第168話 傷の差
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
マリアベル・ザルルグが最初に測ろうとしたのは、僕がどれほど痛むかではなく、傷が何心拍で閉じるかだった。
彼女が戻ってきた時、拘束室には新しい器具が運び込まれていた。
歯車式の計時器。心拍ごとに札を送る小さな振り子。清潔な白布と水。そして、銀色の細い刃物。
どれも人格を持たない、普通の道具だった。
だからこそ、それらが何に使われるのかは、見ただけで分かった。
「最初の比較試験を始めます」
マリアベルは金属製の記録板を卓上へ置いた。
僕の両手首と両足首は、黒い拘束環へ固定されたままだ。腰と胸を押さえる帯も外されていない。
左腕はむき出しだった。
治療布も、第一固定も、第二固定もない。黒銀色の封魔具は、手の届かない施錠箱の中に収められている。
濃紺の髪も、青灰色の瞳も変わってはいない。
黒い紋章も肩の手前で止まっていた。
けれど左腕には赤黒い圧迫痕が残り、指先は僕の意思から半拍遅れて震えている。
「何をするつもりだ」
「傷の閉鎖速度を測定します」
マリアベルは、僕の右側へ取り付けられた細い支持台を示した。
「通常状態と、外部魔力を受けている状態。その差を確認いたします」
「僕は実験に協力するとは言っていない」
「はい。了承は得ておりません」
返事は丁寧だった。
それでも、実験を止める気配はない。
無名の成人担当者が拘束台の横へ立ち、僕の右腕を支持台へ載せた。
手首を押さえる革帯が追加される。
力を込めても、右手は指を曲げることしかできなかった。
「左腕じゃないのか」
「既存の損傷と黒い紋章の影響を避けます。比較には、右腕のほうが適しています」
「傷つけることだけは慎重なんだな」
「比較条件を揃えなければ、記録の意味が失われます」
僕の身体を気遣っているのではない。
傷つけた後に得る数字を気遣っている。
成人担当者が水で右前腕を拭いた。
冷たさが過ぎた直後、刃の先端が皮膚へ置かれる。
「浅く、爪二枚分。筋肉と腱へは到達させないでください」
「やめろ」
マリアベルではなく、刃物を持った手へ言った。
だが、手は止まらなかった。
銀の線が右前腕を滑った。
鋭い痛みが一本走り、その後から熱さが追いついてくる。
傷は短く浅い。
それでも、細い赤が皮膚の上へ膨らみ、腕の傾きに沿ってゆっくり流れた。
成人担当者が刃物を離す。
白布で傷を押さえはしない。
血を拭うこともなかった。
「計時を開始してください」
振り子が動き始めた。
かち、と小さな歯車が鳴る。
一心拍。
二心拍。
僕の胸の固定帯が、呼吸のたびに軋んだ。
傷の痛みは大きくない。騎士団の訓練で受けた擦り傷と比べても、深いものではなかった。
それでも、自分の意思を無視して作られた傷は、痛みの種類が違った。
十心拍。
流れていた血が右前腕の横で細く固まり始める。
二十心拍を越えても、傷の両端は開いたままだった。
「通常の凝固反応を確認」
マリアベルは計時器だけを見ている。
僕の顔を見ない。
苦しいかとも、痛みが強いかとも尋ねなかった。
五十心拍。
左腕の黒い紋章に変化はない。
《暴食》も開かない。
髪も、腕も、脚も人間のままだ。
百心拍を越えた頃には出血が弱まり、傷の表面に細い血の筋が残った。
けれど、それだけだ。
傷口が消えることも、皮膚が元通りになることもない。
僕の身体には、拘束されているだけで傷を治すような力はなかった。
百五十心拍。
振り子の音を聞きながら、僕は五人の呼吸を思い出した。
フィアも、ティアナも、レグルスも、セルフィナも、ローディンさんも生きていた。
レイシアも、まだ第五環のどこかで僕を探している。
彼女と別々の配置を守って帰ると約束した。
今の僕にできることは少ない。
それでも、自分から星門派の道具になることだけはしない。
百八十心拍。
マリアベルが片手を上げると、振り子が止められた。
「通常状態。百八十心拍経過。表面閉鎖せず」
金属板へ文字が刻まれる。
痛みについては何も書かれなかった。
成人担当者が右腕から離れ、今度は壁の物理弁へ向かった。
拘束台の下で、重い金属が噛み合う。
床、壁、天井の圧力札は、まだ低い位置を示していた。
「次に、供給中の閉鎖速度を測ります」
「僕は《暴食》を使わない」
マリアベルは否定も説得もしなかった。
「供給弁を第一位置まで」
成人担当者が両手で弁輪を回す。
壁の奥から金属管の振動が伝わった。
足元の床が低く唸り、圧力札の針が一目盛りずつ上がっていく。
針も管も、僕の身体には接続されていない。
それでも、第五環から運ばれてきた魔力圧が、壁と床と拘束台の供給口を通じて左腕へ集中した。
黒い紋章が熱を持つ。
「やめろ……!」
次の瞬間、左腕の内側が空洞になった。
何かが僕の中へ入ってきたのではない。
僕の中に突然開いた穴が、外から押しつけられた魔力を引き込み始めた。
止めようとしても、指一本動かせない。
