第179話 数万年前の眼差し
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
ベルゼバスの羽音が戻った瞬間、足首を浸していた黒水が僕を拒み始めた。
さっきまで足元にまとわりつくだけだった水が、僕の輪郭を押し返してくる。
水面から浮かぶ波紋は、僕を中心に広がるのではない。
果てのない闇の側から押し寄せ、立っている場所を削り取っていた。
ベルゼバスの巨大な顎が閉じる。
僕の胴ほどもある牙が噛み合い、腐った甘さと鉄を含む息が鼻先を打った。
食い殺されなかったことへの安堵より、答えを拒まれたことへの警戒が先に立つ。
蠅の複眼を構成する無数の眼面が、残らず僕を映していた。
「答えないんだね」
声は震えた。
巨大な魔神を前にして、恐怖が消えたわけではない。
膝は力を失いかけているし、浅くなった呼吸を戻すだけでも意識しなければならなかった。
それでも、ベルゼバスが沈黙した事実まで見失うつもりはなかった。
黒い膜翅が大きく持ち上がる。
二対の翅が暗闇を覆い、その付け根では黒い甲殻が擦れ合っていた。
『去れ、器』
獣の唸りと羽音が重なった声だった。
「答えの代わりに、僕を追い出すのか」
返事はない。
ベルゼバスが狼の前脚を持ち上げた。
黒い毛と甲殻に覆われた脚は、僕の身体よりも大きい。その脇で、関節の多い節足が一本ずつ水面へ突き立てられていく。
逃げ道など、初めから存在していなかった。
前脚が黒水へ落ちた。
衝撃に音はなかった。
代わりに、精神世界そのものが一度だけ上下した。
足元から黒水が消える。
落ちたのではない。
僕の足を避けるように左右へ裂け、そのまま闇の奥へ引き戻されていった。
支えるものを失ったはずなのに、僕の身体は落下しなかった。
濃紺の髪の先から、青灰色の瞳に映る指先まで、少しずつこの場所から薄くなっていく。
「そうやって、話を終わらせるんだ」
『黙れ』
羽音が激しくなる。
僕の胸を内側から押すような振動が広がった。
左腕の黒い紋章が熱を持つ。
けれど、その線は肩の手前で止まったままだった。左手も、左半身も、黒銀色には変わらない。
右前腕の赤黒い瘢痕が脈打った。
短くなった左小指の先にも、そこに失った部分が残っているかのような痛みが走る。
この姿は、傷つけられる前の僕ではない。
精神世界へ沈む直前まで、黒い拘束台へ縛られていた僕自身だ。
ベルゼバスへ挑む武器はない。
この世界に留まる方法も知らない。
まして、その力を借りて追い出されることへ逆らうつもりはなかった。
僕が守るべきなのは、ここに居座ることじゃない。
記憶を持って帰ることだ。
壁へ何度も刻んだ二行を思い出す。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
石壁そのものが現れたわけではない。
削った目地の感触も、拘束環の外れない留め金が立てた音も、僕自身の中に残っている。
「沈黙が答えだとは思わない」
声を出すたび、唇の輪郭まで闇へ溶けていく。
複眼に映る僕の姿が、細かな欠片へ分かれていた。
「でも、君が一度だけ黙ったことは覚えておく」
ベルゼバスの喉から低い唸りが漏れた。
肯定ではない。
否定でもない。
怒りなのか、ただ僕の声を不快に感じただけなのかも分からなかった。
分からないものを、都合のいい答えへ変えてはいけない。
僕はベルゼバスを理解していない。
ベルゼバスも、僕が決めた境界を認めてはいない。
言葉が一度届いたように見えたからといって、この巨大な魔神が味方へ変わることなどなかった。
黒い膜翅が振り下ろされた。
風圧が黒水を押し退け、足元から闇が噴き上がる。
僕は腕で顔を庇おうとした。
けれど、右腕は途中で透け、左腕の指先は光を失っていた。
前へ踏み出すことも、後ろへ下がることもできない。
世界の方が僕を放していく。
『器は、器へ戻れ』
「僕は器じゃない」
声だけが暗闇へ残った。
「アルト・ロウェルだ」
節足が水面を貫く。
一斉に広がった波紋が、僕の輪郭を砕いた。
痛みはなかった。
ただ、見ることと聞くことが別々の方向へ引き離された。
羽音が遠ざかる。
複眼だけが近づく。
狼の黒い鼻面が霞み、その奥で無数の僕が小さくなっていった。
任務が終わったら、二人で孤児院へ帰る。
その約束を声にはしなかった。
誰かへ聞かせるためではなく、僕が僕のまま戻るために胸の内へ置く。
ベルゼバスの姿が闇へ沈んだ。
次の瞬間、冷たく硬いものが背中へ戻ってきた。
「――呼吸あり」
遠くで成人の声がした。
黒水の代わりに、浅く吸い込んだ空気が喉を擦った。
胸が大きく跳ねる。
腰と肩を押さえる固定帯が、僕の身体を拘束台へ縫い止めていた。
両手首と両足首にも、重い物理拘束環の感触がある。
僕は目を開こうとした。
普通の灯具が滲み、第五環の低い天井が二重に揺れる。
視界へ落ちた髪は、黒に近い濃紺のままだった。
「瞳孔、反応あり。確認鏡を」
青灰色の視界へ、小さな鏡と成人担当者の指が入る。
灯具の光が左右の瞳へ順に向けられた。
目を細めようとしても、反応が一拍遅れる。
「供給弁は閉鎖済み。圧力、低下を維持」
壁の物理弁は閉じられていた。
