第167話 マリアベル・ザルルグ
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
目を開けるより先に、僕は両手首と足首を固定する黒い拘束環の重さを感じた。
背中には冷たい金属板の硬さがある。
腰と胸にも太い固定帯が渡され、息を吸うたび、わずかに革と金具が軋んだ。
夢ではない。
幻でもない。
黒い拘束台。石造りの壁。窓のない天井。白い灯具。床へ延びる排水溝。
そして、壁際の記録卓。
意識を失う前、黒鉄の搬送棺へ閉じ込められた。車輪が何枚もの扉を越え、第五環の奥へ下っていった。
その続きが、ここだった。
僕はアルト・ロウェル。
灰鬼騎士団の新人騎士で、十五歳。
星冠教団本部への突入作戦で、ローディンさんたちと保守区画へ入り、第五環から魔力を流し込まれた。
記憶は残っている。
作り替えられてはいない。
その確認だけで、浅かった呼吸がほんの少し戻った。
指を動かそうとすると、左手だけが遅れて震えた。
黒銀色の鉤爪は消えている。
左腕も左脚も、脇腹も、顔の左半分も、人間の形へ戻っていた。
けれど、僕が戻したわけではない。
第五環から流れ込んでいた膨大な魔力が途切れたため、外殻を保てなくなっただけかもしれなかった。
《暴食》も、今は開いていない。
閉じた瞬間の記憶はなかった。
自分で止められたという手応えもない。
左腕には、裂けた治療布も、第一固定も、第二固定もない。
黒銀色の封魔具も失われたままだ。
むき出しの皮膚には赤黒い圧迫痕と擦過傷が残り、乾いた血の下で黒い紋章が脈打っていた。
紋章は肩の手前で止まっている。
指先の感覚は、動かしてから遅れて届いた。腕の内側には熱と冷えが交互に走り、拘束環へ力を掛けるだけで吐き気が込み上げる。
右脚にも痺れが残っていた。
天井の灯りを映す金属板に、僕の顔がぼんやり見える。
髪は黒に近い濃紺のまま。
瞳も青灰色のままだった。
少なくとも、今の僕は僕だ。
僕は目を閉じ、最後に見た五人を思い出した。
倒れていたフィア、ティアナ、レグルス、セルフィナ。
床へ打ち倒されたローディンさん。
搬送棺の蓋が閉じる直前まで、全員の呼吸は見えていた。
生きていた。
あの事実だけは、誰にも奪わせない。
そして、レイシア。
別々の配置を守り、救護受領点へ帰ると約束した。
帰ったら孤児院へ報告して、正式な手続きをして、指輪を選ぶはずだった。
まだ何一つ終わっていない。
「……封魔具」
かすれた声を出し、首だけを横へ向ける。
記録卓の隣に、透明な確認窓の付いた金属箱があった。
中には、僕の左腕から引き剥がされた黒銀色の封魔具が収められている。
施錠箱は床へ固定され、僕の腕では到底届かない。
壊された様子はない。
ただ、誰かが記録するための物のように、番号札を付けられていた。
「お目覚めになりましたか」
普通の扉が開き、女の声が室内へ入ってきた。
第五環が回った時、伝声管と金属振動板を通じて聞いた声。
本物の地図を使って僕たちを檻へ導いた、あの穏やかな声だった。
濃色の衣服を隙なく整えた成人女性が、記録卓の前で立ち止まる。胸元には、欠けた星を組み込んだ星門派の区分印があった。
落ち着いた眼差しが拘束具を確かめ、次に僕の左腕へ移る。
人を見る目ではなかった。
壊さず運び込めた器材の状態を確かめるような目だった。
「みんなは」
僕は拘束環を鳴らした。
「フィアたちは生きているのか。ローディンさんは。レイシアはどこにいる」
「搬送を始めた時点で、あなたと同行していた五名の死亡は確認されておりません」
「今は」
「外部の状況を、あなたへお伝えする予定はございません」
「レイシアもか」
女は否定も肯定もしなかった。
けれど、死んだとは言わなかった。
僕は胸の奥で、五人の呼吸をもう一度数えた。
あの場所に王国側が辿り着けば、必ず救助する。レイシアが救助線を捨てることもない。
