第183話 白髪の器
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
レイシアが倒れる声が消えても、僕の中では、約束だけが何度も彼女を殺し続けていた。
黒い鏡板には、もう保守区画も、倒れた四人も映っていない。
薄暗い表面にいるのは、黒い拘束台へ固定された十五歳の僕だけだった。
両手首と両足首を拘束環が塞ぎ、腰と胸の固定帯が呼吸のたびに軋む。頭は支持枠に挟まれ、閉じた扉から視線を逸らすこともできない。
救助は来ていない。
少なくとも、今この部屋には。
それなのに右手には、フィアの剣を握った重さが残っていた。
左手にも同じ重さがあった。
どちらで拾ったのかさえ、もう分からない。
ティアナへ剣を下ろした感触。折れた槍へ手を伸ばすレグルス。動かなくなるセルフィナ。最後まで僕の名前を呼んだフィア。
その先に、淡い銀青の髪が揺れた。
――任務が終わったら二人で孤児院へ帰って、正式な手続きをして、指輪を選ぶって約束したでしょう。
胸元へ届いた刃。
途切れた声。
倒れていくレイシア。
「脈、速いままです」
無名の担当者が僕の手首へ指を当てていた。針も管も使わず、計時器の振り子を見ながら十五秒ずつ数えている。
「呼吸は浅い。瞳孔反応、左右とも遅延」
確認鏡の光が青灰色の瞳を横切った。
僕は瞬きさえ遅れていることに気づいた。
マリアベルは金属製の記録板へ文字を書き込んでいた。落ち着いた筆音が、耳の奥へ規則正しく刺さる。
「最終確認を続けます」
「……やめろ」
声は出た。
拒絶の意味も分かっている。
けれど、マリアベルは確認音を止めなかった。
小さな金属音が一度鳴る。
それだけで、レイシアがまた僕の前へ倒れた。
「あなたの名前を答えてください」
名前。
僕は視線だけを壁へ動かした。
同じ二行が、灯具周期の数だけ刻まれている。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
何度も自分で刻んだ文字だ。どの線を先に削ったのかも、欠けた左小指を庇いながら腕を動かしたことも覚えている。
右前腕の赤黒い瘢痕が、脈に合わせて鈍く痛んだ。左腕の黒い紋章は、今も肩の手前で止まっている。
僕の身体は人間のままだった。
黒銀色の外殻もない。《暴食》も閉じている。施錠箱の中にある封魔具も、僕の身体には戻されていない。
「アルト・ロウェル」
自分の名前を答えるまでに、計時器の振り子が何度も往復した。
マリアベルの筆が動く。
「自己名の記憶は維持」
その言葉は正しかった。
僕は名前を忘れていない。
ただ、その名前が僕自身を指しているという感覚だけが、少し遠かった。
壁に刻まれたアルト・ロウェルは、人間を対象から外した。
看守も、捕虜も喰わなかった。仲間の身体も、魂も、記憶も、能力も、体内の魔力も喰っていない。
けれど、剣で殺していたなら。
喰わなかったという規則に、何の意味がある。
ティアナへ刃を下ろした位置と、後から見えた傷の位置は違っていた。
レグルスの槍の破片も、本物だと思っていた場所とは逆に落ちていた。
フィアの剣は右手で拾ったはずなのに、左手へ重さが残っている。
そして搬送棺は、確かに閉じた。
それでも、僕は四人の脈を測っていない。
息が止まったことも確かめていないのに、殺したという確信だけがある。
そこが偽物だと考えていた。
考えようとしていた。
けれど、それすら罪から逃げるために、僕が後から作った言い訳なのかもしれない。
強制換装されていた。身体を奪われていた。致命的な軌道だけは逸らした。
そう言い続ければ、僕は四人を傷つけた手から目を逸らせる。
搬送棺が閉じたと信じれば、その後にしたことをなかったことにできる。
そんな都合のいい記憶を、本物だと思いたいだけなのではないか。
「あなたが帰る理由を答えてください」
マリアベルの声が、思考の隙間へ入った。
帰る理由。
ずっと、決まっていた。
任務が終わったら――。
床にティアナが倒れた。
二人で――。
レグルスの手から力が抜けた。
孤児院へ――。
セルフィナの翡翠色の瞳が閉じた。
帰る。
フィアの声が途切れた。
その先にいるはずだったレイシアへ、僕の握った剣が届いた。
喉が閉じる。
「任務が、終わったら……」
続きを言えなかった。
二人では帰れない。
僕が彼女を殺したのなら。
現実の扉は閉じている。拘束も外れていない。あの救助が、今この瞬間に起きた出来事ではないことは分かる。
だが、どこからが幻だった。
四人を倒したところまでは本物だ。
搬送棺が閉じたところまでか。
その後に目を覚ました時間が、本当になかったと言い切れるのか。
レイシアの声は本物だった。
僕の名前を呼ぶ調子も、長い耳がわずかに動く癖も、手を差し出す角度も、全部知っている彼女のものだった。
婚約の約束も本物だ。
