第164話 強制された《暴食》
「この場面を挿絵で見たい!」と思った箇所がありましたら、挿絵希望度を★1〜5で評価し、場面と一緒に感想欄で教えてください!
例:『〇〇と△△が対峙する場面/★★★★★』
皆さまの声を、今後の挿絵制作の参考にさせていただきます!
女の声が途切れた直後、第五環の管は、六人ではなく僕一人へ向けて鳴り始めた。
床へ広げた旧構造図の端が震える。
けれど、環状路はもう動いていない。
震えているのは、壁と床と天井を走る供給管だった。
「全員、停止を維持」
ローディンの命令に、誰も深部通路へ近づかなかった。
それでも壁際の圧力札が一斉に動く。
一本、二本ではない。
全ての針が同じ方向へ傾き、僕の立っている位置を中心に振り切れた。
「アルト、そこを離れろ!」
右脚へ力を込めた瞬間、床の点検板が左右へ割れた。
内部からせり上がった金属枠が、僕の左腕を囲む。
腕へ直接噛みついたわけではない。
四本の圧力爪が狙ったのは、治療布の上から装着されている黒銀色の封魔具、その外側の第一固定だった。
爪と爪の間隔は、留め具の位置へ正確に合っている。
「僕の装具を……知ってる」
偶然ではなかった。
ローディンが僕の右肩と胴を掴み、金属枠から引き離そうとする。
けれど、壁から伸びた別の保持枠が、左前腕の周囲だけを囲んだ。
「腕を引くな!」
ローディンは力の向きを変えた。
無理に身体を引けば、固定された左腕だけが残る。
彼は僕の胴を支え、圧力爪へ手を伸ばした。
触れるより先に、壁内で圧縮された空気が放たれる。
第一固定が四方向へ引かれた。
骨まで締め上げられるような圧力。
次の瞬間、固定部の安全継ぎ目が弾けた。
「――っ!」
外側の第一固定が床へ落ちる。
王国側の解除鍵は使われていない。
僕も留め具へ触れていない。
装具が自分から外れたわけでもなかった。
「停止しろ!」
ローディンの声に、設備は応じない。
別の圧力爪が治療布の隙間へ入り、内側の第二固定を逆方向へ捻った。
固定部が腕を守るため、骨より先に力を逃がす。
本来なら僕の身体を守るはずの構造だった。
星門派は、その安全機構を外すために使っている。
鈍い音とともに、第二固定が開いた。
治療布の巻き終わりが壁側へ巻き取られる。
布がほどけ、途中で裂けた。
擦れた皮膚へ熱い痛みが走る。
赤い圧迫痕と細い血の線が露出した直後、黒銀色の封魔具が左腕から引き剥がされた。
「待て!」
僕の声より早く、封魔具は壁の回収溝へ引き込まれた。
金属板が閉じる。
ローディンが隙間へ指を入れる余地さえ残らなかった。
治療布。
第一固定。
第二固定。
黒銀色の封魔具。
王国側が現場で外すことを禁じた全てが、敵の設備によって奪われていた。
露出した左腕に、黒い紋章が走っている。
指先から腕を這い、肩の手前で止まったまま。
けれど、いつもの黒ではなかった。
皮膚の下で脈を打つたび、線の奥だけが深く沈んで見えた。
「アルト・ロウェルへの封魔具解除命令は出ていない。《暴食》の使用も許可していない」
ローディンは誰に聞かせるでもなく、はっきりと言った。
記録板へ解除時刻を書き込みながら、僕の前へ身体を入れる。
その直後、天井の点検板まで開いた。
空気が重くなる。
魔力の流れは見えない。
それでも身体が、先に理解した。
壁から。
床から。
天井から。
巨大な何かに押し潰されるような圧力が、僕一人へ集まってくる。
「離れてください!」
僕は五人から距離を取ろうとした。
だが、最初の波が黒い紋章へ衝突する。
針も管も、僕の身体には繋がっていない。
魔力そのものが、露出した左腕へ外側から押し込まれていた。
肺から空気が抜ける。
心臓が一拍遅れ、次の瞬間に二度打った。
左腕の指が勝手に曲がる。
膝が崩れかけ、ローディンが右側から僕を支えた。
「他の五人に流入なし。対象はアルトだけだ」
ローディンが周囲を見回す。
「セルフィナ、供給位置。接触はするな」
「はい」
セルフィナは僕へ駆け寄らず、床へ舞った石粉を追った。
粉塵が僕へ向かって流れている。
壁の一部では結露が一瞬で乾き、別の場所では圧力札の針が細かく震えていた。
長い耳がわずかに伏せられる。
「一つではありません。床に二つ、壁に四つ、天井にもあります」
セルフィナが順番に指す。
「周囲の精霊も、全て同じ場所を避けています。接触させなくても分かります。供給口はまだ増えます」
「区分印を確認する」
ローディンが言った。
僕は吐き気を堪え、右手で壁の管を示した。
「細い管は捕虜区画側です。切れません。上の太い管……欠けた星が内向きになっている線は、中枢側の制御です」