信じるしかないのではない。
僕は、そうする彼女たちを知っていた。
「あなたが、あの声の主なのか」
「はい」
「名前は」
女は記録卓へ一枚の紙を置いた。
それから、初対面の客へ挨拶するように静かに頭を下げる。
「改めて名乗りましょう。マリアベル・ザルルグ。星冠教団、星門派の首領です」
マリアベル・ザルルグ。
僕はその名を頭の中で繰り返した。
王国側は知らない。
今この名を知っているのは、通信を断たれ、地下最深部へ拘束された僕だけだ。
「首領が自分で来たのか」
「確認すべき対象を、他者の報告だけで判断するつもりはありませんので」
「僕は対象じゃない」
「その反論も記録いたします」
金属製の記録板へ、短い線が刻まれた。
怒りで左腕に力が入り、黒い紋章の周囲が熱を持つ。
だが、拘束環は僅かにも動かなかった。
「中央器成院でやっていたことを、ここでも続けるつもりか。人間を捕まえて、魔神を押し込む器へ変える」
「同じではありません」
マリアベルの声は平らだった。
「器成派が求めたのは、人間を魔神の器へ変えることです」
中央器成院で見た捕虜たちが浮かんだ。
強制循環へ接続され、身体を壊されても止められなかった人々。
ヴァレク・サルディオが完成させようとしていた中央装置。
「星門派は違うとでも言うのか」
「目的が違う、と申し上げています。正しいという意味ではございません」
あまりにもあっさりと認められ、逆に言葉が止まった。
マリアベルは善人のふりさえしない。
「星冠塔の最上階には、神界へ通じる門が実在します。私たちが扱うのは、魔神を人へ収める器ではなく、その門へ至る流れです」
「門を開くために、僕を使うのか」
「開くことと、開いたまま維持することは別の問題です」
彼女は壁の圧力札を指した。
針は止まっている。
その裏には、第五環を巡っていた無数の供給管が繋がっているはずだった。
「門を一瞬だけ動かすなら、大きな力を一度集めればよい。しかし接続を保つには、第五環から星冠塔上層へ流れを渡し続けなければなりません」
「だったら設備で繋げばいい」
「既に試みています」
マリアベルは僕の返答を待ってから続けた。
「流量は一定ではありません。異質な魔力が衝突し、一つの供給路が弱まれば別の経路へ負荷が偏る。固定された中継器は急な変化へ適応できず、発熱し、摩耗し、やがて破損します」
第五環で見た輸送管を思い出す。
一本を止めれば、別の圧力札が上がった。
ティアナが流れを分けても、レグルスが排出路を開いても、別の環から魔力が回り込んだ。
「人間なら壊れないとでも?」
「通常の人間であれば、設備より先に死亡します」
冷たい答えだった。
「では、僕が普通ではないから使えると?」
「使えるとは、まだ申し上げておりません」
マリアベルは記録板を裏返した。
そこには第五環の供給路を示す線と、保守区画へ集中した複数の矢印が刻まれていた。
「あなたは異なる複数の流れを同時に受けました。《暴食》はあなたの意思と無関係に開き、その全てを吸収し始めた」
「お前たちが無理やり開かせた」
「はい」
否定すらしない。
「僕は使うつもりがないと言った。ローディンさんも使用命令は出していなかった」
「その事実は記録されています」
「なら、あれを僕の力みたいに扱うな」
「強制された反応であることと、その反応に観測価値があることは別です」
胸の固定帯が軋んだ。
怒鳴り返そうとして、肺が痛みに止められる。
マリアベルは僕の苦しさを待った。手を貸すことも、急かすこともしなかった。
「一部の供給線を切断しても、流れは別経路へ切り替わりました。それでもあなたの身体は、短時間ながら吸収を途切れさせなかった。左半身を変化させながら、即座には死亡しなかった」
「仲間を傷つけた」
「ええ。安全でも、完成でもありません。あなたが長時間耐えられる証明にもなっていない」
