第173話 眠らない水蝶
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
アルトが奪われてから季節が巡り、もうすぐ一年になる頃、私は眠る時間まで捜索記録へ変えていた。
水蝶騎士団長としての仕事を減らしたことはない。
朝は救護受領点を回り、治療を続ける捕虜の搬送順を確認する。昼は通常警備と緊急出動の配置を決め、訓練、物資、休暇の申請へ印を押す。
王都と各地の防衛を空にしない。それは、アルトを探すことと同じくらい、私が守るべき約束だった。
だから削ったのは、部下の休息でも、救護対象へ渡す時間でもない。
私自身の眠る時間だった。
夜になると星冠塔地下の記録区画へ移り、第五環の旧構造図を照合卓へ広げた。
回転区画の移動量。搬送棺の車輪跡。圧力札。通気記録。閉鎖扉の順番。油と鉄粉の試料。
一枚ずつ確認しているうちに灯具が白み、仮眠予定を示す札だけが、何度も未使用のまま裏返された。
私が目を閉じている間に、アルトが別の場所へ運ばれるかもしれない。
今も眠ることを許されているのか、食事を与えられているのか、傷つけられているのかさえ分からない。
感じ取ったわけではない。
分からないからこそ、考えずにはいられなかった。
帰還したら孤児院へ報告し、正式な手続きをして、二人で指輪を選ぶはずだった。
指輪のない左手で測量紙を押さえるたび、あの朝から時間だけが進んでいることを思い知らされた。
その夜、臨時構造照合卓へ最初に来たのはフィアだった。
右腕の固定具はもうない。だが、制御線の試料を置く動作には、肩を庇うわずかな硬さが残っていた。
「切断面は、私の剣による一度の斬撃と一致した」
フィアは短く報告した。
剣は折れていない。
彼女が一年前に切ったのも、成人確認済みの物理制御線だ。捕虜の生命維持線ではない。
「外側の端は摩耗していない。内側だけ、同じ方向へ擦れている」
試料の金属線には、片側へ偏った細い傷が並んでいた。
巻き上げ機構へ引かれ続けた痕だった。
同型線から採取された黒い油も、内側端にだけ付いている。
「一年前の機構が、その後も動いた可能性があるのね」
「ある。断定はまだできない」
フィアは制御線を見下ろした。
「一年前、守れなかった。だから今度は、証拠のない道へ走らない」
その声には、消えていない痛みがあった。
私も同じだった。
それでも、壁を斬れば届くかもしれないという衝動を、私たちは測量と確認へ変えてきた。
感情だけで踏み込めば、アルトがいるかもしれない場所ごと潰してしまう。
次にティアナが、成人構造騎士と測った紙を広げた。
長く話すと脇腹が痛むのか、ときおり呼吸が浅くなる。けれど、彼女の指は正確に固定鋲の位置を辿った。
「第五環の既知の円周と、この鋲列の曲率が合いません」
測り縄から写した弧が、旧構造図の内側へ食い込んでいる。
「こちらのほうが半径が小さいです。それに、同じ間隔で並ぶはずの固定鋲が、中央支持部側だけ何か所も空いています」
「石が崩れた跡ではないの?」
「成人構造騎士にも確認していただきました。床高は揃っていますし、支柱の荷重も途切れていません。ただ、打音だけが違います」
図面では無垢の石とされている。
だが、叩いた音は一部だけ、奥へ逃げていた。
ゴウセル団長の検証印も記録紙の端にあった。
内側に空間が存在する可能性。ただし規模も入口も不明。
ティアナは、それ以上を書いていなかった。
続いてレグルスが、束ねた圧力記録を置いた。
胸部の古傷が痛むのか、椅子へ腰掛ける時だけ眉が動いた。それでも彼は、記憶だけに頼らず、回収された圧力札と一年分の紙を順番に並べた。
「外環側は通常値へ戻った。だが中心側の戻り弁だけ、弱い反応を繰り返している」
赤い線が中央へ向かい、少し遅れて細い青線が同じ場所から戻っている。
「地上へ抜けている圧力じゃない。外環へ流れた記録もない。既知の管だけでは、この往復は説明できない」
「閉じた圧力路が、中央側にある」
「可能性は高い。反圧が戻る時刻にも規則がある」
だからこそ、調査棒を通すなら、その時刻を避けられる。
レグルスの記録は構造を解明したのではない。
安全に調べられる時間を作った。
セルフィナは精霊を連れていなかった。
淡い銀緑色の髪の毛先が、照合卓へ屈むたびに揺れる。額の傷は薄くなったが、長時間立つとまだ眩暈が残るという。
彼女が置いたのは、細い薄紙と煤を付けた板、それに普通の聴音具だった。
「反圧が戻る時刻と、薄紙が中心側から外へ揺れる時刻が一致しました」
結露の乾いた向きも、煤が流れた筋も同じだった。
「図面では石壁です。でも、その向こうから空気が戻っています」
「亀裂では?」
私が尋ねると、セルフィナは聴音記録を差し出した。
「一枚の壁の亀裂なら、反響は一度です。これは時間を置いて複数回返っています。距離も部屋数も分かりません。ただ、空気が通る空間はあります」
未来を見たわけでも、精霊に危険な道を探らせたわけでもない。
薄紙と煤と音が、中心側の空間を示していた。
最後にローディンさんが、傷の残る金属記録板と透明図を持ってきた。
肩の動きには今も硬さがある。
それでも彼は剣ではなく、記録を手にしていた。
隔壁の落下。区画回転。封魔具の強制解除。魔力注入。《暴食》の強制開放。左半身の変化。
