第177話 喰う側へ
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
ベルゼバスの顎は僕を呑み込めるほど開いていたのに、牙はすぐには閉じなかった。
上下から伸びた牙の間に、僕は立っている。
一本だけでも僕の胴ほど長い。
顎が僅かに動けば、十五歳の身体など跡形もなく闇の奥へ消えるだろう。
逃げようにも、背後には果てのない黒水しかない。
ベルゼバスの鼻息が濃紺の髪を揺らした。
腐った甘さと鉄、濡れた獣の臭い。
呼吸を止めても、胸の奥へ染み込んでくる。
怖かった。
足は震え、右前腕の異常瘢痕が焼けるように痛む。
短い左小指を握り込もうとしても、欠けた分だけ力が空へ抜けた。
それでも、黒い紋章は左腕の肩手前で止まっている。
僕の身体に外殻も、鉤爪も、翼もない。
青灰色の目を逸らさず、巨大な複眼を見返した。
無数の眼面へ、牙に囲まれた僕が別々の角度から映っていた。
ベルゼバスは僕をすぐに喰うつもりではない。
喰われる恐怖を見せたまま、何かを選ばせようとしている。
『なぜ抗う』
獣の唸りと膜翅の震えが重なった。
黒水の表面に、細かな波が生まれる。
「何に?」
『喰われることに』
「当たり前だ」
『違う』
巨大な顎が少しだけ閉じた。
牙と牙の間が狭くなる。左右へ逃げられる幅はなくなったが、まだ僕の身体には触れない。
『おまえは、すでに喰われている』
意味を問い返す前に、ベルゼバスの節足が黒水を突いた。
硬い音が広がる。
『皮を裂かれた』
右前腕の瘢痕が脈打った。
『肉を欠かれた』
左小指の先端が疼いた。
『水を奪われた。餌を奪われた。眠りを奪われた』
胃の奥に、忘れたはずの空腹が戻ってくる。
喉が乾く。
瞼の裏へ、細切れにされた眠りの重さが蘇る。
それは映像ではなかった。
拘束室も、マリアベルの姿も見えない。
ただ、身体が覚えている痛みだけを、ベルゼバスが指で抉るように大きくしていた。
『力を流され、意識を奪われた』
胸の奥が重く沈んだ。
僕がここへ来る直前まで流されていた魔力。その圧力を思い出し、呼吸が浅くなる。
「だから何だ」
声は掠れていた。
ベルゼバスの複眼が、暗い赤から紫へ変わる。
『喰われる側でいるから苦しむ。喰う側へ来い』
二対の黒い膜翅が開いた。
羽音が精神世界を揺らす。
風圧で黒水が左右へ割れ、僕の足元だけが取り残された。
「喰う側……?」
『女を喰え』
ベルゼバスが告げた。
名前を言わなくても、誰のことかは分かった。
『おまえを測る女。その肉を喰え。魂を喰え。記憶を喰え。力を喰え』
一つずつ、別のものとして扱う言い方ではなかった。
ベルゼバスにとっては、全部が一つの食物なのだ。
命も、積み重ねた記憶も、その人間が持つ能力も。
喰えるなら同じ。
『女を空にしろ。残った力で鎖を喰え』
黒い狼の前脚が水を踏む。
波が押し寄せ、僕の膝へぶつかった。
『台を喰え。壁を喰え。口を開く器具を喰え。第五環を流れる力を喰え』
「そんなことが、本当にできるのか」
問いが口から出た。
信じたわけではない。
けれど、完全に聞き流すこともできなかった。
もし拘束環を壊せるなら。
もしマリアベルを止められるなら。
もしあの部屋から出られるなら。
その先に、地図にない道があったとしても、走れるかもしれない。
帰れるかもしれない。
ベルゼバスの口元が僅かに歪んだ。
笑ったように見えた。
『境を捨てれば、口は広がる』
答えにはなっていない。
人間の魂や記憶を本当に喰えるのか。
能力を奪えるのか。
物理的な拘束具まで消せるのか。
何一つ確かめられていない。
ベルゼバスは方法を教えているのではなく、僕が守ってきた境界を捨てさせようとしているだけだ。
「マリアベルを喰ったあと、次は誰だ」
『近くにいるものだ』
即答だった。
「看守か」
『喰え』
「別の区画にいる捕虜も?」
『喰え』
「僕を助けに来た人間もか」
ベルゼバスの複眼が一斉に僕を映す。
『区別するな』
腹の底が冷えた。
こいつの言う脱出は、僕だけが外へ出ることではない。
道を塞ぐものを全てなくすことだ。
敵も、看守も、捕虜も。
そこへ誰かが助けに来れば、その人まで食物になる。
帰るために、人間を喰う。
生きるために、魂を奪う。
力が必要なら、能力まで奪う。
それを一度でも選んだあとで、どこまでが敵で、どこからが守るべき人間なのか、僕に決め続けられる保証はない。
今だって完全に制御できているわけではない。
疲労すれば対象を選ぶ声は遅れた。
飢えと睡眠不足が重なれば、ほんの僅かな漏出魔力にも《暴食》は開いた。
