第17話 九歳の雨
翌朝になっても、雨はやまなかった。
僕が外套へ腕を通していると、ティアナが無言で胸元へ手を伸ばしてきた。
「痛っ」
「やっぱり。まだ痛いんじゃない」
昨日、レグルスの槍を受けた場所を、制服の上から指先で確かめられる。続いて彼女は僕の前へしゃがみ、右脚の包帯まで確認した。
「今日は話をするだけだよね?」
「うん。今日は戦わない」
「本当に?」
「本当だよ」
疑うように僕を見上げたあと、ティアナは緩んでいた制服の襟を直した。
顔が近い。
少し緊張している僕には気づかず、外套の留め具まで丁寧に留めてくれる。
「約束。帰ってきたら、ちゃんと聞かせてね」
「分かった」
「怪我も増やさないこと」
「……努力します」
「そこは断言してよ」
頬を膨らませたティアナに見送られ、僕は旧訓練庭へ向かった。
古い石壁に囲まれた訓練庭には、雨音だけが響いていた。
中央には、銀色の長槍を携えたレグルスが立っている。
「来たか、アルト」
「あの……昨日言っていた、僕の忘れ物って?」
レグルスは答えず、懐から何かを取り出した。
投げ渡されたそれを、両手で受け止める。
黒ずんだ木片だった。
雨と泥の染みが残り、握りの部分には幼い手で巻いた布が張りついている。
古びて折れた、木剣の柄。
「君の忘れ物だ」
レグルスの声には、隠しきれない苛立ちがあった。
「次に僕へ勝ちに来るまで預ける、と君は言った」
「僕が……?」
「だが、六年間取りに来なかった」
指先で柄の傷へ触れた。
その瞬間、雨音が遠くなった。
胸の奥へ押し込めていた景色が、ひび割れた記憶の底から溢れ出した。
六年前。
僕たちが九歳だった日のことだ。
その日、レイシアは学院を飛級卒業した。
「先に行って待ってるからね」
学院の門前で、レイシアは僕の頭を撫でた。
騎士団の外套は、まだ小さな身体には少しだけ大きかった。
「うん。僕もすぐ追いつくよ」
僕は笑って手を振った。
レイシアの姿が雨の向こうへ消えるまで、ずっと。
一緒に強くなろう。
そう約束したのに、レイシアだけが先へ行った。
僕はまだ、学院の下位で木剣を振っている。
寂しいと言ったら、困らせてしまう。
置いていかないでと言ったら、レイシアの夢を邪魔してしまう。
だから誰もいない旧訓練庭へ逃げた。
雨に打たれながら、何度も木剣を振った。
涙が出ても、雨なら誰にも分からないと思った。
「いち、に……っ、さん……!」
足を滑らせ、泥へ膝をつく。
それでも立ち上がろうとした時、何かが目の前の泥へ落ちた。
銀色の訓練槍だった。
「ふざけるな……!」
訓練庭の奥に、濃紺の髪を濡らした少年が立っていた。
レグルスだ。
その日の模擬戦で、彼が同年代の生徒全員に勝ったことは僕も知っていた。
けれど、その顔は勝った人には見えなかった。
『若君へ怪我をさせたら、父上に叱られる』
『ヴァレイン家に恨まれたくないからな』
『今のうちに負けておけば、きっと覚えていただける』
彼と戦った子たちが、そんな話をしていたことも思い出した。
僕は泥の中から銀色の槍を拾った。
両手で持つと、木剣よりずっと重かった。
「はい、レグルス」
差し出すと、彼は目を見開いた。
「……なぜ僕の名前を呼ぶ」
「え?」
「ヴァレイン様と呼ばないのか。僕はヴァレイン家の嫡男だ」
何を怒っているのか、当時の僕にはよく分からなかった。
「でも、君の名前はレグルスでしょ?」
「そうだが……」
「僕が戦うのは、ヴァレイン家じゃなくてレグルスだから」
僕は槍を彼の胸へ押しつけた。
「それより、僕と戦ってよ」
「君が僕と?」
レグルスの視線が、僕の木剣と細い腕を順に見た。
「勝てると思っているのか」
「分からない。でも、ちゃんと戦うよ」
少しの沈黙のあと、レグルスは槍を構えた。
「後悔するなよ」
結果は、勝負と呼ぶのも恥ずかしいほど一方的だった。
一度目は、槍先へ触れる前に胸を突かれた。
二度目は、木剣を弾かれた。
三度目は足を払われ、泥の中へ顔から倒れた。
それでも僕は木剣を拾った。
「もう一回」
「やめろ」
「まだできるよ」
「僕には勝てない!」
レグルスの声が雨音を裂いた。
「どうして降参しない。僕は君より強い。戦う前から分かっていただろう!」
「だって……」
