第170話 欠けた指先
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
二度目の実験でマリアベルが確かめようとしたのは、傷の治り方ではなく、失った身体が戻るかどうかだった。
右前腕には、七心拍で閉じた赤黒い瘢痕が残っている。
表面は塞がっていても、その奥は脈打つたびに痛んだ。
熱も下がっていない。
身体の内側へ火種を埋め込まれたように全身が熱く、指先には細かな震えが続いている。
それでも、拘束室の灯具に映る髪は黒に近い濃紺のままだった。
瞳も青灰色から変わっていない。
左腕の黒い紋章は肩の手前で止まり、黒銀色の外殻も現れていなかった。
施錠箱の中には、奪われた封魔具が収められている。
僕の手が届かない場所から、動かない黒銀色がこちらを向いていた。
「次の確認項目は、欠損組織の恒久再生です」
マリアベルの後ろで、無名の成人担当者が器具を運び込む。
前回の細い刃とは違う。
小型の金属枠と、その上を一度だけ滑る切断具。白い圧迫布。止血帯。水。歯車式の計時器。
器具は拘束台の左側へ固定された。
何をするための物か、説明される前から分かった。
「どこを切るつもりだ」
「左手小指の先端です」
マリアベルは僕の左手を見た。
「過去の確認では、黒銀色の変化は左手指先から始まり、前腕まで及んでいます。欠損への反応を調べる対象として妥当です」
「戻らなかったら?」
「恒久再生能力なし、と記録します」
答えには迷いがなかった。
僕の身体から何かが永久に失われても、それは失敗を示す一行になるだけだ。
「やめろ。それは傷じゃない。切ったら戻らない」
「戻るかどうかを確認するための試験です」
「僕は同意していない」
「その拒絶は、既に記録されています」
「記録したなら止めろ!」
胸の固定帯へ力を掛ける。
黒い拘束台が低く鳴っただけで、両手首も両足首も動かない。
右前腕の瘢痕が引きつり、傷の奥へ痛みが走った。
成人担当者が僕の左手首を固定枠へ移す。
左腕はもともと感覚が遅れている。
触れられた冷たさが届いた時には、手首はもう帯で押さえられていた。
「離せ!」
左手を握ろうとした。
だが、人差し指から薬指までは金属板の陰へ退避させられ、小指だけが狭い保持溝へ導かれる。
薬指には触れられていない。
他の指も傷つけられてはいない。
だから安心できるはずもなかった。
小指の第一関節より先、そのさらに先端だけが細い隙間から出ている。
爪の一部を含む、ほんの短い範囲。
命を奪う大きさではない。
けれど、僕の身体だ。
失ってよい部分など一つもない。
「切断位置を確認。関節、主要腱、他指への接触なし」
成人担当者が事務的に報告した。
マリアベルは金属製の記録板へ印を付ける。
「一度だけ作動させてください」
「待て!」
金属具が乾いた音を立てた。
短い衝撃が小指を通り、次の瞬間、鋭い痛みが左腕を駆け上がった。
喉から声が漏れる。
先端の一部が、小さな金属受け皿へ落ちた。
成人担当者はすぐに蓋をし、僕の視界から受け皿を外す。
小指の先へ赤が滲んだ。
大量ではない。
それでも、そこにあったはずの長さがなくなっている。
「……っ、返せ」
返されたところで、元には戻らない。
それでも言わずにはいられなかった。
「僕の指だ」
マリアベルは答えなかった。
白布が切断部へ押し当てられる。
圧迫の痛みが、左手から肘まで響いた。
「出血量、少量。圧迫によって減少。生命への危険なし」
僕が失ったものを、担当者は危険なしと呼んだ。
心臓は動いている。
呼吸もできる。
だから問題がないという意味だった。
「通常状態での変化を確認します」
白布が僅かに持ち上げられる。
短くなった小指の先は、血が弱まっているだけだった。
皮膚も、爪も伸びてこない。
黒い紋章にも変化はない。
《暴食》が自然に開くこともなかった。
時間だけが過ぎた。
歯車式の計時器が、一定の間隔で音を刻む。
僕は短くなった小指から目を逸らさなかった。
これが普通だ。
失った身体は、ただ待っていれば戻るものではない。
「通常状態、欠損組織の再生なし」
マリアベルが記録する。
「次に供給中の反応を確認します」
「開かない」
「あなたの意思による発動は求めておりません」
「僕は《暴食》を使わない」
「供給弁を第一位置へ」
壁際の成人担当者が物理弁を回した。
金属管が低く震える。
床、壁、拘束台の圧力札が、一目盛りずつ上がっていった。
針も管も、僕の身体へは接続されていない。
それでも壁と床の供給口から押し出された魔力は、むき出しの左腕へ集まった。
黒い紋章が熱を持つ。
「やめろ……!」
左腕の内側に、空洞が開いた。
僕が選んだわけではない。
能力名を告げてもいない。
ただ外から魔力を押しつけられ、その吸収条件を作られただけで、《暴食》は強制的に反応した。