「それでも調べるのか」
「そのために、ここへお連れしました」
マリアベルは僕の左腕ではなく、壁内の管と拘束台を見比べた。
「私たちが確かめたいのは、あなたが神界への門を開いたまま維持できる生体中継核になり得るかどうかです」
「生体……中継核?」
「門そのものでも、開錠のための鍵でもありません。魔力を貯めるだけの電池でも、魔神を宿す器でもない」
マリアベルは一語ずつ区切った。
「第五環の供給網と、星冠塔最上階の門との間に置く中継点です。複数の異質な流れを一度受け止め、変動へ生きた身体で反応し、必要な流れを途切れさせず上層へ渡す」
「生きたまま、設備の一部になれと言うのか」
「生命活動が続くこと自体が、機能の要件です」
人間だから使うのではない。
生きて変化し、苦痛へ反応するから、壊れやすい装置の代わりにする。
死なせないという言葉さえ、命を守る意味ではなかった。
「僕は核じゃない。アルト・ロウェルだ」
僕には名前がある。
帰る場所がある。
騎士団で待つ人がいて、孤児院で帰還報告を待つ家族がいる。
帰ったら同じ姓を正式に分け合うと約束した人がいる。
僕の生存は、門を維持するための条件ではない。
「承知しております、アルト・ロウェル」
マリアベルは少しも怯まなかった。
「名前を持ち、意思を持ち、拒絶し、生き残ろうとする。その反応を失えば、生体である利点も失われる可能性があります」
「僕の名前まで、実験の条件にするのか」
「名前だけではありません。恐怖も怒りも、仲間を殺さないために運動を逸らした判断も、全て確認すべき変化です」
背中に冷たいものが走った。
人格を消すのではない。
僕が僕であることごと、装置の性能へ数えようとしている。
「なぜ僕なんだ」
拘束環の中で、震える左指を握った。
「第五環へ来る前から、僕を狙う設備を用意していた。封魔具の固定位置まで合わせていた。なぜ僕なのか、答えろ」
マリアベルの眼差しは変わらなかった。
「今お話ししているのは、あなたが今日示した反応についてです」
「答えになっていない」
「出生について説明したとも、器成派があなたを作ったと申し上げたとも記憶しておりません」
「じゃあ――」
「現時点で確かなのは、第五環の複数流路を受け、吸収反応を維持し、生存したということです。それが十分な適合を意味するかは、まだ分かりません」
彼女はそれ以上を語らなかった。
僕がどこで生まれたのか。
黒い紋章がなぜあるのか。
器成派と僕に、過去の繋がりがあるのか。
何一つ答えは出ない。
出たのは、星門派が今日の僕を何に使おうとしているか、それだけだった。
扉の外で金属音がした。
作業員の姿は見えない。
観察用の小窓越しに、物理記録板と接続枠が運ばれていく。壁の弁には新しい番号札が掛けられ、圧力札の針が一度だけ試験位置まで動いて戻った。
まだ、何も僕には接続されない。
針も管も近づかない。
だが、次の検査が準備されている。
マリアベルは記録卓の紙を揃えた。
「本日は、現在の身体状態を記録するだけに留めます」
「協力するとは言っていない」
「ええ。了承を得たとも記録しておりません」
「僕はここから帰る」
「それも記録いたします」
彼女は施錠箱の封魔具を確認し、扉へ向かった。
僕は拘束環の中で左手を握る。
感覚は遅い。
痛みも消えていない。
それでも、僕の手だった。
アルト・ロウェルの手だ。
レイシアとの約束も、五人の呼吸も、僕の名前も手放さない。
扉が閉じ、規則正しい足音が遠ざかる。
石造りの拘束室に残ったのは、黒い拘束環と、奪われた封魔具と、次の検査を待つ物理設備だった。
「マリアベル・ザルルグが欲しがっていたのは、魔神を入れる器ではなく、神界への門を開いたまま繋ぎ続ける僕の身体だった。」
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