第178話 満ち足りる恐怖
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
ベルゼバスが『ならば喰われろ』と告げても、開いた顎は僕を呑み込まないままだった。
巨大な牙が、僕の左右と頭上を囲んでいる。
一歩進まれれば逃げ場はない。
狼の喉から漏れる唸りと、二対の黒い膜翅が立てる羽音が、足首まで広がる黒水を絶えず震わせていた。
僕は怖かった。
右前腕の異常瘢痕は痛み、短い左小指は握り込んでも力が足りない。
青灰色の目を上げれば、蠅の複眼に何千もの僕が映っている。どの僕も十五歳の身体で、濃紺の髪を獣の息に揺らしていた。
武器はない。
新しい力もない。
黒い紋章も左腕の肩手前で止まったままだ。
ベルゼバスは今すぐ僕を丸ごと呑み込める。
それなのに、顎を閉じない。
僕を喰うのではなく、僕自身が喰う側へ移ることを求めている。
「どうして僕を喰わない」
『器は、口ではない』
ベルゼバスの声が、獣の唸りに混ざった。
「僕を口にしたいのか」
『すべてへ届く口だ』
答えになっているようで、何も答えていない。
ベルゼバスの節足が一本、黒水へ深く刺さる。
水面へ円形の波が広がり、僕の足へ触れた。
『おまえは境を作る』
「作るよ」
『口を狭める』
「人間を喰わないためだ」
『狭い口は、やがて閉じる』
ベルゼバスが鼻先を僕へ寄せた。
腐った甘さと鉄の臭いが濃くなる。
『閉じれば、器は死ぬ』
現実の身体が本当に死へ近づいているのか、僕には確かめられない。
遠く不規則な心拍も、胸の圧迫感も、ベルゼバスが恐怖を増幅して作ったものかもしれない。
それでも、死にたくないという思いは本物だった。
帰りたい。
仲間の生存を、自分の目で確かめたい。
孤児院へ帰り、果たせていない約束の先へ進みたい。
だからこそ、考える必要があった。
ベルゼバスが示す道を拒むだけではなく、こいつが何を求めているのか。
理解したからといって安全になるわけではない。
味方になるわけでもない。
ただ、何も分からないまま恐怖だけに従えば、次も同じ言葉で追い込まれる。
僕はベルゼバスを見上げた。
複眼の全てが、違う角度から僕を見返している。
「喰う側へ行けば、満たされるのか」
『喰えば、飢えは退く』
「どれくらい」
返答はなかった。
代わりに膜翅の羽音が強くなった。
『目の前のものを喰え』
「それで終わる?」
『次を喰え』
やはり、終わりは示さない。
僕は星門派に食事を断たれた時の空腹を覚えている。
最初は胃が痛んだ。
やがて痛みさえ弱まり、身体全体が重くなった。魔力を流されれば一時的に空腹は鈍ったが、食事の代わりにはならなかった。
あの時に望んでいたのは、もっと強い飢えではない。
空腹が終わることだった。
水を奪われた時は、渇きが和らぐことを望んだ。
睡眠を細切れにされた時は、安心して目を閉じる時間を望んだ。
薄い食事を与えられた時も、食べ終えた直後に看守の食事を奪いたいとは思わなかった。
満たされるというのは、次の犠牲を探さなくていい状態のはずだ。
ベルゼバスは違う。
分離済みの漏出魔力だけを喰わせた時も、その直後にはもっと広い対象へ伸びようとした。
第五環から魔力を注がれた時も、足りたとは一度も言わなかった。
人間を喰え。
魂を喰え。
記憶を喰え。
能力を喰え。
拘束具も、台も、壁も、供給口も、第五環を流れる魔力さえ喰え。
一つを喰えば次がある。
次を喰えば、その先がある。
こいつは何を喰えば終わるのかを、一度も示していない。
僕の空腹と、ベルゼバスの飢え。
似ているようで、同じではない。
「本当に飢えているなら、満たされることを望むはずだ」
ベルゼバスの喉が鳴った。
低い音が黒水の底を走る。
『飢えに終わりはない』
「それは答えじゃない」
『器が満ちても、世界は残る』
巨大な前脚が動いた。
爪の先が黒水を掻き、僕の身体より大きな波を起こす。
僕は一歩踏ん張った。
「世界が残っていたら、全部喰うのか」
『残す理由はない』
「全部喰ったら?」
膜翅が一度、大きく震えた。
『その時に決める』
「決めてないんだ」
『まだ喰っていない』
どこまでも、喰った後のことを考えない。
今、足りない。
だから喰う。
喰えば次が見える。
次が見えたから、また足りない。
満ちる直前に、自分で次の空白を作り続けている。
僕はベルゼバスの心を読めない。
複眼の色が何を意味するのかも分からない。
この怪物がどれほど長く存在し、過去に何を喰ったのかも知らない。
それでも、言葉と行動の順番は見える。
「でも君は、満ち足りる直前に次を求める」
ベルゼバスの膜翅が、僅かに乱れた。
二対の翅が同じ速さで動いていたはずなのに、後ろの一対だけが一瞬遅れる。