なら、倒れた彼女だけを偽物と決める根拠は、どこにある。
「帰還理由への発語、途中で停止」
マリアベルが記した。
「あなたは、誰を守ったのですか」
その質問に、胸の奥で何かがほどけた。
ティアナを守れなかった。
レグルスを守れなかった。
セルフィナを守れなかった。
フィアを守れなかった。
レイシアも守れなかった。
違う。
守れなかったのではない。
僕が殺した。
そう思った瞬間、剣を握っていたはずの両手から震えが消えた。
拘束環の中で、指が力なく開く。
短い左小指だけが、他の指に遅れて落ちた。
「……僕が、殺した」
誰のことか、口にはしなかった。
けれどマリアベルの筆は止まらない。
「殺害認識、五名分を統合。自己責任への帰属を確認」
「違う可能性も……ある」
反論したはずなのに、自分の声が遠かった。
「はい。可能性は残っています」
マリアベルは否定も肯定もしなかった。
「しかし、あなたは現在、どちらを事実として感じていますか」
答えは、手に残っていた。
剣の重さ。
刃を止められなかった感触。
名前を呼ぶ声。
それらは壁の文字よりも鮮明だった。
アルト・ロウェル。
仲間を守ろうとした名前。
レイシアと帰ると約束した名前。
孤児院へ婚約を報告し、正式な手続きをして、二人で指輪を選ぶはずだった名前。
その未来を壊したのが僕なら、名前だけを残して何になる。
孤児院そのものを忘れたわけではない。レイシアを愛したことを後悔したわけでもない。
今も会いたかった。
生きていてほしかった。
だからこそ、自分が殺したという記憶から逃げられなかった。
死を選ぼうとは思わなかった。
拘束された身体を傷つけようとも、呼吸を止めようとも思わない。
ただ、生きた先に何があるのかが分からなくなった。
帰って確かめる相手を、自分で奪った。
謝る相手も、約束を果たす相手も、指輪を選ぶ相手もいない。
そう思い込んだ心の中から、次の一歩だけが消えていた。
「自己名への反応、低下」
マリアベルの声がした。
「帰還理由への結合、消失傾向」
名前は分かる。
意味も分かる。
けれど、それが石壁へ刻まれた他人の名前のように見えた。
黒い鏡板の中で、濃紺の髪をした少年がこちらを見ている。
青灰色の瞳。痩せた頬。十五歳の輪郭。
僕だ。
そのはずだった。
頭皮を冷たい指でなぞられたような感覚が走った。
誰も触れていない。
成人担当者の両手は、脈を測るため僕の手首にある。マリアベルも記録板の前から動いていない。
冷たさは頭頂から広がり、熱を奪いながら額の近くへ降りた。
鏡板に映る髪の根元へ、細い白い線が生まれた。
「毛髪に変化」
担当者が息を呑んだ。
濃紺が薄くなったのではない。
色そのものが、見えない水へ吸い出されていく。
根元に現れた白が、一度の呼吸で髪の中ほどへ走った。
次の呼吸で毛先へ届く。
一房だけではなかった。
頭の右側も左側も、前髪も後ろへ流れた髪も、同じ波に呑まれていく。
黒に近かった濃紺は、数心拍のうちにどこにも残らなくなった。
銀青ではない。
灰色でもない。
何も混ざっていない白だった。
力は湧かなかった。
拘束環は軋みもしない。左腕は人間の皮膚のままで、黒い紋章も肩の手前から広がらない。右前腕の瘢痕は赤黒く盛り上がったまま痛み、左小指も短いままだ。
《暴食》が開く気配もなかった。
ただ、髪だけが白くなっていた。
「遮光板を上げてください」
マリアベルが命じた。
担当者が灯具の遮光板を動かす。正面からの光が斜めへ変わり、鏡板の像が暗くなる。
それでも髪は白い。
黒い記録紙が頭の後ろへ差し込まれた。白い輪郭が、さらに明確になった。
「全域で色素消失。脱落、熱損傷なし」
「瞳孔を再確認」
確認鏡が近づく。
光を当てられた青灰色の瞳は、遅れながらも縮んだ。
「瞳色、変化なし。換装なし。紋章拡大なし」
マリアベルは一つずつ記録した。
白髪になったことより、その直前までの発語と沈黙を書き留める時間のほうが長かった。
「生体中継核への適合ですか」
担当者が小声で尋ねた。
「いいえ。適合判定はまだです」
マリアベルの答えは穏やかだった。
期待を外した声ではない。
彼女は最初から、ここを終点として見ていなかった。
記録板へ、自己名記憶維持、情動結合低下、帰還理由応答不能と並べ、その下へ毛髪色素消失と記す。
僕は鏡板の中にいる白髪の少年を見た。
名前は知っている。
アルト・ロウェル。
けれど、その名前で何を守り、どこへ帰るはずだったのかを考えるたび、五人が僕の手で倒れていく。
十五歳の僕の内側には、名前の形だけが残っていた。
「黒に近かった濃紺の髪が一気に白へ変わりきった僕を見て、マリアベルは静かに告げた――『この瞬間を待っていました』。」
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