第176話 狼と蠅
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
意識が戻った時、僕の身体を縛る黒い拘束具も、第五環の冷たい天井も消えていた。
足首より浅い黒水が、果てまで広がっている。
水ではあるらしい。足を動かせば冷たさが伝わり、波紋も生まれる。
けれど、水面の下には床も砂も見えない。
頭上には星も月もなく、灯具の炎さえなかった。それでも僕の両手と、黒水に映った顔だけは見える。
髪は黒に近い濃紺。
瞳は青灰色だった。
右前腕には、赤黒く盛り上がった瘢痕が残っている。その下に鈍い痛みもあった。
左小指は短い。
精神の中なら元へ戻っているかもしれないという期待は、白布すらなく露出した欠損部を見た瞬間に消えた。
左腕の黒い紋章も、肩の手前で止まっている。
黒銀色の外殻はない。
翼も、尾も、角もない。
僕は十五歳のアルト・ロウェルの姿で、ただ一人、黒水の中に立っていた。
拘束具がないことだけが、現実の身体との違いだった。
両腕を動かす。
肩に痛みは残っているが、持ち上げられる。足も自由だった。
けれど、剣はない。
歩いても、出口は見つからなかった。
壁も扉も階段もない。どこまで進んでも同じ暗さと黒水だけが続いている。
最後の記憶は、第五環から押し込まれた魔力だった。
痙攣する身体。
細く崩れていった視界。
音を失う直前まで、僕は約束を口にしていた。
任務が終わったら、二人で孤児院へ帰る。
その言葉を覚えている。
なら、僕はまだ僕だ。
死んだとは思わなかった。
死後がどんな場所なのかは知らない。それでも、ここには終わりではなく、僕を待っている何かがあるように感じた。
瘢痕の下が脈打つ。
同時に、黒水の奥で低い音が鳴った。
最初は遠い雷だと思った。
違う。
それは、喉の奥で転がされる唸りだった。
『ようやくここまで沈んだか、器』
黒水が震えた。
僕の足元から波紋が逃げていく。声だけで水面全体が押し下げられ、遅れて無数の小波が戻ってきた。
聞き間違えるはずがない。
学院の地下でも、アークデーモンの前でも、第五環でも聞いた。
僕の飢えが人間へ向きかけた時、何度も内側から響いた獣じみた声。
「ベルゼバス」
返事の代わりに、闇が呼吸した。
遠くに黒い壁があるように見えていた。
けれど、ここに壁などなかった。
巨大な塊が、ゆっくりと持ち上がる。
最初に黒水から現れたのは、一本の前脚だった。
狼に似ている。
ただし、僕が知るどんな狼よりも太く、長い。密集した黒い獣毛の隙間へ、鈍い光を返す甲殻が何層も食い込んでいた。
水面へ置かれた足先だけで、僕の身体より大きい。
湾曲した爪は、一本一本が僕の腕より長かった。
前脚が黒水を踏む。
轟音とともに水面がへこみ、大きな波が押し寄せた。
僕は踏ん張ったが、足を掬われて片膝をついた。
その向こうで、細長い何かが動く。
黒水へ突き刺さっていた一本の柱が、関節ごとに折れ曲がりながら引き抜かれた。
節足だった。
硬い殻に包まれた脚が、濡れた音を立てて持ち上がる。
次に、もう一本。
さらにもう一本。
狼の四肢とは別に、胴の下から伸びた節足が黒水を離れていく。それぞれに複数の関節があり、先端は水面を貫く黒い杭のように細い。
獣の身体へ無理に虫を縫い付けたようには見えなかった。
初めから、その姿で生まれた怪物だった。
「今まで、声しか聞かせなかったくせに」
僕の声が、暗闇へ小さく吸われる。
『おまえが届かなかっただけだ』
低い声に重なり、細かな振動が空気を満たした。
羽音。
巨大な胴の上で、折り畳まれていたものが開いていく。
黒い膜翅だった。
一対。
その後ろから、もう一対。
鳥の羽毛ではない。薄い膜へ黒い筋が走り、蠅の翅をそのまま巨大にしたような形をしている。
二対の翅が震えた。
高い羽音と獣の唸りが重なり、僕の耳の奥へ直接入り込む。
黒水が一斉に外側へ押し流された。
風圧が胸を叩く。
立ち上がりかけた身体が再び傾き、僕は両手を水面へついた。短い左小指に冷たさが触れ、遅れて欠損部へ痛みが走った。
羽音が止まる。
押し退けられた黒水が戻る中、巨大な頭部がゆっくりと降りてきた。
輪郭は狼だった。
長い鼻面。
黒い鼻。
大きく裂けた口。
上下から並ぶ牙。
けれど、本来なら目があるはずの場所を、二つの巨大な複眼が覆っていた。
蠅の眼だ。
暗い赤と紫が混ざった無数の小さな眼面が、僕へ向いている。
その一つ一つに、違う角度から見た僕が映っていた。
水へ手をついた僕。
顔を上げる僕。
震える右腕。
短い左小指。
肩手前で止まる黒い紋章。
何千もの僕が、何千もの眼に閉じ込められている。
心を読まれているわけではない。
それでも、身体の内側まで見回されているような感覚に、背筋が冷えた。
頭部がさらに持ち上がった。