圧力札の針が下がる。
供給口から流れた魔力が、左腕へ吸い込まれていく。
黒い紋章は肩の手前に留まっている。
左手全体も、前腕も黒銀色には変わらない。
変化が始まったのは、欠けた小指の先だけだった。
最初に、傷の周囲へ黒い線が集まった。
「ぐ、あっ……!」
切断された場所を内側から押し広げられる。
傷が閉じる痛みではない。
何もないはずの場所へ、硬い異物を無理やり生やされる痛みだった。
黒い線が重なり、銀色の光沢を帯びる。
一枚。
その上へ、もう一枚。
昆虫の腹節を思わせる薄い外殻が、欠けた長さを埋めながら伸びていく。
先端は人間の爪にはならなかった。
狼の爪を縮めたような、短く鋭い鉤爪になった。
「代替組織の形成を確認」
マリアベルの声が遠く聞こえる。
僕の左小指は、見た目の長さだけなら元へ戻っていた。
だが、皮膚の色はない。
指紋も、爪もない。
黒銀色の外殻の下で、傷の痛みが消えずに脈打っている。
「小指を曲げてください」
「従うつもりはない」
そう答えた直後、左手が痙攣した。
仮の指先が固定枠へ触れる。
僅かには曲がった。
けれど、触れた感覚がほとんどない。
冷たいのか硬いのか、それさえ曖昧だった。
固定枠へ押し当てられた圧力だけが、遅れて左手の奥へ伝わってくる。
人間の指ではない。
魔力が、欠けた形を外側から埋めているだけだ。
「再生したんじゃない。魔力で形を埋めているだけだ」
「現時点では、その可能性が高いでしょう」
マリアベルは黒銀色の先端を観察した。
「人間の皮膚、爪、正常な触覚の形成は確認できません」
「分かっていたのか」
「確認前に結論は出せません」
そのために、僕の指先が失われた。
記録板へ新しい線が刻まれる。
供給中のみ黒銀色組織形成。
欠損長を一時補完。
触覚回復なし。
「恒久的な組織か確認します。供給を停止してください」
成人担当者が弁輪へ手を掛けた。
「待て」
思わず声が出た。
残してほしいわけではない。
この黒銀色の指先は僕の身体ではない。
それでも、供給を止めた後に何が残るかは分かっていた。
僕の拒絶を待たず、物理弁が閉じられる。
金属管の振動が弱まった。
圧力札の針が通常位置へ戻る。
外から流れ込む魔力が途切れると、左腕の空洞も閉じていった。
僕が《暴食》を閉じたわけではない。
吸収するものがなくなり、反応が維持できなくなっただけだ。
黒銀色の仮指先へ、細いひびが入った。
一本目の亀裂が鉤爪を横切る。
二本目が外殻の節へ走った。
「やめ――」
乾いた音とともに、先端が欠けた。
黒銀色の薄片が固定枠へ落ちる。
続いて外殻全体が粉のように崩れた。
人間の皮膚へ変わることはない。
骨にも爪にもならない。
魔力で作られていた形は、供給を失った途端に消えていった。
最後に現れたのは、元の小指ではなかった。
先端の欠けた、短い小指だった。
傷も残っている。
痛みも残っている。
失われた部分だけが戻っていない。
「恒久的な生体再生は確認できません。供給中のみ、代替組織を形成しています」
マリアベルが記録板へ結論を刻む。
「《暴食》による吸収魔力は、欠損形状を一時的に補完します。ただし、人間の組織は再生しません」
成人担当者が左手の固定溝を開いた。
逃げられるわけではない。
手首の拘束環は残ったままだ。
短くなった小指へ清潔な白布が巻かれ、圧迫帯と小さな固定具が当てられる。
同じ場所をもう一度傷つけられることはなかった。
別の指にも、器具は向けられなかった。
けれど失われた先端は戻らない。
「万能な再生能力ではない。それが欲しかった記録か」
「はい。少なくとも、現在確認された《暴食》と外部供給だけでは、失われた人間の組織を恒久再生できません」
「僕の指を切らなければ分からなかったのか」
「欠損を伴わない試験から、欠損再生の有無は確定できません」
どこまでも正しい手順のように答える。
正しさの中に、僕の意思だけが含まれていない。
右前腕には治ったふりをした傷。
左手には短くなった小指。
一つ実験が進むたび、僕の身体へ結果が残されていく。
それでも左薬指は傷ついていなかった。
帰ったら、レイシアと指輪を選ぶ。
その約束まで奪われたわけではない。
小指が短くなっても、右前腕に瘢痕が残っても、僕はアルト・ロウェルだ。
変わってしまった身体ごと、彼女のもとへ帰る。
僕がどこにいるのか、王国側が知っているかは分からない。
それでも、五人は生きていた。
レイシアも必ず捜している。
だから、ここで自分を装置の記録へ明け渡すつもりはなかった。
魔力が消えたあとに残ったのは、再生した指ではなく、傷を包まれた短い小指と、《暴食》は失った身体を元へ戻す万能な力ではないという記録だった。
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