「脈、上昇。呼吸数増加」
担当者が手作業で数える。
マリアベルは金属板を僕の右上腕へ近づけ、赤黒い紋様の反応を書き取った。
「サタネグラス因子、定着開始」
怒りが湧いた。
マリアベルへ向けた怒りなら、もともとあった。
身体を切り、飢えさせ、眠りを奪い、記憶まで作り替えた星冠教団を憎む理由は、いくらでもある。
だが、熱はそこで止まらなかった。
王国は、なぜ僕をあの命令配置へ送った。
成人封印隊は、なぜ星門派の罠を見抜けなかった。
一年近く、なぜ誰もここへ来なかった。
助けるつもりなどなかったのか。
灰鬼騎士団の新人一人なら、失っても構わないと判断したのか。
違う。
僕は捜索状況を知らない。
王国が諦めた証拠はない。
そう考えても、怒りのほうが先に答えを作った。
仲間たちは、なぜ僕を止められなかった。
なぜ倒れた。
なぜ僕だけを棺へ入れさせた。
なぜ置いていった。
それも違う。
四人は最大火力を使わず、僕を殺さず止めようとしていた。
僕のほうが四人を傷つけた。
それなのに、赤黒い熱は責任の向きをねじ曲げた。
止められなかった四人が悪い。
見つけられなかった王国が悪い。
僕を連れ戻さなかったレイシアが悪い。
「違う……」
誰に否定したのか分からなかった。
一番強い怒りは、最後に自分へ向いた。
弱かった僕が悪い。
ベルゼバスを止められなかった僕が悪い。
守ると決めた四人を殺し、帰ると約束したレイシアまで殺した僕が、何より許せない。
拘束環の中で拳を握る。
短い左小指の先がないことすら、今は自分の弱さを示す証拠に思えた。
「怒りの対象、複数へ拡散」
マリアベルの筆が動く。
「自己対象を含む。契約反応、継続」
右上腕の紋様が一度、強く脈打った。
その瞬間、サタネグラスとの契約が僕の拒絶を無視して閉じた。
力が使えるようになった感覚はない。
炎も、武器も、外殻も生まれない。
残ったのは、何を見ても許せないという熱だけだった。
担当者が赤黒い容器を外し、二つ目を手に取った。
「まだ、やるのか」
「二因子の併存が今回の確認項目です」
衣服の襟元が必要な分だけずらされた。
上胸部へ、別の中空針が固定される。
紫黒色の因子が入った容器は、見ているだけで胸の奥を締めつけた。
「アスモリーナ因子、注入を開始します」
弁が開いた。
冷たさが胸へ入る。
その直後を、焼けるような熱が追った。
息を吸ったはずなのに、肺へ何も届かない。胸の内側を細い糸で幾重にも縛られ、一方向へ引かれる感覚がした。
糸の先にいたのは、レイシアだった。
淡い銀青の髪。
澄んだ水色の瞳。
僕の名前を呼ぶ声。
二人で孤児院へ帰る約束。
本物の記憶だった。
だからこそ、そこへ紫黒色の感情が入り込む余地があった。
生きていてほしい。
そう願った次の瞬間、言葉が歪んだ。
生きて、僕だけを見ていてほしい。
帰ってきてほしい。
二度と僕から離れないでほしい。
守りたい。
誰にも近づけたくない。
他の誰かへ笑いかけるくらいなら、僕のそばから動けないようにしてしまえばいい。
「違う!」
胸の固定帯へ身体を押しつけながら叫んだ。
そんなものは、僕が望んだ未来ではない。
レイシアは水蝶騎士団長だ。
七大魔法騎士として、僕以外にも守るべき人がいる。彼女が自分で選び、自分の足で進むからこそ、僕は隣へ立ちたかった。
閉じ込めたいわけじゃない。
僕だけを選べと命じたいわけじゃない。
なのに、紫黒色の糸はほどけなかった。
では、なぜ来なかった。
なぜ一年近く、僕をここへ置いた。
他の任務を選んだのか。
他の誰かを守るほうが大切だったのか。
既に僕を死んだものとして扱っていたのではないか。
胸の痛みと右腕の怒りが繋がる。
見つけてほしいという願いが、見捨てられたという恐怖へ変わる。
再会したいという願いが、再会したら二度と離したくないという執着へ変わる。
それがアスモリーナの因子による歪みだと理解できた。
理解できても、消せない。
レイシアが生きているなら、逃げてほしい。
僕のそばへ来ないでほしい。
それと同時に、どこにも行かないでほしかった。
僕以外を見ないでほしかった。
二つの願いが胸の中で食い合い、呼吸がさらに浅くなる。
上胸部へ紫黒色の細い線が浮かんだ。
線は互いへ絡みつきながらも、心臓や唇の形にはならない。出口を塞ぐような複雑な紋様を作り、そのまま皮膚へ沈んだ。
「アスモリーナ因子、定着」
マリアベルが確認板を近づけた。
「強制契約、成立」
左腕の黒い紋章が熱を持つ。
右上腕の赤黒い亀裂が脈打つ。
上胸部の紫黒色の線が締めつける。
三つは一つにならなかった。
互いを助けることもない。
ただ別々の方向から、僕の判断へ食い込んでくる。
喰え。
壊せ。
離すな。
声として聞こえたわけではない。
それでも、三つの衝動だけは分かった。
僕はベルゼバスに加え、サタネグラスとアスモリーナまで刻まれた。
本人の意思を必要としない、三魔神契約者。
だが、使える力は何もない。
拘束環一つ壊せず、三つの欲求へ内側から引き裂かれているだけだった。
「三系統の契約反応を確認」
マリアベルは脈、呼吸、瞳孔、三つの紋様を順番に記録した。
「安全性、制御性、長期維持は未確認。生体中継核への適合判定は保留します」
身体が断続的に痙攣した。
熱いのに寒い。
歯が鳴り、視界の端から暗くなっていく。
マリアベルは器具を片づけさせると、拘束台の脇へ立った。
「次に目覚めた時、あなたが誰を愛していたか覚えていられるといいですね」
低く穏やかな声だけを残し、彼女は担当者とともに退室した。
物理扉が閉じる。
錠の掛かる音がした。
その後の時間は、繋がらなかった。
目を閉じたのか、意識を失ったのかも分からない。
灯具が一度消えた気もする。
何度も点いた気もする。
一瞬しか経っていないようでもあり、いくつもの周期を拘束台の上で過ごしたようでもあった。
白髪は白いまま。
左腕、右上腕、上胸部では、三つの紋様が別々の間隔で疼いている。
名前は覚えていた。
アルト・ロウェル。
愛していた人の名前も、まだ覚えている。
レイシア。
けれど、彼女に会いたいという願いが、以前と同じ形なのかは分からなかった。
金属が砕ける音がした。
幻だと思った。
次に、閉じていた扉が外側へ軋んだ。
黒い鏡板には何も映されていない。それでも信用できなかった。
隙間から光が差し込む。
記憶の光ではない。
冷たい空気が拘束室へ流れ込み、額へ掛かった白髪を僅かに揺らした。
扉がさらに開く。
床へ伸びた影は、実際の光に合わせて動いていた。
その向こうに、長い耳が見えた。
淡い銀青の髪。
澄んだ水色の瞳。
生きていてほしい。
逃げてほしい。
なぜ今まで来なかった。
二度と離したくない。
僕だけを見てほしい。
また殺してしまう。
相反する感情が一度に噴き上がり、名前を呼ぶことさえできなかった。
「拘束室の扉の奥から差し込む光の中に、僕が愛していたはずのレイシアが立っていた。」
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