第172話 飢えの飼育
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
食事と睡眠が戻されたのは、僕を回復させるためではなく、次に奪った時の《暴食》を測るためだった。
薄い粥を与えられ、灯具を落とされたあとも、身体が元へ戻ったわけではない。
右前腕では赤黒い瘢痕が脈打っている。白布と小さな固定具に包まれた左小指は、先端が欠けたままだ。
濃紺の髪も、青灰色の目も変わっていない。
けれど僕の身体はもう、食事と睡眠によって回復する身体ではなく、条件を揃えるための器材として記録されていた。
「今回、飲み水は条件から除外します」
記録卓の前に立ったマリアベルが、紙の表へ三本の縦線を引いた。
「前回の観察により、水分は魔力で代替できないと確認されました。生命維持に必要な範囲で、一定間隔ごとにお渡しします」
「それ以外を奪うんだろ」
「食事、睡眠、漏出魔力。この三条件を組み替えます」
壁際には、これまでなかった金属容器が固定されていた。
容器から伸びた細い管は、僕の身体ではなく、石壁に埋め込まれた放出口へ繋がっている。圧力札の隣には物理弁があり、看守が取っ手を回せる構造だった。
「中には何がある」
「魔物から分離された漏出魔力です。本体も、生命も含まれておりません」
施錠箱の確認窓には、奪われた黒銀色の封魔具が変わらず収められている。
僕の左腕へ戻される気配はない。
最初の測定は、食事と睡眠を与えられた状態で始まった。
両手首、両足首、腰、胸は黒い拘束具に固定されたままだ。僕の呼吸を数える担当者が札を持ち、もう一人が振り子式の計時器を動かす。
漏出魔力はまだ流されていない。
黒い紋章は肩の手前で止まり、《暴食》も閉じたままだった。
時間が過ぎても変化はない。
「食事不足や疲労だけで開くわけではない、か」
僕が言うと、マリアベルは紙へ短く記した。
「では、第一放出口を開いてください」
看守が弁をわずかに回す。
金属容器の内部から薄い魔力が押し出された。色の違う粒子が、石壁の穴から煙より細く漏れ出してくる。
左腕の紋章が熱を持った。
それでも、すぐには開かない。
呼吸を数える声と、振り子が刻む音だけが拘束室に重なった。
看守が弁をもう一目盛り回した時、左腕の内側が空洞になった。
僕は望んでいない。
使うと決めてもいない。
それなのに、放出口の魔力が僕へ向かって曲がった。
観察小窓の蓋も同時に開かれた。
鉄格子の向こうには、別の拘束具を付けられた成人の捕虜が座っていた。顔は暗がりに隠れ、名前も所属も分からない。
低い咳と、浅い呼吸だけが聞こえた。
拘束台の傍らには看守がいる。
漏出魔力。看守の体内魔力。格子の向こうにいる人の生命活動。
《暴食》が開いたことで、それぞれの存在へ至る方向だけが輪郭を持った。
「開くかどうかは身体が決めます。あなたには、開いた後の対象を選んでいただきます」
「選ばない」
「指定がなければ、反応の拡散も記録対象となります」
左腕の熱が増した。
僕が拒絶しても、開いた反応は止まらない。放出口から漏れた魔力が引かれ、床の粉塵まで左腕へ寄ってくる。
僕に残っているのは、開くかどうかを決める力ではなかった。
「左の放出口から漏れた魔力だけだ」
声にした瞬間、広がりかけていた吸収の方向が一本へ狭まった。
看守には触れない。
格子の向こうの捕虜にも触れない。
魔物から分離され、室内へ放出された魔力だけが黒い紋章へ吸い込まれた。
看守が弁を閉じる。
漏出が途切れると、吸収反応も弱まり、やがて閉じた。僕が任意に閉じたわけではない。
格子の向こうから、まだ呼吸が聞こえる。
看守も立ったままだ。
「食事、睡眠あり。漏出二段階。反応まで――」
マリアベルは計時器の数字を読み、金属板へ刻んだ。
人間を対象から外したことは、僕の判断ではなく、選択結果という欄へ記された。
次の灯具周期では、食事盆が来なかった。
水だけが普通の杯で与えられた。
喉を潤したところで、胃の奥にある空洞は埋まらない。身体は前回より冷え、右前腕の瘢痕も強く痛んだ。
ただし、灯具は落とされた。
細切れではあっても眠ることは許された。
次に目を開けた時、金属容器の弁は前より小さく開かれた。
それだけで紋章が脈打った。
圧力札の針がほとんど動いていないうちに、漏出魔力が僕へ曲がり始める。
前回より早い。
前回より少ない。
胃が縮む痛みと、左腕の空洞が同じ場所へ繋がったように感じた。
「対象を指定してください」
「放出口の……漏出魔力だけだ。人間は対象外」
吸収は一本に絞られた。
捕虜の咳は消えない。看守の呼吸も乱れていない。
マリアベルは僕ではなく、計時器を見ていた。
「食事不足。睡眠あり。第一条件より低圧、短時間で反応」
僕の空腹は、彼女の記録では時間を縮めるための数字だった。
その次は食事が戻った。
僕は食べた。