そこで、ようやく全身が見えた。
ベルゼバスの土台は、間違いなく狼だった。
黒い獣毛に覆われた巨大な胴体。太い四肢。低く前へ伸びた首。
その背と脇腹へ黒い甲殻が重なり、腹部から伸びた節足が狼の四肢を囲んでいる。
背中では二対の黒い膜翅が、今も細かく震えていた。
狼。
蠅。
節足を持つ虫。
どれか一つではない。
それら全てを飢えという一つの形へ押し込めた、巨大な魔神だった。
立ち上がった肩の高さを見ようとして、僕は首が痛くなるほど顔を上げた。
影だけで僕の全身が覆われる。
その頭部だけでも、第五環の拘束室を塞げるだろう。
『見たな』
複眼に映る無数の僕が、同時に息を呑む。
「ああ」
声を震わせないことはできなかった。
怖かった。
目の前の怪物は、僕を踏み潰すために力を込める必要すらない。
前脚を置くだけで、僕の姿など黒水の下へ消える。
『これがおまえの奥にある飢えだ』
「僕の飢えと、おまえは同じじゃない」
『同じだ』
即座に返ってきた。
羽音が一度だけ強まり、胸の奥に空洞が生まれた。
空腹だった。
身体はここにないはずなのに、胃が縮み、喉が乾く。
同時に怒りが湧いた。
拘束台。
物理弁。
記録板。
傷を時間へ変え、欠損を機能へ変え、約束さえ発語の持続時間へ変えたマリアベル。
全部を壊したいという衝動が、急に膨れ上がった。
僕の感情ではある。
けれど、ベルゼバスがそれを何倍にも広げている。
僕は右手で胸元を掴んだ。
「増やすな」
『もとからある』
「だからって、おまえに決めさせない」
ベルゼバスの節足が動く。
黒水へ先端が落ちるたび、硬い音と波紋が生まれた。
巨体が一歩、僕へ近づく。
『外の者どもは、口を開く』
もう一歩。
『魔力を注ぐ。飢えさせる。眠りを奪う』
言葉は短く、そこで切れた。
ベルゼバスが星門派の目的を理解しているのかは分からない。
ただ、強制的に開かされた《暴食》の奥で、こいつも何かを感じていた。
『喰うものは、いくらでもある』
「僕が喰ったのは、分離された魔力だけだ」
僕は立ち上がった。
膝は震えている。
それでも、黒水へ手をついたままでは言えないと思った。
「人間は喰っていない。魂も、記憶も、能力もだ。精霊も喰っていない」
『境を作るか』
「作る」
『飢えに境はない』
ベルゼバスの複眼が、細かく色を変えた。
笑ったのかもしれない。
狼の口元は動いていない。それでも、無数の眼面へ映る僕が、一斉に嘲られたように見えた。
『器は満ちるためにある』
「違う」
『空ならば、満たせ』
「違う」
ベルゼバスが顔を近づけてくる。
巨大な鼻先から吐かれた息が、僕の髪を後ろへ吹き上げた。
腐った果実のような甘さ。
鉄の臭い。
濡れた獣の息。
喉が反射的に閉じる。
僕は一歩だけ後退した。
逃げても行き先はない。
背後にも黒水しかない。
『すべて喰え』
その言葉が落ちた瞬間、黒水の底から何かが僕の両脚へ絡みついたように感じた。
空腹が痛みに変わる。
目の前のベルゼバスだけではない。
ここにはいない看守も、捕虜も、マリアベルも、魔力も、壁も、鎖も、全部が喰えるものに思えてくる。
僕は目を閉じなかった。
これはベルゼバスが見せる境界のない飢えだ。
僕が選んできたものではない。
壁へ刻んだ文字を思い出す。
石壁はここにない。
留め金で削った白い傷も見えない。
それでも、何度も刻んだ手の動きは覚えている。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
「僕は器じゃない。アルト・ロウェルだ」
声は小さかった。
叫んでも、この巨体を怯ませることはできない。
だから、自分へ届く大きさで言った。
ベルゼバスは止まらなかった。
巨体がさらに前へ出る。
狼の大顎が、ゆっくりと開いた。
上下の牙の一本だけで、僕の胴ほどある。
口の奥には舌も喉も見えない。
ただ光の届かない空洞があり、立ったままの僕を容易に収められるほど大きく開いている。
鼻先が頭上を越えた。
牙が僕の左右へ降りる。
一歩踏み込まれれば、僕はその口の中だ。
身体が逃げろと訴えている。
呼吸は浅く、足は震え、背中を冷たい汗が伝うような感覚がした。
怖くないふりなどできなかった。
それでも、ベルゼバスへ身体を渡せば、約束した場所へ帰るのは僕ではなくなる。
人間を喰って生き延びても、レイシアの隣へ帰る資格を得たことにはならない。
ベルゼバスは僕の境界を認めていない。
僕も、この魔神を仲間とは認めない。
互いに譲らないまま、僕たちは同じ身体の内側にいる。
僕を丸ごと呑める顎が開いても、狼と蠅の魔神を見上げた僕の答えは変わらなかった――人間は対象外だ。
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