第180話 傷つけた四人
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
精神世界から戻った僕を待っていたのは、休息ではなく、僕自身の記憶だった。
黒い拘束台へ固定された身体には、まだ限界量の魔力を流された熱が残っている。
両手首と両足首の拘束環。
腰と胸を押さえる固定帯。
右前腕では赤黒い瘢痕が疼き、白布と小さな固定具に包まれた左小指は、失った先端の分だけ短い。
視界へ落ちる髪は、黒に近い濃紺のままだった。
左腕の黒い紋章も、肩の手前で止まっている。
僕が自分の身体を一つずつ確かめている間に、マリアベルは成人担当者とともに拘束室へ入ってきた。
運び込まれた金属枠が、頭部支持枠の上へ固定される。
その中央には、光をほとんど反さない黒い鏡板が収められていた。
「次は何を測るんですか」
掠れた声で尋ねた。
マリアベルは記録板を開き、穏やかに答えた。
「記憶が身体反応と魔力流へ与える影響です」
「僕は協力しません」
「承知しています」
返事は丁寧だった。
けれど、金属枠を外す命令は出されない。
成人担当者が僕の右手首へ指を当て、脈を数え始めた。別の担当者は呼吸の記録札と確認鏡を用意する。
針も管もない。
それでも、僕の意思を必要としない実験であることは変わらなかった。
「記憶を変えるつもりですか」
一瞬だけ、マリアベルの筆が止まる。
「最初は、あなたが覚えている通りに確認します」
最初は。
その二文字が、黒い鏡板よりも冷たく胸へ沈んだ。
「やめてください」
マリアベルは遮光板へ手を伸ばした。
「基準がなければ、変化は測れません」
灯具の光が細くなる。
黒い鏡板には、青灰色の僕の瞳だけが浮かんでいた。
小さな物理器具が、一定の間隔で乾いた音を鳴らす。
かちり。
鏡の中の瞳が揺れた。
かちり。
拘束室の天井が遠ざかる。
「僕の記憶は、あなたたちの物じゃない」
言い切る前に、三度目の音が鳴った。
黒い鏡板が視界いっぱいへ広がったのではない。
僕の内側に沈めていた光景が、鏡より先に目を塞いだ。
左半身が熱い。
皮膚ではなかった。
黒銀色の硬い組織が、左の指先から顔の半分近くまで身体を覆っている。
自分の左腕なのに、動かそうとする意思が届かない。
止まれ。
その一言さえ、喉から外へ出なかった。
「アルト!」
ティアナの声がした。
床を走った拘束が、僕の腰と胸、黒銀色に変わった左腕へ巻きつく。
締めつけるためではない。
骨を砕く力も、肉を裂く棘もなかった。
ティアナは僕を殺すのではなく、その場へ止めようとしていた。
「聞こえるなら、動きを止めて!」
聞こえている。
そう答えたかった。
右手の指一本でも動かし、僕がまだ中にいると伝えたかった。
けれど、黒銀色の左腕が持ち上がる。
やめろ。
拘束を掴んだ指が閉じた。
やめてくれ。
僕の願いとは無関係に、拘束が引き裂かれた。
太い拘束が弾け、その反動へ左腕の動きが重なる。
手の甲がティアナの胸元へ向かった。
そこだけは駄目だ。
残っていた意識を、軌道へ押しつける。
黒銀色の腕が僅かに下へ逸れ、ティアナの脇腹側を打った。
鈍い音がした。
ティアナの身体が床へ倒れる。
「ティアナ!」
叫んだはずだった。
記憶の中の僕の口からは、獣のような息しか漏れない。
彼女の長い髪が床へ広がる。
脈は見えない。
呼吸も、僕の位置からは分からなかった。
確かめに行きたいのに、身体は次の相手へ向いてしまう。
「こっちを見ろ、アルト!」
レグルスが槍を横へ構えていた。
穂先は僕の喉にも胸にも向いていない。
両手で柄を支え、突進してくる僕を押し返そうとしている。
あいつなら、もっと強い攻撃を使えた。
それでも使わなかった。
九歳の頃から競い続けた相手を、殺すつもりがなかったからだ。
僕の左腕が槍の柄を掴む。
「止まれ!」
レグルスの声と同時に、硬い破断音が響いた。
槍が中央から折れる。
片方を握ったまま、僕の身体は肩からレグルスへぶつかった。
その軌道は胸の中心へ向かっていた。
駄目だ。
僕は残っていた意識で身体を捻る。
衝突する位置が肩口へずれた。
レグルスの身体が床を滑り、折れた槍が離れた場所へ落ちる。
起き上がらない。
呼び掛けにも返事がない。
僕の身体は、立ち止まることさえ許してくれなかった。
淡い銀緑色の髪が視界を横切る。
毛先だけが薄い水色に揺れた。
セルフィナは倒れた二人と僕の間へ入り、両腕を広げていた。
翡翠色の瞳が、黒銀色に覆われた僕を真っ直ぐ見ている。
「アルト。対象を見てください」
恐怖がないわけではなかった。
長い耳が細かく震えている。
それでもセルフィナは逃げず、僕の中に残る判断へ呼び掛けていた。
「私たちは、あなたが喰う対象ではありません」
分かっている。
人間は対象外だ。
彼女の魂も、生命も、魔力も、傍にいる精霊も喰わない。
《暴食》の引く力が広がろうとする前に、僕は必死で対象から外した。
だが、吸収しないことと、身体の動きを止めることは別だった。
黒銀色の左肩がセルフィナへ向く。
彼女は倒れたティアナを庇うように重心を移した。
