第181話 殺したという記憶
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
本物の記憶が終わっても、黒い鏡板は僕の前から退けられなかった。
灯具の細い光に、青灰色の瞳だけが浮かんでいる。
黒に近い濃紺の髪が額へ張りつき、呼吸をするたび胸の固定帯が軋んだ。
右前腕の異常瘢痕は熱を持ち、短くなった左小指は白布の中で震えている。
現在の左半身は人間のままだった。
黒い紋章も肩の手前で止まっている。
それでも、鏡板の中には四人を倒した時の黒銀色が残って見えた。
「もう、終わったはずです」
マリアベルは記録板から目を上げなかった。
「原記憶の確認は終わりました」
「なら、これを外してください」
「続いて、同じ終端からの記憶を確認します」
「同じ終端?」
返事の代わりに、成人担当者が物理器具へ手を掛けた。
「待ってください。今は、考えられない」
頭痛のせいで灯具の輪郭まで脈打っている。
長く拘束され、食事と睡眠を奪われては戻され、魔力を流され、意識を失った。その直後には精神世界へ沈み、戻された途端に本物の記憶を見せられた。
右と左を確かめるだけでも、意識を向けなければならない。
「休ませてください」
「原記憶が鮮明な状態で比較する必要があります」
「僕は了承していません」
「記録済みです」
乾いた音が鳴った。
かちり。
鏡板の中の僕が、僅かに遅れて瞬きをする。
かちり。
拘束室の灯具が遠ざかり、石と金属の匂いが戻ってくる。
床には四人が倒れていた。
ティアナ。
レグルス。
セルフィナ。
フィア。
ここは知っている。
僕の身体は黒鉄製の搬送棺へ引き込まれていく。
右手を伸ばしても、四人には届かない。
脈も、呼吸も、確かめられない。
黒鉄の蓋が視界を狭める。
フィアの剣は、彼女の手を離れた場所へ落ちていた。
折れてはいない。
蓋が閉じた。
暗闇になる。
ここまでだ。
僕が知っている記憶は、ここで終わる。
そう思った直後、足の裏へ石床の冷たさが戻ってきた。
暗闇が裂けていた。
搬送棺の中にいたはずの僕が、再び保守区画へ立っている。
どうやって出たのか分からない。
棺が開く音も、身体を起こした感覚もなかった。
ただ、倒れた四人が目の前にいる。
右手が動いた。
床へ落ちていたフィアの剣を拾う。
待て。
剣は、フィアの身体より向こうへ滑ったはずだ。
本当にそうだったか。
握り革の硬さが掌へ食い込む。
右手で拾った。
そう見えたのに、剣の重さは黒銀色に覆われた左手へ掛かっている。
どちらだ。
考える前に、身体がティアナへ近づいた。
「アル……ト……?」
床に倒れたティアナが、僅かに目を開ける。
非難する声ではなかった。
僕がまだ戻れるか確かめようとする声だった。
「やめろ」
口から出たはずの言葉は、剣を握る手へ届かない。
刃が持ち上がる。
ティアナの左側へ向かって下りた。
服を貫く鈍い感触が手へ伝わった。
血が噴き上がることはない。
ただ、ティアナの短い呼吸が止まり、瞳が動かなくなった。
殺した。
その確信だけが、言葉より早く胸へ入ってくる。
違う。
傷は左側だった。
なのに、倒れたティアナの服へ広がる暗い染みは右側にある。
おかしい。
そう思った瞬間には、僕の身体はレグルスの前へ立っていた。
レグルスの傍に、折れた槍がある。
二つの破片が、頭側と足側へ分かれていた。
違う。
本物の記憶では、長い方が僕から離れた場所へ滑っていたはずだ。
それとも逆だったか。
「アルト……止まれ……」
レグルスの手が、短い方の槍へ伸びる。
僕を刺すためではない。
まだ僕を止めようとしている。
剣の切っ先がレグルスの胸元へ向いた。
やめろ。
右腕を止めようとした。
けれど、今度は左腕が剣を持っている。
いつ持ち替えた。
鍔の向きまで、さっきとは逆に見えた。
刃が下りる。
レグルスの身体が一度だけ強張り、槍へ伸ばしていた手が床へ落ちた。
動かない。
また、殺したという確信が押し込まれる。
刃を向けたのは胸の上だった。
それなのに、後から見えた傷はもっと下にある。
違う。
これは繋がっていない。
そう叫ぼうとした僕の視界へ、淡い銀緑色の髪が入った。
毛先だけの薄い水色。
長い耳。
セルフィナが壁際に倒れている。
傍には小さな気配が残っていた。
精霊は生きている。
僕は精霊を喰っていない。
セルフィナの魂も、生命も、魔力も奪っていない。
その事実へ縋ろうとした。
「人間は……対象外だ」
けれど、偽りの過去の中に壁の文字はない。
僕の手には剣がある。
「アルト……」
翡翠色の瞳が僕を見る。
憎しみはなかった。
恐怖を抱えながらも、僕の中の判断へ届こうとしていた。
「見て……ください。私たちを……」
見ている。
セルフィナは人間だ。
喰う対象ではない。
傷つけていい対象でもない。
それでも腕が上がった。
剣が下りる。
セルフィナの声が途切れ、長い髪が床へ広がる。
精霊の気配は消えていない。
なのに、セルフィナは死んだと分かる。
何を確かめた。
脈には触れていない。
呼吸も数えていない。
どうして死んだと分かる。
