第166話 奪われたアルト
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例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
黒銀色の左腕が、倒れた四人と、その前に立つローディンさんへ向いた時、僕に残っていたものは、殺させないという拒絶だけだった。
フィアは剣を失い、床へ倒れている。
ティアナは支持枠の陰で肩を押さえ、レグルスは銀槍を抱いたまま呼吸を取り戻そうとしていた。セルフィナの額には細い血が流れている。
四人とも生きている。
ローディンさんも僕と四人の間に立ち、記録板を握っていた。
「アルト・ロウェル、停止しろ。能力使用命令は出ていない」
聞こえている。
命令の意味も分かっている。
それでも狼の前脚を思わせる左腕は持ち上がった。
重なった甲殻が噛み合うたび、第五環から流れ込む魔力が外殻の内側へ沈む。鉤爪の先は、フィアとローディンさんを一度に薙げる高さへ上がった。
駄目だ。
この腕を振り下ろしたら、二人が死ぬ。
僕の右手は石床の継ぎ目を掴んだ。指先が裂けても、左半身の力には届かない。
それでも、離さなかった。
「止まれ……!」
命令したのは僕自身だった。
左腕は止まらない。
だから軌道だけを変えた。
右肩を床へ落とし、人間のままの右脚を折る。全身の重みを片側へ崩した瞬間、黒銀色の鉤爪がフィアの頭上を外れた。
爪は石床へ突き刺さった。
轟音とともに床が割れ、砕けた石片が四方へ弾ける。
ローディンさんはフィアを庇うように身体を伏せた。肩と背へ破片を受け、記録板を抱えたまま床へ倒れる。
「ローディン……さん……」
返事の代わりに、荒い呼吸が聞こえた。
生きている。
フィアの胸も動いている。
ティアナが痛みに顔を歪めながら、こちらを見ていた。レグルスの指は銀槍を握ったまま、セルフィナの長い耳も僕の声へ僅かに反応した。
五人とも生きている。
それだけを確かめた瞬間、黒銀色の左半身が硬直した。
僕の拒絶が届いたのは、ほんの一息だった。
床下で何かが外れた。
石板が左右へ引き込まれ、弧状の金属軌道が深部通路から保守区画へ繋がる。金属車輪と鎖の音が近づき、棺を思わせる黒鉄の箱が軌道を滑ってきた。
魔法ではない。
箱の下で車輪が回り、深部側の巻き上げ機構が鎖を引いている。
黒鉄の搬送棺は僕の背後で止まった。
二枚の蓋が左右へ開く。
内側から現れた保持枠は、僕の首や右半身ではなく、黒銀色へ変わった左肩、腰、左脚と同じ高さに置かれていた。
最初から、この姿を収めるために調整されている。
「アルト……!」
フィアが片腕で床を這った。
遠くへ弾かれた剣ではなく、僕へ手を伸ばしている。
僕も右手を伸ばそうとした。
その前に、左肩へ黒鉄の枠が噛み合った。
腰と左脚にも別の枠が閉じる。針も杭も刺さらない。ただ厚い金属が外殻を挟み、僕の身体を搬送棺の内側へ引き上げた。
「アルト・ロウェル……停止しろ……」
ローディンさんの声が床から届く。
途切れながらも、停止命令は消えていない。
「搬送設備……物理軌道。出現時刻、突入開始後……封魔具回収溝、再作動……」
倒れたまま記録を続けている。
壁の奥で、細い金属音がした。
第164話で封魔具を奪った回収溝が開く。
黒銀色の封魔具が傾斜した物理溝を滑り落ち、搬送棺の下部に備えられた小さな施錠箱へ収まった。
蓋が閉まり、横留め棒が落ちる。
取り戻せない。
封魔具も、僕自身も。
「待って……」
フィアの指先が搬送棺の縁へ届きかけた。
けれど鎖が引かれ、車輪が動き出す。
彼女の手が遠ざかる。
二枚の蓋が左右から閉じ始めた。
最後に見えたのは、倒れた五人だった。
ティアナは息をしている。
レグルスも、セルフィナも。
フィアの青い瞳は開いている。
ローディンさんの手も、記録板を握ったままだった。
誰も死なせなかった。
それしか守れなかった。
黒鉄の蓋が閉じ、横留め棒が重い音を立てる。
暗闇の中で搬送棺が傾いた。
車輪が深部へ下り始める。
一枚目の物理扉が閉じた。
続いて戻り弁、二枚目の遮断板。外から届いていた声が、金属を一枚隔てるごとに遠ざかる。
僕を載せた棺は、第五環のさらに奥へ引かれていく。
どこへ運ばれるのかは分からない。
それでも、五人の呼吸だけは最後まで耳に残っていた。
その音を手放さないようにしているうちに、僕の意識は暗闇へ沈んだ。
◇
異常を知らせたのは、婚約者の感覚などではなかった。
外環側の捕虜救助線へ駆け込んできた成人伝令と、紙の報告札だった。
回転区画が再び作動したこと。
限定作業列との応答が途絶えたこと。
深部方向の物理搬送軌道が、一度だけ動いたこと。
そこにアルトの名前は書かれていなかった。
それでも私は、報告を最後まで読んだ。
「救助線は副責任者が引き継いでください。歩行可能者にも護衛を付け、担架対象は救護受領点へ。未確認区画を残したまま前進しないで」
「承知しました。救助、搬送、地上報告を継続します」
復唱を聞く。
捕虜を置いてはいけない。