圧力札の針も、先ほどまで魔力を流されていた位置から下がっている。
針も管も、僕の身体へ繋がれてはいない。
それでも全身には熱が残り、筋肉が細かく震えていた。
左腕の紋章は肩の手前で止まっている。
右前腕では、赤黒く盛り上がった瘢痕の下が鈍く痛んだ。
白布と小さな固定具に包まれた左小指も、短いままだ。
どこにも新しい外殻はない。
何かを得て戻ったわけでもない。
「聞こえるか」
答えようとして、咳が漏れた。
成人担当者が水を飲ませることはせず、呼吸が整うのを待つ。
その手は僕の手首で脈を数え続けていた。
「意味のある応答を確認する。名前を言えるか」
壁へ視線を動かした。
幾つもの灯具周期を越えて刻んだ文字が、ぼやけながらも残っている。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
精神世界に壁はなかった。
それでも、僕はあの二行を失わずに戻ってきた。
「アルト……ロウェル」
掠れた声で答えた。
記録板へ筆が走る。
「発語あり。自己名への応答を確認」
彼らにとっては、意識が戻ったかどうかを測る項目の一つにすぎない。
けれど、僕にとっては違う。
名前を答えたのは、実験へ協力するためではない。
ベルゼバスに追い出されても、僕が僕であることを確かめるためだった。
首をわずかに動かすと、部屋の端に施錠箱が見えた。
黒銀色の封魔具は、今もその中に収められている。
拘束環は外れていない。
扉も閉ざされたままだ。
救助の声も、仲間の足音も聞こえない。
僕は第五環最深部側の拘束室へ戻っただけだった。
それでも、精神世界で交わした言葉は消えていない。
ベルゼバスの全身。
喰う側へ来いという誘惑。
現実の身体が死ぬという脅し。
そして、満ち足りた後に何者でもなくなることを恐れているのではないかと尋ねた直後の、短い沈黙。
あれが何を意味したのか、僕には分からない。
答えへ触れた証拠ですらない。
ただ、一瞬だけ、唸りも羽音も止まった。
その事実だけは、拘束台の上へ持ち帰ることができた。
成人担当者が僕の呼吸を数え直す。
灯具の光は冷たく、胸を押さえる固定帯は重い。
僕はまだ帰れていない。
だからこそ、忘れるわけにはいかなかった。
* * *
アルトには見えなかった。
切り離された後も、果てのない黒水の世界は消えていなかった。
巨大なベルゼバスだけが、その中心に立っている。
狼の四肢と関節の多い節足が水面へ沈み、黒い甲殻の隙間で膜翅が細かく震えた。
複眼を満たす無数の眼面には、もう少年の姿は映っていない。
ベルゼバスは低く唸った。
その振動に押され、静まりかけた黒水へ再び波紋が走る。
アルトを排除した精神世界に、返す必要のない問いだけが残っていた。
やがて、巨大な頭部が一度だけ振られた。
何かを振り落とそうとするように。
だが、その動きより早く、ベルゼバスの脳裏へ一つの光景が浮かんだ。
現在から数万年前。
名も暦も残されていない、遠い時代だった。
淡い空の下に、荒涼とした大地が広がっている。
岩と乾いた土の間で、黒い獣が身を低くしていた。
その頃のベルゼバスは、現在よりも小さかった。
それでも、普通の獣と見間違えられる姿ではない。
黒い狼の胴体には硬い甲殻が混じり、顔の左右を蠅の複眼が覆っている。
背中の膜翅は今より狭く、狼の脚の間から伸びる節足も細い。
未発達な顎の奥には、既に鋭い牙が並んでいた。
獣でも虫でもない怪物が、岩場の下から上を見ている。
その視線の先に、一人の老人が立っていた。
白く淡い髪。
深い皺の刻まれた、人として老いた顔。
身を包むのは、王冠でも教団服でも騎士団外套でもない、簡素な衣だった。
老人は人の形をしている。
けれど、その佇まいは人だけのものではなかった。
半ば神に触れ、半ば仙の境へ立ちながら、どちらの威光も見せつけようとはしていない。
武器はなかった。
老人は岩場の上から、まだ小さかったベルゼバスを静かに見下ろしていた。
ベルゼバスの喉が警戒の唸りを漏らしても、老人は退かなかった。
かといって、制圧するために踏み出すこともない。
その目には敵意がない。
恐怖もない。
怪物を測る冷たさも、兵器を選ぶ計算も、獲物を見る欲もなかった。
ただ、奇妙なほど暖かかった。
老人は何も語らない。
手を差し出すことも、触れることもない。
ベルゼバスとの間に何があったのか、その眼差しが何を意味したのかを示すものは、記憶の中にも存在しなかった。
残っているのは、見下ろす老人の目だけだった。
現在のベルゼバスが膜翅を大きく開く。
激しい羽音が黒水を叩き、古い光景を波紋の下へ押し潰す。
獣の唸りが戻る。
複眼の色も、節足の動きも、何事もなかったかのように再開する。
老人の名を呼ぶ声はない。
懐かしむ言葉も、アルトの問いを認める言葉もなかった。
ベルゼバスは巨大な魔神のまま、誰もいない暗闇へ牙を見せた。
それでも、押し潰されたはずの記憶の奥で、暖かな目だけは閉じなかった。
数万年を隔てても、その老人の眼差しだけは、ベルゼバスの飢えの底から消えていなかった。
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