重なっていた羽音が割れ、不快な揺らぎが生まれた。
黒い節足の一つが、水面へ突き刺さったまま止まる。
複眼を満たす暗い赤と紫も、細かく移り変わるのをやめた。
ただし、沈黙したわけではない。
狼の喉からは唸りが続いている。
鼻息も、黒水へ波を作っていた。
『足りぬからだ』
「何が足りない?」
『すべてだ』
「何を手に入れたら、すべてになる?」
『すべてを喰えば分かる』
また同じ場所へ戻った。
ベルゼバスの言葉には、満足へ至る道がない。
あるのは、飢えを次へ運ぶ道だけだ。
「君は満たされたいんじゃないのかもしれない」
『人間の尺度で測るな』
「君が僕を器と呼ぶから考えてるんだ」
僕は短い左小指を見た。
失った部分は、精神世界でも戻っていない。
右前腕には、治ったふりをした傷が残っている。
星門派は僕を中継核候補という機能で呼び、ベルゼバスは器と呼ぶ。
どちらも、僕が誰かではなく、何に使えるかだけを見ている。
けれど、ベルゼバス自身はどうなのか。
こいつは七罪魔神の一角、《暴食》。
喰うことをやめたベルゼバスを、何と呼べばいい。
飢えがなくなったあとにも、同じ形で立っていられるのか。
満足を得た瞬間、《暴食》である必要が消えるのではないか。
僕を器としか呼ばないこいつもまた、飢えという役目の中へ閉じ込められている可能性はないのか。
確証はない。
だから、断定ではなく問いとして返す。
ベルゼバスの顎は開いたままだ。
一本の牙だけで、僕を簡単に貫ける。
怖さは消えていない。
足もまだ震えている。
それでも僕は、無数の複眼から目を逸らさなかった。
「君が怖いのは空腹じゃなく、満たされたあとに自分が何者でもなくなることじゃないのか」
音が消えた。
狼の喉から漏れていた唸りが止まる。
二対の黒い膜翅も、完全に静止した。
黒水へ刺さっていた節足が動きを止める。
鼻先から吐かれていた獣の息も途切れた。
水面を埋めていた波紋が伸び切り、やがて消える。
複眼の細かな色の変化も止まった。
無数の眼面には、それまで異なる角度から見た僕が映っていた。
右から。
左から。
背後から。
見下ろすように。
その全てが、一瞬だけ正面から僕を見る像へ揃った。
完全な静寂だった。
一呼吸にも満たない。
それでも、ベルゼバスが現れてから初めて訪れた沈黙だった。
僕は勝ったとは思わなかった。
こいつを黙らせる力を得たわけではない。
図星だったとも断定できない。
獲物の意図を測っていただけかもしれない。
言葉を選んでいただけかもしれない。
ただ、即座に否定しなかった。
その事実だけは、目の前に残った。
次の瞬間、膜翅が一斉に動いた。
轟音が戻る。
風圧が黒水を弾き、僕は腕で顔を庇った。
節足が水面を抉る。
巨大な狼の喉から、地響きのような声が漏れた。
『老人の説教のようなことを』
侮蔑だけを込めた、短い言葉だった。
「答えになってない」
『言葉で飢えは満ちぬ』
「それは分かってる」
『ならば黙れ』
ベルゼバスの前脚が僕の傍らへ落ちた。
黒水が爆ぜる。
爪は僕に触れていない。それでも衝撃で身体が横へ押され、片膝をついた。
巨大さも、力も、何一つ弱まっていない。
ベルゼバスは改心していない。
僕の問いを認めてもいない。
満たされることへの恐怖を告白したわけでもない。
ただ、老人の説教のようだと一蹴した。
僕は黒水へ右手をつき、再び立ち上がった。
右前腕の瘢痕が痛む。
短い左小指は戻らない。
髪も瞳も変わらず、黒い紋章は肩手前で止まっている。
僕はベルゼバスを制御していない。
理解しきったわけでもない。
それでも、僕の空腹とこいつの飢えは同じではないと分かった。
僕が望むのは、全てを手に入れることではない。
食事を食べ終えること。
眠って身体を休めること。
仲間が生きて帰ること。
孤児院へ戻ること。
約束した未来を、誰も喰わずに選ぶこと。
満ち足りるとは、次の犠牲を探さなくていいことだ。
ベルゼバスは、それを望んでいるようには見えなかった。
一つを得るたび次を求め、飢えが消えないよう自分で空白を広げ続ける。
そう見えるというだけだ。
真実の証明にはならない。
それでも、一瞬の沈黙を僕は忘れない。
対話ができることと、味方になることは違う。
言葉が届くことと、危険が消えることも違う。
ベルゼバスは今も僕を丸呑みにできる。
僕を器と呼び、人間を喰えと迫る内なる敵だ。
だから、理解したつもりにはならない。
ただ観察する。
こいつが何を求め、何に言葉を止めるのか。
僕が自分の境界を守るために。
ベルゼバスは僕の問いを一蹴した。それでも、満ち足りることを恐れていないとは、最後まで答えなかった。
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