アルトと約束したからではなく、水蝶騎士団長として、救うべき人を置き去りにはできない。
引き継ぎが成立してから、私は限定人数だけを伴って走った。
二次保守隔壁の前には、ガイ団長、ゴウセル団長、アーサー団長と成人構造騎士がいた。
以前、破壊を断念した荷重隔壁ではない。
搬送軌道の作動後、回転区画の側面へ新たに接続された薄い保守隔壁だった。
「隣接区画の捕虜、退避完了」
「生命維持線は迂回済み。主支柱への荷重なし」
成人構造騎士が床と天井を確かめる。
アーサー団長が隔壁の継ぎ目へ手を触れた。
「向こう側に接触している人員はいません。限定突破を許可します」
私は頷いた。
排水溝と救護用水袋から水を集める。
細い水流を隔壁の継ぎ目へ差し込み、成人騎士が打ち込んだ物理楔の背を押す。
水圧を一点へ重ねた。
隔壁が内側へ折れる。
私は開いた隙間を抜け、保守区画へ踏み込んだ。
最初に見えたのは、金色の長い髪だった。
「フィア!」
その近くに、ティアナ、レグルス、セルフィナが倒れている。
搬送軌道の前にはローディンもいた。
成人医療員が五人へ散る。
「ローディン、生存。意識低下、呼吸あり」
「フィア、生存」
「ティアナ、生存。右肩打撲」
ゴウセル団長がティアナの傍らへ膝をついた。
手袋を外す暇もなく、娘の首元へ指を当てる。胸が動いているのを確かめた時だけ、厳しい顔が僅かに歪んだ。
「医療員へ渡す。頭部を動かすな」
父親の声と団長の命令が重なっていた。
「レグルス、呼吸あり。セルフィナも意識反応あり」
五人とも生きている。
では、アルトはどこにいるの。
床には黒銀色の鉤爪が刻んだ深い痕が残っていた。
裂けた治療布。外側と内側、二つの固定部品。血の付いたローディンの記録板。
壁の回収溝は空だった。
黒銀色の封魔具はない。
搬送棺の車輪跡だけが、閉ざされた深部側の扉まで続いている。
アルトの姿は、どこにもなかった。
私はフィアの前へ膝をついた。
青い瞳が、ゆっくり私へ向く。
「アルトは?」
自分の声が、知らない人のもののように聞こえた。
フィアの唇が動く。
「連れていかれた」
それだけで、全部が壊れた。
「棺……奥へ。封魔具も」
フィアの指が、深部へ続く軌道を示す。
昨夜、アルトは私の婚約者になった。
二人で帰ったら孤児院へ報告しようと言った。
一緒に指輪を選んでほしいと言ってくれた。
今朝は、別々の配置を守って戻ると約束した。
そのアルトがいない。
返事もない。
残っているのは血と、空の溝と、奪われた方向だけだった。
「返して……」
足元の水が浮いた。
最初は、成人医療員が使っていた小さな水盆だけだった。
次に救護用の水袋が震える。
輸送管の内側で水が逆流し、排水溝から何本もの水柱が立った。壁と天井の結露が一滴ずつ離れ、私の周囲へ集まってくる。
止めようとは思った。
けれど、止まらなかった。
「アルトを返して!」
水が保守区画から環状路へ溢れた。
管を伝い、溝を逆流し、第五環の各通路へ膨大な魔力圧が走る。
圧力札の針が振り切れた。
石壁が軋み、支柱から白い粉が落ちる。
成人救護員たちが盾列と防水布で五人を包んだ。
「レイシア!」
ガイ団長が横から私の肩を掴んだ。
その靴が水圧で半歩滑る。それでも手を離さず、私の上腕を身体ごと押さえ込んだ。
「壊すな! あいつを奪われた場所ごと潰す気か!」
「離して! アルトが、アルトが奥にいるの!」
ゴウセル団長が床へ足を据えた。
亀裂の入りかけた支柱を守りながら、私の反対側の腕を支える。
背後では成人医療員がティアナを担架へ移している。
娘の生存を確かめたその人も、私を責めなかった。
「だからこそ止めろ、レイシア団長。生存者も救出路も、この下にある」
「でも、アルトが……!」
アーサー団長が水圧の中へ踏み込んだ。
青と白銀の甲冑が濡れ、紺色のマントが激しくはためく。それでも彼女は剣を抜かず、私の肩を両側から支える一人になった。
「アルト・ロウェルの死亡は確認されていません」
澄んだ青い瞳が、真正面から私を見る。
「彼がまだ第五環にいるなら、ここを崩落させることは、彼自身と救出路を同時に潰すことになります」
その言葉だけが、私の中へ届いた。
アルトは死んでいないかもしれない。
まだ地下にいる。
なら、壊せない。
私が壊してはいけない。
浮き上がっていた水が震えた。
環状路へ走っていた流れが止まり、排水溝へ落ちる。輸送管の圧力が下がり、支柱の軋みが少しずつ収まった。
魔力を止めても、涙は止まらなかった。
膝から力が抜ける。
ガイ団長とゴウセル団長、アーサー団長の三人が、床へ崩れる私を支えた。
「アルト……」
呼んでも返事はない。
「どこにいるの……アルト!」
水に濡れた床へ手をつく。
この下のどこかにいるなら、聞いてほしい。
生きているなら返事をしてほしい。
昨夜の約束を、帰った後の人生を、こんな場所で奪わせたくない。
「アルト! アルト――!」
崩せない地下の奥へ向かって、私は喉が裂けるまで、返事のないアルトの名を呼び続けた。
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