表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『属性適性なしの学院最下位、迷宮で見捨てられた僕は七罪の魔神と契約する ~最強英雄になった幼なじみに追いつくまで~  作者: ドキツトム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

176/199

第176話 狼と蠅

「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!


例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』


皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!



意識が戻った時、僕の身体を縛る黒い拘束具も、第五環の冷たい天井も消えていた。


足首より浅い黒水が、果てまで広がっている。


水ではあるらしい。足を動かせば冷たさが伝わり、波紋も生まれる。


けれど、水面の下には床も砂も見えない。


頭上には星も月もなく、灯具の炎さえなかった。それでも僕の両手と、黒水に映った顔だけは見える。


髪は黒に近い濃紺。


瞳は青灰色だった。


右前腕には、赤黒く盛り上がった瘢痕が残っている。その下に鈍い痛みもあった。


左小指は短い。


精神の中なら元へ戻っているかもしれないという期待は、白布すらなく露出した欠損部を見た瞬間に消えた。


左腕の黒い紋章も、肩の手前で止まっている。


黒銀色の外殻はない。


翼も、尾も、角もない。


僕は十五歳のアルト・ロウェルの姿で、ただ一人、黒水の中に立っていた。


拘束具がないことだけが、現実の身体との違いだった。


両腕を動かす。


肩に痛みは残っているが、持ち上げられる。足も自由だった。


けれど、剣はない。


歩いても、出口は見つからなかった。


壁も扉も階段もない。どこまで進んでも同じ暗さと黒水だけが続いている。


最後の記憶は、第五環から押し込まれた魔力だった。


痙攣する身体。


細く崩れていった視界。


音を失う直前まで、僕は約束を口にしていた。


任務が終わったら、二人で孤児院へ帰る。


その言葉を覚えている。


なら、僕はまだ僕だ。


死んだとは思わなかった。


死後がどんな場所なのかは知らない。それでも、ここには終わりではなく、僕を待っている何かがあるように感じた。


瘢痕の下が脈打つ。


同時に、黒水の奥で低い音が鳴った。


最初は遠い雷だと思った。


違う。


それは、喉の奥で転がされる唸りだった。


『ようやくここまで沈んだか、器』


黒水が震えた。


僕の足元から波紋が逃げていく。声だけで水面全体が押し下げられ、遅れて無数の小波が戻ってきた。


聞き間違えるはずがない。


学院の地下でも、アークデーモンの前でも、第五環でも聞いた。


僕の飢えが人間へ向きかけた時、何度も内側から響いた獣じみた声。


「ベルゼバス」


返事の代わりに、闇が呼吸した。


遠くに黒い壁があるように見えていた。


けれど、ここに壁などなかった。


巨大な塊が、ゆっくりと持ち上がる。


最初に黒水から現れたのは、一本の前脚だった。


狼に似ている。


ただし、僕が知るどんな狼よりも太く、長い。密集した黒い獣毛の隙間へ、鈍い光を返す甲殻が何層も食い込んでいた。


水面へ置かれた足先だけで、僕の身体より大きい。


湾曲した爪は、一本一本が僕の腕より長かった。


前脚が黒水を踏む。


轟音とともに水面がへこみ、大きな波が押し寄せた。


僕は踏ん張ったが、足を掬われて片膝をついた。


その向こうで、細長い何かが動く。


黒水へ突き刺さっていた一本の柱が、関節ごとに折れ曲がりながら引き抜かれた。


節足だった。


硬い殻に包まれた脚が、濡れた音を立てて持ち上がる。


次に、もう一本。


さらにもう一本。


狼の四肢とは別に、胴の下から伸びた節足が黒水を離れていく。それぞれに複数の関節があり、先端は水面を貫く黒い杭のように細い。


獣の身体へ無理に虫を縫い付けたようには見えなかった。


初めから、その姿で生まれた怪物だった。


「今まで、声しか聞かせなかったくせに」


僕の声が、暗闇へ小さく吸われる。


『おまえが届かなかっただけだ』


低い声に重なり、細かな振動が空気を満たした。


羽音。


巨大な胴の上で、折り畳まれていたものが開いていく。


黒い膜翅だった。


一対。


その後ろから、もう一対。


鳥の羽毛ではない。薄い膜へ黒い筋が走り、蠅の翅をそのまま巨大にしたような形をしている。


二対の翅が震えた。


高い羽音と獣の唸りが重なり、僕の耳の奥へ直接入り込む。


黒水が一斉に外側へ押し流された。


風圧が胸を叩く。


立ち上がりかけた身体が再び傾き、僕は両手を水面へついた。短い左小指に冷たさが触れ、遅れて欠損部へ痛みが走った。


羽音が止まる。


押し退けられた黒水が戻る中、巨大な頭部がゆっくりと降りてきた。


輪郭は狼だった。


長い鼻面。


黒い鼻。


大きく裂けた口。


上下から並ぶ牙。


けれど、本来なら目があるはずの場所を、二つの巨大な複眼が覆っていた。


蠅の眼だ。


暗い赤と紫が混ざった無数の小さな眼面が、僕へ向いている。


その一つ一つに、違う角度から見た僕が映っていた。


水へ手をついた僕。


顔を上げる僕。


震える右腕。


短い左小指。


肩手前で止まる黒い紋章。


何千もの僕が、何千もの眼に閉じ込められている。


心を読まれているわけではない。