僕の腕が横へ振られる。
頭へ当たる。
そう分かった瞬間、残った意識の全てで腕を下げた。
手ではなく、前腕の外側がセルフィナの肩口へ触れる。
それでも勢いは殺しきれない。
セルフィナの身体が弾き飛ばされた。
背中から壁際へぶつかり、そのまま床へ崩れる。
精霊は喰っていない。
セルフィナの身体も魂も、何一つ奪っていない。
けれど、僕が彼女を弾き飛ばした事実は消えなかった。
「三人から離れて」
最後にフィアが立っていた。
剣は折れていない。
刃を僕の首へ向けず、黒銀色の左腕を受け流せる角度へ置いている。
最大の力を使えば、僕を止められたかもしれない。
それでもフィアは使わなかった。
僕を殺さずに止める道を選び続けていた。
「アルト」
名前を呼ばれた。
その一言だけが、暴れる魔力の奥まで届いた。
フィアは敵を見る目をしていなかった。
僕がまだ戻れると信じる目だった。
やめろ。
今度こそ止まれ。
僕の左脚が床を蹴る。
フィアの剣が黒銀色の腕を受けた。
刃は折れない。
火花が散り、剣筋が外へ流される。
空いた胴へ、僕の右肩が向かった。
このままでは胸を潰す。
僕は右脚へ残った僅かな感覚を使い、踏み込みを崩した。
肩の位置が下がる。
衝撃は胸の中心から脇腹側へ逸れた。
フィアの身体が持ち上がり、床へ落ちる。
剣が手から離れ、壊れないまま石床を滑った。
「フィア!」
今度は名前を叫べた気がした。
けれど、その声が本当に出ていたのか、記憶の中でも分からない。
ティアナ。
レグルス。
セルフィナ。
フィア。
四人とも倒れている。
僕は喉も、心臓も、頭も狙わなかった。
狙わせなかった。
それでも、致命傷を避けたつもりだったというだけだ。
倒れ方が悪ければ。
内側で何かが傷ついていたら。
助けが間に合わなかったら。
確かめなければならないのに、黒鉄の搬送棺が開いていた。
僕の身体が後ろから引き込まれる。
右手を伸ばそうとしても届かない。
四人のうち誰かが呼吸しているのか、僕には見えなかった。
脈を測ることも、名前を呼んで返事を待つこともできない。
黒鉄の蓋が閉じていく。
最後まで見えていたのは、床へ倒れた四人だった。
蓋が閉じた。
暗闇が記憶を断ち切る。
僕は拘束室へ戻った。
肺が空気を拒むように痙攣し、胸の固定帯が激しく軋んだ。
胃が縮み、喉まで吐き気が上がる。
右手の指が震えても、拘束環から逃れることはできない。
「脈、上昇」
成人担当者の声が聞こえる。
「呼吸不規則。四人目の記憶後に最大反応」
マリアベルの筆が紙を擦る。
僕の頬を何かが伝った。
汗なのか涙なのか、拭うこともできなかった。
「四人は……」
声が途中で潰れる。
息を吸い直し、もう一度尋ねた。
「四人は、生きているのか」
マリアベルは僕ではなく、記録板を見ていた。
「ティアナたちは、あの後どうなった」
「その確認は、今回の測定項目ではありません」
「答えてください」
「記憶内に死亡確認はありません」
希望を与える言葉ではなかった。
「同様に、生存確認もありません」
マリアベルは淡々と続けた。
僕が知っている範囲を読み上げただけだ。
四人が死んだとは言わない。
生きているとも言わない。
一番苦しい空白だけを、そのまま僕へ返した。
「僕は、殺したくなかった」
「発語を記録します」
「四人は僕を助けようとしたんです」
「認識内容を維持」
「分かっていたのに、止められなかった」
自分の意思ではなかった。
星門派の設備が封魔具を外し、《暴食》を開き、左半身を変えた。
その事実は変わらない。
けれど、ティアナの拘束を破ったのは僕の腕だった。
レグルスの槍を折ったのも、セルフィナを弾き飛ばしたのも、フィアを倒したのも、この身体だった。
操られていたから関係ないとは言えない。
致命傷を避けたから無事だとも言えない。
壁へ目を向ける。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
名前も境界も残っている。
それでも、人間を喰わなかったことだけで、傷つけなかったことにはならない。
罪悪感で息が詰まる。
今すぐ四人の名前を呼び、返事を確かめたかった。
生きているなら謝りたい。
傷が残っているなら、何度でも向き合いたい。
そのためには、僕がここで消えるわけにはいかない。
帰らなければならない。
生きて、自分の目で確かめなければならない。
マリアベルが最後の行へ筆を走らせた。
記憶の順序。
四人の名前。
死亡確認なし。
生存確認なし。
搬送棺閉鎖で記憶終了。
罪責反応、顕著。
「今回の記録を、以後の比較基準とします」
最初は本物の記憶。
その言葉の意味が、改めて背筋を冷たくした。
「次に何をするつもりですか」
マリアベルは答えず、記録板へ短い分類を書き加えた。
マリアベルが『原記憶、基準化完了』と記したあとも、僕は傷つけた四人が今も生きているのか確かめられず、罪悪感を押し殺すことができなかった。
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