痛む腕で木剣を持ち上げる。
「まだレグルスが、勝った顔をしてないから」
彼の槍先が止まった。
「何を言っている」
「みんながわざと負けたこと、分かってるんでしょ?」
レグルスの顔が歪んだ。
怒らせたと思った。
それでも、目を逸らしたくなかった。
「僕は弱いけど、わざと負けたりしないよ」
「僕を哀れんでいるのか」
「違うよ。僕も勝ちたいから戦うんだ」
泥だらけのまま、僕は木剣を正面へ構えた。
「もう一回、レグルス」
今度のレグルスは、最初から本気だった。
突き出された槍を避けるだけで精一杯になる。
肩を打たれ、腕を打たれ、それでも槍を見続けた。
雨で地面はぬかるんでいた。
レグルスが踏み込んだ瞬間、その靴がわずかに滑る。
僕は木剣を下から振り上げ、槍を横へ逸らした。
空いた場所へ、夢中で飛び込む。
木剣の先が、初めてレグルスの肩へ触れた。
「あ……」
次の瞬間、槍の柄が僕の胸へ当たった。
泥の中へ倒れた拍子に、木剣が乾いた音を立てて折れる。
勝ったのは、レグルスだった。
それでも彼は、自分の肩へ触れたまま動かなかった。
「届いた……」
僕が笑うと、レグルスは信じられないものを見るように僕を見た。
僕は折れた木剣の柄を拾い、彼へ差し出した。
「これ、預かっていて」
「なぜ僕が」
「次は僕が勝つから。その時に返して」
「……いつ来る」
「レイシアと、レグルスの両方に追いついたら」
レグルスは木剣の柄を握った。
「なら、僕を見失うな」
金色の瞳が、初めてまっすぐ僕を映した。
「僕も、君が追いつけないほど強くなる」
「うん。何度でも戦おう」
雨音が、現在へ戻ってくる。
僕の手の中には、六年前の木剣の柄があった。
忘れていたんじゃない。
レイシアは英雄になった。
レグルスは上位へ進んだ。
僕だけが戦闘順位最下位のまま、約束した場所から動けなかった。
思い出せば、何も果たせていない自分と向き合わなければならない。
だから、記憶の奥へ押し込んだ。
「忘れたんじゃなかった」
僕は木剣の柄を握り締めた。
「思い出すのが怖かったんだ」
「僕は六年間、君が挑みに来るのを待っていた」
レグルスの声が震えていた。
「なのに君は、水蝶の騎士の背中しか見なくなった。僕がどれだけ勝っても、一度もこちらを見なかった」
「レグルス……」
「君が『僕なんか』と言うたび、あの日の僕まで否定される」
怒りの奥にあったものを、今度は見落とさなかった。
「僕は、君が追いつく価値もない相手だったのか」
「違う」
謝るだけでは、六年は戻らない。
「今の僕は、まだレグルスと同じ場所には立てない。昨日だって、一度も勝てなかった」
「そんなことは分かっている」
「でも、もう見ないふりはしない」
僕はレグルスをまっすぐ見た。
「次は、僕から挑む」
レグルスはしばらく黙っていた。
やがて僕の手にある木剣の柄を、さらに強く押し返す。
「それはもう君が持て。古い約束を理由に、これ以上待つつもりはない」
「でも、僕はまだ勝ってない」
「なら、一度くらい僕に勝ってみせろ」
レグルスは背を向けた。
「それまでは君を認めない」
友達になったわけじゃない。
けれど今度こそ、僕は彼を見失わない。
旧訓練庭を出ると、軒下にティアナが立っていた。
「待ってたの?」
「約束を破って戦ってないか、確認しに来ただけです」
ティアナは僕の前へ来ると、雨で冷えた手を両手で包んだ。
「思い出せた?」
「うん。忘れちゃいけない約束だった」
「また大切な人が増えた?」
「ライバルだよ」
「なら、ちゃんと勝たないとね」
ティアナの手は温かかった。
学院へ戻ると、掲示板の前に人だかりができていた。
翌日の順位模擬戦。その対戦表に、二つの名前が並んでいる。
レグルス・ヴァレイン。
ユリウス・クラウゼル。
人垣の中央には、金髪と青い瞳を持つ少年が立っていた。
戦闘順位上位五名に入る、光と火の魔法剣士。
ユリウスは僕を一瞥すると、隣に立つレグルスへ冷たい笑みを向けた。
「最下位との昔話で満足したのなら、次は現実を教えてやる」
その手が、腰の長剣へ触れる。
「――明日の試合で、君の槍を折る」
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