第174話 欲望まで測る者
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
マリアベルは、傷も飢えも測り終えると、今度は僕が誰を好きになり、誰を欲するかまで数字にしようとした。
灯具周期を一日として刻んできた壁には、同じ二行が幾重にも並んでいる。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
文字の数が正しい日数を示している保証はない。それでも、星冠教団本部へ入った朝から一年近い時間が流れたことだけは、満十八歳になった身体に残る疲労が教えていた。
右前腕には赤黒く盛り上がった瘢痕がある。
左小指は短いままだ。黒銀色の組織も、人間の指先も戻らなかった。
髪は黒に近い濃紺で、瞳も青灰色のまま。
左腕の黒い紋章は肩の手前に留まり、《暴食》も開いていない。
黒銀色の封魔具は、手の届かない施錠箱に収められていた。
「次の試験項目を説明します」
マリアベルが新しい金属製の記録板を卓上へ置いた。
そこには傷の閉鎖時間も、魔力供給圧も書かれていない。
脈拍。
呼吸。
瞳孔。
皮膚温。
視線滞留。
魔力流。
好意反応。
性欲反応。
人間の内側にあるはずのものが、設備点検の項目と同じ幅で並んでいた。
「僕は同意していない」
「承知しております」
「なら、やめろ」
「同意の有無は、今回の測定条件に含まれておりません」
いつもと変わらない穏やかな声だった。
怒鳴られたほうが、まだ人間を相手にしているように思えたかもしれない。
「生体中継核を長期間維持するには、身体反応だけでなく、感情による変動も把握する必要があります」
マリアベルは紙へ項目を写していく。
「恐怖、怒り、好意、性欲。それぞれが外部刺激によって誘導可能か。特定の人物へ向いた感情を、別の人物へ移せるか。その確認です」
「感情まで部品にするのか」
「部品ではありません。変動条件です」
訂正された言葉のほうが、ひどく冷たかった。
僕が誰を大切に思うか。
誰に触れたいと思うか。
誰の隣へ帰りたいか。
マリアベルにとっては、圧力札の針がどこまで動くかと同じだった。
拘束室には、新しい魔法陣も術具も持ち込まれなかった。
看守が灯具の遮光板を下ろす。
白かった光が弱まり、石壁へ暖かな色の影が伸びた。
別の看守が物理弁を回すと、冷えた室内へ少しずつ温かな空気が流れ込む。
卓上の小さな容器が開かれた。
甘さを抑えた、静かな香りが広がる。
鼻を刺す薬品臭ではない。魔力も含まれていない。呼吸を変えるほど強くもなかった。
ただ、これまで石と鉄と血の匂いしかなかった場所には、あまりにも不自然だった。
「媚薬ではありません」
僕の視線に気づいたマリアベルが言った。
「精神魔法も使用しません。通常の感覚刺激だけを比較します」
「それで安心するとでも?」
「安心の誘導も、現時点では確認しておりません」
計時器の振り子が動き始めた。
成人の記録担当が僕の通常時の脈を数え、呼吸札へ線を引く。
瞳孔を確認する小さな鏡が向けられ、冷たい金属札が右手の甲へ触れた。
数字が揃うと、マリアベルは濃色の外套を脱いだ。
布が肩を滑る小さな音が、静かな拘束室では妙に明瞭だった。
続いて手袋を外す。
露わになった手首は細く、指先まで手入れが行き届いている。整えられた濃色の衣服の上で、白い喉元が灯具の淡い光を受けていた。
髪が肩の傍らへ落ちる。
唇が呼吸に合わせ、わずかに開閉する。
マリアベルが美しい成人女性であることは分かった。
姿勢も、声も、視線の運び方も整っている。
だからといって、近づいてほしいとは思わない。
触れたいとも、触れられたいとも思わなかった。
彼女が一歩近づく。
衣擦れがした。
香りが少し濃くなった。
もう一歩。
僕の脈が速くなる。
「接近時、脈拍上昇」
記録担当が読み上げる。
「呼吸も浅くなっています」
マリアベルの眼差しが、僕の青灰色の目を捉えた。
逃げられない距離だった。
けれど僕の視線は、彼女の唇ではなく、右手の位置を追っていた。
外套を置いた場所。
扉までの距離。
記録板。
腰に道具を隠していないか。
拘束者が近づけば、身体は警戒する。
脈が上がるのは、望んだからではない。
「私を美しいと思いますか」
「答える必要はない」
「外見の認識と好意は別項目です」
「なら、勝手に記録すればいい」
マリアベルは気分を害した様子もなく、さらに半歩近づいた。
吐息が頬へ触れそうな距離。
低く落とされた声が、耳のすぐ傍へ届く。
「私へ触れたいと思いますか」
両手首は黒い拘束環に留められている。
だが、自由だったとしても答えは同じだった。
僕は顔を横へ向けた。
「身体方向、刺激源より離隔」
筆が紙を擦る。
「接触願望を示す言葉なし」
マリアベルの素手が、僕の右手首へ触れた。
脈を数えるための指だった。
柔らかな皮膚の感触と、一定の体温は分かる。
それ以上の意味はない。
右前腕の瘢痕が引きつれた。
脈はさらに速くなったが、彼女へ向かって身体が緩むことはなかった。
