第171話 魔力だけでは生きられない
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
食事の盆が来なくなり、代わりに魔力供給の弁だけが開いた時、次の実験が始まったと分かった。
窓のない拘束室では、朝も夜も分からない。
天井の灯具が暗くなり、再び明るくなる。
記録担当者が交代する。
その繰り返しだけで時間を数えていた。
けれど、食事も水も一度も運ばれてこなかった。
僕が拒絶したわけではない。
星門派が、最初から与えなかった。
黒い拘束台へ固定された身体には、前の実験が残っている。
右前腕には赤黒く盛り上がった瘢痕。
左手小指は先端が欠け、白い布と小型固定具に包まれている。
左腕の擦過傷と圧迫痕も消えず、指先の震えと感覚の遅れも続いていた。
濃紺の髪と青灰色の瞳は変わっていない。
黒い紋章も肩の手前で止まっている。
奪われた黒銀色の封魔具は、施錠箱の中だった。
あれが僕の腕へ戻される気配もない。
代わりに、壁の物理弁だけが一定の間隔で回された。
金属管が鳴り、圧力札の針が上がる。
第五環から流された魔力が、壁と床と拘束台の供給口を通じ、むき出しの左腕へ押しつけられた。
「何を測っている」
問いかけた声は、まだ普段に近かった。
記録卓の前に立ったマリアベルが、金属板から目を上げる。
「外部魔力だけで、あなたの生命活動を維持できるか確認しています」
「魔力は食事じゃない」
「結果を確認する前に、同じものではないとは断定できません」
「水も寄越さずに確認することか」
「水分が魔力で代替可能かも、同じ試験に含まれます」
穏やかな答えだった。
飢えや渇きの話ではない。
供給可能か、不可能か。
彼女にとって僕の身体は、その二つへ分類するための設備だった。
「僕は協力しない」
「食事を断つために、あなたの協力は必要ありません」
成人担当者が物理弁を第一位置まで回す。
左腕の黒い紋章が熱を持った。
僕は能力名を口にしていない。
使うとも決めていない。
それでも外部魔力によって条件を作られ、《暴食》は僕の意思と無関係に開いた。
左腕の内側が空洞になる。
壁、床、拘束台から押し出された魔力だけが、その空洞へ吸い込まれた。
人も、物も、水も、食事も吸わない。
魔力だけだった。
最初に変わったのは、腹の痛みだった。
空っぽの胃が縮むような痛みが、少しだけ遠のく。
身体の冷えも和らいだ。
霞んでいた視界が戻り、重かった瞼が持ち上がる。
拘束環の中で、指を僅かに曲げる力も戻った。
「空腹感の減少を確認」
マリアベルが記録する。
「意識応答も改善」
「腹が満たされたわけじゃない」
「体感と生命維持は分けて記録します」
物理弁が閉じられた。
魔力供給が途切れ、《暴食》の反応も消える。
僕が閉じたのではない。
吸収する魔力がなくなったため、開いた状態を保てなくなっただけだ。
しばらくすると、腹の重さが戻った。
痛むような空腹は、やがて身体の奥が空になったような虚脱感へ変わっていった。
次に魔力を流された時も同じだった。
空腹だけが少し鈍る。
冷えが一時的に和らぐ。
けれど、喉は乾いたままだ。
口の中に水分が戻ることはない。
舌を動かすたび、ざらついた痛みが走った。
「水分状態の改善なし」
今度の記録には、そう書かれた。
灯具が暗くなる。
また明るくなる。
正確に何度繰り返したのか、途中から分からなくなった。
担当者は一定の間隔で僕の手首へ触れ、脈を数えた。
胸の動きを見て呼吸を記録する。
床下の荷重計を読み、名前と現在地を尋ねる。
「アルト・ロウェル」
最初はすぐに答えられた。
「星冠塔直下、第五環の拘束室」
次には、声を出すまで少し時間が掛かった。
さらに次には、質問の意味が頭へ届くまで待たなければならなかった。
記憶は消えていない。
僕の名前も、五人の呼吸も、レイシアとの約束も覚えている。
ただ、考えを言葉へ変える力が遅くなっていく。
魔力を吸収すれば、一時的に霞みは薄れた。
けれど回復する時間は、供給を繰り返すほど短くなった。
右前腕の瘢痕も治らない。
むしろ身体が弱るにつれ、その下の痛みは強くなった。
左小指の布も交換されたが、欠けた先端が伸びることはない。
魔力は傷口を一時的に黒銀色で埋めても、人間の身体を作ってはくれなかった。
食事の代わりにもならない。
水の代わりにもならない。
それでも弁は開かれた。
魔力が流れる。
《暴食》が強制的に反応する。
腹の重さだけが遠のき、喉の渇きと身体の弱りは残った。
やがて、魔力を流された直後にも瞼を保てなくなった。
「アルト・ロウェル。応答してください」
成人担当者の声が聞こえる。
返事をしようとした。
けれど、口を開くより先に意識が落ちた。
夢は見なかった。
どれほど眠ったのかも分からない。
肩を揺すられ、目を開ける。
天井の灯具は同じ明るさだった。
「応答を」
「……アルト、ロウェル」
声が掠れた。
「現在地は」
分かっている。
分かっているのに、言葉が出てこない。
第五環。
内側。
