第182話 レイシアを殺す幻
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
四人を殺した感触が消えないまま、黒い鏡板は次に、僕が最も失いたくない人を連れてきた。
右手にも左手にも、存在しない剣の重さが残っている。
ティアナ。
レグルス。
セルフィナ。
フィア。
四人の名前を思うたび、偽物かもしれない刃の感触が掌へ戻った。
黒い拘束台の上で、僕は指を開こうとした。
両手首の拘束環が小さく鳴る。
白布に包まれた短い左小指は震え、右前腕の赤黒い瘢痕は脈と一緒に痛んだ。
「もう、やめてください」
マリアベルは黒い鏡板を支える金属枠へ目を向けた。
灯具の細い光には、青灰色の僕の瞳が映っている。
額へ張りついた髪は、黒に近い濃紺のままだ。
現在の左半身も人間の姿を保っている。
黒い紋章は肩の手前で止まり、黒銀色の外殻はどこにもなかった。
「今の僕には、何も判断できない」
「その状態も含めて記録します」
「四人を殺した記憶だって、あなたが――」
「次は、あなたが帰還を望む理由を使用します」
息が止まりかけた。
マリアベルは名前を言わない。
それでも、誰のことなのかを僕の身体が先に理解した。
「触れないでください」
「設備はあなたの身体へ接触していません」
「そういう意味じゃない。あの人の記憶に、触れないで」
成人担当者の手が確認音の器具へ置かれる。
僕は拘束環を引いた。
外れない。
腰も胸も固定されたまま、黒い鏡板から顔を背けることさえできなかった。
「僕は協力しない」
「記録済みです」
かちり。
乾いた音が鳴った。
壁へ刻んだ二行へ意識を向けようとする。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
かちり。
文字が滲み、拘束室の灯具が遠ざかった。
石床の冷たさが足元へ戻る。
僕は再び保守区画に立っていた。
左半身は黒銀色に覆われている。
手にはフィアの剣があった。
折れていない刃。
床には四人が倒れている。
傷の位置も、折れた槍の向きも、もう正しい形を思い出せなかった。
これは偽の続きだ。
そう思った。
けれど、剣の柄が掌へ食い込む感触は、本物の剣を握った時と変わらない。
低い機械音がした。
保守区画の物理扉が、ゆっくりと開いていく。
「誰も入ってこないで」
声を出した。
聞こえたかどうかは分からない。
扉の隙間から薄い水が流れ込み、床の上へ細い線を引いた。
次に、淡い銀青の長い髪が見えた。
「アルト」
胸の奥が、強く縮んだ。
間違えるはずがない。
何度も通信越しに聞いた声。
名前を呼ぶ時だけ、ほんの少し柔らかくなる調子。
長い耳が緊張を示すように僅かに動き、澄んだ水色の瞳が区画の中を見渡した。
レイシアだった。
偽物だ。
ここへ来たはずがない。
僕は彼女が今どこにいるのか知らない。
扉の向こうで何が起きているのかも、王国側が僕を探しているのかさえ知らない。
それでも、その姿は僕の記憶にあるレイシアと同じだった。
髪の揺れ方。
足を止めた時の呼吸。
僕を見つけた瞬間、水色の瞳が揺れる速さまで。
「見つけた」
レイシアの声が震えた。
すぐに僕へ駆け寄りはしない。
床へ倒れた四人へ視線を送り、扉と搬送棺、僕の黒銀色の左半身、手にある剣を順に確認する。
水蝶騎士団長として周囲を見ている。
感情だけで動いてはいない。
だからこそ、本物に見えた。
「ティアナ。レグルス。セルフィナ。フィア……」
レイシアは四人の名前を呼んだ。
返事はない。
彼女の表情が歪む。
けれど、水と魔力を暴走させることはなかった。
薄い水の膜を身体の周囲へ残し、僕から距離を取ったまま一歩ずつ進む。
「近づかないで」
僕は剣を捨てようとした。
指が開かない。
フィアの剣は、掌へ縫いつけられたように動かなかった。
「レイシア、来ないで」
名前を呼んだ瞬間、彼女の瞳が僅かに和らぐ。
それも知っている反応だった。
僕が無事だと分かった時、レイシアはいつも先に目元の力を抜く。
「意識はあるのね」
「僕がまた動いたら、君を傷つける」
「分かっているわ」
「分かってない。四人を見て。僕がやったんだ」
本当かどうか分からない。
四人を傷つけたのは本当だ。
追撃したのは偽物かもしれない。
けれど、僕自身が区別できなくなっている。
レイシアが一歩進む。
水の膜は残したままだ。
剣の間合いへ無警戒に入ったわけではない。
僕の足と肩、左腕の向きまで見ている。
「私は、あなたを殺しに来たんじゃない」
「だったら戻って」
「あなたを置いて?」
「僕が君を殺すかもしれない!」
声が区画へ響いた。
四人の身体は動かない。
レイシアだけが、僕の叫びを受け止めていた。
「それは、まだ起きていないわ」
「もう四人にやった」
「あなたは、それを確かめたの?」
答えられない。
脈を測っていない。
呼吸も確かめていない。
それでも、殺したという感覚だけが残っている。
これは僕の記憶から作られた幻だ。
だからレイシアは、僕が欲しい言葉を言う。
僕を救うために、一番聞きたい問いを返してくる。
そう分かっているのに、声も眼差しも本物だった。