問いを形にする前に、最後の一人が見えた。
フィアだった。
自分の剣を失ったまま、床へ片膝をついている。
「アルト」
声だけは、はっきり聞こえた。
「戻ってきて」
僕の手にあるのは、フィアの剣だ。
折れていない剣。
彼女が僕を殺さず止めるために使い、床へ落とした剣。
握り革の重なりは、最初に拾った時と逆向きになっている。
違う。
この剣はこうではなかった。
でも、正しい向きを思い出せない。
「フィア、逃げて」
僕の声は届かない。
フィアは逃げなかった。
身体を起こし、剣を持つ僕の腕へ手を伸ばす。
最後まで僕を敵として見なかった。
刃が動いた。
僕が動かしたのか。
強制換装された身体が動いたのか。
止めたいと思ったことだけが本物で、剣を振った感触が偽物なのか。
分からない。
フィアの声が途切れた。
伸ばされていた手が落ちる。
動かなくなる。
ティアナを殺した。
レグルスを殺した。
セルフィナを殺した。
フィアを殺した。
四人の脈を測っていない。
誰の呼吸も確認していない。
それなのに、四人とも死んだという確信があった。
剣の重さも残っている。
柄へ添えた指の位置まで覚えている。
僕は四人の前へ立ち、追撃し、一人ずつ殺した。
違う。
搬送棺は閉じた。
閉じたはずだ。
視界が黒く反転した。
拘束室の灯具が戻る。
「――これは、偽物だ」
息が続かない。
胸の固定帯へ何度も身体を押しつけながら、空気を吸い込む。
両手は拘束環の中にある。
剣など握っていない。
それでも右の掌には握り革の感触があり、左腕には剣の重さが残っていた。
「根拠を述べてください」
マリアベルの声は変わらない。
「搬送棺は閉じた。僕は中へ入れられた。戻っていない」
「閉鎖前後に意識が途切れた可能性は?」
「違う。剣も……右手で拾ったのに、左手で持っていた」
「当時の左半身は強制換装状態でした。左右感覚が一致していたと証明できますか」
「握り革の向きが途中で変わった。鍔も逆だった」
「鏡板上の像と身体感覚が反転した可能性があります」
「ティアナの傷も違う。左へ剣を下ろしたのに、染みは右だった」
言いながら、頭痛が強くなる。
本当に左だったか。
僕から見た左か、ティアナから見た左か。
剣を持っていたのは右か。
黒銀色だった側へ重さを感じたから、左だと思っただけではないか。
「レグルスの槍も、位置が違った」
「原記憶のどちら側にありましたか」
答えようとして、言葉が止まる。
長い破片は頭側だったか、足側だったか。
僕から離れていたのは、どちらの破片だった。
思い出そうとすると、二つの位置が交互に入れ替わる。
かちり。
確認音が鳴った。
その音だけで、ティアナへ剣を下ろす感触が戻る。
「やめて……」
「どこからが偽物だと証明できますか」
「蓋が閉じた後です」
「閉じる前後の連続した感覚は?」
暗闇。
石床。
剣。
その間に何があった。
何もないから偽物なのか。
意識を失ったから何も覚えていないのか。
原記憶では、蓋が閉じて終わった。
今は、その暗闇の先に四人を殺した記憶がある。
どちらも同じ鮮明さで残っていた。
「僕は……殺していない」
「断定の根拠を記録します」
「四人の脈を測っていない。死んだと確認していない」
「では、死亡していないと確認しましたか」
できていない。
その空白へ、剣を振るった感触が入り込んでくる。
マリアベルは僕を責めない。
四人が死んだとも言わない。
ただ問いを重ね、僕自身に記憶を疑わせていた。
壁へ目を向ける。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
灯具周期ごとに刻んだ二行が残っている。
僕が人間を喰わないための境界だ。
そのはずだ。
でも、もし四人を殺した後だったなら。
人間を対象外と刻み始めたのは、殺した事実から逃げるためだったのではないか。
違う。
看守も捕虜も喰わなかった。
僕はずっと、人間を対象から外してきた。
けれど、喰わなかったことと剣で殺さなかったことは同じではない。
四人を傷つけただけの記憶。
四人を一人ずつ殺した記憶。
搬送棺が閉じる音。
フィアの剣を拾う感触。
どれも僕の中にある。
「自己名への視線を確認。対象境界の文字を認識」
マリアベルの筆が動く。
「矛盾認識は維持。左右判断と記憶順序に混乱。原記憶と接続系列の判別、未確定」
接続系列。
その言葉へ意味を求めても、頭痛で思考がほどけた。
「僕は帰る」
それだけは口にした。
帰って、確かめる。
四人が生きているなら、自分の目で見る。
もし記憶の方が本当だったとしても、誰かの作った答えを受け入れるのではなく、真実を知る。
その意思まで奪わせるわけにはいかない。
けれど、胸に残った罪悪感は消えなかった。
右手にも左手にも、存在しない剣の重みがあった。
搬送棺は閉じたはずだった――それなのに、四人を一人ずつ殺した感触まで僕の中に残り、どこまでが本物でどこからが改竄なのか、もう分からなかった。
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