拘束室。
頭の中にある三つを並べるだけで、ひどく時間が掛かった。
「魔力供給直後も、応答速度の改善は限定的です」
担当者がマリアベルへ報告する。
僕の手首へ指を当て、呼吸と体温を確認する。
床下の荷重計にも視線を落とした。
「水分不足の兆候が継続。傷の回復も進んでいません。このままの継続は、生命活動の維持へ危険があります」
マリアベルは圧力札と記録板を見比べた。
僕の顔ではなく、積み上がった結果を見る。
「追加供給では補えませんか」
「空腹感と覚醒への一時効果だけです。水分、栄養、睡眠の代替は確認できません」
短い沈黙の後、マリアベルが記録板へ線を引いた。
「試験を一度中断します。最初に水分を戻してください」
慈悲ではない。
僕を死なせないための、設備管理だった。
それでも、水差しが運び込まれた時、身体は勝手に反応した。
成人担当者が普通の杯を僕の口元へ近づける。
両手首の拘束は外されていない。
「少しずつ飲んでください」
星門派に従いたいからではない。
生きて帰るためだ。
レイシアのところへ戻るためだ。
僕は杯へ口を付けた。
水が喉を通る。
最初の一口は、乾いた場所へ染み込むだけで消えたように感じた。
次の一口で、ようやく喉の痛みが少し和らぐ。
息を吸う苦しさも弱くなった。
声を出そうとすると、まだ掠れている。
腹の中の重い空白も残ったままだ。
手足へ力は戻らない。
瞼も重い。
水は水分にしかならなかった。
それだけでも、魔力とは全く違った。
「水分摂取後、発声と呼吸に改善」
マリアベルの筆が動く。
「虚脱、思考遅延、空腹感は継続」
水差しの次に、湯気の弱い食事盆が置かれた。
薄いスープと柔らかい粥だった。
豪華な食事ではない。
けれど匂いを感じた瞬間、鈍くなっていた空腹が痛みとなって戻った。
成人担当者が匙を持つ。
「食べられますか」
僕は頷いた。
これも協力ではない。
降伏でもない。
生き残るために必要なものを、奪った側から取り返すだけだ。
一口を飲み込む。
空の胃が驚いたように痛んだ。
それでも、ゆっくりと次を受け入れる。
食事が進むにつれ、震えが少しずつ弱まった。
指先へ力が戻る。
頭の中で絡んでいた言葉も、順番に並べられるようになった。
右前腕の瘢痕は消えない。
左小指も短いままだ。
左腕の感覚遅延も残っている。
けれど水だけでは戻らなかった部分が、食事によって少しだけ持ち直していく。
「栄養摂取後、震えと応答遅延に改善」
記録が増える。
「空腹感も軽減。外部魔力供給時より持続」
食事盆が下げられた後、天井の灯具が暗くされた。
拘束は外されない。
胸と腰の固定帯が少し緩められ、呼吸だけがしやすくなる。
「次は睡眠状態を確認します」
眠らないと決める必要はなかった。
抵抗する意味もない。
目を閉じた瞬間、意識は深く沈んだ。
夢も、声もなかった。
次に目を覚ました時、灯具は再び明るくなっていた。
身体は完全には戻っていない。
それでも視界の霞みは薄く、質問の意味もすぐに分かった。
「名前を」
「アルト・ロウェル」
「現在地は」
「星冠塔直下。第五環の内側にある拘束室」
言い終えるまで、前ほど時間は掛からなかった。
「睡眠後、応答速度と認識状態に改善」
マリアベルは三枚の記録を並べた。
水分。
栄養。
睡眠。
どれも魔力では置き換えられなかった。
魔力は空腹を一時的に黙らせ、身体を温め、瞼を持ち上げることはできる。
だが、それだけだった。
「結果は出ただろ」
僕は掠れの残る声で言った。
「魔力だけじゃ生きられない」
「長期維持が不可能であることは確認できました」
「なら、もう終わりにしろ」
「いいえ。次に確認するのは、維持に必要な物質供給と休止の反復条件です」
扉が開いた。
成人担当者が、空になった食事盆と水差しを持ち上げる。
補充されるのではない。
そのまま拘束室の外へ運び出されていく。
「待て」
身体は少し持ち直している。
すぐに死ぬ状態ではない。
だから、また断つ。
完全に回復させず、どこまで戻せば次の実験へ使えるか測るために。
「あなたを死なせず、長期間中継核として維持するために、魔力で代替できないものを測っています」
「生かすんじゃない。使い続けられるように壊さないだけだ」
マリアベルは否定しなかった。
記録板へ次の試験開始を示す札を重ねる。
食事盆は戻らない。
水差しも戻らない。
壁の物理弁だけが、再び開く準備をされていた。
僕は短くなった左小指を拘束環の内側で握る。
右前腕の瘢痕が痛む。
それでも、食べたことを敗北にはしない。
水を飲んだことも、眠ったこともだ。
生きるために必要なものを受け取った。
レイシアのもとへ帰るために、僕は生き残る。
何度周期を作られても、その目的まで星門派へ渡すつもりはなかった。
魔力だけでは生きられない――マリアベルが守ろうとしていたのは僕の命ではなく、長く使い続けられる中継核としての稼働時間だった。
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