「記録と一致」
ローディンがフィアを見る。
「生命維持線ではないことを確認。最も近い物理制御線一本だけ、緊急切断を許可する」
「了解」
フィアが剣を抜いた。
右腕の簡易固定具を庇い、左手で柄を握る。
魔力を纏わせない。
新しい技も使わない。
セルフィナが示した壁際へ踏み込み、細い制御線だけを一度で断った。
金属線が弾ける。
左壁の供給口が閉じた。
押し込まれていた魔力圧が、目に見えて弱まる。
僕はようやく一息だけ吸えた。
「止まった……?」
フィアの問いへ答える前に、反対側の圧力札が跳ね上がった。
床下から重い振動が突き上げる。
閉じた一口を補うように、別の供給口が開いた。
「一本じゃない」
レグルスが歯を食いしばる。
「切った分を、別の線から回してやがる」
再び魔力が左腕へ流れ込む。
視界が白く明滅した。
身体の内側から、骨と筋肉の間を押し広げられていく。
「戻り弁です!」
ティアナが共有外装管の前へ膝をついた。
「中枢側から、生命維持線の外周を使って回り込んでいます。ここなら二つの流れを分けられます」
「捕虜側を止めない条件で、局所処置を許可」
ローディンが即答する。
ティアナは緑金の瞳で接合部を見定めた。
「《根界分離》」
短い言葉とともに、戻り弁を挟んだ二つの流れが分かれる。
捕虜区画へ向かう細管の結露は残っている。
空気、熱、水の流れは止まっていない。
中枢側から回り込んでいた圧力だけが切り離され、僕の左腕を押す力が落ちた。
ティアナの額に汗が浮かぶ。
「分けました。でも、この接続部だけです。長くは維持できません」
「十分だ。次を探す!」
レグルスが空の排気路を指した。
セルフィナが薄紙を翳し、流れの先を確かめる。
ティアナも旧構造図と床の支持線を見比べた。
「その先は捕虜区画ではありません。外周保守用の空洞です。支柱からも外れています」
「ローディン!」
「点検板だけの限定開口を許可。生命維持管と回転軌道には触れるな」
「分かった。《螺旋開甲》!」
レグルスの力が点検板の留め具だけへ集中する。
板が内側から押し開かれ、暗い排気路が現れた。
壁や床は壊れていない。
続けて、レグルスが開口部へ手を向ける。
「《旋流排気》!」
僕へ集中していた魔力の一部が横へ引かれた。
空の排気路へ流れが逃げ、室内を満たしていた圧力が一段下がる。
肺へ空気が戻った。
激しく鳴っていた心臓も、ほんの一瞬だけ間隔を取り戻す。
フィアの切断も。
ティアナの分離も。
レグルスの排出も。
セルフィナの観察も、確かに届いている。
それでも、第五環は止まらなかった。
床下の回転継ぎ手が、もう一段深く噛み合う。
天井側の管が震える。
閉鎖宿舎側。
正規帰還路側。
捕虜区画の外周。
深部へ続く太い輸送管。
別の環状区画から戻る供給線。
旧構造図に記された複数の経路が、現在の保守区画へ収束していた。
一つ止めれば、別の一つが開く。
一つ分ければ、その外側を回る。
一つ排出すれば、排出量を超える魔力が補充される。
「第五環全体から集めている……」
ティアナの声が震えた。
この本部が、五百年前から僕のために造られていたわけではない。
星門派が既存の環状供給路を組み替え、僕一人へ向ける手順を用意していたのだ。
「アルト、意識を保て」
ローディンの声が遠く聞こえる。
黒い紋章は肩の手前で止まっている。
けれど、その内側で何かが脈打つたび、流れ込んだ魔力が身体の奥へ積み重なっていく。
「僕は《暴食》を使わない。開くつもりもない」
自分の声で、はっきり否定した。
助かるために使うのではない。
仲間を守るために選ぶのでもない。
痛みから逃げるために、ベルゼバスへ頼るつもりもなかった。
「使用命令は出していない!」
ローディンも言う。
「アルト、能力を開くな。身体の反応を報告しろ!」
「左腕が……内側から、空洞になるみたいに――」
言葉が途切れた。
次の魔力が、これまでの全てを重ねたような圧力で押し寄せる。
左腕の激痛が、突然消えた。
治ったのではない。
痛みを感じる場所そのものが、深い穴へ変わった。
圧力札の針が一斉に振り切れる。
壁から押し込まれていた魔力が止まり、逆向きに引かれた。
床も。
天井も。
開いた供給口も。
第五環から集まった膨大な魔力が、露出した黒い紋章へ吸い込まれていく。
止めようとしても、左腕は僕の命令を待たない。
僕は望まず、命じられず、使うと決めてもいないまま――《暴食》を強制的に開かされた。
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