第18話 負けを笑わない
鞄の底に、古びた木剣の柄を入れた。
六年前、僕がレグルスへ預けたもの。
魔法も力も宿っていない。ただの折れた木片なのに、今日は鞄が少し重く感じられた。
「アルト、右脚見せて」
学院へ向かおうとしたところで、ティアナに呼び止められた。
「もう普通に歩けるよ」
「歩けるのと、治ってるのは別です」
有無を言わせない笑顔だった。
ティアナは僕の前へしゃがみ、制服の裾から覗く包帯へ指先を添えた。痛む場所を避けながら、優しく押していく。
「ここは?」
「少しだけ」
「やっぱり治ってないじゃない」
立ち上がったティアナは、今度は剣の鞘へ手を伸ばした。
緩んでいた緑色の組紐を解き、僕の腰へ顔を近づけたまま結び直す。
「今日はアルトの試合じゃないんだから、大人しく見ていてね」
「分かってるよ」
「応援に熱が入りすぎて、訓練場へ飛び込まないこと」
「さすがにしないよ」
「どうかな。アルト、誰かが危ないと後先考えないから」
最後に制服の襟まで整えられる。
近い距離で目が合い、僕は思わず視線を逸らした。
「……よし。行こっか」
ティアナは満足そうに笑い、僕の隣へ並んだ。
順位模擬戦が行われる訓練場は、朝から十回生で埋まっていた。
中央には、二人の少年が向かい合っている。
銀色の模擬槍を構えるレグルス・ヴァレイン。
その正面に立つのは、ユリウス・クラウゼル。
整えられた金髪に、冷たい青の瞳。学院制服には僅かな乱れもなく、腰には細身の長剣が下がっている。
十回生の戦闘順位上位五名。
名門クラウゼル家の嫡子であり、光と火を操る魔法剣士だ。
「魔力が多いだけの相手じゃない」
隣からフィアの声がした。
腰まで伸びた金髪を黒いカチューシャで押さえ、包帯の巻かれた右手を庇うように腕を組んでいる。
「光で間合いを狂わせて、炎で逃げ道を選ばせる。相手が自分から不利な場所へ動くように戦う」
「フィアでも厄介?」
「速いだけでは、見えている偽物へ飛び込むことになる」
フィアがそう評価するほどの相手。
それでも僕は、レグルスに勝ってほしかった。
開始位置へ向かっていたユリウスが、ふと観客席を見た。
青い瞳が、迷うことなく僕を捉える。
「君ほどの槍使いが、属性適性なしの最下位へ執着するとはね」
レグルスの眉が動いた。
「アルトは関係ない。相手は僕だ」
「本当にそうか?」
ユリウスは長剣を抜いた。
「昨日まで最下位を見ていた槍で、僕へ届くと思うな」
レグルスが一瞬だけ僕を見た。
ほんの一瞬だった。
けれど、ユリウスはそれを見逃さなかった。
「双方、構えろ!」
審判を務めるバルト先生が片腕を上げる。
順位模擬戦は有効打三点先取。武器には致命傷を防ぐ安全術式が施されているが、痛みまで消えるわけではない。
「始め!」
レグルスが先に動いた。
風を纏った銀槍が、一直線にユリウスの胸を狙う。
速い。
僕なら反応することさえできない。
けれど槍先は、ユリウスの身体をすり抜けた。
「なっ……」
光が揺らぐ。
そこにいたはずのユリウスが半歩横へずれ、本物はすでに槍の内側へ入っていた。
長剣の腹が、レグルスの胸当てへ触れる。
「一本! ユリウス!」
あまりにも静かな一撃だった。
力で打ち破ったのではない。
レグルスが刺す位置を決めた時には、すでに勝負が終わっていた。
二度目。
今度のレグルスは、槍を大きく突き出さなかった。
穂先を細かく動かし、ユリウスの進路を削りながら距離を保つ。
ユリウスの足元から炎が走った。
派手な火柱ではない。
レグルスの背後と左右。その退路だけを塞ぐ、細い炎の帯だった。
風で吹き飛ばそうとすれば、炎は空気を得て広がる。
レグルスの判断が、一瞬遅れた。
ユリウスがその一瞬で間合いを潰す。
槍を短く持ち替えようとしたレグルスの脇腹へ、長剣の柄頭が叩き込まれた。
鈍い音が響く。
「二本目! ユリウス!」
レグルスが片膝をついた。
「レグルス……」
ティアナが小さく名前を呼ぶ。
僕も立ち上がりかけたが、その前にレグルスは自分で槍を支えに立った。
金色の瞳は、もう観客席を見なかった。
僕のことも見ていない。
正面のユリウスだけを見ていた。
三度目の合図が鳴る。
ユリウスの姿が、光の中で三つに分かれた。
レグルスは動かない。
長剣を覆う炎が揺れた。
その炎が風に押された方向から、本物の位置を見抜いたのだ。
銀槍が動く。
槍全体ではなく、穂先の周囲だけへ風が収束する。
これまでで最も小さく、最も鋭い一突き。
ユリウスの青い瞳が、僅かに見開かれた。
その右足が、半歩だけ後ろへ下がる。
届く。