僕は能力名を口にしていない。
使うと決めてもいない。
それでも《暴食》は、外部条件を与えられただけで強制的に反応した。
供給口の周囲から粉塵が浮き、僕の左腕へ吸い寄せられる。
圧力札の針が一斉に下がった。
左手の指が拘束環の内側で痙攣する。
「吸収反応を確認。計時開始」
かち、と歯車が鳴った。
一心拍。
熱は左腕だけで止まらなかった。
肩を越え、胸を通り、腹の底へ広がる。
黒い紋章は肩の手前に留まっている。
黒銀色の外殻も現れない。
けれど皮膚の下だけを、焼けた鉄が走り回っているようだった。
二心拍。
右前腕の傷が、突然内側から引かれた。
「ぐっ……!」
切れた皮膚の両端が、見えない糸で無理に結ばれたように近づく。
治っていく感覚ではない。
まだ裂けている肉を、外側だけ強引に合わせられる痛みだった。
三心拍。
固まりかけていた血が、熱を受けて急速に乾く。
右手の指が跳ねた。
拘束された手首を引くと、傷の奥へ鋭い痛みが刺さる。
四心拍。
胸が激しく脈打った。
吐き気が喉元まで込み上げ、息を吸おうとしても固定帯が邪魔をする。
黒い紋章の内側は、まだ魔力を吸い続けていた。
五心拍。
傷口が細い一本の線まで縮む。
けれど皮膚の色は戻らない。
周囲が赤く膨らみ、その中心だけが黒ずんでいった。
六心拍。
表面が塞がる。
その下では、傷がまだ開いているような痛みが脈打っていた。
右腕を内側から裂く熱と、外側から締めつける痛みが重なる。
七心拍。
「表面閉鎖を確認」
マリアベルの声がした。
「供給停止」
成人担当者が弁輪を反対へ回した。
金属管の唸りが弱まり、圧力札の針が通常位置へ戻っていく。
外から押し込まれる魔力が途切れると、左腕の空洞も形を保てなくなった。
《暴食》は閉じた。
僕が閉じたのではない。
閉じるよう命じたわけでもない。
ただ、吸うものがなくなったため反応が消えただけだった。
熱は消えなかった。
額から汗が流れ、背中の衣服が肌へ貼りついている。
左手も右手も震えていた。
右前腕には、爪二枚分の赤黒い瘢痕が盛り上がっている。
傷口は見えなくなった。
だが、右手の指を僅かに曲げるだけで、瘢痕の下から裂けるような痛みが走った。
「傷が閉じただけだ。治ってなんかいない」
マリアベルは瘢痕へ目を向けた。
「完全治癒とは記録しておりません」
「だったら、この熱も痛みも記録しろ」
返事の代わりに、金属筆が記録板を擦った。
通常状態。百八十心拍、未閉鎖。
強制吸収反応中。七心拍、表面閉鎖。
完全治癒、未確認。
並んだのは、それだけだった。
「聞こえなかったのか」
「聞こえております」
「右腕の中がまだ裂けているみたいに痛む。全身が熱い。指もまともに動かない」
僕が訴えるたび、胸の固定帯が軋んだ。
マリアベルの筆は動かなかった。
「今回の記録項目は、痛みではなく閉鎖時間です」
穏やかな声だった。
僕の痛みを面白がっているわけではない。
だから、余計に冷たかった。
「人間を生きた中継核にするなら、痛みは関係ないのか」
「無関係とは申し上げません。しかし今回比較するのは、外部供給の有無による閉鎖時間の差です」
「僕が壊れても、流れさえ繋がればいいんだな」
「長時間維持へ耐えられるかは未確認です。異常な発熱と瘢痕がある以上、今回の結果だけで適合とは判断できません」
失敗とも、成功とも言わない。
傷を閉じた僕の身体も、残った痛みも、次の試験へ進むための数字に変えられていく。
成人担当者が刃物と白布を片づけた。
傷をもう一度開くことはなかった。
治療することもなかった。
施錠箱の中には、黒銀色の封魔具が変わらず収められている。
あれが左腕にあれば、この反応を防げたのかもしれない。
あるいは、同じように第五環の圧力で剥がされただけかもしれない。
今の僕には確かめる方法がない。
「次の試験は行わないのか」
「本日のこの項目は終了です。再現性の確認には、身体状態が比較可能でなければなりません」
「次も傷を作るつもりか」
「次の項目について、今お伝えする予定はございません」
マリアベルは記録板を閉じた。
痛みで歯が鳴りそうになる。
僕は奥歯を噛み、声を押し殺した。
早く傷が閉じても、強くなったわけではない。
便利な力を得たわけでもない。
僕の身体は、流し込まれた魔力に耐えきれず、裂けた場所を正しく治すことさえできないまま塞いだ。
それを星門派は、門を繋ぎ続けるための可能性と呼ぶ。
僕は右手の指をゆっくり握った。
瘢痕の下から激痛が走る。
それでも、痛みを感じているのは僕だ。
記録板の数字でも、生体中継核でもない。
アルト・ロウェルとして、ここから帰る。
レイシアのところへ。
五人が待つ王国側へ。
その意思だけは、どれだけ数字を並べられても渡さない。
マリアベルの記録板に残ったのは、僕の苦痛ではなく、治ったふりをした傷が閉じるまでの七心拍だけだった。
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