四人の非致死制圧と、全員の生存。
そして、アルトが致命軌道を自ら逸らした時刻。
「搬送棺閉鎖時点、アルト・ロウェルは生存」
ローディンさんは、一年前と同じ記録を読み上げた。
「車輪は中心側へ移動。物理扉は三段階で閉鎖。以後の直接観測なし」
透明図が重ねられる。
フィアの制御線。
ティアナの小さな円弧。
レグルスの圧力。
セルフィナの空気と反響。
ローディンさんの時系列。
五本の線が、中央支持部の同じ点検穴近くへ集まった。
「明朝、成人構造騎士と封印騎士に荷重確認を求めます」
私は点検候補へ番号を書いた。
一度。
その下へ、同じ番号をもう一度書きかけた。
筆先が止まる。
消そうとした指が、思うように動かなかった。
「……違う」
掠れた声が、自分のものではないように聞こえた。
番号を修正しようと立ち上がる。
その瞬間、照合卓も、旧構造図も、灯具も一斉に暗くなった。
足元から床が消えた。
けれど、頭が机へ当たる前に、大きな腕が肩と背中を支えた。
「とうとう落ちやがったか」
無精髭の向こうで、ガイ団長が顔をしかめていた。
「離してください。確認が、まだ――」
「黙って座れ」
私は卓へ手を伸ばした。
ガイ団長は私を椅子へ下ろし、その手から筆を取り上げた。
「お前が倒れても、あいつへ近づく線は一本も増えねえ」
「でも、点検時刻を――」
「レグルスが残した。ローディンもいる」
扉側にはゴウセル団長が立っていた。
私の手首へ指を当て、呼吸と震えを確かめる。その表情は静かだったが、逃げ道を許す目ではなかった。
「この状態で出した確認は、構造騎士が再確認することになる。作業を増やすだけだ」
「私は、まだ判断できます」
「同じ番号を二度書いた」
言葉を失った。
扉の外から成人医療員と、水蝶騎士団の副責任者が入ってくる。
アーサー団長は、すでに引き継ぎ書を手にしていた。
長く束ねた金髪の下で、青い瞳がまっすぐ私を見る。
「水蝶騎士団の救護受領、通常警備、緊急出動待機は副責任者が引き継ぎました。捜索線はガイ団長、構造確認はゴウセル団長、記録照合は私とローディンが受け持ちます」
「勝手に決めないで」
「団長間の安全確認です。あなたも部下には同じ命令を出すはずです」
否定できなかった。
「眠ることは捜索をやめることではない。あなたが目を閉じている間も、私たちが線を守る」
「アルトが眠れているかも分からないのに、私だけ――」
声が震えた。
私は何も感じ取れていない。
眠れていないと知っているわけでもない。
ただ、知らない場所で苦しんでいるかもしれない彼を残して、自分だけ目を閉じることが怖かった。
ガイ団長の手が、倒れないよう肩を支え直した。
「だから探してんだろうが。一人で潰れるためじゃねえ」
ゴウセル団長が照合卓を閉じた。
「救出時に指揮官が倒れていては意味がない」
私は再び立とうとした。
膝は一度も身体を持ち上げなかった。
休息区画までは、ガイ団長とアーサー団長に両側から支えられた。
拘束も、薬も、魔法も使われていない。
それでも、寝台へ横たわると身体は命令より早く沈んだ。
夢は見なかった。
声も聞かなかった。
何も感じないまま、私は眠った。
目を開けた時も、アルトの居場所は分からなかった。
頭痛も、目の奥の重さも残っている。
けれど霞んでいた文字は、一行ずつ読めるようになっていた。
成人医療員の確認を受けたあと、副責任者から報告を受ける。
救護受領に遅れなし。通常警備に異常なし。緊急配置も維持。
私が眠っていたことで、誰かが見捨てられた事実はなかった。
臨時構造照合卓へ戻ると、五人が残した記録が順番に並べられていた。
その中央には、封印布の上へ載せられた一本の金属検査棒があった。
先端に、黒い油と細かな鉄粉が付着している。
「荷重、圧力、生命維持線への影響なしを確認後、既存点検穴へ通しました」
ローディンさんが報告した。
「図面上の壁厚を越えた位置で、抵抗が消失。空間へ抜けています」
フィアが、二つの試料板を示す。
「油と鉄粉は、搬送棺の軌道から回収したものと一致した」
私が眠っている間に、成人構造騎士と封印騎士が安全を確認し、五人の証拠を使って調べた結果だった。
中央支持部の向こうには、空間がある。
しかも、一年前で止まった遺構ではない。
今も機械油を必要とする、動く物理機構がある。
それでも、入口はまだない。
検査棒一本が通る穴へ、人は入れない。内側の荷重も、罠も、捕虜の有無も、アルトの位置も分からない。
「破壊はしません」
私は検査棒を見つめたまま告げた。
「安全な接続、退路、救護受領を揃えます。証拠を増やしてから入ります」
誰も急かさなかった。
フィアも、ティアナも、レグルスも、セルフィナも、一年前の傷を抱えながら頷いた。
感情が消えたからではない。
今度こそ、感情だけでアルトへの道を潰さないためだった。
私は休息交代表を受け取った。
今まで空白にしていた団長欄へ、自分の名を書く。
眠ることは、諦めることではない。
アルトを連れ帰る日まで、判断を失わず指揮を続けるための役割だった。
私が眠っている間も捜索線は消えず、アルトへ続く物理的な証拠は、仲間たちの手で一つずつ積み上がっていた。
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