一度、人間を喰っていいと決めれば、次に止める境界はなくなる。
「それで生き残ったものを、僕とは呼べない」
『生きたものが、おまえだ』
「違う」
『死ねば、名も境も残らぬ』
ベルゼバスの声が黒水の底まで震わせた。
次の瞬間、胸を内側から掴まれたような圧迫が走った。
息が止まる。
僕は胸元を押さえ、膝を折りかけた。
遠くで心臓が鳴っている。
自分の胸にあるはずなのに、深い穴の向こうから聞こえるような、弱く不規則な音だった。
一度。
長い空白。
もう一度。
「これは……」
『外のおまえだ』
ベルゼバスの鼻先が降りてくる。
『脈は弱い。息は戻らぬ』
本当なのか、分からない。
こいつは僕の恐怖を増幅する。
空腹を作り、怒りを煽り、判断を急がせる。
今聞こえている心拍さえ、本当に現実の身体から届いたものなのか確かめようがなかった。
それでも、嘘だと笑い飛ばすこともできない。
限界量の魔力を流され、僕は意識を失った。
身体が無事である保証はどこにもない。
『戻らねば死ぬ』
「マリアベルは僕を中継核にしたがっている。すぐには殺さない」
『使えぬ器は捨てる』
左腕の紋章が熱を持った。
右前腕の瘢痕の奥で、閉じたふりをした傷が裂けているように痛む。
短い左小指も脈打つ。
身体そのものが遠ざかっていく。
足元の黒水へ沈み始めたような錯覚に、僕は片足を引いた。
死にたくない。
そう思った。
孤児院へ帰りたい。
レイシアに、帰ったと伝えたい。
正式な手続きをして、二人で指輪を選びたい。
ローディンたちが、あのあと本当に助かったのか確かめたい。
生きて、もう一度会いたい人がいる。
「僕は帰る」
『ならば喰え』
ベルゼバスの大顎が僕の頭上で開く。
『女を喰えば鎖は消える。力を奪えば壁は砕ける。生きて帰れる』
一瞬だけ、その言葉に心が揺れた。
マリアベルは僕を人間として扱わなかった。
傷を作った。
指先を奪った。
飢えさせた。
眠りを削り、感情を測り、限界まで魔力を流した。
怒りはある。
拘束台も記録板も、全て壊したい。
その怒りまで、ベルゼバスが膨らませる。
僕の中にある感情だからこそ、拒絶するのは難しかった。
けれど、マリアベルが僕を物として扱ったことは、僕が彼女を食物として扱っていい理由にはならない。
喰われたから、次は喰う。
傷つけられたから、別の誰かを傷つける。
それを選んだ瞬間、僕は星門派と同じ場所へ立つ。
フィアたちは僕を殺さずに止めようとした。
僕も、残った意識で致命的な軌道を逸らした。
看守が近くにいても喰わなかった。
鉄格子の向こうに捕虜がいても対象から外した。
分離済みの魔力だけを選んだ。
一度も完璧ではなかった。
次も必ず成功するとは言えない。
だから毎日、壁へ刻んだ。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
あの二行は、強さの証明ではない。
境界を忘れれば、僕が僕ではなくなるという警告だった。
「生きたい」
僕はベルゼバスへ言った。
声は震えていた。
「僕は帰りたい。死んでもいいなんて思ってない」
複眼の全てが、僕の口元へ向いている。
「でも、人間を喰って帰ったものを、レイシアが待っているアルト・ロウェルだとは言えない」
ベルゼバスの羽音が低くなる。
『死ねば帰れぬ』
「分かってる」
死は怖い。
今にも遠い心拍が途切れそうで、喉が詰まる。
それでも、恐怖に選ばせてはいけない。
「人間を喰わないで生きる道を探す。ここから戻る方法も、拘束を抜ける方法も、それ以外を探す」
『ない』
「おまえがそう言ってるだけだ」
『器に選ぶ権利はない』
「僕は器じゃない」
ベルゼバスの節足が黒水を抉った。
大きな波が僕の腰まで跳ね上がる。
けれど、僕は後ろへ下がらなかった。
「死ぬとしても、僕は人間を喰う側には行かない」
膜翅が一斉に震えた。
笑いなのか、怒りなのか、僕には判別できない。
ベルゼバスは感動しなかった。
僕の言葉を認めもしなかった。
巨大な狼の喉から、低い唸りが漏れる。
『ならば、喰われろ』
大顎が再び僕を囲む。
牙の影が黒水へ落ちる。
それでも顎は閉じず、僕も膝をつかなかった。
僕はベルゼバスを説得できていない。
ベルゼバスも僕の境界を壊せていない。
敵対したまま、同じ内側にいる。
現実の身体が死ぬと脅されても、僕はアルト・ロウェルのまま、人間を喰う側へ行くことを拒んだ。
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