それでも、身体の内側まで見回されているような感覚に、背筋が冷えた。


頭部がさらに持ち上がった。


そこで、ようやく全身が見えた。


ベルゼバスの土台は、間違いなく狼だった。


黒い獣毛に覆われた巨大な胴体。太い四肢。低く前へ伸びた首。


その背と脇腹へ黒い甲殻が重なり、腹部から伸びた節足が狼の四肢を囲んでいる。


背中では二対の黒い膜翅が、今も細かく震えていた。


狼。


蠅。


節足を持つ虫。


どれか一つではない。


それら全てを飢えという一つの形へ押し込めた、巨大な魔神だった。


立ち上がった肩の高さを見ようとして、僕は首が痛くなるほど顔を上げた。


影だけで僕の全身が覆われる。


その頭部だけでも、第五環の拘束室を塞げるだろう。


『見たな』


複眼に映る無数の僕が、同時に息を呑む。


「ああ」


声を震わせないことはできなかった。


怖かった。


目の前の怪物は、僕を踏み潰すために力を込める必要すらない。


前脚を置くだけで、僕の姿など黒水の下へ消える。


『これがおまえの奥にある飢えだ』


「僕の飢えと、おまえは同じじゃない」


『同じだ』


即座に返ってきた。


羽音が一度だけ強まり、胸の奥に空洞が生まれた。


空腹だった。


身体はここにないはずなのに、胃が縮み、喉が乾く。


同時に怒りが湧いた。


拘束台。


物理弁。


記録板。


傷を時間へ変え、欠損を機能へ変え、約束さえ発語の持続時間へ変えたマリアベル。


全部を壊したいという衝動が、急に膨れ上がった。


僕の感情ではある。


けれど、ベルゼバスがそれを何倍にも広げている。


僕は右手で胸元を掴んだ。


「増やすな」


『もとからある』


「だからって、おまえに決めさせない」


ベルゼバスの節足が動く。


黒水へ先端が落ちるたび、硬い音と波紋が生まれた。


巨体が一歩、僕へ近づく。


『外の者どもは、口を開く』


もう一歩。


『魔力を注ぐ。飢えさせる。眠りを奪う』


言葉は短く、そこで切れた。


ベルゼバスが星門派の目的を理解しているのかは分からない。


ただ、強制的に開かされた《暴食》の奥で、こいつも何かを感じていた。


『喰うものは、いくらでもある』


「僕が喰ったのは、分離された魔力だけだ」


僕は立ち上がった。


膝は震えている。


それでも、黒水へ手をついたままでは言えないと思った。


「人間は喰っていない。魂も、記憶も、能力もだ。精霊も喰っていない」


『境を作るか』


「作る」


『飢えに境はない』


ベルゼバスの複眼が、細かく色を変えた。


笑ったのかもしれない。


狼の口元は動いていない。それでも、無数の眼面へ映る僕が、一斉に嘲られたように見えた。


『器は満ちるためにある』


「違う」


『空ならば、満たせ』


「違う」


ベルゼバスが顔を近づけてくる。


巨大な鼻先から吐かれた息が、僕の髪を後ろへ吹き上げた。


腐った果実のような甘さ。


鉄の臭い。


濡れた獣の息。


喉が反射的に閉じる。


僕は一歩だけ後退した。


逃げても行き先はない。


背後にも黒水しかない。


『すべて喰え』


その言葉が落ちた瞬間、黒水の底から何かが僕の両脚へ絡みついたように感じた。


空腹が痛みに変わる。


目の前のベルゼバスだけではない。


ここにはいない看守も、捕虜も、マリアベルも、魔力も、壁も、鎖も、全部が喰えるものに思えてくる。


僕は目を閉じなかった。


これはベルゼバスが見せる境界のない飢えだ。


僕が選んできたものではない。


壁へ刻んだ文字を思い出す。


石壁はここにない。


留め金で削った白い傷も見えない。


それでも、何度も刻んだ手の動きは覚えている。


アルト・ロウェル。


人間は対象外。


「僕は器じゃない。アルト・ロウェルだ」


声は小さかった。


叫んでも、この巨体を怯ませることはできない。


だから、自分へ届く大きさで言った。


ベルゼバスは止まらなかった。


巨体がさらに前へ出る。


狼の大顎が、ゆっくりと開いた。


上下の牙の一本だけで、僕の胴ほどある。


口の奥には舌も喉も見えない。


ただ光の届かない空洞があり、立ったままの僕を容易に収められるほど大きく開いている。


鼻先が頭上を越えた。


牙が僕の左右へ降りる。


一歩踏み込まれれば、僕はその口の中だ。


身体が逃げろと訴えている。


呼吸は浅く、足は震え、背中を冷たい汗が伝うような感覚がした。


怖くないふりなどできなかった。


それでも、ベルゼバスへ身体を渡せば、約束した場所へ帰るのは僕ではなくなる。


人間を喰って生き延びても、レイシアの隣へ帰る資格を得たことにはならない。


ベルゼバスは僕の境界を認めていない。


僕も、この魔神を仲間とは認めない。


互いに譲らないまま、僕たちは同じ身体の内側にいる。


僕を丸ごと呑める顎が開いても、狼と蠅の魔神を見上げた僕の答えは変わらなかった――人間は対象外だ。

 「面白かった!」


 「続きが気になる、読みたい!」


 「今後どうなるの!!」


 と思ったら


 下にある⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から、作品の応援をお願いいたします。


 面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!


 ブックマークといただけると本当に嬉しいです。


 何卒よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