「帰って」
「一緒に帰るために来たの」
「僕は帰れない」
「帰れるわ」
レイシアが右手を差し出した。
掌を上へ向け、僕が選んで触れられる距離で待つ。
無理に掴まない。
引きずっていかない。
あの夜にも見た手の差し出し方だった。
本物の記憶が、幻の中へ使われている。
「覚えているでしょう」
「言わないで」
「アルト」
「その約束を言わないで!」
声を重ねても、レイシアは消えなかった。
彼女は僕の叫びへ傷ついた表情を見せた。
それでも手を下ろさない。
「任務が終わったら二人で孤児院へ帰って、正式な手続きをして、指輪を選ぶって約束したでしょう」
本物の約束だった。
孤児院へ帰る。
僕たちの家族へ報告する。
まだ登録されていない婚約を正式なものにする。
二人で指輪を選ぶ。
その未来を守るために、僕は一年近く耐えてきた。
食事を奪われた時も。
眠れなかった時も。
身体を傷つけられた時も。
限界を越えた魔力で意識を失う直前にも。
僕をアルト・ロウェルへ繋ぎ止めていた言葉だった。
レイシアが、もう一歩だけ近づく。
薄い水の膜が剣へ備えて動く。
彼女は無防備ではない。
それでも、僕を置いて退くことを選ばない。
「帰ろう、アルト」
「駄目だ」
僕の右手が動いた。
違う。
動かしたくない。
指を開け。
剣を落とせ。
レイシアの水が刃の軌道へ集まる。
彼女も反応している。
けれど、幻の中の剣は水を押し切った。
フィアの剣が、レイシアの胸元へ届く。
大量の血は出なかった。
淡い銀青の髪が、衝撃で一度だけ大きく揺れた。
水色の瞳が見開かれる。
「違う!」
僕は剣を引こうとした。
腕は動かない。
レイシアの手が、剣ではなく僕の右手へ触れた。
責めるためではなかった。
最後まで、僕を止めようとしていた。
「約束……したでしょう」
声が途切れる。
レイシアの身体から力が抜けた。
差し出されていた手が僕の指から離れ、石床へ落ちる。
長い髪が床へ広がった。
水色の瞳に憎しみはない。
僕を置いていかないと決めたまま、動かなくなった。
「レイシア」
返事がない。
「起きて」
脈を測っていない。
呼吸も確かめていない。
それなのに、僕が殺したと分かる。
四人の時と同じだった。
確認していない死だけが、絶対の事実のように胸へ押し込まれる。
「これは違う」
灯具の光が戻った。
僕は黒い拘束台の上にいた。
両手首も、両足首も固定されている。
腰と胸の固定帯も外れていない。
拘束室の扉は閉じたままだ。
床に四人はいない。
レイシアもいない。
剣も、血も、水もなかった。
「現在認識への復帰を確認」
成人担当者の声がする。
「これは未来じゃない」
僕は息を吸おうとした。
胸が痙攣し、細い空気しか入らない。
「未来を示したとは申し上げていません」
マリアベルの筆が動く。
「レイシアは、ここへ来ていない」
名前を口にしてしまったことにも気づけないほど、思考が崩れていた。
「現在の拘束室へ救助者は到達していません」
「なら、今のは偽物だ」
「救助が成立した場合に、あなたが最も恐れる結果です」
「僕が必ず殺すわけじゃない」
「その通りです。必ず起きるとは記録していません」
否定されないことが、余計に怖かった。
僕は四人を傷つけた。
強制換装された身体を止めきれなかった。
今後、また《暴食》を開かれたら。
レイシアが本当にここへ来た時、僕の身体が再び奪われたら。
あの幻と同じことが起きないと、どうして言える。
声も、手も、約束も本物だった。
偽物だったのは、それらを並べた場面だけだ。
けれど、胸が感じた恐怖まで偽物にはできなかった。
壁を見る。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
二行は残っている。
僕は人間を喰わない。
レイシアも対象から外す。
それでも、剣で傷つけない保証にはならない。
「任務が終わったら……」
いつもの言葉を口にしようとした。
二人で孤児院へ帰る。
続けようとした瞬間、レイシアへ剣が届く感触が戻った。
「帰ったら……」
正式な手続きをする。
そう考えると、水色の瞳から光が消える。
指輪を選ぶ。
その未来を思うと、石床へ落ちた彼女の手が浮かぶ。
声が続かなかった。
帰ってきてほしい。
僕を見つけてほしい。
約束を守りたい。
それと同じ強さで、来ないでほしいと思った。
僕へ近づかないでほしい。
僕の身体が届かない場所にいてほしい。
それはレイシアを拒む願いではない。
生きていてほしいからこそ生まれた恐怖だった。
「特定人物への救助希望を維持。同時に接近拒絶を確認」
マリアベルが記録する。
「帰還語の発語、途中停止。自己隔離傾向あり」
僕は婚約を後悔していない。
レイシアを大切に思ったことも、一緒に帰ると約束したことも間違いではない。
それでも、その約束を以前と同じようには抱けなかった。
希望として思い出そうとするたび、彼女を殺した剣の重さが戻る。
一年近く僕を生かしてきた約束は、レイシアが倒れる声と結びつき、今度は僕を内側から壊す刃になった。
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