星門派へ従うためではない。ロウェル孤児院へ帰り、仲間たちの生存を自分の目で確かめ、レイシアと交わした約束を守るためだ。
しかし、その周期では眠らせてもらえなかった。
瞼が落ちかけるたびに灯具が明るくなる。
扉の留め棒が鳴り、担当者が応答を求めた。眠りへ沈んでも、呼吸が深くなる前に起こされた。
幻は見なかった。
代わりに、現実の輪郭そのものが鈍くなった。
三度目の漏出魔力が流された時、紋章の反応は空腹時より遅かった。
けれど、食事も睡眠も与えられていた最初の条件より早い。
「対象を指定してください」
言葉の意味を理解してから、声にするまでが遠かった。
黒い紋章へ向かう魔力の筋が、放出口の周囲で揺れる。
「……漏出、魔力だけ」
僕が答えるまでの時間も、マリアベルは記録した。
疲れは《暴食》を開きやすくするだけではない。
喰ってはいけないものを外す判断を、遅らせる。
その事実のほうが、空腹より恐ろしかった。
次の条件では、食事もまとまった睡眠も与えられなかった。
水は来た。
左小指の白布も交換された。
死なせないための処置だけは続き、そのうえで身体から余裕だけが削られていった。
灯具が何度点き、何度消えたのか、正確には分からない。
腹の痛みはやがて重い虚脱感へ変わった。考えようとすると視界が暗くなり、言葉が頭の中でほどけていく。
その状態で、看守は弁に指を掛けた。
ほんのわずかに開く。
圧力札の針は、最初の目盛りにも届かなかった。
それでも《暴食》は開いた。
左腕が熱を持つより早く、胸の内側が空洞へ落ちる。漏出魔力が細い線となり、僕へ引き寄せられた。
同時に、看守と格子の向こうの捕虜へ向かう方向が浮かんだ。
欲しいと思ったわけではない。
喰うと決めたわけでもない。
ただ、疲れきった意識が境界を引くより先に、強制された反応が複数の経路を拾い上げた。
右手で拘束台の縁を掴んだ。
短い物理スライドが硬い音を立て、右前腕の瘢痕が内側から裂けるように痛んだ。
「人間は……対象外」
マリアベルの視線が計時器から僕へ移る。
「対象を明確にしてください」
「左の放出口から出た、分離済みの漏出魔力だけだ」
魔力の筋が一本へ束ねられた。
看守へ伸びかけた方向が消える。
鉄格子の向こうへ向いていた方向も消える。
残った漏出魔力だけが、僕の意思とは無関係に吸い込まれた。
「僕が選んでいるのは、喰うことじゃない。人間を対象から外すことだ」
掠れた声でも、言葉にはできた。
看守が弁を閉じる。
格子の向こうで、捕虜が息を吐いた。
生きている。
傍らの看守も、体内魔力を奪われてはいない。
マリアベルは安堵しなかった。
ただ、条件欄へ線を引いた。
「食事不足、睡眠不足、漏出魔力あり。最低圧で反応。対象指定までの遅延増加。人間除外は維持」
「これを……続けるつもりか」
「同じ状態を維持し続ければ、生命活動と判断能力を損ないます。したがって食事と睡眠を周期的に戻し、回復幅を確認したうえで再開します」
満たしはしない。
死なせもしない。
《暴食》が開かなくなるほど回復させず、人間を外せなくなるほど壊しもしない。
僕の飢えまで、星門派の管理物になった。
これは食事を断つだけの実験ではない。
飢えを飼うための飼育だった。
薄い粥が戻された時、右手首の拘束環だけが短いスライド上をわずかに動いた。
匙を持てるだけの距離。
扉にも、施錠箱にも届かない。
けれど、拘束台の横にある石壁の目地へは届いた。
僕は粥を食べ終えたあと、拘束環の外れない留め金を壁へ押し当てた。
右前腕の瘢痕が痛む。
それでも、柔らかい目地を少しずつ削った。
短くなった左小指は使わない。血も使わない。
最初に刻んだのは、僕の名前だった。
アルト・ロウェル。
器でも、中継核でもない。
灰鬼騎士団の新人騎士で、孤児院で育ち、仲間と帰る約束をした僕の名前だ。
その下へ、もう一行を刻んだ。
人間は対象外。
灯具が消え、まとまった睡眠を与えられた。
次に点いた時、食事盆は再び消えていた。
僕はそれを一日と決めた。
正しい日付でなくてもいい。灯具が消えて、また点くたびに、同じ二行を増やす。
二組目を削っている途中で、看守に見つかった。
「壁面に文字があります」
報告を受けたマリアベルは、刻み目を指先でなぞることもなく眺めた。
「残してください」
「よろしいのですか」
「飢餓と睡眠不足の条件下でも、自己認識と対象除外規則が継続するか確認できます」
僕が自分を守るために刻んだ言葉まで、彼女は観測記録に変えた。
それでも、やめる理由にはならなかった。
利用されても、名前は僕のものだ。
記録されても、人間を外すという判断は僕のものだ。
何度《暴食》を開かされても人間を選ばないために、僕はその日も壁へ『アルト・ロウェル』『人間は対象外』と刻んだ。
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