そう思った直後だった。
ユリウスの長剣へ白い光と赤い炎が重なる。
振り下ろされた刃が、模擬銀槍の中央を正確に捉えた。
甲高い音。
銀槍が二つに折れ、回転しながら宙を舞う。
レグルスの首元で、燃える長剣が止まった。
「三本目! 勝者、ユリウス・クラウゼル!」
三対零。
完全な敗北だった。
静まり返っていた観客席から、やがて小さな声が漏れ始める。
「名門の銀槍も大したことないな」
「最下位に執着して鈍ったんじゃないか?」
「上位同士って言っても、こんなに差があるのかよ」
笑い声が混じる。
ユリウスは笑わなかった。
長剣の炎を消し、鞘へ納める。
「君の槍は、僕ではなく観客席を見ていた」
レグルスは答えない。
「誰かに認められるために振る槍では、僕には勝てない」
それだけを告げ、ユリウスは背を向けた。
レグルスは地面に落ちた二本の槍を、自分の手で拾った。
誰とも目を合わせず、そのまま訓練場を出ていく。
「アルト」
ティアナが僕の袖を掴んだ。
「追いかけなくていいの?」
「今は、まだ」
「でも……」
「今のレグルスに『惜しかった』って言ったら、本気で負けたことまで軽くしてしまう気がする」
あの敗北は、簡単な言葉で包んではいけない。
「治療が終わるまで待つよ」
ティアナは少し考え、僕の袖から手を離した。
「うん。アルトがそう思うなら」
昼前。
医務室から続く渡り廊下で、レグルスを見つけた。
脇腹には包帯が巻かれ、隣には折れた模擬銀槍が置かれている。
「笑いに来たのか」
こちらを見ないまま、レグルスが言った。
「笑わないよ」
「なら、慰めに来たのか」
僕は首を横へ振った。
惜しかったとは言えない。
大丈夫とも言えない。
三対零で負けた事実は、そんな言葉では変わらない。
だから、見たままを伝えた。
「次は勝てる」
レグルスが顔を上げた。
「ふざけるな」
金色の瞳へ怒りが宿る。
「三対零だ。僕は一度も有効打を取れなかった。槍まで折られた。それを見て、何を根拠に言っている」
「最後の一突きだけ、ユリウスは半歩下がった」
レグルスが黙る。
「最初の二回にはなかった一歩だった」
「それだけで勝てると?」
「レグルスは、同じ負け方を二度しないから」
九歳の雨の日。
何度僕を倒しても、レグルスは同じ突き方をしなかった。
僕が一度でも近づけば、次には必ず対処してきた。
「今日の負けは、誰かに与えられたものじゃない」
かつての彼は、家名を恐れた相手から偽物の勝利を与えられていた。
「本気で戦って、本気で負けた。だから、次へ持っていける」
レグルスは長く黙っていた。
やがて折れた槍の片方を握る。
「次はユリウスを倒す」
声から迷いが消えていた。
「そのあと、君ももう一度叩き潰す」
「その前に、僕から挑むよ」
「昨日三度負けた人間が、よく言う」
「次は三度で終わらせない」
レグルスは笑わなかった。
僕も笑わなかった。
それでよかった。
「根拠のない期待は、優しさではなく侮辱だ」
背後から声がした。
渡り廊下の入り口に、ユリウスが立っている。
「属性適性なしの君が、僕と剣を交える未来もない」
青い瞳は、本当にそう信じていた。
今の僕に反論できる実績はない。
「今は、その通りだね」
「なら、身の程を知ることだ」
「でも、いつか僕から挑むよ」
ユリウスは一度だけ僕を見た。
そこに関心も期待もない。
「そこまで来られたら、相手をしてやる」
そう言い残し、立ち去った。
「アルト!」
放課後、訓練場を出ようとした僕をバルト先生が呼び止めた。
傍らにはティアナとフィア、脇腹を庇うレグルスもいる。
「医務室と模擬迷宮訓練の報告を確認した。お前の学院迷宮実習停止を、条件付きで解除する」
「本当ですか?」
「浅層限定、教師監督つきだ。異常があれば即時撤退。勝手な判断で奥へ進むな」
「はい!」
ティアナが僕の腕を掴んだ。
「よかったね、アルト!」
肩が触れるほど近くで笑う顔を見て、胸の奥が温かくなる。
「臨時班は四人だ。アルト、ティアナ、フィア、レグルス」
僕たちは互いの顔を見た。
まだ、完全な仲間ではない。
それでも今度は、誰も置いていかずに帰りたい。
職員が、実習用の誘導魔石を収めた箱を運び込んできた。
迷宮内で安全な経路と帰還方向を示す、小さな魔導具だ。
蓋が閉じられる直前、箱の底で一つの魔石が黒く明滅した。
その内側には、台帳にない細い術式が刻まれていた。
僕たちが迷宮へ持ち込む魔石には、すでに帰り道とは別の道が刻まれていた。
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