「皮膚温、上昇」
「肩と頸部は硬直しています」
「瞳孔変化は?」
「持続せず。視線は扉と右手を往復」
マリアベルは僕の手首から指を離した。
「警戒反応ですね」
自分で用意した刺激の失敗を、正確に切り分ける声だった。
「脈拍上昇だけでは、好意や性欲とは判断できません」
「最初から分かっていたことだ」
「推測と測定結果は別です」
彼女の指先が、今度は僕の顎へ短く触れた。
顔を正面へ戻そうとする、ごく弱い力。
僕は首の動く範囲で逆へ離れた。
マリアベルは追わなかった。
「触れられることを望みますか」
「望まない」
「私と二人きりでいたいと思いますか」
「ここから出たい」
「私へ好意を向けることは可能ですか」
「命令されて向けるものじゃない」
一つ答えるたび、紙へ線が増えた。
拒絶も沈黙も、僕のものではなく測定値にされる。
傷を切られた時とは違う。
小指を欠かされた時とも違う。
感情は身体の中に残された、最後の私有物だと思っていた。
それさえ彼女は、呼吸何回、脈何回、応答まで何心拍という数字へ崩そうとしている。
「視覚、香り、声、距離、軽度接触。いずれも好意誘導なし」
マリアベルが読み上げた。
「性欲反応も確認できません」
「僕に欲望がないとでも書くのか」
「いいえ。私へ向いていないことしか確認できておりません」
その答えには、慰めも侮辱もなかった。
ただ測定範囲を正しく区切っている。
だからこそ、次に何を探すのかが分かった。
「外部刺激に反応しないのであれば、既存の感情がどこへ結びついているかを確認します」
マリアベルは一度距離を戻した。
僕の脈が下がり始める。
「帰還を約束した人物はいますか」
答えなかった。
「あなたの名を、誰に呼ばれたいですか」
壁へ刻んだ文字が視界の端に入った。
アルト・ロウェル。
人間は対象外。
「触れられることで安心できた人物は?」
計時器が音を刻む。
「未来を共に選ぶはずだった人物はいますか」
忘れようとしていたわけではない。
思い出せば苦しくなるから、目の前の一呼吸だけを繋いできた。
それでも問いによって、記憶は開いた。
差し出された手。
幼い頃から何度も聞いた声。
僕の名を呼ぶ時だけ、少し深くなる響き。
別々の配置を守り、必ず帰ると約束した夜。
帰還したら孤児院へ報告して、そのあと二人で指輪を選ぶはずだった。
身体の記憶ではない。
裸も、性的な触れ合いも浮かばない。
ただ、その人の隣へ帰りたいという思いだけが、胸の奥で形を取り戻した。
息が一度、深くなった。
拘束環の中で右手の指が動く。
乱れていた魔力流が、ごく短く揃った。
「脈拍変化」
記録担当の声がした。
「先ほどの接近時とは周期が異なります。呼吸が深くなりました」
「瞳孔、持続変化あり」
「視線は刺激源ではなく、壁面の本人名へ移動」
マリアベルが僕を見た。
思考を読んだわけではない。
名前も知らない。
身体へ現れた違いを、記録から拾っただけだ。
それでも、僕の大切な記憶へ指を掛けられたような屈辱があった。
マリアベルは再び近づいた。
香りも、静かな声も、整った顔も先ほどと同じだ。
今度は頬へ触れず、吐息が届く距離で止まった。
「今、あなたが欲したのは私ですか」
「あなたじゃない」
振り子が一度、往復した。
紙の上を、筆先が走る。
マリアベルの顔には、怒りも、傷ついた色も、嫉妬も浮かばなかった。
彼女は僕から離れ、外套ではなく記録板を手に取った。
「自己刺激源への好意誘導なし。性欲誘導なし。接近時反応は警戒および回避」
項目が一つずつ埋められる。
「特定人物を示す記憶想起時のみ、異なる情動反応を確認。人物名、関係、現在位置は未確認」
僕が誰を思い出したのか、彼女には分からない。
私的な約束も、指輪を選ぶ予定も伝えていない。
それでも、感情が存在する場所だけは測られた。
「外見や香りではなく、積み重ねた記憶へ結合している可能性があります」
マリアベルは淡々と告げた。
「失敗した気分は?」
「失敗ではありません。通常の感覚刺激による誘導限界が確認できました」
彼女は僕の思いを美しいとは言わなかった。
守ろうとも、尊重しようともしない。
ただ、今の方法では動かせない構造として記録した。
記録板の下段には、まだ空白が残っていた。
マリアベルはそこへ、次段階の検討項目を書き加える。
記憶を消したわけではない。
偽物へ置き換えたわけでもない。
別の何かを注入されたわけでもない。
けれど、外から向きを変えられないのなら、感情そのものへ別の条件を加える。
その考えが、筆音の中にあった。
僕は壁の名前を見た。
アルト・ロウェル。
誰を好きになり、誰のもとへ帰るかは、圧力札の目盛りではない。
彼女の記録板へ書かれても、僕の感情まで彼女のものになったわけではなかった。
マリアベルは怒らず、『特定人物との記憶結合が強固。外部刺激のみでは誘導不能――別因子を要す』と記録した。
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